表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/31

第八話:外川広恵



外川広恵は主婦である。

サラリーマンの夫と、娘が一人と息子が一人。

裕福ではないが貧乏でもなく、自他ともに認める平凡な家庭。

羨まれない代わりに、疎まれることもない日々を、広恵は生きていた。


そんな広恵の人生が一変したのは、今からおよそ8年前。

広恵が47歳の時だった。




「───手術は成功した、んですよね……?」


「手術()、成功しました。ただ……」




夫の大病。

不摂生が災いした脳梗塞。


担当医師の尽力により、なんとか一命は取り留めた。

ただ、発症してから搬送されるまで、失神してから発見されるまでに、時間が空きすぎた。


"もう少し対応が早ければ"。

他意のない医師の言葉は、広恵の胸に重くのしかかった。




「───じゃあ、これからずっと、パパ、こうなの?」


「そう」


「ずっと、ベッドに横になったまんまで、毎日、いるの?」


「そう」


「……良くなるの?」


「分からない。

とにかく今は、命だけでも助かって良かったって、思うしかない」


「お金は?仕事辞めちゃったんでしょ?貯金切り崩してやってくの?」


「それは、今、考えてるとこ」


「わたし達、これからどうなるの」


「……大丈夫。きっと、なんとかなるから。

心配かけて、ごめんね」




片麻痺という重い障害を患った夫は、ほぼ寝たきりの状態に。

元より専業主婦であった広恵は、家事と子育ての合間に夫を看た。


突として始まった介護生活。

何もかもが初めての経験で、当の夫はもちろん、夫を看る広恵も、そんな両親を目の当たりにする子ども達も、次第に疲弊していった。




「───母ちゃん」


「あら、おかえり。早かったね」


「うん。部活、今日は、ないから。

……母ちゃんは、なにしてるの」


「これ?

資料、かな。いろいろ、見てた」


「なんの資料?」


「介護給付とか、障害年金とか、制度のこと。

いま審査してもらってるとこだから、おさらい」


「……大丈夫?」


「アハハ、大丈夫だいじょーぶ。

お前たちは、なーんにも心配いらないから。

お母さん、頑張るからね」




誰かに相談したかった。

誰かに協力してほしかった。

できれば金銭的な援助を、それが無理なら、愚痴のひとつでも聞いてもらいたかった。


しかしながら、世間とは無情なもの。

相談にせよ協力にせよ、誰か(・・)に頼るには伝手がいる。

伝手を作るには金を作らなければならず、金を作るには時間を作らなければならない。

寝たきりの夫は仕事を辞め、夫を看る自分は就職できず、子供たちは学校に部活に忙しい。


要するに、悪循環だった。

自分では働けないから周りの助けが要るのに、周りの助けを得るには自分が働かなくてはならなかった。




『───で、いつから下りるって?』


「スムーズにいけば、来月から」


『来月ぅ?スムーズにいって、まだ一ヶ月も待たされんの?

申請した時から数えたら、もう相当になるでしょう?』


「まあねー。

払わされる時は問答無用だけど、もらう時には手続きとかねー。

なかなか簡単にはいかないよ、お金の問題は」


『あれは?介護給付とかって、ある程度は補助してもらえんでしょ?』


「それだって、タダなわけじゃあないもの。

どうしてもって時に、ヘルパーさんに来てもらって精々よ」


『いやー、大変だわ。

つくづく、健康って大事』


「ほんとにねぇ。

……お姉ちゃんが父さんたち看てくれんのが、せめてもの幸い」


『なんもだよー、こっちなんて。

時々モノ詰まらせるくらいで、ぜんぜん元気でいるしねー』


「そう……」


『とにかく、こっちは何とかやってるから。

あんたもあんたで、大変だろうけど、上手にやんなね』


「……うん。ありがとう」




せめて愚痴を聞いてもらう程度なら、金がなくとも当てはあったかもしれない。


しかしながら、現実とは非情なもの。

田舎住まいの親族たちは、自らの健康管理で手一杯。

親しかったはずの友人たちは、介護の経験がない者ばかり。

ならばと居場所を求めても、コミュニティーを探すだけの余力さえない。


悲しいかな。

"誰でもいいから"の"誰か"ほど、最も必要な時に限って、最も得がたい存在なのである。




「───え、もういいの?おかわりは?」


「いい。腹いっぱい」


「わたしも、もういいや」


「ちょっとちょっと、なに遠慮してんの。

おかずもご飯も、おかわりぶんくらいまだ───」


「じゃあ明日の朝に回せばいいよ。一気に食べちゃうの勿体ないし」


「……お金のこと、気にしてるの?」


「だって、余裕ないんでしょ。

節約できるとこでしとかないと……」


「大丈夫だって。

少しは貯えもあるんだし───」


「貯えを当てにするようになったら、いよいよじゃん。

パパも、今よりもっと悪い状態になるかもだし。いつそういう、入り用になるか分かんないんだし」


「……ごめんね」


「母ちゃんが謝ることじゃないだろ。

あんま無理しないでくれよ」


「せめて、ママがしんどい時だけでも、わたしらに任せてくれれば───」


「それは駄目よ。それこそ、何かあった時に、子供だけじゃ対応しきれない」


「だからって……」


「二人はもう充分やってくれてる。お金のことも、上手にやりくりすればいい。

だから、お父さんのことは私に任せて。二人は二人のやるべきことに集中して。

その方が、私の力になる」


「……わかった」




裕福ではないが、貧乏でもない。

それでバランスをとれるのは、全員が元気でいられる間だけ。


内の一人でも躓いたならば、たちまちに均衡が崩れる。

かつての平穏を取り戻すため、これ以上の退廃を防ぐためだけに、出費が嵩んでいく。

海外旅行に出掛けられるほどの、銀座で豪遊できるほどの大金が、湯水のごとく消えていく。


悲しいかな。

この国は、この世界は、声なき弱者に優しくない。

自分も弱者の側に立ってみて初めて、今までの自分が無知で幸運だったことを、広恵は知ったのである。




「───本当は、わたしも残って、ママの手伝いするべきなんだろうけど……」


「なーに言ってんの!

念願の一人暮らしなんだから、思うぞんぶん満喫しなさい!」


「……あのさ、ママ」


「うん?」


「怒らないで、聞いてね」


「やだ、なによ改まって?」


「うん。あのね。

……一人暮らし、慣れてきて、落ち着いてきたらさ。

ちょっとずつ、やろうと思ってるの、仕送り」


「えっ」


「ストップ!

まだ、待って。まだ何も言わないで」


「………。」


「この際だから言うけど、わたしずっと、辛かった、ほんとは、毎日。

パパがあんな(・・・)になっちゃったのも、ママがパパのためにって、頑張るのも。

誰も悪くないから、余計に」


「……うん」


「だから、ママとしては、いろいろ思うとこ、あるかもだけど。

わたしも頑張って働くから、ちょびっとでもお金、受け取ってほしいの」


「でも……」


「わたしが辛かった、一番辛かった、のは、自分は何も出来なかったことだから」


「そんなこと───」


「やっと。

やっと、何かは出来る年齢になったから、やりたいの、わたしが」


「……ごめんね」


「あやまんないで。

ママが謝ってるとこも、もう見たくない」


「うん。そうだよね。ごめんね。ありがとうね。ごめんね」




身を粉に耐え忍んだ三年間。

晴れて成人した長女が、少しでも助けになればと、仕送りを申し出てくれた。


子供たちにだけは迷惑をかけたくなかった広恵だが、限界なのも事実だった。

高校生の弟も成人するまでは、お言葉に甘えさせてもらうことにした。




「───朝礼の前に、ひとつ。

このたび、我がチームに、新しい仲間が加わることになりました」




少しの余裕が生まれたおかげで、貧乏暮らしからは脱却できた。

この調子で介護サービスを充実させたいと、広恵もアルバイトとして働き始めた。


大型ショッピングモールの清掃員。

いわゆる、掃除のおばさん。

限られた時間では、雀の涙ほどしか稼げなかったが、広恵には十分だった。




「───あ、外川さん。そちらも休憩?」


「はい。軽く何か食べようかと」


「丁度よかった。

これ、貰ってくれない?迷惑じゃなければ、だけど」


「これは?」


「ただのお菓子よ。有名なとこの、なんか詰め合わせ?

旦那の取引先から送られてきたんだけどね、うちじゃ甘いもの食べる人いないから」


「こんなにたくさん……。

いいんですか?私だけ頂いちゃって」


「いいのいいの。こないだもお世話になったし」


「そんな、あれくらい当然のことで───」


「当然なもんですか。おかげでいつも助かってるわよ。

外川さんも、困ったことあったら相談してちょうだいね」


「……ありがとうございます」




ここでは私は、普通のおばさん。

偏見も差別も、期待も依存もされない。


ここでは私は、一人の人間。

頑張った分だけ評価され、評価された分だけ報酬がある。




「───ただいまー」


「おかえり。ごはん炊いといた」


「わーん助かるー。ありがとー」


「それは?」


「お、さすが目ざといねー。

───じゃーん!お菓子です」


「おおー。なんかイイヤツそう。どしたの?」


「仕事仲間からのお裾分け。

もうご飯だから、デザートに食べよう」


「そうだね」


「ありゃ。なーに、含みのある顔しちゃって」


「なんか、楽しそうだなと思って」


「え、そう?」


「うん。仕事、楽しい?」


「……うん。楽しい」




家にいる時は、消費されてばかりだった私が。

家族なら当たり前と、搾取され続けてきた私が。

ここでなら、努力を努力と認めてもらえる。


長らく奉仕活動に専念した広恵にとって、"ありがとう"や"お疲れ様"の一言が、何よりの見返りだった。




『───いやはや、デキた子供たちだこと』


「ホントによ。

まさか二人とも、こんなに順調にいってくれるとは」


『の割に、あんまし嬉しそうじゃないわね』


「あ、やっぱ分かる?」


『分かる分かる。うちもそうだった。

なんだかんだ、淋しいよね』


「そうなのー!

無事に巣立ってくれて、喜び半分、淋しさ半分って感じ」


『ましてや、障害持ちの旦那と二人きりになるわけだしね』


「こらこら、口悪いぞ」


『事実でしょ。

大丈夫なの?そのへん』


「んー。まだなんとも、だけど……。

前と比べたら、ちょっとは余裕あるし……。あの人も、前よりは動けるようになったし……。

騙し騙し、やれそう、かな?」


『ふーん……。

じゃ、離婚するってなったら教えて』


「アハハハハ」




介護生活6年目。

息子も成人し、デイサービスやデイケアなども受けられるようになった。

少しずつ、一歩ずつ、崩れた日常を立て直していった。

はずだった。




「───おまえ、もう、出てけ」


「は……。

なに、言い出すのよ急に」


「きゅ、じゃない。いつ、言おか、考えて、た。

ふたり、大人、なった、から、いいきかいだ」


「なんで、そんなこと」


「も、おまえの、世話、なりたく、ない。

おまえ、いないと、生きらるな、の、おれも、もうやんな、った」


「別に、私は迷惑とは───」


「うそ!つぐ、な!

おまえ、ほんとは、おれ、なんか死ねば、しねて思ってる!」


「そんなわけないでしょ!」


「うそだ、うそ、うそ。

おれ、なんも、なくなって。めいあく、しかっ、かけ、ない。

好きなこと、できない。自分で、めしも、ふろも、できない」


「でも、前よりは良くなってきてるじゃない。

この調子で頑張れば、いつかは───」


「だから!も、がんば、うの、やんなった、だ!

生きても、しょがな、い。生きたく、ない」


「………。」


「出て、け。

お前の、勝手に、すればいい」




夫が鬱病になった。

それも、塞ぎ込むタイプではなく、攻撃的なタイプの鬱病になった。


貧乏暮らしを脱却できても、要介護度は変わっていない。

5年間耐え忍んだからといって、6年目も無事に迎えられる保証はない。


俺だって普通に生きたかった。

普通に働いて、普通に好きなことをして、普通の夫として父として、毎日を過ごしていきたかった。

俺の人生、こんなはずじゃなかったのに。


広恵が限界だったように、夫もまた、限界だったのだ。




「───どうしてこんなことするの」


「いらない」


「要らないなら要らないで、口で言うなり、置いとけばいいだけでしょ?

なんでわざわざ、ぐちゃぐちゃにするの?」


「嫌なら、片付けなければ、いい」


「そういうこと言ってんじゃないでしょ!

あなたが散らかしたものは、私が始末しなきゃいけないの!ぜんぶ!」


「だれも、たので、ない」


「なんなのその言い方!」




広恵は思った。


私の人生だって、こんなはずじゃなかった。

本当だったら今頃は、自分のタイミングで現役を退いて、慎ましくも穏やかに暮らせているはずだった。

海外へ行けなくても、夫婦で国内旅行くらいは、銀座で豪遊じゃなくても、子供たちと晩酌くらいは楽しめているはずだった。




「───ちょっと何してるの!」


「うるさい、うるさい」


「やめて、ちょっと!危ないから!手離して!」


「おまえが、はなせ」


「この───ッ!

なんのつもりよ!こんなもの持ち出して!

こんなので死ねると思った!?」


「………。」


「死ねないわよ!力もないのに!

ちょっと切れて終わり!意味ないの!」


「───~~ッッ!」


「ちょっ、やめて!叩かないで!」




広恵は思い出した。


私が専業主婦になったのは、会社を辞めたからだ。

直属の上司だった夫にアプローチされて、交際して結婚して、家庭に入ってくれと迫られたからだ。

夫のアプローチを受けたのは、部下の私に親切で、大事にすると約束してくれたからだ。




「───ねえ、あなた」


「………。」


「ちゃんと、話をしましょうよ」


「………。」


「このままじゃ、駄目よ。私も、あなたも。

言いたいことがあるなら、聞くから、言ってよ、ちゃんと」


「……おまえは」


「え?」


「おまえが、おれを、捨てない、のは、負い目が、あるからだ」


「負い目?」


「あのとき、お前が、もと、はやく帰って、れば。買い物なんか、いかなければ。

おれは、倒れても、しゅずつして、治ったかも、しれない」


「………。」


「おまえ、そう思ってる。

だから、つみほろぼし、みたいに、おれの側にいる」


「私は───」


「おれも、おもってる。

お前がもと、はやく、おれを見付けて、れば、よかったのにって、思ってる」


「………。」


「だから、でてけ。

おまえのそれは、もう、かぞくじゃ、ない」




そうよ。

私は最初から、あんたなんか好きじゃなかった。

こんな未来になると分かっていたら、あんたとなんか結婚しなかった。


あんたと出会っていなければ、私は好きだった仕事を辞めずに済んだかもしれないのに。

あんたのいない人生は、もっと楽しかったかもしれないのに。




「───どうでした?」


「普通です。変わらず」


「そう……」


「どうして、奥様だけに辛く当たるんでしょう。

職員たちには普通に、にこやかに接してくれるのに……」


「私だから、なんでしょうね」


「……そちらの病院でも、診てもらったんですよね?どうだったんですか?」


「想定通り。鬱病の一種ですって。

中年以上の男性がなりやすいタイプとか、なんとか」


「治療法は?」


「いろいろ聞いたわ。薬ももらった。でも……」


「飲んでくれない?」


「薬もだけど、他も全部。

やった方がいいって言われてること、ぜんぶ拒否される」


「……最悪、縛りつけて入院させるとか」


「それが出来たら、苦労しないんですけどね」




なによ。

私が辛い時には、顧みることさえしなかったくせに。

自分が辛い時には、めそめそと被害者ぶったりして。


そもそも、病気になったのだって自業自得じゃない。

私は毎日、健康を心掛けた衣食住を提供していたんだから。




「どこで間違えちゃったのかしら」




なんなのよ。

私は妻として母として、家事に子育てに努めてきたのよ。

あなたは家族行事に参加しないどころか、夜な夜な飲み歩いてばかりいたでしょう。


あんたなんか、子供たちがいなかったら、とっくに捨ててやったわ。

負い目(・・・)がなければ、介護なんて引き受けず、野晒しにしてやったわ。




「捨てていいなら捨てたいわよ」




違う。

本当の本当は、こんなことが言いたいんじゃない。

こんなのが、私の本心なんじゃない。


待ち望んだ誰か(・・)を得られても、最底辺からは抜けられても。

積もりに積もった鬱憤は、そう簡単には晴れてくれない。

空いてしまった穴は、埋めても元通りとはならない。




「できないのよ。

あの子たちの、たった一人の父親を、捨ててはいけない。

捨てたところで、やりたいことも、なりたい自分も、今の私には、もう───」




自分はなぜ頑張るのか。

自分はなんのために生きているのか。


ひとたび湧き出た虚無感は、みるみる広恵の心身を蝕んでいった。

やがて広恵は展望さえもを見失い、こんなことを願うようになった。




「ただ、息をしたい」




"夫の待つ家に帰りたくない"。

"これ以上、自分を嫌いになりたくない"。






「───あなた……?」




かくして広恵は、願いを叶えたのだった。

広恵自身も想像だにしなかった、世にも奇妙な形で。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ