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「光一朗、本当に明日帰るのか。もう少しゆっくりとして行けないのか」
お父さんは缶ビールを片手に、披露宴の余りものをつついていた。
寂しそうな澄彦さんに片眉を上げて目を細める。
「あのな、皆お前みたいに時間に自由がある訳じゃないんだ。仕事があるんだよ」
「休めよ。娘の祝言が遠方だからってさ」
「海外ならともかく、車で数時間でそれは無理だろ」
「ケチめ」
「貴様、相変わらずだな。誰もがお前を中心に回っている訳じゃないんだぞ」
お父さんの冷たい言葉に澄彦さんは首を項垂れて、玉彦は缶ビールに口をつけながら全くだと言わんばかりに頷いていた。
「でも、もうちょっと私は居て欲しかったかな」
私は移動して、お父さんに再び寄りかかって目を閉じた。
小さい頃からあまり家に帰って来れなくて、ようやく日本に落ち着き始めた矢先に私が鈴白村へと来てしまったのだ。
だからお父さんとの時間は、弟のヒカルよりも少ない。
「ほらな、比和子ちゃんだってあぁ言ってるじゃないか。ここは娘の希望をだな」
私に便乗した澄彦さんがここぞと追い打ちを掛けようとしたが、お父さんはばっさりと切り捨てた。
「無理。おれには養うべき家族がいる。仕事は休めない」
「比和子ちゃんだって家族だろ」
お父さんは私の頭を撫でてから、優しく笑った。
「家族だよ。でも今日嫁に出した。比和の家族は玉彦君だ」
「お父さん……」
泣きそうになって俯くと、まだ涙は出てないというのに玉彦の指先が目元を撫でる。
私は玉彦に凭れ掛かる様にして抱き付いた。
背中を撫でる手が優しい。
「比和子。里帰りはいつでもするが良い。そのように悲しまれては俺も心苦しい」
私たちの様子を見て、父親たちは互いに苦笑している。
「手の掛かる娘だけど、どうかよろしく頼むよ」
お父さんが玉彦に柄にもなく頭を下げた。
その姿がまた私の涙を誘う。
玉彦も私から身体を離して、お父さんよりも低く頭を下げた。
「まだまだ若輩者ではありますが、必ず」
「おう。澄彦の息子だから会う前は心配だったけど、君は父親と違って誠実だし信用してるよ」
「ありがとうございます」
「僕だって誠実だぞ」
せっかく良い雰囲気だったのに、拗ねた澄彦さんが水を差す。
お父さんは澄彦さんの頭をぺしっと叩いて黙らせると、私たちにもう今日は部屋に戻って休めと解放してくれた。
ようやく二人きりの時間になったのは、日付が変わる一時間前。
一応新婚初夜だったけれど、まるで新鮮味が無くいつも通りなのが少しだけ残念でもある。
「流石に呑み過ぎたな」
「お昼からずっとだったもんね」
身体ではなく気疲れの方が酷そうな玉彦は、口を押えて珍しく欠伸をする。
あの玉彦がたったの一日でこんなに眠たくなる程消耗するなんて、彼にとって祝言のように人が集まる場は、正武家のお役目よりも疲れるのかもしれない。
「暫く酒は見たくもない」
「横にバケツ用意してたんだから、そこに捨てれば良かったのに」
私がそう言うと、玉彦は目を閉じて首をぐるっと回してスローモーションでお布団に倒れ込んだ。
「皆祝いに来てくれているのに、そのようなことは出来るだけしたくはない」
その優しく馬鹿正直な姿勢は、ずっと変わらないな。と思う。
出逢った頃の玉彦は、口調が偉そうで、皆自分の思い通りになるのが当たり前の様に思っていた節があったけど、決して性格が悪いわけではなかった。
文句は言うけれど、何だかんだと結局は優しい。
私だけではなく、彼を取り巻く全ての人に。
優しいだけではなく厳しさもあるけれど。
その厳しさを一度だけ、私は経験している。
今にして思えば本当に愚かな行いで、あれから正武家で修業を重ねた私は、過去の私を消したくなる。
いくらなんでも酷すぎたと思う。
あの時、玉彦に打たれた頬の痛さは戒めとして私の中に刻まれている。
そして彼もまた、打った手の痛みを今でも忘れられないと私の頬を撫でていた。
あの場で玉彦が私を甘やかして責めることをしなければ、私は今ここに居なかったと思う。
成長することも無く、ただお屋敷で玉彦を待つだけの存在だったと思う。
以前南天さんは、大きく成長する切っ掛けが必ずあると言っていたけど、私のそれはあの時だったんだと後になってからわかった。
枕に頭を乗せて今にも眠ってしまいそうな玉彦の前に、私は改めて正座で座り直して頭を下げた。
嫌な予感がしたのか彼は素早く起き上がると私の両肩を掴んだけれど、私はその姿勢を維持する。
「比和子、やめろ。お前がそのようなことをするとき、ろくなことがない」
「正武家玉彦さま」
「止せ」
いや、止せと言われてもこれは今夜絶対に私の中ではしなければならない儀式なのだ。
これでようやく、私は玉彦のっていう。
「不束者ではございますが、幾久しく宜しくお願いいたします」
「……うむ」
僅かに動揺していた玉彦は、私の言葉に素っ気ない返事をする。
ゆっくりと頭を上げて伏せていた瞼を開けば、そこには頬を紅潮させて照れ隠しの様に眉根を寄せる玉彦が何とも言えない表情をさせていた。
「これからは旦那様とか、玉彦様って呼んだ方が良いの? それとも玉彦さん?」
「……屋敷以外の人前で流石に呼び捨ては不味いであろう。だが……」
玉彦は膝に置いていた私の手を引き寄せて、その指先を唇に触れさせた。
指先を見つめ、伏し目がちな玉彦の睫毛は相変わらずに無駄に色気を振り撒く。
「今宵は旦那様と呼べ」
「……変態」
「本当はそう呼び、己が俺のものになったと組み敷かれたいのだろう?」
「そんなの、あるわけない。馬鹿じゃないの!」
「……まったく。いつになれば、認めるようになる。もう、強がる必要はないのだぞ。比和子は俺の妻になったのだから。だがそういう趣向というのならば乗らぬことも無い」
反論する私をよそに、玉彦は手慣れた仕草で憎らしいほど手際よく。
まるで私と初めてそういうことをしていますという風に、優しく緩やかに。
二人が互いに求め合いながら、初夜は過ぎてゆく。
眠りにつく前に、見つめ合う。
これからずっと、私はこの人と共に生きてゆくのだと思えば、悲しくもないのに涙が溢れた。
それを困ったように優しく笑って拭ってくれる彼もまた、一筋だけ涙を流した。