第二話 物語の亡霊
「本の亡霊?」
「そうなんですよ」と鈴村十葉裡は言った。
「いや、正確には物語の亡霊、ですかね」
ふむ、と呟いて、男はサイフォンのコーヒーを撹拌した。
「たしかにウチはカフェもやって、ギャラリーもやって、本の貸し出しもやってる。何でも屋に見えるかもしれない」
「まぁ聞いてくださいよ」
「でも電子書籍は扱ってないし、幽霊書籍とやらも専門外だ」
カチッという音とともにサイフォンを照らす光が消え、漏斗からフラスコへとコーヒーがするする落ちてゆく。
「興味はありますよね? ブックコレクターとして」
「見えない本は読んだことないね。霊感がなくて残念だ」
「本はあるんですって。ほら」
そう言ってカウンター席に座っている男が取り出したのは、一冊の文庫本だった。
かなり有名な、本屋に足を運ぶ人間ならだれでも表紙を見たことのある小説だった。
十五年ほど前にベストセラーになった、大学生たちの青春を描いたものだ。
「なんの冗談だい?」
「違うんです」
「どこが?」
「別の物語が憑りついてるんですよ、この本に」
カフェのオーナー、倉内音流はカウンター越しにもう一度その文庫本を見た。
「まぁ、これを飲んで目を覚ますんだね」
「音流なのにネルドリップじゃないコーヒー、ですね」
このジョークは二人の定番のやり取りだった。
くだけた笑い声が店内の軽やかなジャズに混じる。
「それで」と音流は言った。「どういうことなんだ?」
「つまり、この本を読もうとすると必ず睡魔に襲われる」
「そういう本ならいくらでも知ってるよ」
「そうじゃないんですって」
「ほぅ?」
「同じ夢を見るんです。読んだ人間みんなが」
「……ほぅ」
「俺も同じ本を持ってますけど、眠ってしまうのはこの本だけです。その夢を見るのも」
「本の内容が夢に出てくるんじゃなくて?」
「違います。内容は全然違うんです。コーヒーとコーンポタージュくらい違います」
「みんなが同じ夢を?」
「そう、みんなが、です」
「コーンポタージュの?」
そう言いながら音流は、サイフォンのコーヒーを十葉裡のカップに注ぐ。
そのコーヒーをひと口すすって、十葉裡は顔をしかめる。
「少々苦いかな? 新しいブレンドなんだ」
「熱いです」
音流はあきれてため息をつく。「やれやれ」
このとき店内には、二人の会話を聞いている人間がいた。
斎藤真由、大学三年生。
新型肺炎の世界的パンデミックのせいで講義の大半がオンライン化し、今年の夏から実家に戻ってきていた。
中学生のとき友人に勧められて恩田陸の小説『三月は深き紅の淵を』を読んで以来、彼女は本好きの集まるコーヒーハウスのような、秘密の場所に憧れ続けてきた。
真由にとって『喫茶幻燈白華』はそれに近い場所だった。
店の雰囲気こそ長閑で開放的であるものの、どこか秘密めいた冒険の予感を覚える場所だった。
とくに夕方以降の、サイフォンに火がともる時間帯の雰囲気は彼女のお気に入りだ。
そんな彼女が今、カウンターの二人に背を向けて読んでいる小説は、まさにその話題の本だった。
真由は、もう五回は読み返している自分の文庫本のページをめくってみた。
もちろん夜遅くまで本を読んでいて、そのまま寝落ちしてしまうことはある。
しかし、夢の内容なんてほとんど覚えていない。
真由はじっと聞き耳を立てて二人の会話を聞いていた。
「とにかく、読んでみてくださいよ」
「わかったよ」
「真面目に読んでくださいね?」
「わかったって。週末にちゃんと読むさ」
「週末?」
「サラリーマンはな、夜に本なんて読もうもんなら三秒で夢の世界なんだよ。本の幽霊なんて、それこそあくびが出るぜ」
「土曜ですね? 土曜の夜には感想を聞きに来ますからね」
「わかったから」
「はい」と言って文庫本を手渡そうとする。
「その棚に差しといてくれ」
「なんですって?」
「その方が忘れないからさ。土曜に、そこに座ってゆっくり読むよ」
「誰かが読んだらどうするんですか」
「別に問題ないんじゃないか? 眠くなる本。何か害があるのか?」
「いや、そういう感じじゃないですけど」
「もしここで客がその本を開いたら、この話が本当かどうか、俺にもわかる」
「まぁ、そうかもしれないですけど」
「それに、さっき『物語の幽霊』って言ったか? どんな物語も人に読まれてこそ意義がある」
「なるほど」
「その本にだって、この店の棚に並ぶ権利がある」
「はい」と言って、十葉裡はコーヒーに口をつけた。
今度はちょうどいい温度だ。
「あなたならそう言ってくれると思ってましたよ。ちょっと流れは違ったけど」
「なんの話だ?」
「じつは、頼みたいことっていうのは、これなんですよ。つまり、その物語を掘り出してもらいたいんです」
「おいおいおい、亡霊の次は掘り出せときたか。なんだか墓荒らしみたいだな」
「お願いしますよ。この本に憑りついてる物語を、文章に書き起こしてくれませんか」
音流はカウンター越しに十葉裡の顔を見ると、深いため息をついた。
「考えてみるよ。とにかく、読んでみてからだね」
「土曜に、また話を聞きに来ます。きっとその気になってくれるはずです」
十葉裡は本題を話すことが出来てひとまず安心した。あとは土曜に音流の意見を聞くだけだ。
「お手洗いを借ります」
「ああ。通路の絵を変えたんだよ。見てみてくれ」
そう声をかけて、音流はカウンターの奥で洗い物を始めた。
帰宅してシャワーを浴び、夕食を終えた後、真由は勉強机に座った。
目の前には、例の本がある。
カウンターに座っていた男が席を立ち、店のオーナーが奥に姿を消した瞬間、彼女はさっとカウンターに駆け寄り、例の本と自分の本を入れ替えたのだった。
パラパラとページをめくってみただけで、真由には違いがわかった。
再生紙が使われている。
彼女自身の本は、購入してから何年も経っており、しかも繰り返し読んだせいで全体に古本のような味が出ている。
一方、目の前の文庫本はカバーからしてまだ真新しく、本文用紙は最近一般的になってきた再生紙だった。
奥付を確認すると、その本は今年になってから刷られた最新の版であることが分かった。
真由はその、軽くしなやかで、どこかざらついたページの感触を楽しんだ後、いよいよページをめくり始めた。
暗く、狭いところにいた。音もない虚無の世界。
突然の振動に包まれて、真由は目を覚ました。
周囲の闇に切れ目が入り、こもった空気が外に流れ出し、代わりに光が入ってくる。
真由は、卵型のカプセルの中に座っていた。
どうやらここは、自分の部屋ではないようだ。
そう理解して立ち上がってみると、二人の人間が自分を見ていることに気づいた。
片方は男の子でもう片方は女の子。
どちらも真由と同じくらいに見える。
奇妙なのは、二人が着ている服だ。
一見するとブレザーに見えなくもない、コートのようなジャケットを身に着けている。
その下に着ているものはずいぶん体にフィットしているようで、水着を連想させる質感だ。
真由は二人の恰好を見て、ロボットアニメのキャラクター達を思い出した。
ここはどこですか?
そう聞こうとして、真由は自分の声が出ないことに気づいた。
鼻から口を、堅い仮面のようなマスクが覆っている。
そして、視界の中央に〈ここはどこですか?〉という文章が横書きで現れた。
続いて視界に〈ここは、ライブラリです〉の文章が現れる。
真由の顔には、ゴーグルタイプのウェアラブル端末が装着されているのだった。
しかし、目の前の二人にはマスクだけで、ウェアラブル端末はない。
〈ライブラリ、ですか?〉
〈はい〉という文字が、女の子の前に現れる。〈ここは大学のライブラリです〉
〈あなたは、えと〉今度は男の子が話す。〈マユさん、ですね。あなたは〉
〈なにこれ、声が出ない!〉
真由はパニックになった。
妙なマスクのせいで声が出ず、代わりに視界には字幕のようなセリフが流れるのだ。
目の前には妙な格好をした二人組がいて、自分がどこにいるのかもわからない。
〈落ち着いて!〉
男の子に腕をつかまれて、真由はもう一度二人を見た。
不安そうにおびえる女の子の顔を見て、ようやく少し落ち着いた。
〈僕の名前はイーシェ。ここの学生です〉
〈学生?〉
〈ここは大学なんです〉と女の子が補足する。〈あ、私はアイサといいます〉
〈マユさんに教えてもらいたいことがあるんです〉とイーシェが続ける。
〈僕たち地球人が地底で生活できるのは、昔流行した病気のおかげだと授業で習いました〉
〈?〉
〈湿度が高く、酸素の薄い環境に耐えられる肺です。肺炎の大規模な流行がきっかけらしいんですけど、当時のことを教えてほしいんです。授業で発表するので〉
〈意味がわからないんだけど〉と真由は言った。
〈でも、マユさんは〉
イーシェも困ったような様子だ。一生懸命言葉を選んでいるのが、真由にもわかる。
〈えと、マユさんは今、西暦何年だと思っていますか?〉
〈何年って、二〇二〇年でしょ〉
〈やっぱり、間違ってないわ〉とアイサが言う。
〈年代はばっちりだ〉
〈どういうこと?〉真由はまた混乱してきた。〈ここはどこかの地下なの?〉
〈地下?〉今度はイーシェが困惑の表情を浮かべる。〈ここは宇宙です〉
〈は?〉
〈ほら、見て〉
イーシェが指さした小さな窓を覗き込んで、真由は言葉を失った。
そこには、星々が散らばる漆黒の海が、視界いっぱいに広がっていた。
〈ここ……どこなの?〉
〈ここは〉おそるおそる、という様子でアイサが答える。〈八九一四年、です〉
次の日、真由はその本を返却した。
喫茶幻燈白華、カウンターの本棚でじっと待っていた、自分の本とすり替えて。
そして土曜の夕方、彼女はもう一度じっと耳をそばだてて、オーナーと客の会話を盗み聞く。
「面白いじゃないか。やってみよう」
「そう言ってくれると思ってましたよ」
「タイトルはもう決まってる」
「ほんとですか?」
「ああ。しかし、こういう本はこれから増えてくるかもしれないな」
「えっ」
「この本、再生紙を使ってるだろう?」
「……あ」
「つまり、そういうことさ」
この日、真由の頭の中に『クジラノツノ』という言葉が、しっかりと刻印された。
彼女がその文字を喫茶幻燈白華の本棚に見出すのは、もう少し先のことであった。
第二話 完