第九話:芦辺覚
芦辺覚は会社員である。
いわゆるIT企業に於いて、いわゆるプログラマーに類される中の、とりわけ重要で欠かせない職種。
システムエンジニア。縮めてSE。
この職に就くことが覚の夢であり、この職に就くために覚の半生はあった。
「───あら、もう読み終わったの?」
「うん」
「覚は本当に読書が好きだなぁ」
「うん」
「周りの子たちは、ゲームに携帯電話にって、新しいものに目移りしてばかりだそうだけど」
「覚に限っては、その心配はなさそうだな。
誘惑は多いだろうが、お前はちゃんと、本当にいいものだけを選ぶんだよ」
「……うん。わかってる」
幼少期はむしろ、古風でアナログな少年だった。
ゲームよりは読書に親しみ、遊園地よりは博物館に通った。
ただ、純粋に好きだったかと云われると、そうではなかった。
「───えっ、さとる、ポテチ食ったことねーの?」
「うん」
「うわ、そんなやついんの。
もしかして、いつもオヤツ抜きだったり?」
「おやつは、いちおう出るけど」
「どんなん?チョコとか?」
「チョコも駄目。
クッキーとか、マフィンとか、あんまり甘くないやつ」
「クッキーとかって甘いのが普通じゃねーの?」
「わかった、手作りだ!」
「うん」
「えー、いいなぁー。
手作りのお菓子がオヤツとか、めっちゃ金持ちじゃん!」
「金持ちなわけじゃ……」
「なんだよ、ポテチより、そっちのが全然いいだろ。
一日くらい交換してくれよぉー、手作りのクッキぃー」
「……交換、できたら良かったんだけど」
覚の両親は、いわゆるナチュラル志向の人間だった。
読書に親しんだのも、博物館に通ったのも、数ある選択肢から敢えて選んだのではなかった。
"子供の教育にゲームは毒だから、読書をしなさい"。
"引っ込み思案な性格には、博物館の方が合っている"。
与えられたものだけ、許されたものだけで、いかにして自分を満足させるか。
何もかもを両親に決定されてきた覚にとって、何かのために両親を説得する発想はなかった。
子供の覚には、自由も自我も、持ち合わせがなかったのだ。
「───いいですかー、みなさん。
これは授業の一環であって、遊びではありません。
ちょっとくらいふざけても許されるのは、小学校までですからねー」
「小学校でもふざけたら怒られましたが?」
「その通り!中学生ともなれば、尚更です。
間違っても、変なサイトを開いたり、必要のない検索をかけたりしないように」
「せんせぇー、変なサイトってなんですかぁー」
「エロい画像とか動画とかが見れるサイトであります!」
「ギャハハ!」
「こらそこー。言ってるそばから勝手に起動させない!」
中学生にしてやっと、覚は本当の"好き"と出会った。
数ある選択肢から、自らの意思で選ぶという経験をした。
パソコン。インターネット。
噂には聞いていたが、現物にちゃんと触るのは初めてだった。
ゲームより漫画よりアニメより、どんなに人気で流行っているものより。
小さく冷たい機械の箱にこそ、覚の興味は引かれていった。
「───わ、芦辺くんのスゴーイ!」
「えっ」
「見てこれ!プロが作ったみたい!」
「ほんとだー。めっちゃ新聞じゃん」
「ねえ、この文字のやつってどうやるの?」
「フォントっていうんだっけ?」
「えと、これは……」
「せんせー!芦辺くんが本領発揮です!」
「どれどれー?
……お、ほんとだねぇ。色んなツールを使ってるねぇ。
お家の人に教わったの?」
「うちには、パソコンない、ので……」
「独学か!
やっぱ、基礎がデキてる子は何やらせても伸びるんだなぁ」
こいつで遊ぶのは楽しい。
こいつで学べば賢くなれる。
こいつなら、人間と違って顔色を窺わなくていいし、人間以上に正答を教えてくれるし、人間みたいに裏切ったりしない。
何より、ゲームより漫画よりアニメより、どんなに人気で流行っているものより。
こいつには伸び代があり、将来性があり、可能性がある。
いつか役に立つからと、両親に言い訳が立つ。
まさしく、パンドラの箱を開けるがごとく。
思春期の訪れと共に自我を獲得した覚は、テクノロジーの世界へと傾倒していった。
「───どうしても、そこじゃなきゃ嫌なの?
覚のレベルならもっと、上のとこ目指せるのに?」
「目指せなくはない、かもしれないけど。
漫然と、偏差値の高い学校に通うより、明確に、自分のやりたいことを教えてくれる学校に行く方が、有意義だと思うんだ」
「システムエンジニアって、誰でもなれる職業じゃないんだろ?
それこそ、学歴を求められたりしないのか?」
「学歴も大事だけど、専門の資格を持ってる方が、有利になる場合もある、って聞いた。
だから、どっちの強みにもなりそうな学校を、探してきたつもり」
「ですって、お父さん」
「そうだな……。
誰でもやれることじゃ、ないんだもんな?」
「うん」
「時代の最先端をいく、特別で高尚な仕事なんだもんな?」
「……うん」
「ふむ。
なら、いいんじゃないか」
「いいの?」
「機械のことは、俺にはよく分からんが……。
覚が選んだことなら、間違いないだろうさ」
「あ……。
ありがとう、父さ───」
「その代わり、手を抜かないこと。
ただでさえ、本来のレベルより低い学校に行くんだ。周りのバカ共に感化されて遊び呆けるようになったら、すぐ退学させるからな。
わかったか?」
「……はい、とうさん」
中高ともにパソコン部に所属し、卒業後は情報系の大学に進学した。
自宅にもノートパソコンを導入し、齧りつくように資格の勉強をした。
出会った時には既に、覚の目標は決まっていたのだ。
パソコンを使う仕事をすること。
プログラマーか、出来ればシステムエンジニアになること。
両親は反対しなかった。
生まれて初めて覚が好きになったものに、生まれて初めて賛同してくれた。
それは、覚の望む応援の形とは、少し違ったけれど。
最初にして最大の障害である、実の両親をも説き伏せた覚には、もはや敵などいなかった。
「───知ってる?芦辺くん」
「だれ?有名人?」
「一部ではね」
「うちら、こないだ講義一緒だったよー。
背ぇ大っきくて、眼鏡かけてて───」
「見るからにガリ勉のオタクって感じのやつ」
「コラ!本人いないとこで悪口いうな!」
「だって事実じゃん。
で?そのアシベくんがどうしたって?」
「やー、それがさ。
同じサークルの子でさ、最近仲良くなった女の子がいるんだけど……」
「まさか?」
「そのまさかでして……」
「ウッソー!」
「なんだよ?」
「告白して、フラれたの」
「えっ、フラれた!?」
「告白しただけじゃなくて?」
「告白されたんじゃなくて?」
「そうなの。
結構かわいい子なんだけどね、取り付く島もなかったって」
「もう彼女いるとか?」
「ううん。ただ、勉強に集中したいからって」
「はあー……?
え、マジ勉強って?はぐらかされたんじゃなく?」
「マジなんじゃねーの?ガリ勉ぽい人なんしょ?」
「ガリ勉ぽいからこそ、かわいい子に告られたら即オチでしょフツー」
「勉強に集中するために大学くる人とか、実在したんだ」
「マリモ?」
機械いじりばかりして、何がそんなに楽しいのかと、揶揄する人がいた。
一度きりの人生なのだから、青春くらいは味わっておいた方がいいと、心配する人もいた。
覚は、否定も肯定もしなかった。
ただ、誰に何を云われても、話半分に聞き流した。
「───今日は朝までコースでぇーす!
皆のものぉー、休肝日の用意はできているかぁー!」
「できてないけど参加しまぁーす!」
「───どんだけ節操なしだよ!こないだ付き合ったばっかじゃん!」
「だってソッチの相性悪かったんだもん。
クリスマスまでに次の相手間に合うかなぁー」
「───さすがに今回はヤバいわ。さすがに一個は単位落とすわ」
「聞いたって。いいかげん真面目にやれ」
「てか、そんな調子でよく大学許してもらえたね。
生活費とかも全部、ご両親に出してもらってんでしょ?」
「そりゃそーでしょ。大学出すまでが親の義務ですから」
「とかなんとか言って、社会人なってもスネかじりしそうだよ、この人」
「ガミガミうっせー。
だいいち、東大京大以外の大学なんて、ほとんど遊ぶためのモンだろ。
オレは健全な大学生としての義務を全うしてるだけですぅー」
「さいてー」
馬鹿にしていたつもりはない。
純粋に羨ましい気持ちさえあった。
サークル活動と称した飲み会や、結婚には至らない恋愛に興ずる者たち。
今が楽しければ良いんだと、快楽主義の刹那主義を掲げる者たち。
彼らのように、自分も若さを謳歌できたなら。
憧れに似た感情は常にあって、最後はやっぱり理性が勝った。
「───芦辺ってさ」
「はい?」
「友達いねーの?」
「……いませんよ」
「いやいや、別に貶してんじゃなくてさ。
友達の一人もいなくて、なんでそんなに頑張れんのかなーって」
「……投資ですよ」
「は?投資?」
「未来への投資、自分自身への投資。
あの時もっと頑張っておけばって、後悔したくないので」
「……あんまりシンドくねえ、それ?」
「なんでですか?」
「理屈は分かるよ?分かるけど……。
本当に後悔しないためには、何事も程々つか……。
頑張るとこは頑張って、休めるとこは休んどく、を上手にやれた奴が一番、悔いのない人生になるんじゃねーかな」
「お前も合コンとか参加しろよってことですか?」
「そこまで極端には言わねーけど。
芦辺はちょっと、ストイックにやり過ぎな気がしてさ。
大人になってから、若い時くらい遊んでおけば良かったなーって、逆に後悔したりとか」
「………。」
「いや、余計なお世話だよな。ごめん、忘れて」
確かに今は苦しいけれど、きっと今だけだから。
努力を続けた分だけ、未来に光が差すはずだから。
最後に勝つのは自分、最後に笑うのは自分だと。
青年期の覚を支えてくれたのは、凝り固まった信念だけだった。
他に頼みが無いからこそ、たとえ歪な土台でも、覚は縋るしかなかったのだ。
「───えー、詳しい業務内容については追々、ね。担当の先輩に聞いたりして覚えてください。
では、心機一転。新しいメンバーでも、力を合わせて、頑張っていきましょう」
信念だけでは生きられない。
そう気付いたのは、就職して割とすぐの頃。
パソコンを使う仕事をする。
システムエンジニアになる。
志を遂げた暁と共に、それは覚の前に現れた。
「───すごいねぇ、芦辺くんは。
前任の子も優秀だったけど、君はもっとだね」
「いえ。
自分に出来ることをやってるだけです」
「謙遜しなくていいよ。
この調子なら、僕が追い抜かれるのも時間の問題かな」
「まさか。
今はとにかく、早く慣れるように頑張ります」
留年せず、落第せず。
新卒にして有名企業に入社し、新人ながら大役を一任され。
両親は鼻高々、同僚からも上司からも、期待の星と見込まれた。
とんとん拍子のスタートだった。
はずだった。
『───今からですか?』
『立て続けに悪いねー。
どうしても直接、君に見てもらわなきゃいけない感じになっちゃってね?』
『………。』
『あ、もしかして、これから休むとこだった?』
『遅めの夕食にしようかと……』
『あっそう。なら良かった。
もう寝るとこですー、なんて言われたら、さすがに気の毒だもんね』
『はあ……』
『とりあえず、まずはこっち来てもらって。夕食はこっちが片付いた後にしてもらって。
心配しなくても、ちょっとしたエラー?らしいから。専門の君なら、チャチャッと弄って終わるでしょ』
『……わかりました』
期待の星とは則ち、新たな生贄、新たな人柱と同義。
大役を一任されるとは則ち、一番に責任を負わされる、一番に迷惑を掛けられると同義。
誰しもがやりたくない。
しかし、誰かはやらなければならない、損な役割。
それが、覚に回ってきた。
かつては別の誰かが座っていた茨の席に、今度は覚が座る番だった。
システムエンジニアの全てがそうなのではない。
IT企業の全てがそうなのではない。
中にはクリーンでホワイトで、本来の意味でアットホームな職場もあるだろう。
ただ、覚の入った会社は、覚に振られた仕事は、そうだった。
要約すると、限りなくブラックに近い企業で、人一倍の激務を強いられることになったわけだ。
「───隅に置けないよねー、お前も。どこで引っ掛けたんだよ?」
「引っ掛けたって、人聞き悪いなぁ。
普通に大学の同期っすよ」
「てことは、お付き合いは7・8年くらい?
デート行く暇とかあったの?」
「あんま無かったすけど、近所に住んでるんで。
会おうと思えばまぁ、夜中でも」
「いいなー。私も同期にオトコ紹介してもらおうかな」
「先輩はどうなんすか?
前の有休で沖縄行ったんすよね?出会いとか?」
「いちおう連絡先交換した子はいるけど、なんと彼氏持ちでした~」
「あーらら。またですか」
「ゆーて沖縄は楽しかったんだろ?」
「そりゃもちろん。
全力で趣味活できんのが独り身のイイトコですよ」
人間関係に問題はない。
残業代は出るし、正当に評価もしてもらえる。
激務な上に薄給で、種々ハラスメントを受けながら働く人たちと比べれば、遥かにマシな待遇かもしれない。
とはいえ、あまりに多忙が過ぎる。
これでは遊びに行くどころか、ゆっくり食事をとるのも、ベッドで寝る気力さえも残らない。
『───なんか久しぶりだなぁ。前はもっとマメに連絡くれたのに』
『ああ、うん。忙しくて』
『忙しい忙しいって、所詮デスクワークだろ?
外回り行く訳でなし、泣き言はみっともないぞ』
『ああ、はい。そうだね』
『飯はどうしてるんだ?こないだ母さんが送った梅干し、ちゃんと食べてるか?』
『………。』
『添加物は殆ど使っとらんから、早いうち食べんと傷むぞ?』
『あのさ、父さん』
『なんだ?
まさか、仕事やめたいとでも言うつもりか?』
『………。』
『おいおい、やめろよ、つまんない冗談は。あんなにやりたがってた仕事だろ?
第一、やめたところで、どこに転職するんだ。他に勤まるとこなんて、お前にあると思ってるのか?』
『………。』
『最低でも五年は続けんと、恥ずかしくて帰って来れないぞ』
稼動し続ける頭、疲弊し切った体に甦るのは、大学の同期生から差し延べられた言葉。
"逆に後悔しないのか"。
当時は聞き流してしまった言葉が、いざ直面してから突き刺さる。
「(どこがナチュラル志向だよ。単に見栄っ張りで、流行りもの好きなだけだろ。
なにがチャチャッとだよ。軽口叩く暇があるなら、そもそも不具合出さないようにしろよ)」
覚は思った。
大成してやろうだなんて、滅相もない。
少なくはない金を貯めて、狭くはない家に住んで、可もなく不可もない奥さんをもらって。
たまの休みには寿司か焼肉を食べて、趣味に興じたり友人と飲み明かしたりして。
その程度で良かったんだ。
その程度なら、自分でも手が届くだろうと思ったんだ。
高望みなんて、しているつもりはなかったんだ。
「(毎日毎日、朝早く出勤して、夜遅くまで残業して、片手で数える時間だけ、泥のように眠って。
自炊も外食も、ここずっと出来てない。5時間以上休めたことなんて、下手したら───)」
覚は悟った。
少なくない金も、狭くない家も、可もなく不可もないパートナーも。
たまの寿司も焼肉も、興じられる趣味も付き合ってくれる友人も。
その程度なんかじゃない。
立派な大成で、十分に高望みで、いつからか自分は、驕っていたんだと。
「(彼女も、家も、娯楽も。
もうちょっと我慢すれば、もっと条件が良くなるはずだ、とか。
仕事以外できなくなったら、なんも意味ねえのに)」
こんなことなら、もっと勝手気ままに振る舞うんだった。
自慢の息子を演じずに、両親に反抗するんだった。
読書や博物館に逃げずに、ゲームや漫画にも触れてみるんだった。
彼女からのアプローチに、"嬉しい"と返しておくんだった。
彼からのアドバイスに、"ありがとう"と返しておくんだった。
もっと素直に、もっと自分に正直に生きるべきだった。
今の自分に投資して、今の自分ごと未来に進めば良かっただけの、話だったのに。
「パソコンも、俺なんかに扱き使われたくないだろうにな。
せっかくネットが繋がるんなら、そこで誰か、探しても良かったのにな」
パソコンさえあれば大丈夫だと、昔の自分なら言っただろう。
友人が、恋人がいなくとも、贅沢ができずとも、趣味がなかろうとも。
自分にとってはパソコンが友人で恋人で、贅沢な趣味そのものだったのだから。
「生きるための仕事を選んだはずなのに。仕事のために生きたいわけじゃないのに。
まさか、こんな大人になるなんて。昔は、思いもしなかったのにな」
小さく冷たい機械の箱に、求める全てを担わせるということ。
傷付いてでも道を拓く勇気を捨て、妥協と惰性で足踏みを続けるということ。
歪な土台を一から修復するか、いっそ壊して新調するか。
決断を延ばせば延ばすほど、修復も新調もならないまま壊れていくだけ。
「ほんと、ばかだな、おれ。
利口ぶって、結局おれが、いちばん愚かじゃん」
自分はなぜ頑張るのか。
自分はなんのために生きているのか。
ひとたび滲み出た孤独感は、みるみる覚の心身を蝕んでいった。
やがて覚は展望さえもを見失い、こんなことを願うようになった。
「ただ、話を聞いてほしい」
"会社にはもう行きたくない"。
"今からでも遅くないんだと、誰かに背中を押されたい"。
「───うわ、こんなとこで、寝て……?」
かくして覚は、願いを叶えたのだった。
覚自身も想像だにしなかった、世にも奇妙な形で。




