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ご機嫌取り(母視点)

訓練一日目の放課後のご機嫌取りについての母親視点です。

この段階では本編で両親の名前が出ていないので、敢えて出していません。

 今日は休日だ。だというのに、息子はいつもの日課と称して私が起きる前に走り込みに出掛けてしまった。

 今日こそは出掛ける前に起きて見送ろうと思ったのにできなかった。

 ムスッとした顔で起き上がると横で夫が溜め息を吐いていた。

「あっ、ごめん起こしちゃった?」

 そう尋ねると夫は甘えるように私に抱き着いてきた。

 幼子のような仕草にクスッと笑い、頭を撫でると小さな声が聞こえた。

「また、呼び出された……」

 夫は仕事で知り合った人によく呼び出される。相手は気の置けない友人とでも思っているようだが、本人は全くそう思っていない。

 だが、人付き合いが今後、役に立つ事もある事をよく知るこの人は余程の事がない限りは断らない事にしている。

 きっとこんな姿を他の人は知らないだろう。息子ですら知らないであろうこの姿を知るのは妻である私の特権だ。

「出掛けるのね」

「……うん。夕方には戻れると思う」

 大きな溜め息を吐いて夫は出掛ける準備を始めた。

「朝ごはんどうする?」

「家で食べたいけど、できないや。ごめんね」

 夫はいつもの柔和な笑みを浮かべ、困ったような声でそう言った。

「そう。分かったわ。夕食は気合入れて作ってあげる」

「それは楽しみだ」

 この人の悪い癖。人を喜ばせる言葉を瞬時に選んで話す。

 私はそれが嫌いだ。この人の本心の籠っていない言葉なんて本当は聞きたくない。

「本当は三人一緒に過ごしたいわ」

 そう言いながら後ろ姿に抱き着くとはっと息を呑む声が聞こえた。

「……僕も一緒に過ごしたいよ」

「きっと葉月も寂しがるわよ?」

「うん……。一緒に過ごしたいなぁ」

「でも、きっとあの子も分かってるわ」

「うん。僕らの子だからね」

「あの子は貴方そっくりで我儘を言わないから心配よ」

「うん。そうだね」

「だから貴方も偶には我儘を言ってちょうだい」

 夫の背中が少し震えた気がした。顔を見ないであげるのはこの人のプライドを守る為。

 この人はいつも平気な振りをして『善い人』でいる。

 でも、平気じゃないのは私がよく知っている。

 滅多な事では声を荒げる事も人を罵るような事もしない。でも、怒りや悲しみは当たり前のように感じている。この人も人間だから。

「……大丈夫?」

 私の問いに答える前にそっと私の手を握ってくるこの人は弱い。

「大丈夫だよ。だから、今日は夕食を楽しみにしているよ」

「ええ。貴方のその期待を超えるものを用意しておくわ」

「それは楽しみだぁ」

 私の手はこの人によって解かれ、やっと顔を見る事ができた。

 私も着替え、夫を見送ってから朝食の準備を始めた。

 そんな時に息子が帰ってきた。

「……ただいま。もう少しゆっくりしてたらいいのに」

 働き過ぎだと言わんばかりの息子の声に笑ってしまいそうになった。

「おかえりなさい。いいのよ。目が覚めちゃったし、お父さんも出掛けちゃったんだもの」

 そう言うと葉月はきょとんとした顔をした。

 もう高校生になったはずなのに、こういうところは本当に可愛らしい。

「出掛けたの?」

「そう。いつもと同じよ。また仕事で知り合った人に呼び出されたみたい。夕方には帰るって言ってたわ」

「そっかぁ」

 少し寂しさの混ざった声を聞くと戸惑ってしまう。

 でも、理解はしているようで我儘は言わない。

「ほら、手を洗ってきなさい」

「は~い」

 素直に従う我が子は可愛い。反抗期という反抗期は今のところないが、いつか来てしまうんじゃないかと内心ドキドキだ。

 こんな可愛い葉月が反抗期になってしまったら、私は心底ショックを受けるだろう。

 そうならない事を祈る。


 葉月は手を洗いに行ったはずなのにシャワーの音が聞こえた。

 どうも走り込みの所為で汗を掻いたのが不快だったようだ。

 私は構わないが、本人が汗の臭いを不快に思うようだ。これは父親に似たらしく、旦那も同じような行動をする。

 本当に親子だなぁと思いながら朝食の用意を進めた。

 準備が終わろうとした頃に葉月はシャワーを浴び終わってからこっちに向かってきた。

 だが、通ってきたところにはポタポタと雫が落ちていた。

「あら、髪濡れてるわよ」

 そう言いながらくすくすと笑ってしまった。

 何故なら普段はこんな事をしないからだ。きっと考え事でもしているんだろう。

 この子は何か考えながらとか、何か同時進行とかができない。

 やろうとするとこうやって何かが抜けていく。

 私に指摘されたこの子は慌てて魔法で髪を乾かした。

 普段は魔法なんか使わないのに、よっぽど他に気を取られているんだろう。

「便利ね~」

 感心した声をあげると葉月は少し頬を膨らませた。

「だって、ドライヤーだと時間かかるじゃん」

「まあねぇ。でも、母さんが乾かしてあげてもよかったのに」

「髪乾かすくらい自分でできるよ」

 そんな拗ねた声を出す息子が可愛くて仕方ない。

「あらあら。じゃあ、髪の毛濡れたままでリビングまで来ちゃ駄目よ。床びしょ濡れになっちゃう」

 少し揶揄うように言うと、葉月は後ろを見て指摘に気付き、少し悲しそうに眉を下げ、小さな声で謝ってきた。

 ああ、もう! 抱きしめたくなっちゃうじゃない!

 心の中ではそう思いながら平然を装い「大丈夫よ」と告げた。

 葉月はそれでも少し落ち込んだような顔で自分が濡らしてしまった床を掃除した。

 ああ、もう。母さんが全部やってあげたい~。

 心の中ではそんな風に叫んでいたが、それが為にならないのはよく分かっていたからグッと我慢した。


 葉月が片付け終わるのを待って、私は食事の席に着いた。

 席についてからも葉月はどこかそわそわしていて、サラダを突きながら口を開いた。

「母さん、今日は用事とかある?」

 葉月が上目遣いで私の様子を窺った。

「今日? 特にないけど?」

 平然を装い、そう告げると葉月の顔がパッと明るくなった。

 あ~、可愛い~!

「じゃあ、オレと出かけない?」

 葉月のその誘いに私は喜びを隠せなかった。

「勿論よ。どこ行く? どこ行きたい?」

 年甲斐もなくはしゃいでしまうが、我が子が可愛いんだもの。仕方ない。

「母さんの行きたいところ行こうよ。オレ、休みの時はいっつも図書館とか本屋しか行かないから、母さんのおススメ教えて?」

 首をこてんと傾けて尋ねてくる我が子は天然でこれをしてくるのだから末恐ろしい。

 ただ、こんな可愛い子からのお誘いだ。どこに行こうとわくわくしながら答えた。

「そう? じゃあねぇ……」

 私が行きたい場所を挙げている間、葉月は始終ニコニコしていた。

 ああ、こういうところは父親似ね。


 朝食を食べ終わり、私はいそいそと出かける準備を始めた。

 葉月はパーカーにデニムのズボンというラフな格好にショルダーバッグを肩から掛けていた。

 それに対し、私はおろしたてのワンピースにスカーフ、お気に入りのカバンを持って、メイクもほんのりとした。

「お待たせ~」

 少しはしゃぎ気味の私を見て葉月は少し口の端をひくつかせた。

「……どこ出かけんの? オレ、かなりラフな格好なんだけど」

 恰好が私に対してラフすぎるのを気にしているようだ。

 だが、葉月はあまり畏まった場所に行く事がない所為で持っている服はカジュアルなものが多い。

 それが分かっているから着替えろなんて言わない。

「いいの、いいの。だって葉月とのデートだもん」

 そう言うと、葉月は少し眉間に皺を寄せた。

「デートって……」

 デートと言われるのがあまり好きではないようだ。だが、私にとっては大好きな子とのお出掛けなのだから、デートと言うには十分だ。

「さあ、行きましょう!」

 そう言いながら葉月の手を引いて家を出ると、葉月は柔らかく笑った。


 まず向かったのは服屋だった。

 主に男性物を扱っている服屋ではあるが、女性物も少しは置いてある。

 そこで真っ先に向かったのはメンズ服の置いてある一角だ。

 ずらっと並んでいる服を一着一着手に取り、葉月に当てながらどれがいいかを選んでいく。

「あ~ん、あれもいいな、これもいい。う~ん、迷っちゃう」

「……母さん、自分の選ばなくていいの?」

 少し気まずげな葉月はそんな事を聞いてきた。

「いいの。母さんは自分が欲しい時に自分で選んで買うから。それより、今は葉月の服よ。ああん、本当にどれも似合うから迷うわ~」

 葉月は目元以外は父親似だ。目だけは私にそっくりだが、世に言うイケメンである事に変わりはない。

 整った顔にすらっとした体だから色んな物が似合う。欲をいうのならあと少し背が欲しい所だ。でも、まだ成長期だろうから今後に期待できる。

 色んな物を着せたいが、きっと嫌がるだろう。

 厳選しなければと悩んでいると、葉月の目線が値札にいった。

「母さん、ちょっと高くない?」

 小声で言ってくる葉月にきょとんとしてしまった。

 ああ、そう言えば旦那の収入に関して話した事がなかったわね。でも、面白いからまだ黙っておこうっと。

 困惑の表情を浮かべる葉月に、にっこりと微笑んだ。

「大丈夫よ。それに高校生なんだからちゃんとした服の一つや二つ持っておかないと。いつまでもそんなラフな格好ってわけにもいかないでしょう?」

「そ、それはそうだけど……」

「じゃあ、いいじゃない。それに母さんは葉月の服を選びたいの!」

 気後れしているのは分かるが、いつまでもラフな服しか持っていないのは良くないだろう。それは本人も分かっていたようだ。

 それにここの服は生地がいいのだから、このくらいの値段は普通だろう。

 もっと高い物を知っている私としてはそこまで高いとは思わない。

 だからと言って我が子の服を妥協する気はないから、私はまた真剣に選び始めた。

 すると若い女性店員が「ご試着もできますよ」と声を掛けてきた。

「じゃあ、これとこれね」

 葉月に渡すと、葉月は大人しく試着室に向かった。

 私はその間に合いそうな靴を見ていた。

 試着から出てきた葉月は少し大人っぽく見えた。

 それは可愛いからかっこいいになる瞬間だった。

「じゃあ、これ一式下さい」

 私が店員にそう声を掛けると「はい。着て帰られますか?」と尋ねられた。

「お願いします」

 そう答えると女性店員が葉月の着ている服の値札を外し始めた。

「とてもお似合いですよ」

 値札を外し終わった店員が葉月にそう言った。

「ありがとうございます」

 にっこりと微笑みながらそう言う葉月に、女性店員が頬を赤く染めた。

 それがあまりに気に入らず、私は葉月の手を引っ張った。

「どうしたの?」

 困惑の表情を浮かべながら体勢を整える葉月がそう聞いてきた。

「今履いてる靴じゃ、その服に合わないでしょ。靴も見ましょう?」

 そんなのただの誤魔化しだ。でも、葉月は気付いていないようだった。

 私が選んだ三足を前に「どれがいいかしらね。履いてみて」と尋ねると、葉月は返事をしてから試し履きを始めた。

 私達をさっき頬を染めていた店員が悔しそうな表情を浮かべているのが見えた。

 悪いけど、まだ私の子よ。そんな会って間なしのポッと出のお嬢さんに葉月をあげるわけがない。

 それに当の葉月は貴女の視線なんか気付いてすらないもの。

 勝ち誇ったような顔を向けると女性店員は怒りを顕わにしていたが、すぐに横にいた他の店員に奥に連れていかれた。

 その間に葉月は靴を選び終わっていた。

「いいのあった?」

「うん。これがいいかなって思う」

 一番歩きやすそうなものを選んだ葉月がにっこりと笑った。

 私としては別のデザインの方が合いそうだとは思ったが、葉月が選んだのならそれがいいのだろう。

 服代とまとめて支払うと店側は元々葉月が身に着けていた服とかを紙袋に纏めてくれた。

 そして、男の店員が私の耳元で「ご迷惑をお掛けしました」と小声で謝ってきた。

「また来ます」

 にっこりと笑ってそれだけを言うと店員は深々と頭を下げた。

 店を出ると葉月はどこか落ち着かない様子だった。

「本当に良かったの? オレの服だけ買って……」

「あら、だって母さんは葉月の服を選んで買ってあげたかったんだもの。だから満足よ」

 これは本心だ。でも、葉月はまだ落ち着かない様子だった。

「でも、結構値段したんじゃ……」

 ああ、普段そんなに贅沢させていないのもあってか、遠慮してるのね。

 お小遣いはあげてるけど、そこまで大きな額は渡していない。

 それもあって、きっと葉月は中流家庭と思っているんだろう。

「子供がそんな事気にしなくていいのよ。母さんが買いたかったから買っただけだもの。それでも気になるんなら、葉月が大人になったら親孝行してちょうだい」

 にっこりと笑うと葉月は諦めたようだった。

「……分かったよ」

 そんな一言を言う葉月が可愛く思えて、私は笑みを深めた。


 その後は映画を見てからお昼を食べに行った。

 葉月は店に入る時も席に着くまでもエスコートしてくれた。

 その様子に思わず笑みが零れた。

「なに? なんか変?」

 そりゃ、ついこの間まで私が抱っこして育てていた子が、こんなに成長したら笑いたくもなるでしょう。でも、それは言わなかった。

「ううん。ただ、どこで覚えてきたのかしらと思って」

 本当に成長は速いと思って、目を細めると葉月は恥ずかしそうに目線を逸らした。

「それより、何食べる?」

 葉月は本当に誤魔化しが下手だ。でも、それを指摘はせず葉月が広げてくれたメニューに目を落とした。

「よし。じゃあ、これにようかな」

 そう言って指差すと、葉月が店員を呼んで私の分も注文してくれた。

 ああ、本当に大きくなったなぁ。

 少ししんみりしてしまったが、それを悟らせないようにさっき見た映画の感想を話した。

 そして、この後どこに行くかを話していたら料理が運ばれてきた。

 葉月はとても綺麗な所作で食事を楽しんでいた。

 その様子を周囲の女性がちらちらと見ているが、葉月は一切気付いていないようだった。

 本当に鈍い子でよかったわ。

 そう思いながら周囲にけん制の眼差しを時折向けた。

 それにも気付いていない葉月は何も言わずに食べているが、いつも私の料理を食べる時より表情が少し硬いようだった。

 にっこりと笑うと葉月は少し目線を逸らした。

 苦手な物でも入っていたのかしらと思ったがそうではないらしい。

 私も料理を口にしたが、とても美味しいのだが、葉月好みの味ではないのだろう。

 思わず、飲食店相手に勝ったと思ってしまった。

 ああ、本当に私は性格が悪い。


 店を出ると、次は雑貨屋に向かった。

 葉月はその可愛らしい店に入るのに抵抗があるようだが、私と一緒に入ってくれた。

 そこでも女性はちらちらと葉月を見るが、私が葉月に話し掛けるのを見ると落ち込んだ表情を見せていた。

 私の葉月だもの。いいでしょう。

 自慢したくなる気持ちがあった。それを見せないように葉月にインテリアグッズを見せながら尋ねた。

「ねえ、葉月。家に置くんだったらどっちがいい?」

 そんな真剣に考えなくてもいいのに、葉月は腕組しながら考えてくれた。

「う~ん。どっちもいいとは思うけど、オレは右手に持ってる方のが好きかな」

「そう。じゃあ、こっちにしようっと」

 葉月が真剣に選んでくれたのが嬉しくって、ついつい買ってしまった。

 葉月は自分のセンスに自信がないようで、少し困ったように眉を下げていた。

「オレが選んだ方で良かったの?」

「だって、葉月が選んでくれたんだもの。それが家にあるだけで母さんは嬉しいわよ」

「そう。それならいいけど」

 私が微笑むと葉月もつられたように微笑んだ。


 ふっと視界の端に可愛らしい色のワゴンカーが見えた。

「あっ、クレープ売ってるわよ。食べない?」

 数人並んでいるがすぐに買えるだろうと思い提案した。

 この子は甘い物が好きだ。でも、筋肉をつけたいらしく、糖質よりたんぱく質を摂らないと、と言って、糖質は控えているようだ。

 それでも甘い物が好きなのには変わりないらしく、クレープと言った瞬間に目を輝かせた。

 でも、すぐに心配そうな目を私に向けてきた。

「オレは食べれるけど、母さんは大丈夫? 食べれる?」

 食事を取ってからそこまで経っていないからもあってだろう。自分ではなく私の事を心配してきた。

 本当にこの子は……。

「大丈夫よ。甘い物は別腹よ」

 ピースサインをしながら言うと、葉月はふわっと笑った。

「それならいいけど、どうしようか。オレが買ってこようか?」

「いいわよ。荷物もあるし、あそこのベンチに座って待ってて」

 葉月は私の事を気遣ってくれているけど、実はさっきから気付いていた。

 少しばかり靴が合わないんだろう。時々、足を地面から浮かせてぶらぶらと振ったりしている。

 これ以上歩かせたら完全に靴擦れを起こしてしまうんじゃないだろうか。

 少しでも休ませてあげたいと思って、ベンチに座って待っているように伝えた。

 葉月は素直に「分かった」と言って、ベンチに歩いて行った。

 それを見送ってから、私はクレープ屋の列に並んだ。

 クレープのメニューを見ると甘い物や食事系、他にもアイスやジュースもあった。

 何がいいのか聞いてこればよかった。

 まあ、甘い物だったらなんでもいいだろうと思い、イチゴと生クリームのクレープとチョコバナナのクレープを注文した。

 それを受け取ってベンチに向かおうとしたら、葉月が女性二人に話し掛けられているのが目に入った。

 私は足早に近付いた。

 葉月の人を待っているという言葉が聞こえた。

 それにも関わらず、話し掛けている女性は

「お友達ですか? だったら、その人も一緒に……」

 なんて言っている。

 はあ? なんで初対面のあんた達なんかに私の可愛い葉月が時間を割いてあげないといけないのよ?

 人の子にホイホイ声かけるような阿婆擦れに割くような時間はないわよ!

 私はその女の言葉を遮るように「お待たせ」と言った。

 女達は意外だったようで少しぽかんと口を開けていたが、軽く睨むと体をビクつかせて逃げ出した。

 一方、葉月は私が来た事で安心したような表情をしていた。

「何か言われたの?」

 私がそう尋ねると何事もないかのように葉月は答えた。

「道聞かれただけだよ。でも、分かったのかな?」

 こんな時まで人の心配するとは……。

 我が子の鈍さ加減には少しばかり心配になる。

 だが、他人がどうなろうと関係ないし、この子が無事ならそれでいい。

「分かったんじゃない? それより食べましょ!」

 私が隣に座ると、葉月は私の持っているクレープに目がいった。

 最初は交互に見ていたが、その後はチョコバナナの方をちらちら見ていた。

 きっと本人は気付いていないんだろう。

 私は葉月にチョコバナナのクレープを渡した。

「いただきます」

 葉月は行儀よくそう言うと、クレープを頬張った。

 その時に口の端にクリームがついてしまった。だが、本人は気付かずに幸せそうな顔をしている。

 本当に可愛いわ~。

 私もクレープに口を付けると、葉月はにっこりと笑いかけてきた。

「美味しいわね」

 私がそう言うと葉月は幼子のような笑顔を向けてきた。

 葉月は最後まで上機嫌で食べ終わり、口の端についていたクリームを拭った。

 そして、何か気付いたようにハッとした。

 どうしたのかしらと思っていたら、葉月が真剣な目を向けてきた。

「母さんは他に行きたいところとかある?」

 どうやらこのお出掛けは私主体で楽しんで欲しかったようだ。

「そうねぇ。お父さんにお土産も買ってあげたいし、買い物もしないとね」

 そう答えると葉月は眉間に皺を寄せた。

 そうじゃないと言いたいようだ。

 思わず笑いが零れてしまった。

「今日は葉月と出かけられて母さん楽しかったのよ。でも、お父さんも夕方には帰ってくるんだから迎えてあげたいじゃない。それに、お父さんは今日一緒に出掛けられなかったでしょう? だからお土産買ってあげたいのよ。駄目かしら?」

 葉月は首を横に振った。

「駄目じゃないよ」

 それでも葉月はまだ納得していない表情だった。

「じゃあ、いいじゃない。母さんはお父さんが帰って来た時にお夕飯もちゃんと用意してお土産も用意して迎えてあげたいから、二つとも母さんの行きたいところよ」

「うん」

 そこまで言って葉月は納得したようだ。

「もし、出掛けるなら、次はみんなで出掛けたいわね」

「そうだね」

 葉月は柔らかく笑った。


 クレープを食べ終わってからはあの人の好物の塩大福を買いに行った。

 あの人はあまり好みは言わないけど、ある店の塩大福は昔からのお気に入りだ。

 ショーケースに並ぶ塩大福を見ると、あの人の頬張る姿が浮かんだ。

 ただ、あの人は一人で食べると少し寂しそうな顔をするから私の分と葉月の分も買った。

 今日はカロリー摂取しすぎな気がするけど、明日以降運動すればいいでしょう。

 そう思いながらスーパーに向かうと丁度タイムセールだった。

 葉月はあまりの人の多さに少し逃げ腰だったが、私は構わず突っ込んでいく。

 同じ品質であるのなら安く買える方がありがたい。何せ、うちの男どもは細身の癖によく食べる。

 葉月は食べないなら食べないで平気なようだが、それでも私が作った料理は美味しそうに食べるし、量も最近はよく食べる。

 そしてあの人は意外な事によく食べる。なのに細い。

 なんて羨ましいと文句を言った事が何度あっただろう。

 そんな二人の胃を満たすのなら材料はいくらあっても足りないくらいだ。

 戦場と化したスーパーにカートを持って突っ込んでいった。

 途中、葉月はこれ以上いられないといったように入り口付近に小さくなって立っていた。

 そして、一通り買う物をゲットした後に葉月を呼んだ。

「葉月、これお一人様一個までだから、お金渡すから買ってきて」

 そう頼むと葉月は行列のできた列に大人しく並んでくれた。

 こういう時の人手は本当にありがたい。

 戦利品をほくほくとしながら袋に詰めている間に葉月とは合流できた。

 さあ、荷物を持って家に帰ろうと思ったら葉月がひょいっと袋を全て持ってしまった。

「母さんだって持てるわよ?」

「いいよ。オレだけで持てるし」

 葉月はそう言って結局家まで荷物を持ってくれた。

 本当に大きくなっちゃって……。

 まだ父親には届かない背だが、かなり逞しくなった。その様子に少し涙が出そうになった。


 家に帰ると、葉月も夕食作りを手伝ってくれた。

 偶に時間がある時は家事を手伝ってくれる。本当になんてよくできた息子だろう。

 世の男性は未だに家事は女性がするものと言って何もしない人が多い。だが、うちの男性陣は私が専業主婦なのに、家事だって立派な仕事だし、偶には休みが必要だと言って手伝ってくれる。

 まあ、旦那は自分の仕事が忙しすぎて手伝う余裕がない日の方が多いけど。と言うか、自分が休めと言って休ませる事の方が多い。

 ありがたいと思う反面、仕事を取られたら暇で暇で仕方ない時もある。

 いっその事、外で働こうかと思った時もあるが、旦那に止められている。

 『君は家にいて家を守っておいてくれ』そう言われた事は何度となくある。

 だが、実際のところは私に外に出て欲しくないんだろう。その理由は知っていると言えば知っているから黙って従っている。

 それにあの人との約束だ。そう簡単には違える気はない。

 色んな事を考えながら旦那の好物を中心に夕食を作っていくと、いつの間にか旦那が帰ってきた。

 少しばかり疲れが滲んでいるが、きっと葉月は気付かないだろう。

 葉月にニコニコと笑顔を向けているが、その奥には疲労が見える。

 少しでもその疲労に意識が向かないように話題を作る。

「私の見立てで選んだのよ」

 そう言って葉月が身に着けていたエプロンをはぎ取った。

「おお、良いじゃないか。大人っぽくて似合っているよ」

 この人にとって、私が選んだ服を着ている息子が普段とは違う雰囲気の格好であることが刺激になったようで、疲労の抜けた笑顔を浮かべた。

「そうでしょ、そうでしょう。あっ、貴方にはちゃ~んとお土産があるわよ」

 そう言って、買ってきた塩大福の包みを渡すと、喜びを顕わにした。

「わあ、ここの美味しいんだよね。ありがとう」

「夕食後にみんなで食べましょうね」

「そうだね。夕食の時は今日の事を話してくれたら嬉しいな」

「勿論よ。葉月とのお出掛けはすっごく楽しかったんだから」

 これはこの人の嫉妬の表れだ。『話してくれたら嬉しい』は自分の知らないところで楽しんで狡いという意味だ。

 他の人が聞いたら分からないだろう。

 そう思うと笑みが零れた。

 食事中はこの人が望むように私達の今日の出来事を話した。

 その間、この人からは羨ましいという感情が滲んでいた。

 だからか、少し寂し気に自分も行きたかったと言い出した。

「今度は三人で行きましょう?」

 そう言うと、葉月もこの人も笑顔を零した。

 これは約束。きっと三人で出掛けましょう?

 その意味をこの人は理解したんだろう。


 葉月がお風呂に入っている間に二人で少し話をした。

「お疲れ様」

「本当に疲れたよ」

 疲労を前面に見せるこの人が少しおかしくて笑みが零れてしまった。

「今日は相談にでも乗ってたの?」

「ううん。ただ只管に愚痴を聞いてた。本当に人の悪意を聞き続けるのって疲れる」

 そう言って机に突っ伏したこの人の頭を撫でると少し身じろがられた。

「貴方も程々にしておいたら?」

「う~ん。でも、これから先に役に立つ事だからねぇ」

「私は手伝えない?」

「だって、君は暴走しかねないからねぇ。僕一人でどうにかできればと思うんだよ。君は君の人脈を大切にしてくれるだけで十分だよ」

 暴走というのは聞き捨てならないが、疲れているこの人にとやかく言うつもりはない。

「で、さっきの私との約束はいつ頃果たせるかしらね?」

「う~ん。僕と葉月の休みが合えば大丈夫なんだけど……」

 ちゃんとさっきの出掛ける約束の事だというのは分かっているようだ。

「そうね。最近あの子の忙しくしてるからね」

「葉月もちゃんと休めばいいんだけどね」

 苦笑いしているが、貴方が言えないでしょう。

「どっかの誰かさんに似たんでしょうね」

「はははっ、ごめんなさい」

 悪いと思っていない時の謝罪だ。

 まったくこの人は……。

「いつでもいいけど、約束は守ってね」

「うん。必ず」

 そう言ってこの人は柔らかく笑った。

 本当に私の好きな人達はなんでこうなんだろう。

 私の事は考えてくれるくせに自分の事は雑なんだから……。

 私の機嫌を良くしたいのならまずは自分の事を考えてちょうだいとは今日も言えなかった。

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