第八話:外川広恵
外川広恵は主婦である。
サラリーマンの夫と、娘が一人と息子が一人。
裕福ではないが貧乏でもなく、自他ともに認める平凡な家庭。
羨まれない代わりに、疎まれることもない日々を、広恵は生きていた。
そんな広恵の人生が一変したのは、今からおよそ8年前。
広恵が47歳の時だった。
「───手術は成功した、んですよね……?」
「手術は、成功しました。ただ……」
夫の大病。
不摂生が災いした脳梗塞。
担当医師の尽力により、なんとか一命は取り留めた。
ただ、発症してから搬送されるまで、失神してから発見されるまでに、時間が空きすぎた。
"もう少し対応が早ければ"。
他意のない医師の言葉は、広恵の胸に重くのしかかった。
「───じゃあ、これからずっと、パパ、こうなの?」
「そう」
「ずっと、ベッドに横になったまんまで、毎日、いるの?」
「そう」
「……良くなるの?」
「分からない。
とにかく今は、命だけでも助かって良かったって、思うしかない」
「お金は?仕事辞めちゃったんでしょ?貯金切り崩してやってくの?」
「それは、今、考えてるとこ」
「わたし達、これからどうなるの」
「……大丈夫。きっと、なんとかなるから。
心配かけて、ごめんね」
片麻痺という重い障害を患った夫は、ほぼ寝たきりの状態に。
元より専業主婦であった広恵は、家事と子育ての合間に夫を看た。
突として始まった介護生活。
何もかもが初めての経験で、当の夫はもちろん、夫を看る広恵も、そんな両親を目の当たりにする子ども達も、次第に疲弊していった。
「───母ちゃん」
「あら、おかえり。早かったね」
「うん。部活、今日は、ないから。
……母ちゃんは、なにしてるの」
「これ?
資料、かな。いろいろ、見てた」
「なんの資料?」
「介護給付とか、障害年金とか、制度のこと。
いま審査してもらってるとこだから、おさらい」
「……大丈夫?」
「アハハ、大丈夫だいじょーぶ。
お前たちは、なーんにも心配いらないから。
お母さん、頑張るからね」
誰かに相談したかった。
誰かに協力してほしかった。
できれば金銭的な援助を、それが無理なら、愚痴のひとつでも聞いてもらいたかった。
しかしながら、世間とは無情なもの。
相談にせよ協力にせよ、誰かに頼るには伝手がいる。
伝手を作るには金を作らなければならず、金を作るには時間を作らなければならない。
寝たきりの夫は仕事を辞め、夫を看る自分は就職できず、子供たちは学校に部活に忙しい。
要するに、悪循環だった。
自分では働けないから周りの助けが要るのに、周りの助けを得るには自分が働かなくてはならなかった。
『───で、いつから下りるって?』
「スムーズにいけば、来月から」
『来月ぅ?スムーズにいって、まだ一ヶ月も待たされんの?
申請した時から数えたら、もう相当になるでしょう?』
「まあねー。
払わされる時は問答無用だけど、もらう時には手続きとかねー。
なかなか簡単にはいかないよ、お金の問題は」
『あれは?介護給付とかって、ある程度は補助してもらえんでしょ?』
「それだって、タダなわけじゃあないもの。
どうしてもって時に、ヘルパーさんに来てもらって精々よ」
『いやー、大変だわ。
つくづく、健康って大事』
「ほんとにねぇ。
……お姉ちゃんが父さんたち看てくれんのが、せめてもの幸い」
『なんもだよー、こっちなんて。
時々モノ詰まらせるくらいで、ぜんぜん元気でいるしねー』
「そう……」
『とにかく、こっちは何とかやってるから。
あんたもあんたで、大変だろうけど、上手にやんなね』
「……うん。ありがとう」
せめて愚痴を聞いてもらう程度なら、金がなくとも当てはあったかもしれない。
しかしながら、現実とは非情なもの。
田舎住まいの親族たちは、自らの健康管理で手一杯。
親しかったはずの友人たちは、介護の経験がない者ばかり。
ならばと居場所を求めても、コミュニティーを探すだけの余力さえない。
悲しいかな。
"誰でもいいから"の"誰か"ほど、最も必要な時に限って、最も得がたい存在なのである。
「───え、もういいの?おかわりは?」
「いい。腹いっぱい」
「わたしも、もういいや」
「ちょっとちょっと、なに遠慮してんの。
おかずもご飯も、おかわり分くらいまだ───」
「じゃあ明日の朝に回せばいいよ。一気に食べちゃうの勿体ないし」
「……お金のこと、気にしてるの?」
「だって、余裕ないんでしょ。
節約できるとこでしとかないと……」
「大丈夫だって。
少しは貯えもあるんだし───」
「貯えを当てにするようになったら、いよいよじゃん。
パパも、今よりもっと悪い状態になるかもだし。いつそういう、入り用になるか分かんないんだし」
「……ごめんね」
「母ちゃんが謝ることじゃないだろ。
あんま無理しないでくれよ」
「せめて、ママがしんどい時だけでも、わたしらに任せてくれれば───」
「それは駄目よ。それこそ、何かあった時に、子供だけじゃ対応しきれない」
「だからって……」
「二人はもう充分やってくれてる。お金のことも、上手にやりくりすればいい。
だから、お父さんのことは私に任せて。二人は二人のやるべきことに集中して。
その方が、私の力になる」
「……わかった」
裕福ではないが、貧乏でもない。
それでバランスをとれるのは、全員が元気でいられる間だけ。
内の一人でも躓いたならば、たちまちに均衡が崩れる。
かつての平穏を取り戻すため、これ以上の退廃を防ぐためだけに、出費が嵩んでいく。
海外旅行に出掛けられるほどの、銀座で豪遊できるほどの大金が、湯水のごとく消えていく。
悲しいかな。
この国は、この世界は、声なき弱者に優しくない。
自分も弱者の側に立ってみて初めて、今までの自分が無知で幸運だったことを、広恵は知ったのである。
「───本当は、わたしも残って、ママの手伝いするべきなんだろうけど……」
「なーに言ってんの!
念願の一人暮らしなんだから、思うぞんぶん満喫しなさい!」
「……あのさ、ママ」
「うん?」
「怒らないで、聞いてね」
「やだ、なによ改まって?」
「うん。あのね。
……一人暮らし、慣れてきて、落ち着いてきたらさ。
ちょっとずつ、やろうと思ってるの、仕送り」
「えっ」
「ストップ!
まだ、待って。まだ何も言わないで」
「………。」
「この際だから言うけど、わたしずっと、辛かった、ほんとは、毎日。
パパがあんなになっちゃったのも、ママがパパのためにって、頑張るのも。
誰も悪くないから、余計に」
「……うん」
「だから、ママとしては、いろいろ思うとこ、あるかもだけど。
わたしも頑張って働くから、ちょびっとでもお金、受け取ってほしいの」
「でも……」
「わたしが辛かった、一番辛かった、のは、自分は何も出来なかったことだから」
「そんなこと───」
「やっと。
やっと、何かは出来る年齢になったから、やりたいの、わたしが」
「……ごめんね」
「あやまんないで。
ママが謝ってるとこも、もう見たくない」
「うん。そうだよね。ごめんね。ありがとうね。ごめんね」
身を粉に耐え忍んだ三年間。
晴れて成人した長女が、少しでも助けになればと、仕送りを申し出てくれた。
子供たちにだけは迷惑をかけたくなかった広恵だが、限界なのも事実だった。
高校生の弟も成人するまでは、お言葉に甘えさせてもらうことにした。
「───朝礼の前に、ひとつ。
このたび、我がチームに、新しい仲間が加わることになりました」
少しの余裕が生まれたおかげで、貧乏暮らしからは脱却できた。
この調子で介護サービスを充実させたいと、広恵もアルバイトとして働き始めた。
大型ショッピングモールの清掃員。
いわゆる、掃除のおばさん。
限られた時間では、雀の涙ほどしか稼げなかったが、広恵には十分だった。
「───あ、外川さん。そちらも休憩?」
「はい。軽く何か食べようかと」
「丁度よかった。
これ、貰ってくれない?迷惑じゃなければ、だけど」
「これは?」
「ただのお菓子よ。有名なとこの、なんか詰め合わせ?
旦那の取引先から送られてきたんだけどね、うちじゃ甘いもの食べる人いないから」
「こんなにたくさん……。
いいんですか?私だけ頂いちゃって」
「いいのいいの。こないだもお世話になったし」
「そんな、あれくらい当然のことで───」
「当然なもんですか。おかげでいつも助かってるわよ。
外川さんも、困ったことあったら相談してちょうだいね」
「……ありがとうございます」
ここでは私は、普通のおばさん。
偏見も差別も、期待も依存もされない。
ここでは私は、一人の人間。
頑張った分だけ評価され、評価された分だけ報酬がある。
「───ただいまー」
「おかえり。ごはん炊いといた」
「わーん助かるー。ありがとー」
「それは?」
「お、さすが目ざといねー。
───じゃーん!お菓子です」
「おおー。なんかイイヤツそう。どしたの?」
「仕事仲間からのお裾分け。
もうご飯だから、デザートに食べよう」
「そうだね」
「ありゃ。なーに、含みのある顔しちゃって」
「なんか、楽しそうだなと思って」
「え、そう?」
「うん。仕事、楽しい?」
「……うん。楽しい」
家にいる時は、消費されてばかりだった私が。
家族なら当たり前と、搾取され続けてきた私が。
ここでなら、努力を努力と認めてもらえる。
長らく奉仕活動に専念した広恵にとって、"ありがとう"や"お疲れ様"の一言が、何よりの見返りだった。
『───いやはや、デキた子供たちだこと』
「ホントによ。
まさか二人とも、こんなに順調にいってくれるとは」
『の割に、あんまし嬉しそうじゃないわね』
「あ、やっぱ分かる?」
『分かる分かる。うちもそうだった。
なんだかんだ、淋しいよね』
「そうなのー!
無事に巣立ってくれて、喜び半分、淋しさ半分って感じ」
『ましてや、障害持ちの旦那と二人きりになるわけだしね』
「こらこら、口悪いぞ」
『事実でしょ。
大丈夫なの?そのへん』
「んー。まだなんとも、だけど……。
前と比べたら、ちょっとは余裕あるし……。あの人も、前よりは動けるようになったし……。
騙し騙し、やれそう、かな?」
『ふーん……。
じゃ、離婚するってなったら教えて』
「アハハハハ」
介護生活6年目。
息子も成人し、デイサービスやデイケアなども受けられるようになった。
少しずつ、一歩ずつ、崩れた日常を立て直していった。
はずだった。
「───おまえ、もう、出てけ」
「は……。
なに、言い出すのよ急に」
「きゅ、じゃない。いつ、言おか、考えて、た。
ふたり、大人、なった、から、いいきかいだ」
「なんで、そんなこと」
「も、おまえの、世話、なりたく、ない。
おまえ、いないと、生きらるな、の、おれも、もうやんな、った」
「別に、私は迷惑とは───」
「うそ!つぐ、な!
おまえ、ほんとは、おれ、なんか死ねば、しねて思ってる!」
「そんなわけないでしょ!」
「うそだ、うそ、うそ。
おれ、なんも、なくなって。めいあく、しかっ、かけ、ない。
好きなこと、できない。自分で、めしも、ふろも、できない」
「でも、前よりは良くなってきてるじゃない。
この調子で頑張れば、いつかは───」
「だから!も、がんば、うの、やんなった、だ!
生きても、しょがな、い。生きたく、ない」
「………。」
「出て、け。
お前の、勝手に、すればいい」
夫が鬱病になった。
それも、塞ぎ込むタイプではなく、攻撃的なタイプの鬱病になった。
貧乏暮らしを脱却できても、要介護度は変わっていない。
5年間耐え忍んだからといって、6年目も無事に迎えられる保証はない。
俺だって普通に生きたかった。
普通に働いて、普通に好きなことをして、普通の夫として父として、毎日を過ごしていきたかった。
俺の人生、こんなはずじゃなかったのに。
広恵が限界だったように、夫もまた、限界だったのだ。
「───どうしてこんなことするの」
「いらない」
「要らないなら要らないで、口で言うなり、置いとけばいいだけでしょ?
なんでわざわざ、ぐちゃぐちゃにするの?」
「嫌なら、片付けなければ、いい」
「そういうこと言ってんじゃないでしょ!
あなたが散らかしたものは、私が始末しなきゃいけないの!ぜんぶ!」
「だれも、たので、ない」
「なんなのその言い方!」
広恵は思った。
私の人生だって、こんなはずじゃなかった。
本当だったら今頃は、自分のタイミングで現役を退いて、慎ましくも穏やかに暮らせているはずだった。
海外へ行けなくても、夫婦で国内旅行くらいは、銀座で豪遊じゃなくても、子供たちと晩酌くらいは楽しめているはずだった。
「───ちょっと何してるの!」
「うるさい、うるさい」
「やめて、ちょっと!危ないから!手離して!」
「おまえが、はなせ」
「この───ッ!
なんのつもりよ!こんなもの持ち出して!
こんなので死ねると思った!?」
「………。」
「死ねないわよ!力もないのに!
ちょっと切れて終わり!意味ないの!」
「───~~ッッ!」
「ちょっ、やめて!叩かないで!」
広恵は思い出した。
私が専業主婦になったのは、会社を辞めたからだ。
直属の上司だった夫にアプローチされて、交際して結婚して、家庭に入ってくれと迫られたからだ。
夫のアプローチを受けたのは、部下の私に親切で、大事にすると約束してくれたからだ。
「───ねえ、あなた」
「………。」
「ちゃんと、話をしましょうよ」
「………。」
「このままじゃ、駄目よ。私も、あなたも。
言いたいことがあるなら、聞くから、言ってよ、ちゃんと」
「……おまえは」
「え?」
「おまえが、おれを、捨てない、のは、負い目が、あるからだ」
「負い目?」
「あのとき、お前が、もと、はやく帰って、れば。買い物なんか、いかなければ。
おれは、倒れても、しゅずつして、治ったかも、しれない」
「………。」
「おまえ、そう思ってる。
だから、つみほろぼし、みたいに、おれの側にいる」
「私は───」
「おれも、おもってる。
お前がもと、はやく、おれを見付けて、れば、よかったのにって、思ってる」
「………。」
「だから、でてけ。
おまえのそれは、もう、かぞくじゃ、ない」
そうよ。
私は最初から、あんたなんか好きじゃなかった。
こんな未来になると分かっていたら、あんたとなんか結婚しなかった。
あんたと出会っていなければ、私は好きだった仕事を辞めずに済んだかもしれないのに。
あんたのいない人生は、もっと楽しかったかもしれないのに。
「───どうでした?」
「普通です。変わらず」
「そう……」
「どうして、奥様だけに辛く当たるんでしょう。
職員たちには普通に、にこやかに接してくれるのに……」
「私だから、なんでしょうね」
「……そちらの病院でも、診てもらったんですよね?どうだったんですか?」
「想定通り。鬱病の一種ですって。
中年以上の男性がなりやすいタイプとか、なんとか」
「治療法は?」
「いろいろ聞いたわ。薬ももらった。でも……」
「飲んでくれない?」
「薬もだけど、他も全部。
やった方がいいって言われてること、ぜんぶ拒否される」
「……最悪、縛りつけて入院させるとか」
「それが出来たら、苦労しないんですけどね」
なによ。
私が辛い時には、顧みることさえしなかったくせに。
自分が辛い時には、めそめそと被害者ぶったりして。
そもそも、病気になったのだって自業自得じゃない。
私は毎日、健康を心掛けた衣食住を提供していたんだから。
「どこで間違えちゃったのかしら」
なんなのよ。
私は妻として母として、家事に子育てに努めてきたのよ。
あなたは家族行事に参加しないどころか、夜な夜な飲み歩いてばかりいたでしょう。
あんたなんか、子供たちがいなかったら、とっくに捨ててやったわ。
負い目がなければ、介護なんて引き受けず、野晒しにしてやったわ。
「捨てていいなら捨てたいわよ」
違う。
本当の本当は、こんなことが言いたいんじゃない。
こんなのが、私の本心なんじゃない。
待ち望んだ誰かを得られても、最底辺からは抜けられても。
積もりに積もった鬱憤は、そう簡単には晴れてくれない。
空いてしまった穴は、埋めても元通りとはならない。
「できないのよ。
あの子たちの、たった一人の父親を、捨ててはいけない。
捨てたところで、やりたいことも、なりたい自分も、今の私には、もう───」
自分はなぜ頑張るのか。
自分はなんのために生きているのか。
ひとたび湧き出た虚無感は、みるみる広恵の心身を蝕んでいった。
やがて広恵は展望さえもを見失い、こんなことを願うようになった。
「ただ、息をしたい」
"夫の待つ家に帰りたくない"。
"これ以上、自分を嫌いになりたくない"。
「───あなた……?」
かくして広恵は、願いを叶えたのだった。
広恵自身も想像だにしなかった、世にも奇妙な形で。




