①奇襲
はげしい雨が全身を叩く。
前髪を額に貼りつかせ、頬を打ち、肩や腿のうえで跳ねる。
濡れそぼった顔をぬぐう気にもなれない。
雷鳴が、獣の吠え声のように幾度も響く。
降りしきる雷雨のなか、俺たちはまんじりともせず、じっと息をひそめていた。
小高い丘の上。茂みのなかでかがみながら、眼下の町の様子にじっと目をこらす。
「ひでえ雨だな」
俺のとなりで、まったく同じ格好でやぶの中にかがんだ男が、ぽつりと漏らした。
その声も、すぐに雷雨がかき消した。
「ああ。だが、俺たちにとっては恵みの雨だ」
ちらりと目線を向け、返す。
豪雨は足音を消し、視界をせばめる。
雨にけぶる視界の中、相手がにやりと笑ったのが微かに見えた。
「ちげえねえ。奇襲にはおあつらえ向き。天も我らの味方ってとこか」
おどけて言うその声音に、好戦的な響きが混じっている。
俺も軽く笑って、うなずいた。
相手の名前はヴェルク。
勇者隊の副官という立場だが、俺にとっては幼い頃からの戦友であり、相棒のような存在だ。
親を、故郷を失い、飢えと戦いながらこの時代を生き抜いてきた境遇は、俺とよく似ていた。
少々粗野な言動が目立つこともあるが、それは強さの裏返しでもある。
戦場にあっては、誰よりも頼れる存在だった。
やぶの中にかがんでいると、雨は容赦なく全身を打ち、泥が跳ねかえる。
けれど、俺たちにとってはぬるま湯に浸かっているのと大差ない。
俺たち勇者隊は、決死の少数精鋭部隊。
こんな雨の潜伏より過酷な状況など、いくらでも経験してきたのだから。
その呼び名の華やかさとは裏腹に、正規の兵の戦い方とは比較にならない過酷な任務をこなしてきた。
獣のごとく道なき山野を幾日でも駆け、必要とあれば何日でも動くことなく地にうずくまり、時には飲食も睡眠も取れない状況の中、魔王軍と戦った。
――すべては、人類の勝利のために。
俺は眼下の街並みを、もう一度見下ろした。
この崖からは、町の様子がよく見えた。
雨で視界は悪いが、それでも警備が手薄なのは見て取れる。
せいぜい下級の妖魔が巡回している程度で、町は静まり返って見えた。
「申し上げます」
不意に――、
耳元にささやきかけるような小さな声が聞こえた。
偵察に行かせていた男が、音もたてずに俺のすぐそばに控えていた。
その名を"影の"ジジンという。
奇襲や少人数での行動を基本とする俺たち勇者隊の中でも、飛びぬけて身のこなしが素早く、隊の目となり耳となる男だった。
戦場にあっても鎧のたぐいを身に付けず、いまのような偵察や潜入、時には魔族の暗殺をもこなす。
正面切っての闘いを好む騎士たちからは功績を軽んじられる傾向もあったが、俺たちの戦いにはなくてはならない存在だ。
「危険な任務ご苦労だったな、ジジン」
「いえ。これが私の務めです」
俺のねぎらいの言葉にも、声色一つ変えずに返すジジン。
こういう態度が更に誤解を生む種ともなっているが、俺はかえって信頼できると思っていた。
口数が少なく、任務は確実にこなす。
それがジジンという男だ。
「ハディードの町の警備数は、二十。うち、十五が下級の妖魔、五が魔族の騎士」
そう切り出し、さらに敵の配置や町の構造など淡々と報告する。
副官のヴェルクが、小さく鼻を鳴らした。
「二十、か。やっぱ少ねえな」
「ああ。陽動が成功したと見て間違いないだろうな」
ジジンは事実しか述べない。推測を巡らせるのは俺たちの役目だ。
街の警備が手薄なのが、敵軍の罠の可能性は低いだろう。
おおかたの兵が、陽動軍との戦いに赴いたあとと見るのが自然だ。
このハディードの街に至るまで、俺たちは無人の荒野を駆けてきた。
さすがの魔王軍も、このごく短期間で奇襲を仕掛けられるとは想定していないはずだ。
報告を終えてもまだ、ジジンは俺の背後から動かなかった。
指示を待っているのだ。
この状況下で軍議を開くことはできない。
こういう時は、隊長である俺が命令を下すのが通例だった。
「あと二時程、嵐は持つはずだ。その間に、奇襲を仕掛ける。五人一組で、二十の兵を一斉に討つ。奇襲で下級の妖魔の数をできる限り減らす。五体の魔族とはできる限り正面から戦わず、数の有利を常に確保しろ」
それだけ伝えれば、訓練を積んだ勇者隊の者たちは思うとおりに動く。
元々の襲撃計画に大幅な計画はないのだ。
ジジンは短く応答の声を上げ、来た時と同じ素早さで去った。
崖の上に散開している勇者隊の皆への伝達は、彼に一任すれば間違いない。
俺の指揮下に編成されている勇者隊は、現在三十人。
今頃陽動の戦を仕掛けているはずの本陣一万五千とは比較にならないほどの、極小隊といっていい。
ハディードの町の駐在兵二十を少ないと評したが、実は数の上ではさほど優位ではない。
特に五体の魔族が厄介だ。
一般に、魔族一人を相手にするのに、訓練された兵でも、五人がかりでようやくなんとか渡り合えると言われている。
相手が態勢を整える前にどれだけ敵兵の数を減らせるかが、勝負の鍵だった。
ここまで、作戦は上々といってよかった。
少数精鋭の部隊であることが幸いして、道中、相手に気づかれることはなかった。
いま潜んでいる街を見下ろす崖も、まさか人間が登れるとは思わないだろう、切り立った絶壁だ。そのような行軍が可能な者を厳選した上での三十人なのだ。
その中にあってすら、俺たちを遥かにしのぐジジンの身軽さは、もはや異能と言っていい次元だった。
「さあ、派手にやってやろうぜ、マハト」
獰猛に目をぎらつかせながら、ヴェルクが俺の名を呼んだ。
勇者隊隊長である俺を呼び捨てにするのは、こいつだけだ。不快ではない。
ヴェルクと戦いを前に話している時は、勇者隊なんてものを指揮する前の、ただ生き残ることに必死だったガキの頃に戻ったような気分になれる。
嵐の中の奇襲がこいつほど似合う男も、そういないだろう。
「張り切るのはいいが、魔族を相手にする前に息切れなんてことになるなよ、ヴェルク」
「誰にもの言ってやがる。久々に、どっちが多く魔族どもをぶち殺せるか勝負するか、マハト?」
この提案にはさすがに苦笑するしかなかった。
こいつはほんとに子どもの頃から何も変わってない、と思わされる。
いくら後は戦うだけとはいえ、俺は三十人の命を預かる指揮官なのだ。
昔のように、ただ暴れればいいというわけにはいかない。
「潜伏ばかりで気が立ってるのは分かるが、冷静さは失うなよ。この街を解放できるかどうかが、今後の魔王軍との戦いのかなめになるんだからな」
「はっ、分かってるって。一気にカタをつけて、ついでにお偉い騎士たちの鼻もあかしてやろうぜ」
「ああ。それは無論だ」
風が逆巻き、嵐がさらに強くなった。
これなら、人間よりも嗅覚や聴覚に優れた妖魔相手でも、襲撃に気づかれる可能性は薄い。
仕掛けるなら――いまだ。
「総員、掛かれ!」
俺の号令は雷のような早さで、隊全体に行き渡る。
それを確かめることもなく、俺とヴェルクは先頭を切って、崖を駆け下りた――。