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1 ふたつの出奔


 江戸の町のはずれにあるその剣術道場は、丸い月明かりに照らされていた。

 道場門脇の通用口からそろりと表に出てきた人影があった。きょろきょろと辺りをうかがった人影は男だ。まだ若い。二十歳はたちにはいくらか足りないだろう。

 小袖こそでに裾の細まったたっつけ袴、背中には大きな風呂敷包みを背負っている。

 男は通用口の中に向かってうなずいた。すると、勝手口からはそれぞれ思い思いの旅装束に身を包んだ男女がぞろぞろと忍び出てくる。布の手甲しゅこう脚絆きゃはん、裾をからげた股引ももひき姿などだ。歳はみな同じ程度だろう。その数、二十八名。この道場の住み込みの門下生すべてだ。他に門下生はおらず、これすなわちクラスまるごとに相違ない。


「もうこんなところでしごかれるのはまっぴらごめんだ」


 最初に出てきた男、犬武田いぬたけだ隼人はやとがささやくと、他の男女はうなずいた。

 それを合図のように、二十八名の男女は音もなく静かに道場から立ち去っていく。すぐに静かな土の道に、月明かりが降り注ぐのみとなった。

 徳川家康が江戸を開いて以来数十年が経過した、犬令和四年、春の宵のことであった――。




 半年後――。

 丸葉津まるばつ国丸葉津城の本丸に慌ただしい足音が響いた。

 家臣の高岩たかいわ保偉やすいが普段の冷静さの欠片もなく、廊下を駆けているのだ。


「殿!」


 襖を開けると、腰元の襟に手を突っ込んで乳を揉んでいた丸葉津城主、丸葉津丸葉津守(まるばつのかみ)範種のりたねが慌てて手を引き抜いた。


「な、なんじゃ、保偉。驚くではないか」


 腰元が襟を直して赤い顔で歩み去る。なかなかの器量よしだ。

 それを見送りながら高岩は、


「昼間から結構ですな」


 思わずつぶやいたが、はっと気を取り直し、


「殿! 一大事でござる!」


 と範種の前に詰め寄った。


「お主がそのように血相を変えるとはただ事ではあるまい。申してみよ」


 範種は鷹揚おうように先を促した。


「城下に一揆いっきの動きがございます!」

「なんと申す。左様なことがあるはずはなかろう」


 丸葉津は緩い税制ながら経営はうまくいっていた。灌漑かんがい工事と隠し田の黙認で百姓ともうまくやっているはずだった。にわかには信じられない。


「それが、どうも百姓のみならず、城下にもそのような動きがあるようで」

「ますます合点がいかぬ。如何いかなるわけじゃ」

「は。これは憶測の域を出ない話なのですが」


 高岩は口ごもった。


「構わぬ。申せ」

「は。傘覚さんかく成守なりもり殿の差し金かと」

「なに? れば、稲光いなみつのことと?」


 今年四十になる範種には三人の子があった。末っ子にしてひとり娘の稲光はよわい十七。とうに婚礼も考えなければならぬ年頃だが、昨年、他国の大名、傘覚成守の長子、重資しげもとから輿こしれの申し込みがあった。しかし重資は評判があまりよくなかった。酒色に溺れ、武芸もたしなまず、まつりごとにも無関心となれば、とても可愛いひとり娘をやる気にはなれなかった。というのは控え目な言い方で、範種はその時激怒した。使いの者を散々(ののし)って帰した経緯がある。


「おそらくは」

「しかし、そんなことで一揆を我が国で起こすというのか? それで稲光がどうこうなるわけでもあるまい」

「きゃつらの狙いは改易かいえきかと」


 改易とは殿様をクビになるということだ。


「ははあ、改易に乗じて稲光を自分のものにしようと?」

れば」

「一揆で改易か。あるのか?」

「あり得まする」

「傘覚親子を斬るか」

「それこそ改易ではすまされません」

「つまり、一揆を事前に食い止めて、傘覚親子をこっそりひどい目に合わせなければならぬのじゃな?」

「傘覚親子のことはさておいて、一揆は食い止めなければなりません」

「こんな時に二十八犬士がいればなあ」


 範種が言うのは隼人らの父母のことだ。


「残念です」

「そうだ、二十八犬士には子がいたであろう?」

「彼らはまだ子供です」

「ううむ、仕方がない。まずは城下の状況を確認せねば」

「然れば」


 こうして丸葉津城は上を下への大騒ぎとなった。


 この話は稲光の耳にも入った。稲光と隼人らは同い年で、稲光は隼人らのことをよく知っていた。頼りになる若者たちだ。


「父上は彼らをまだ子供というが、きっと家の困難を助けてくれる。父上が使いを出さぬなら、わたしが行って彼らに助けを求めよう」


 美しい姫君が城から姿を消したのは、高岩が一揆の報告をしてから三日後のことであった。




 丸葉津城下の町はずれに荒れ寺があった。屋根の抜け落ちた伽藍がらんの下、幾人かの人影が静かに座っていた。灯りはない。そこにひとりの男が暗闇から湧き出るように姿を見せた。

 歳は四十をいくらか出たところだろう。小袖にたっつけ袴、袖なしの羽織を身に着けている。総髪そうはつまげだ。

 傘覚成守の家臣、黒方くろかた代隆しろたかに飼われる忍者の頭領、練馬ねりま道順どうじゅんである。してみれば、この場に集まる者も皆忍びだった。


「首尾は如何いかがかな?」


 練馬の問うに、


「なかなか思うようには人が増えませぬ」


 島田に結った婀娜あだな女が答えた。くノ一、東雲しののめである。


「この城下は安寧あんねいにて、城主は人心をよく掴んでおります。一朝一夕には反乱に加担させることは困難かと」

「高岩と二十八犬士の尽力があってこそだろう。しかし、二十八犬士のおらぬ今こそが好機、なんとしても丸葉津を転覆させるのだ」

「ははっ」


 東雲をはじめ、そこにいた者たちは頭を下げた。

 そこへひとりの女が駆け込んできた。範種が乳を揉んでいた腰元だ。


「ご報告が」

「なんだ」

「稲光姫が江戸へ出奔しゅっぽんいたしたようで」

「なんと」


 腰元は練馬が丸葉津城に送り込んだくノ一、時雨しぐれであった。


何故なにゆえに江戸へなど」

「二十八犬士の子供らの元へ向かったのではないかと」

「うーむ、きゃつらになにかができるとも思えんが、禍根かこんつがよかろう。何人か江戸へ行ってもらうぞ」


 練馬は忍者くノ一の顔を見回した。

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