ご機嫌取り
訓練一日目の放課後の最後に出てきたご機嫌取りについてです。
視点は主人公の西雲葉月です。
最近帰りが遅くなっている所為もあり、母さんの機嫌が少し悪い。
帰りが遅くなった初日なんて「なんでこんなに遅いの⁉」と怒られてしまった。
その場で謝ったが、母さんの機嫌は戻ってはいない。
オレが悪いのは分かってるけど、オレも学校の用事だ。早く帰れないのには理由があるんだから仕方ない。
でも、それで母さんに迷惑を掛けてしまっているのは申し訳ない。
だから、オレはこの休日を母さんの為に使おうと思う。
休日だからといって日課の走り込みと筋トレをサボる気はない。
だからそれらをさっさと終えて、家に戻った。
いつもより早い時間に帰ったつもりだった。なのに母さんはもう起きて台所に立っていた。
「……ただいま。もう少しゆっくりしてたらいいのに」
「おかえりなさい。いいのよ。目が覚めちゃったし、お父さんも出掛けちゃったんだもの」
そう言われて父さんが出掛けた事を知った。
「出掛けたの?」
「そう。いつもと同じよ。また仕事で知り合った人に呼び出されたみたい。夕方には帰るって言ってたわ」
「そっかぁ」
父さんはこうして休日でも呼び出される事は多い。仕事ではないからもちろんお給料が出るわけではないが、人付き合いだと父さんは言っている。
休みの日まで仕事の関係の人と会うなんて大変だろうにと思うが、父さんにとっては友人に会いに行く感覚らしい。
「ほら、手を洗ってきなさい」
「は~い」
母さんに促されてオレは洗面所に向かった。
走った所為か少し汗の臭いが鼻をかすめた。
「……」
自分の汗の臭いというのは何とも言えない。服に染み付いた臭いを鼻を近付けて確認するが、顔を顰めてしまった。
仕方なくシャワーを浴びる事にした。
風呂から出て、着替えも済ませるとすでに朝食が用意されていた。
食卓机の上には母さんのとオレの食事が並んでいた。
「あら、髪濡れてるわよ」
くすくすと笑われて、咄嗟に風の魔法で髪を乾かした。
「便利ね~」
「だって、ドライヤーだと時間かかるじゃん」
「まあねぇ。でも、母さんが乾かしてあげてもよかったのに」
「髪乾かすくらい自分でできるよ」
何もできない子ども扱いされているようで、オレは不貞腐れた声を出した。
「あらあら。じゃあ、髪の毛濡れたままでリビングまで来ちゃ駄目よ。床びしょ濡れになっちゃう」
そう言われ、自分が歩いてきたところを見ると所々濡れてるのが見えた。
「……ごめん」
「大丈夫よ」
母さんは明るく笑った。
ちゃんと自分の事は出来てるつもりでいた自分が恥ずかしくなった。
自分が汚してしまったところをさっさと片付けてから、食事の席に着いた。
いつも通りと言えばいつも通りの休日だ。
「母さん、今日は用事とかある?」
「今日? 特にないけど?」
母さんは友達が多いから、休日は出掛ける事が多い。
でも、今日はそういった予定はないようだ。
「じゃあ、オレと出かけない?」
オレの母さんはこの上ない程嬉しそうな表情を浮かべた。
「勿論よ。どこ行く? どこ行きたい?」
「母さんの行きたいところ行こうよ。オレ、休みの時はいっつも図書館とか本屋しか行かないから、母さんのおススメ教えて?」
「そう? じゃあねぇ……」
そう言いながらはしゃぐ母さんは本当に嬉しそうだった。
母さんは昔からだけど、オレと出掛けられるのが嬉しいらしい。
これで機嫌が直るのなら安いものだ。
朝食を食べ終わると母さんはいそいそと出かける準備を始めた。
オレはパーカーにデニムのズボンというラフな格好にショルダーバッグを肩から掛けていつでも出掛けられるようにしていた。
「お待たせ~」
そう言った母さんは少しばかり気合の入った格好をしていた。
「……どこ出かけんの? オレ、かなりラフな格好なんだけど」
「いいの、いいの。だって葉月とのデートだもん」
「デートって……」
母さんはオレと出掛ける事を最近『デート』と呼ぶようになった。
きっと深く考えていないであろう母さんの言動に心の中で溜め息を吐いた。
「さあ、行きましょう!」
はしゃぐ母さんに手を引かれ、オレは家を出た。
母さんがまず向かったのは服屋だった。
「あ~ん、あれもいいな、これもいい。う~ん、迷っちゃう」
そう言いながら母さんが選んでいるのは自分の服ではなく、オレの服だった。
「……母さん、自分の選ばなくていいの?」
「いいの。母さんは自分が欲しい時に自分で選んで買うから。それより、今は葉月の服よ。ああん、本当にどれも似合うから迷うわ~」
母さんが色んな服をオレに当てながら悩んでいた。
ちらりと値札を確認すると、気兼ねなく買えるような値段ではなかった。
「母さん、ちょっと高くない?」
小声で言うと、母さんはきょとんとした。だが、すぐににっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ。それに高校生なんだからちゃんとした服の一つや二つ持っておかないと。いつまでもそんなラフな格好ってわけにもいかないでしょう?」
「そ、それはそうだけど……」
「じゃあ、いいじゃない。それに母さんは葉月の服を選びたいの!」
母さんはそう言うと、再び真剣にオレの服を選びだした。
すると店員さんが「ご試着もできますよ」と声を掛けてきた。
「じゃあ、これとこれね」
母さんはオレに服を渡すと、試着に行くよう促した。
オレはそれに大人しく従った。
着替え終わって、母さんに見せると、母さんは満足げに微笑んだ。
「じゃあ、これ一式下さい」
「はい。着て帰られますか?」
「お願いします」
店員さんの問いに答えたのは母さんだった。
店員さんはにっこりと微笑んで、オレが今着ている服の値札を外した。
「とてもお似合いですよ」
値札を外し終わった店員さんがオレを見てそう言った。
「ありがとうございます」
きっと社交辞令のようなものなんだろうが、自分の親が選んだものが褒められるのは親のセンスを褒められたような気がして悪い気はしない。
にっこりと微笑むと母さんがオレの手を引っ張った。
「どうしたの?」
まだちゃんと靴を履けていないのに引っ張られ、必死に体勢を整えた。
「今履いてる靴じゃ、その服に合わないでしょ。靴も見ましょう?」
母さんはオレが着替えている間にすでに靴もある程度選んでいたようで、三足並べられていた。
「どれがいいかしらね。履いてみて」
「うん」
一足ずつ履いていき、一番履きやすいものを選んだ。デザインはどれもシンプルで大人っぽいものだったから、どれも今着ている服には合いそうだった。
靴も服と同様に買ったものを身に着けていく事になった。
元々来ていた物は全て店員さんが紙袋に纏めてくれた。
店を出ると母さんは満足そうに微笑んでいた。でも……
「本当に良かったの? オレの服だけ買って……」
「あら、だって母さんは葉月の服を選んで買ってあげたかったんだもの。だから満足よ」
「でも、結構値段したんじゃ……」
「子供がそんな事気にしなくていいのよ。母さんが買いたかったから買っただけだもの。それでも気になるんなら、葉月が大人になったら親孝行してちょうだい」
にっこりと笑う母さんは、オレにこれ以上グダグダと言わせる気はないようだった。
「……分かったよ」
その一言を言うと母さんは満足げに笑った。
その後は母さんが気になるといった映画を見てからお昼を食べに行った。
オレは当たり前のように店の扉を開け、母さんに先に入るよう促すと「ありがとう」と言われた。
席に案内されて、母さんが座りやすいように椅子を引くとくすくすと笑われた。
「なに? なんか変?」
「ううん。ただ、どこで覚えてきたのかしらと思って」
目を細める母さんに少し気まずく思った。
「それより、何食べる?」
メニューを広げると母さんは「どれにしよう」と悩みだした。
オレはおススメと書いてある料理にする事にした。
「よし。じゃあ、これにようかな」
そう言って母さんが指差したものを一緒に注文した。
料理が運ばれるまではさっき見た映画の感想を言ったり、この後どこに行くかを話した。
少しして運ばれてきた料理は美味しかった。
でも、母さんの作った料理の方が良いなと思ってしまった。
顔には出ていないとは思うが、母さんがにっこりと笑った瞬間に見透かされているんじゃないかとドキッとした。
店を出ると、次は雑貨屋さんに向かった。
オレが入るには少し可愛らしすぎる気がしたが、母さんが楽しそうだから良しとしよう。
「ねえ、葉月。家に置くんだったらどっちがいい?」
小さめのインテリアグッズを二つ持ちあげて母さんが聞いてきた。
「う~ん。どっちもいいとは思うけど、オレは右手に持ってる方のが好きかな」
「そう。じゃあ、こっちにしようっと」
母さんは俺の選んだ方を持ってレジに向かった。
雑貨屋さんを出ると、母さんは嬉しそうに微笑んだ。
「オレが選んだ方で良かったの?」
正直、母さんの方がセンスはいいだろう。
でも、母さんはオレが選んだのが良かったらしい。
「だって、葉月が選んでくれたんだもの。それが家にあるだけで母さんは嬉しいわよ」
「そう。それならいいけど」
オレは母さんにつられて微笑んだ。
「あっ、クレープ売ってるわよ。食べない?」
移動販売でも行っているんだろう。ワゴン車にクレープと書かれて、数人の女性が並んでいた。
「オレは食べれるけど、母さんは大丈夫? 食べれる?」
オレは食べようと思えばいくらでもってくらい食べれるけど、母さんはそうはいかない。
だが、その心配は無用だった。
「大丈夫よ。甘い物は別腹よ」
そう言いながら母さんはピースサインをした。
「それならいいけど、どうしようか。オレが買ってこようか?」
「いいわよ。荷物もあるし、あそこのベンチに座って待ってて」
母さんはワゴン車の近くにあるベンチを指差した。
「分かった」
オレはそう言うと、母さんがさっき買ったものが入った袋を預かってベンチに向かった。
正直座れたのはありがたい。
買ったばかりの靴が少し硬い所為か、地味に痛かった。
母さんに買い物を任せっぱなしなのも申し訳ないけど、痛みを我慢していたらそのうちバレるし、きっと怒られるだろう。
ジンジンと熱を持った足も座っていたら少しはマシになるだろう。
ふわりと風が吹き、高い位置にある太陽がオレを照らしていた。
眩しさに少し俯いたら、ふっと影ができた。
なんだろうと思い顔を上げると、目の前には女性が二人立っていた。
「どうかしましたか?」
オレが尋ねると、二人とも目を見合わせてもじもじとしていた。
「えっと、その……」
「そ、そう。道、道を聞きたくて……」
一人が言い淀んでいると、もう一人が思いついたといったように話し掛けてきた。
「道、ですか?」
「えっと、駅までの道を教えてもらってもいいですか?」
「それならこの道を真っ直ぐ行ったところにありますよ」
看板も出ているから分かるだろうにと思いながら指を差して説明した。
「よければ、一緒に来て教えてくれませんか?」
もじもじとしながら聞いてくるが、オレは困惑の表情を浮かべた。
「すみません。人を待っているので」
「お友達ですか? だったら、その人も一緒に……」
「お待たせ」
女性が話している最中に邪魔するように母さんが声を掛けてきた。
母さんを見た女の人達は驚いて「すみませんでした」と言って去っていった。
「何か言われたの?」
「道聞かれただけだよ。でも、分かったのかな?」
「分かったんじゃない? それより食べましょ!」
母さんはオレの横に座ってクレープを渡してきた。
母さんの方はイチゴと生クリームのクレープで、オレの方はチョコバナナのクレープだ。
「いただきます」
そう言って頬張ると甘味が口いっぱいに広がった。
「美味しいわね」
「うん」
上機嫌で食べ終わってハッと気づいた。
オレの機嫌を取ってどうするんだ!
自分の中で自分を「馬鹿」と罵りながら、母さんに尋ねた。
「母さんは他に行きたいところとかある?」
「そうねぇ。お父さんにお土産も買ってあげたいし、買い物もしないとね」
そう言われて、母さんの行きたいところと言った感じがしなくて、思わず眉が寄った。
そんなオレを見た母さんがふっと笑った。
「今日は葉月と出掛けられて母さん楽しかったのよ。でも、お父さんも夕方には帰ってくるんだから迎えてあげたいじゃない。それに、お父さんは今日一緒に出掛けられなかったでしょう? だからお土産買ってあげたいのよ。駄目かしら?」
オレは首を横に振った。
「駄目じゃないよ」
「じゃあ、いいじゃない。母さんはお父さんが帰って来た時にお夕飯もちゃんと用意してお土産も用意して迎えてあげたいから、二つとも母さんの行きたいところよ」
「うん」
「もし、出掛けるなら、次はみんなで出掛けたいわね」
「そうだね」
オレも母さんも笑った。
その日は結局、父さんの好物の塩大福を買いに行った後、スーパーに寄って帰宅した。
本当はもっと母さんを楽しませてあげたかったけど、オレ自身に稼ぎもないから何かを買ってあげる事もできない。
それは少し悲しいけど、きっと大人になったら何か買ってあげようと決めた。
家に帰ってからは一緒に台所に立って夕食を作った。
その途中に父さんは帰ってきて、母さんは父さんにオレの服を買った事を自慢した。
「私の見立てで選んだのよ」
そう言って母さんはオレが身に着けていたエプロンをはぎ取った。
「おお、良いじゃないか。大人っぽくて似合っているよ」
ニコニコと笑う父さんに母さんは満足げに笑った。
「そうでしょ、そうでしょう。あっ、貴方にはちゃ~んとお土産があるわよ」
母さんはそう言って、買ってきた塩大福の包みを父さんに渡した。
「わあ、ここの美味しいんだよね。ありがとう」
「夕食後にみんなで食べましょうね」
「そうだね。夕食の時は今日の事を話してくれたら嬉しいな」
「勿論よ。葉月とのお出掛けはすっごく楽しかったんだから」
自慢げな笑みを浮かべる母さんに父さんはニコニコと笑った。
今日の出来事を話しながら囲む夕食はとても美味しかった。
父さんは自分も行きたかったなぁと少し寂しげだった。
「今度は三人で行きましょう?」
そんな母さんの言葉にオレも父さんも笑顔を零した。
結局、オレが色々してもらってばっかりだったけど、母さんがこんなに嬉しそうだから良かったのかな。
今度は三人で出掛けたいな。