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2022/3/16 本日生存

 自分がいつからうつ病であったのか。

 それについて明確な自覚はない。自傷行為などを繰り返すことになったのは高校生の頃だったのだろうか。それももう20年ほど前の話で、当時は「うつ病」という言葉さえあまり一般的ではなかった。

 ただはっきりと言えることは、父の仕事の都合で神戸市から東京都へ転居した際、私を取り巻く環境が激変したということである。おそらく、その頃から始まっていた。小学五年生の春である。

 自分一人だけ関西弁で、周りがみんな自分と違う言葉を話している。自分は普通に話しているつもりなのに「乱暴だ」「怖い」と言われる。私は次第に情緒不安定になっていった。『始まり』があったとしたらその頃だと思う。

 ある朝、新しい環境にどうしても馴染めなかった私は「学校に行きたくない」と決死の思いで母に訴えた。

 母はこう答えた。

「さぼらないで、頑張って学校に行きなさい」

 私は重い足取りで、ひとり学校に向かった。当時まだ私は子供で、自分が抱えている鬱屈をうまく言葉にすることができなかった。いや、仮に言葉にすることができたとしても、母は取り合わなかっただろう。

 私の母親はそういう人物である。外面はとてもよく、良い母親を演じている。それは上っ面だけですぐに癇癪を起こして手を上げたり怒鳴り散らしたりすることは珍しくなかったし、子供の話を真剣に聞いてくれるような人ではなかった。

 私は母親なのだから、母親である私の意見や見解に子は従うべきであって、子供の意見など取るに足りない一過性の()に過ぎないと考えているような人であった。古い考えの、今でいう『毒親』に育てられた人であるので、それ自体は別段不思議なことではない。

 おそらく、私が精神を蝕み始めたスタートラインはそこであろう。残念なことに、私には学校に信頼できる友人がほとんどいなかった。友人ができても、長続きしない。情緒不安定な同級生と仲良くしたいなどと考えるのはよほど特殊な人物であろう。小学校でも、中学校でも、高校に入っても私は孤立していた。

 家に帰ればあの『支配的な』母親が待っている。母親は三人兄弟で一番知恵の回った私に期待していたのだろう。私立中学の受験を私の意志と関係なく目指し始めた。今では私立の小中学校に入るのはありふれたことだが、当時は珍しいことで、試験の難易度はそれなりに高かった。

 はっきりと言うが、私は勉強が嫌いだった。勉強ができない、ではなく、嫌いだった。友達もいない、話し相手もいない学校から帰ってきて、さらに宿題をやらなくてはならないのが嫌で仕方なかった。

 だが母は私を私立中学に通わせるために進学塾へやった。

 そこで待っていたのは同じクラスの生徒たちからの執拗なからかいであった。

私は運動も嫌いだった。私はあまり体が丈夫な方ではない。それは子供の頃も、大人になった今もそうだ。不思議とインフルエンザにだけは罹らないのだが、よく風邪をひいて、嘔吐したり微熱を出したりしていたように思う。

 走れば息が苦しくなって、喉からぜえ、ぜえ、ひゅう、ひゅうと音がしてひどく辛かった。親に訴えたら『お前は末っ子だから甘ったれなのだ』と切って捨てられた。

 その症状が軽度の喘息であったとわかったのは、二十歳を過ぎてからのことである。

 家にいるのも辛かった。私は三人兄弟の末っ子だが、長兄も極めて情緒不安定だった。神戸にいた当時からちゃんと学校には通っていたが、家に帰ると自室に引きこもって、食事の時間も出てくることがなく、母が部屋に食事を持って二階に上がっていた。

 ちなみに私が部屋に引きこもろうとすると強く叱られたものである。理不尽に過ぎる。おそらく「一人目は失敗したから次でやり直そう」とでも思っていたのだろう。子育てはゲームではないのだが。

 兄が学校に問題なく通えたのは、良い友人に恵まれたからであろう。一度だけその友人らしき人と話をしたことがあるが、子供心に「優しいお兄さんだな、うちの兄とは大違いだ」と思ったものだ。

 そうだ。我が家は異常だったのだ。

 私はエレクトーンを習っていた。次兄(これも当然不仲であった)と押し込められた子供部屋には、エレクトーンが置いてあった。長兄がいる時にこれを弾くと、「うるさい!」と怒鳴られた。ひどい時には殴られることもあった。

 そんな長兄のことを、しかし母は決して叱ろうとしなかった。「お兄ちゃんは小さい頃厳しくし過ぎてかわいそうだったの」というのが理由らしいが、その「お兄ちゃん」から殴られたり怒鳴られたりしている私は可哀そうに見えなかったのだろうか?

 暴力はいけないことで、それを安易にしようする者は糾弾されるべきである。そんな当たり前の理屈さえ我が家では通用しなかった。

 もちろん私も子供なりにそうした母の対応を非難したことがある。

母の答えはこうだった。

「壁に投げつけたボールが跳ね返ってくるように、他人にしたことは必ず自分に返ってくる。だからあなたは我慢するように。やり返したら、お兄ちゃんと同じ」

 ああ、なんて美しい言葉だろう! 反吐が出る!

 ちなみに私に暴力を散々振るった二人の兄がどうなったかというと、結婚し、子供もできて幸せな家庭を気付いている。いやはや、壁に投げつけたボールはどこに飛んで行ったのか! 無関係な誰かにぶつかっていないことを祈るばかりである。

 私だけが今もうつ病で苦しんでいる。うつ病患者であるが故にまっとうな職にありつけず、不眠や摂食障害、貧困に悩んでいる。

 私が何か悪いことをしただろうか。なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか。思い悩んで、夜中に台所の包丁を手に取ったことがある。結局何もできず、包丁を握って一晩中台所に座り込んでいた。

 それを見咎めた長兄が「何をしているのか?」と尋ねてきた。

 あの時長兄を刺すか、自死するか、どちらかを行っていれば今こんなに苦しむことはなかったかも知れない。その選択をしなかった私は、世間的には褒められるかも知れない。だが世間というマクロな存在は、一人で包丁を持ち出すほど思い悩んでいる少年の存在になど、気付きもしないだろう。

 今、私がこうして駄文を書いている間にも、同じように悩み苦しんでいる人がいるだろう。私は、彼ら、あるいは彼女らを助けようとは思わない。

 その人の不幸はその人だけのものであり、安易に他社が口を挟めばその人を余計に苦しめるだけだからだ。私の母の行動の結果、私が一生治らない『うつ病』という病に侵されることになったように。

 ただ一つだけ今思い悩んでいる貴方に伝えられる言葉があるとしたら、「誰かと比較して「自分の境遇はまだマシだからと諦観することだけは決して行ってはいけない」ということだけだ。

 貴方が自らの不幸を受け入れたところで、その「誰か」が幸せになったり不幸から救われたりすることなんて、絶対にないのだから。


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