3 是房
うつむき加減で歩みを進める稲光は、
「止まれ」
という声に顔を上げた。行く手をふさぐように、茶色い忍者装束がふたり立っている。
稲光は、はっとして腰を落とした。
「稲光姫か?」
男の声。
「違う」
咄嗟にうまい返しができなかった。相手が何者なのかわからなかったが、自分を稲光と見破られて動揺したのだ。
「顔を見せろ」
稲光の顔は菅笠で影になり、ふたりにはよく見えなかった。
「違うというておる」
稲光は刀の鯉口を切った。武芸など嗜んでいないが振り回すことはできる。ここで捕まるわけにはいかなかった。言葉使いから見ても丸葉津の者ではない。抵抗してやる。
その時、のそりと巨大な犬が道の脇から現れた。灰色の、犬というよりは狼に近い顔立ちだ。
犬はふたりの忍者装束に顔を向けたまま、稲光の前に立った。稲光はその犬に見覚えがあった。
「お前は、是房!」
二十八犬士のうちで飼われている犬だ。よく遊びに行って可愛がった犬が、どうしてここに?
しかし、それは今、問題ではない。
「是房! わたしを守って!」
稲光がそう言うと、是房は唸り声を上げて身を低くした。
「なにこの犬は?」
女の声。
その声を聞くと同時に稲光は踵を返した。道場へ向かって走る。
「逃がすな!」
「しかし犬が!」
是房は忍者装束の行く手をふさぎ、吠えかかった。
「くっ、犬っころめが!」
女の忍者装束が背中の刀を抜いた。是房はすかさずその腕に噛みついた。
「ぐうっ! こいつめ!」
「いったん引こう」
その声を聞くと、是房は口を離した。女の腕から血が滴る。
じりじりと下がる忍者装束を是房は追わなかった。ある程度距離が開くと忍者装束は走り去る。
それを見て、是房は稲光を追った。
稲光は息を荒げて走っていたが、足取りはよろよろと遅かった。空腹で力が入らない。
そこへ、是房がやってきて稲光に並んで走った。
「是房、あやつらは?」
後ろを振り返った稲光の足がもつれた。
「あっ」
倒れかかった稲光の身体を、是房が素早く動いて背中で支えた。身体を揺すると、是房の背中の稲光の足が地を離れた。
「乗れっていうの?」
それほど是房は大きかった。稲光は是房によじ登ると背中を跨いだ。柔らかい毛にしがみつく。
是房は走り始めた。稲光は荒い息のまま、頭を是房の首に預け眼を瞑った。是房は森に入って駆け続ける。
稲光の息が整った頃、是房は足を止めた。森の端に近く、ちょっと先には建物が見える。
「降りろというのじゃな」
稲光は是房から降りた。是房が稲光に身体をこすりつけ、すぐに身を翻して森の奥に向かう。
「あ、是房」
是房は森に見えなくなった。
「不思議な犬じゃ。ありがとう、是房」
稲光はそうつぶやくと森を抜けた。
石の階段が左手にある。寺への石段のようだ。その下にいくつか茶屋が並んでいる。団子の匂いが流れてきて、稲光のお腹がくうと鳴った。
茶屋の一軒に向かいながら、稲光は懐から巾着を取り出した。大判を一枚取り出す。
「これは使えるかの?」
店の中年女に大判を見せた。
「は? なにこれ?」
「大判じゃ」
「ええ!? 初めて見たし! ちょっと、そんなもの、ここで出すんじゃないよ!」
女が慌てた様子なので、稲光は大判を懐にしまった。
「使えるかの?」
「冗談じゃないよ! そんなもの、うちで使えるわけないだろう!」
「ええ? これはお金ではないのか?」
ちょっと前に大判で食事代を払おうとして大騒ぎになった。小さいお金がなくなってから稲光は食事を摂っていない。
「お金だけど、うちじゃ無理なの!」
お釣りがないのである。稲光は両替屋を知らなかった。
「そんなあ、これでお団子を食べさせておくれ」
「無理!」
稲光の足がふらついた。そろそろ限界だ。
「はーい! お待たせー!」
元気のいい声がして稲光が顔を向けると、背の高いお茶くみ娘が客になにやら渡している後ろ姿が見えた。大きなお尻だ。
「日菜子を思い出すのう」
思わずつぶやいた稲光の声が、お茶くみ娘に聞こえた。
「えっ」
振り向いた丸髷の娘は可愛らしい顔をしていた。まさしく犬小滝日菜子、二十八犬士のひとりだ。
しかし、稲光にはわからなかった。意識が朦朧として身体が傾いていたからだ。
「わー!」
慌てて駆け寄った日菜子が稲光を抱きとめた。