大パニック!? 寒中マラソン大会 その9
母さんが用意してくれた折り畳み椅子に座って、俺は美味い水のおかわりをもらいながら、太刀根と会長の戦いを観戦していた。
「第一なぁ、俺は会長が、会長んとこの企業が、前から気に入らなかったんだよ!」
そう言って太刀根は、会長に捕まるためにその手を伸ばした。当たり前だが、太刀根を捕まえたくない会長がその手に捕まるわけがない。
ひらりとかわしてみせ、そのまま地面に突っ伏した太刀根の背中を、思いきり足で踏み潰した。
「ああっ」
「全く。口ほどにもないな、貴様は。自分の身体のこともわかっていないのか?」
「あっ、んんん!」
会長は背中を押していた右足を、するすると腰辺りまで移動させていき、さらに激しく揺さぶり始めた。あまりの速さに膝から先がよく見えない。
「ほうら、ここがいいんだろう?」
「や、やめっ、そこは……!」
「素直になれ、太刀根攻。貴様がオレに隠し事など出来るわけもないのだから」
「だ、だめ、だ! ああんっ」
太刀根の口から快楽を伴った叫びが漏れ、飲みきれなかった涎がポタポタと地面に染みを作っていく。
何が悲しくて、俺はこんなことを実況せねばならんのだ。
「ほうら、もう限界だろう? 正直になれ、太刀根攻」
「や、あ、んんっ。もう、だめ……! ぎもぢぃぃいいい!」
バキボキ、バキバキバキッ。
太刀根の背中、いや全身から骨の軋む音? いや折れたような音がして、俺は持っていた紙コップを危うく落としかけた。
「なんの音!?」
声を荒げて二人を、いやぐったりとした太刀根を見る。
息を荒くし、顔を赤らめている様はまさに事後に見えなくもないが、さっき聞いたヤバい音がそうではないと突きつけている。
「はっ、はあっ。くそ、やっぱ会長には敵わねぇなぁ……」
「ふふふ。当たり前だ、太刀根攻。オレは貴様の身体を、貴様より深く知っているのだから。それこそ道場時代から、いやもっと前から、だな」
「ははは……。でもやっぱり俺は、足より手でしてもらいたいぜ」
「そうか、それはまた次の機会にしよう」
蕩け顔の太刀根から「壱……」と小さく会長を呼ぶ声が漏れた。会長はそれに小さく、口の端を持ち上げるだけの笑みを返してみせ、それから「待たせたな!」と俺に両手を広げてみせた。
「いや、待ってないっつうか、待ちたくはなかったというか」
「さぁ! 護くんも、このオレの技で極上の快楽へ堕としてあげよう!」
そう言って会長は、指先をタコかイカの触手みたいにウネウネと動かした。指の骨や関節がどうなっているのかは、もはや聞くまい。
「まぁ、護。マッサージですって。屹立さんとこの、コリがなくなるって評判いいのよ!」
「評判いいって何!? プロかなんか!?」
「今度お母さんもやってもらおうかしら」
「駄目だって、母さん。あれ見てたでしょ!」
未だ恍惚の表情で倒れている太刀根。あんなのを目の当たりにして、大事な母親をあんな危険に晒してたまるか!
とりあえず母さんに「ごちそうさま!」と言い椅子から立ち上がる。ついでに畳んで玄関の扉に立てかけ、律儀に待っていた会長と改めて対峙した。
「さて護くん、覚悟は出来たようだな」
「覚悟が出来たんじゃねぇ。用意が整ったんだよ、会長から逃げるための」
「そうか、それは面白い」
会長は喉の奥から笑い、それから人差し指をピシッと立てた。
「な、なんだよ」
「一キロ」
「何がだ……?」
張り詰めた空気に耐えきれず、俺の額から汗がひと筋零れ落ちた。
「ここから学園までの距離だよ。厳密に言えば約一.五キロなのだが、まぁそれはいい」
「何が言いたい」
「よーいドンで走ったとして、オレはキミを簡単に捕まえることが出来る。だがそれではつまらん。逃げる獲物を追うのも楽しいしな」
「ほんっと趣味悪いな、あんた……」
呆れる俺もまた面白いのか、会長がさらに笑みを深くし「だから」と立てていた指を道の先に突きつけた。
「護くん。キミが残り一キロ地点に行くまで、オレはここで待っていようと思う。せいぜい逃げ回ってくれたまえ」
「ハンデのつもりかよ……」
ナメた真似をしてくれる。だけど願ってもいない申し出に、俺は「後悔すんなよ!」と言葉を返した。
そうして出発しかけた俺の背に「マモル!」と聞き慣れた声をかけられ振り向けば、段ボールの上を跳ねてくる牡蠣の姿が見えた。ちなみに割れた殻は元に戻っている。
「牡蠣!」
「マモル、話は聞いた。安心しな。ワイっちがカイチョーを引き留めるからさ。マモルの後は追わせないぞ!」
「お前……」
紙コップを置いてある簡易テーブルにて跳ねる牡蠣に「頼んだぞ」と言い、軽く撫でてやる。ゴツゴツした感触が痛く、それが少し頼もしく感じた。
「じゃ、行くわ」
「おう!」
「いってらっしゃい、護」
俺を応援してくれる皆のためにも、俺は捕まるわけにはいかない。それがただの、マッサージなのだとしても。




