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「絶対に眼は発動させるな! 飲み込まれるぞ!」
強い口調の玉彦に私は両手で鼻と口を塞いで何度も頷いた。
澄彦さん以外に滅多に声を荒げることのない彼にそう言われれば従うしかない。
玉彦は異臭のせいなのか祓いの為なのか、口元を手で覆うと割れたトーテムポールを人差し指と中指でなぞり、最後に赤黒い砂に触れた。
すると徐々に生暖かい空気が冷めてゆき、異臭も消えてゆく。
数分後には微かに煙草の匂いが残るだけになった。
私は腰が抜けたように、足の長いカウンターの椅子に腰かけた。
なんだったの、いったい。
玉彦はもう一度店内を見渡して、震える中川さんを見下ろす位置にまで歩いてくる。
「おい、それも寄越せ」
頭を抱える中川さんの右手の中指にある厳ついデザインのゴールドリングを指差した玉彦は、もう一度寄越せと声を押し殺した。
そのリングは私が当主の間で視た薄黒い靄を出している。
中川さんはゆっくりと起き上がると震える指先で外して、献上する様に玉彦に差し出した。
玉彦はもう一度宣呪言を呟き、リングを摘み上げると信じられないことにそれは砂の様にサラサラと形を崩して、消えてゆく。
これでもかってくらいの冷たい目をした玉彦は帰ると私を目で促し、ドアを引き開ける。
「二度と愚かな行いはしないことだ。この正武家玉彦、二度とは助けぬ」
振り向きもせず階段を上がる玉彦を追い駆け、私はドアが閉まるその時まで嗚咽を漏らす突っ伏した中川さんから目が離せなかった。
コインパーキングに戻った玉彦は、ハンドルに乗せた両手に額を当てて口を引き結んでいる。
声を掛けてはいけない雰囲気に、私も俯くしかなかった。
数分してから玉彦は言葉を吐き出した。
「……あれは紛れもなく『呪』だった。海を越えて引き入れた禍々しいものだ。人の骨と肉を使った愚の骨頂だ……」
トーテムポールから割れて出て来た赤黒い砂を思い出して、私は鳥肌が立つ。
あれは、砂ではなかった……。
「指輪はあれの中に入れられた者の持ち物だ。そこに縛り付け、呪を持続させるために。なんと惨いことをする……」
中川さんの件に関して、彼はそれ以上語ることはなかった。
一体どういう呪だったのか、誰に何に向けられていたのか。
「比和子……すまない。今日はもう鈴白へと帰る。泊りはまた次にでも……」
私を見ずに玉彦は小さな声で、申し訳なさそうに目を閉じた。
「うん、帰ろう。次は相談してよね」
出来るだけ明るく答えて、私は玉彦の肩に手を乗せようとした。
けれど彼は身を引いて、私の手を避けた。
「玉彦?」
「すまない。今は穢れている。このまま比和子に触れたくはない」
「そっか……。じゃあ帰ったら禊して、ご飯食べよ。それとも牛丼買ってく? 運転代わろうか?」
玉彦は緩慢に首を横に振り、アクセルを踏んだ。
泊りを予定していた私たちがお屋敷に戻ったのを聞きつけた澄彦さんが、珍しく玉彦側の母屋を訪れた。
玉彦は本殿横の水場で本格的な禊を行うために出て行き、もう一時間が経つ。
私はその間に簡単なご飯を作るために台所に立っていた。
「比和子ちゃーん。大変ではなかったけど面倒だったみたいだね」
澄彦さんは私の背中に話しかけながら台所に入ってきて、冷蔵庫を物色してビールが無いと判ると一旦自分の母屋へと戻った。
そしてちゃっかり冷えたビールを抱えて舞い戻り、冷蔵庫に入れ出した。
その中には日本酒もある。
どんだけここで呑んでいくつもりなんだろう。
私はテーブルに食事を並べて、余った豚の生姜焼きをお箸と共に澄彦さんの前に置いた。
「いやいや、ありがとう。比和子ちゃんも呑む?」
「遠慮しておきます」
旦那の玉彦が禊をしている最中なのに、私が呑むわけにはいかない。
そもそもお酒は彼がいないところでは口にするなと固く約束させられている。
「で、どうだったの。あの人。息子に聞いても胸糞悪いしか答えないし」
プシッと栓を開けて、澄彦さんは美味しそうにビールを喉に流し込む。
玉彦が答えなかったのなら私もそうした方が良い。
どちらにせよ私では詳しいことは解らない。
「すみません。あっという間だったので私には解りませんでした……」
「そう……。そっか。まぁ人間、綺麗ごとばかりではないからね」
俯いた私を元気づけようとした澄彦さんの言葉が引っ掛かり、顔を上げればニヤリと笑っている。
もしかしてこの人……。
「澄彦さん、知ってたんですか」
「えー、知らない」
楽し気に目を逸らすので、おつまみ用のお皿を没収する。
「あっ、勘弁してよ。何かあるなーとは感じたけど、息子があんなに落ちるものとは思わなかったんだよ。お役目は綺麗ごとばかりではない。人を不幸にすることもあるって前にも教えたでしょ。その延長上で他人を不幸に陥れるものから生じた払いもある」
「はい……」
「これから様々な経験を積む必要が次代にはある。アイツは清濁の濁に弱い。潔癖すぎる。本来なら正武家の人間に禊は必要ないんだ。穢れないから」
「え?」
玉彦は穢れたと言っては、時々難しい顔をして禊を行っていた。
穢れないのに禊って。
「僕たちはね、穢れが触れる前に祓ってしまう。物理的に触れても、祓いさえすれば穢れも同時に消えている。それはアイツも知ってる」
「じゃあどうして禊をしているんですか、玉彦は」
「だから、潔癖なんだよ。僕なんて禊の練習以外にこの方ずっとそんなのしてないよ」
澄彦さんは生姜焼きを口に入れて美味いと呟いて、ビールを煽った。