第十話:中田ほのか
中田ほのかは中学生である。
カワイイものと楽しいことが好きで、勉強と大人が嫌いで。
ちょっと見た目は派手だけど、どこにでもいる普通の女の子。
もうひとつ特徴を挙げるとするならば、父親がいないこと。
母親と二人きりで暮らす、母子家庭育ちということだ。
「───ママ、あのさ。こんど学校で……」
「あー、ごめんほのか。また病院から呼び出されちゃって。
なるべく早く帰るから、続きは後でもいい?」
「……うん、いいよ。行ってらっしゃい」
ほのかの母親は看護師である。
医大の内科勤務、勤続15年を誇る38歳。
今やベテランナースの一人にも数えられ、同僚からも患者からも評価は上々。
それ則ち、我が子さえもを優先してやれないことを意味していた。
「───ただいまー」
「わ、おかえり!
なんで今日こんな早いの?」
「それがねー、みんなが"いいよ"って言ってくれたの!
今日明日くらいは休んどきなって!」
「えっ、じゃあ、じゃあ、明日も仕事お休みなの!?」
「お休みになりました!
どっか二人で遊び行こっか!」
「やったー!」
「───あっ、ほのか。ちょうど良かった」
「なにー?なんか作ってんの?」
「ジャーン!」
「うどん……?
こんな夜中に、二つも食べるの?」
「まさか。さすがの私もそこまではしません。
もう一個は、ほのかの分」
「ほのかも?」
「食べるかなーって。
いらないなら、ママの分だけ茹でちゃうけど……。
どうする?」
「うーん……。
見たら食べたいけど、そんなにお腹減ってないし……」
「じゃあ、一人前を半分こする?」
「え、でも、ママは食べてないんでしょ?晩ごはん」
「足りなかったら適当に、パンでも足せばいいよ。
玉子は?いれる?」
「いれる!」
ほのかと母の関係は、昔は良好だった。
ほのかの学校帰りに映画を観に行ったり、母の仕事帰りにラーメンを食べに行ったり。
ほのかがまだ幼く、母もまだ若かったおかげで、少ない時間ながらも交遊が可能だった。
良好でなくなったのは、ほのかが小学5年生の頃だった。
「───みんなー。
いい時間になってきたけど、門限は大丈夫ー?」
「えっ、いま何時ですか?」
「もうちょっとで5時」
「ヤバ!帰んなきゃ!」
「ええー、ほのかちゃん帰るのー?外まだ明るいよー?」
「帰ってもお母さんいないんでしょ?」
「でも、5時までには帰るって約束だから!ごめんね!」
この日、ほのかは友達と遊んでいた。
興が乗りすぎて、つい門限を過ぎてしまったのだ。
ほのかは慌てて帰路に就いたが、時すでに遅し。
たまたま非番で家にいた母は、門限を破ったほのかに対して、大層ご立腹だった。
「───最近いつもじゃない!
4時までは明るくても、5時になったら一気に暗くなるんだよ?」
「でも、いつもは5時に間に合ってるし……」
「もし何かあっても、ママは直ぐには助けに行ってあげられないの。
今日はたまたま非番だったから良かったものを……」
「………。」
"どれだけ心配したと思っているの"。
"いつもは居ない人が偉そうにしないで"。
売り言葉に買い言葉。
面と向かっての喧嘩は初めてで、初めてだったからこそ、互いに歯止めが利かなかった。
「聞いてる?ほのか。
不審者も増えてるっていうし、このへんは人通りも少ないんだから───」
「他の子は6時までなんだよ。6時過ぎても、別に怒られたりしないって、みんな言ってた」
「みんなの話はしてないでしょ!
私だって、怒りたくて怒ってるわけじゃ───」
「怒ってるじゃん!
いつもはちゃんとやってるのに、たまたま出来なかった時だけすごい怒るじゃん!」
「あのね、ほのか。私は───」
「たまたまうちが遅くなったのと、ママが非番の時が一緒になっただけじゃん。
いつもみたいに、ママがいない時にうちが遅かったら、ママはそれも知らないわけじゃん」
「ほのか……。
私は、ほのかが危ない目に遭わないか心配で───」
「心配なら何してもいいのかよ!」
ほのかはずっと我慢していた。
運動会や参観日に来てもらえなくても、夕食にコンビニ弁当が続いても。
寂しくて切なくて、いっそ仕事なんてやめてしまえと暴れ出したくても。
これが私のお母さんだからと、働く母を応援してきた。
母も母で、我慢していた。
運動会や参観日に行けないのも、温かい手料理を食べさせてやれないのも。
情けなくて悔しくて、だったら仕事なんて辞めるべきかと堂々巡りでも。
これ以外にやっていく方法がないんだと、ほのかとの時間を犠牲にしてきた。
「いつも遅くなっちゃうのだって、帰りたくないからだもん!
帰ってもどうせママいないし、だったらギリギリまで友達と遊んでようって、それがそんなにイケないこと!?」
「……わかってる。わかってるよ、ほのかに寂しい思いさせてること。
ただ、それとこれとは別の───」
「別じゃないじゃん!
ママが仕事で遅いと、パパいっつも怒ってたじゃん!」
「なん、パパの話関係ないでしょう!?」
「あるよ!
責められるの辛かったってママよく言うくせに、ママはうちにそれをするじゃん!」
「私があいつと同類だって言いたいの!?」
「ほら、パパの話しても直ぐ怒る!
ママはただ、ほのかに命令したいだけなんだよ!ほのかをママのロボットにしたいだけ!」
「そんな言い方───」
「全部やだ!寂しいのも、厳しくばっかされんのも、ママも!
全部やだ!もう全部全部やだ!!」
思えば、両親の離婚がきっかけだった。
ほのかにとっての父親、母にとっての夫。
"こんなことなら、子供なんて作るんじゃなかった"。
そう言い残して、父であり夫は、娘であり妻を置いていった。
当時から多忙を極めていた母には、夫を引き留められなかった。
親の役目を降りてしまった父に、ほのかは二度と会えなくなった。
「───今日はそんなに遅くならないと思うけど……。
時間になったら、ごはん食べて、お風呂入るんだよ」
「……はい」
「行ってきます」
「………。」
初めての喧嘩以来、ほのかは母に楯突くようになった。
門限を破るなんて当たり前。
付き合う友達も様変わりし、運動会も参観日も通知しなくなった。
学校帰りの映画も、仕事帰りのラーメンも、遠い思い出になっていった。
母は何度もほのかを叱ったが、ほのかは何度でも母に抗った。
いつしか母は説得を諦め、怪我さえしなければいいと、仕事と家事に終始した。
反抗期。
そんな一言では要約ならないほど、二人の間に生まれた溝は深かった。
「───小学校と中学校では、勝手の違うことがたくさんあります。
まずはそれに慣れるところから始めて、ゆっくり、中学生としての自覚を持っていきましょう」
和解せず迎えた新年度。
母が仕事を続ける傍ら、ほのかは中学生になった。
「(いつメンはもともと学区違うし、前のいつメンとはほぼ喋ってないし……。
今更、もっかい仲間に入れてくださいは、無理だよね)」
仲良しグループは、別の学校に。
元の仲良しグループは、近頃は疎遠に。
先行きを憂うほのかの前に、運命の相手が現れた。
現れた運命は、一人じゃなかった。
「───中田さんって、"なかだ"じゃなくて、"なかた"、なんだね」
「あー、うん。えっと……?」
「あ、ごめんねいきなり。
ボク、"小田"っていうんだけど。名簿見たら、他に二人、田のつく名字の人いるなーって思って」
「あー……。"大田"、だっけ、もう一人」
「そうそう!
さっき大田くんとも話したけど、珍しいよね。同じクラスに三人も、似た名字がいるのって」
「下の名前はバラバラだけどね」
大田翔五。
小田冨真。
名字が似ているという共通点から親しくなった、二人の男の子。
更に翔五は、母親不在の父子家庭。
冨真は両親ともに不在で、母方の祖父母と暮らしているという。
家庭環境が複雑な点もまた、三人に共通していた。
「───ほのかん家はどうなの?お母さん」
「聞くまでもないよ。絶対来ない。
翔五は?お父さんかお母さんか、誰か……」
「来ないよ。父さんも母さんも、あの人も。
てか呼ばない。キモいし」
「そっかー……。冨真は?」
「ウチも無理かなぁ。
来たがるだろうけど、まだ腰治ってないから」
「そっかぁ~……。
ま、いつも通りではあるね」
「第一、学校行事に親来てほしいって、小学生までだろ。
今とかもう、親の目ある方がやり辛い」
「だよね!むしろノビノビできると思えば!
先輩のライブ楽しみ~」
「みんなは食券どれ買うの?」
「うちはねぇ、ハンバーガーでしょ、シュークリームでしょ、ドーナツでしょ───」
「そんな金あんのかよ」
「ないから、絞らないといけないのだ」
「それならボク、ドーナツ買うよ。
3個入りって書いてるし、みんなで分けて食べよ」
「いいね」
三人は程なく友達となり、やがて親友となった。
平日も休日も、学校へ通うのも遊びに出掛けるのも、必ず三人一緒だった。
"男二人に女一人の集まりなんて、なんか如何わしい"。
周囲からの白眼視も何のその。
三人でいる間だけ、辛い現実や悲しい過去を、三人は忘れられた。
「───次いつになるか分かんないし、やるしかないっしょ!」
4月30日。運命の日。
元号改正というビッグイベント。
真っ先に食いついたのは、派手好きなほのかだった。
「───わざわざ制服でやる意味あるか?」
「大アリです!
今だけのイベントを、今しか着れない制服で!」
「ハードル増えてくなぁ~」
"噂に聞くアレを、今度こそ自分達もやってみよう"。
後に"改元ジャンプ"と命名されることになる行為を三人でやろうと、ほのかが提案。
残る二人も、ほのかに比べて乗り気でないながらも、最終的には了承した。
「(───制服よし、メイクよし。ケータイ持った、お菓子持った……。おけおけ)」
当日、深夜。22時40分。
待ち合わせ場所は、南第二中学校の校舎裏。
待ち合わせ時間は、日付変更前の23時30分。
"遅刻しないように、ちょっと早めに家を出よう"。
いつもより念入りにメイクアップして、わざわざ指定の制服に着替えて、小腹が空いた時用にお菓子も持って。
拘りに拘り抜いたフル装備で、ほのかは家を出発した。
出発しようとした。
「どこ行くの、ほのか」
母だった。
あまり咎めなくなった母だが、この日ばかりは割って入った。
何故ならほのかは、門限を破ることはあっても、門限を過ぎてから出歩くことはない。
おまけに制服姿とくれば、良識のある大人ならば、まず止めて然るべきだろう。
「別に、ちょっと出てくるだけ」
「ちょっとなら良いってものじゃないでしょ。
いま何時だと思ってるの」
「アー、ハイハイ。
不審者気をつける、お酒も煙草も買わない、変なとこ寄らない。
いつも通り、ね。アナタの命令通りにしますから。満足?」
「……ッ。
そもそも、誰と一緒なの。一人じゃないんでしょ」
「誰だっていいだろ」
「また例の男の子?こんな夜中に、男の子と三人で?」
「………。」
"どうしていつも言うことを聞かないの"。
"そっちだってこっちの言うこと聞いてくれないじゃん"。
以前よりも遅い時間帯、以前よりも際どい状況下。
疲弊した母と、成長した娘。
初めての喧嘩以上に、二度目の喧嘩はもっと歯止めが利かなかった。
「クラスのお母さん達から聞いてるよ。女の子の知り合いもいるのに、ずっとその二人とばっかり遊んでるって。
どういう関係なの?」
「……別に、ただの友達で───」
「ただの友達は、こんな時間に会ったりしないでしょ。
なにを唆されたか知らないけど、ルールも守れないような子と付き合うべきじゃない」
「ちが、誘ったのはうちで───」
「子どもの内から異性にベッタリなんて、絶対ロクなことにならないんだから」
それは、ほのかにとって一番触れられたくない場所。
ほのかにとって一番、人に言われたくない言葉だった。
だからほのかも、母の一番触れられたくないだろう場所。
母にとって一番言われたくないだろう言葉で、反射的にやり返した。
「ロクなもんじゃないのはママの方でしょ」
「は?」
「わたしのパパを追い出したアンタに、わたしの人生めちゃめちゃにしたアンタに、男がどうとか言われる筋合いねーんだよ!!」
この時の母の、透明な弾丸で胸を撃たれたような顔を。
自分は一生、忘れることはないだろうと、ほのかは思った。
「(わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしが先に悪かったんじゃない。
パパがいなくなったのも、それがママのせいなのも、全部ほんとのことだもん)」
逃げるように飛び出した家。
暗い夜道、切れる息、今にも溢れそうな涙と叫び。
「───どうしたお前、顔……」
辿り着いた待ち合わせ場所には、翔五がいた。
箍が外れたほのかは、翔五に縋って泣いた。
「そっか。
苦労するな、お互い」
「そっちも、なんか言われたの……?」
「言われたっていうか……。まあ、ちょっとな」
「冨真、まだ来てないんだよね?
どうしよ、冨真んとこは、おじいちゃんおばあちゃんだし、これで具合悪くなったりしたら……」
「……とりあえず、待とう。三人揃うまで」
翔五に宥めてもらった上で、一足遅れた冨真とも合流。
改めてイベントを楽しもうと、ほのかは気を取り直した。
"終わった後はどうしよう"。
"あんな顔をさせてしまった母に、自分はどんな顔をして会えばいい"。
募る不安と罪悪感には、急場しのぎの蓋をして。
「ごめんね、変なこと、誘ったりして。
ほのかが言い出さなければ───」
「謝るなよ。どの道なんだから」
「そうだよ。
やることやってスッキリしたら、これからどうするか話し合おう?」
「その言い方だと、なんか下ネタみたい」
「えっ!?」
「ジョーダンだよ」
ほのかは思った。
化粧をするのも、真面目に授業を受けないのも、男の子とばかり連むのも。
確かに好きでやっていることだけど、好きだからやっているわけじゃない。
「(なんで、あんな言い方しちゃったんだろう。
傷付けるって、分かってたのに)」
ほのかは思い浮かべた。
わたしも、普通の女の子だったら。
無理に背伸びをしなくても、年頃らしいカワイイでいられたんだろうか。
女の子同士、どのアイドルが好きかとか、身近な恋の話とかで、楽しくお喋りできたんだろうか。
「(そうか。傷付けたかったのか。
気持ちを分かってくれないなら、痛みだけでも分からせてやりたかったのか)」
たぶん、無理だ。
仮にそういう風に振る舞っても、わたしは絶対に浮いてしまう。
普通の話で盛り上がる普通の子たちを、どこか冷めた目で見てしまう。
わたしが欲しいのは、もっと。
普通の子たちが当たり前に持っていて、わたし達だけが当たり前じゃないことだから。
「(こんな時、キョーダイがいたら。
ムカつくよねって、相談に乗ってくれたりしたのかな)」
男がどうとか。
女だからなんだとか。
ママにだけは、言われたくなかったのに。
多忙だけが原因じゃないことを、わたしは知っているのに。
「(こんな時、父親がいたら。
家族だからって、仲裁に入ってくれたり、したのかな)」
優等生じゃなかったら、みんな不良にカウントされるの?
家にちゃんと帰らなかったら、イコール奔放な人間なの?
奔放な不良は、楽な生き方だって決め付けるの?
自由でいられるわけないじゃん。
楽になれるわけないじゃん。
これからどうなるのかなって、ずっと怖くてたまんないよ。
馬鹿でも悩む頭があるし、痛む心があるんだよ。
どんなに気のいい友達と、気兼ねなく遊んだって。
家族のいない寂しさは、家族にしか埋められないんだよ。
「そろそろ時間だね」
「普通に跳べばいいの?」
「せっかくだから、跳ぶ前になんかお願い事しよーよ」
自分はなぜ頑張るのか。
自分はなんのために生きているのか。
ひとたび湧き出た劣等感は、みるみるほのかの心身を蝕んでいった。
やがてほのかは展望さえもを見失い、こんなことを願うようになった。
「ただ、傍にいてほしい」
"二度とママに怒られたくない"。
"自分が普通でいられる場所に行きたい"。
「───は?意味わかんないんだけど」
かくしてほのかは、願いを叶えたのだった。
ほのか自身も想像だにしなかった、世にも奇妙な形で。




