第一話 矢を受ける少女
サイフォンという器具を、牧野結城はその日はじめて知った。
高校三年の秋、期末試験を一週間後に控えた彼は授業が終わった後、駅とは別の方向に十五分ほど歩いてこの店を見つけた。
「へぇ、こんなところにカフェがあったのか」
電車通学の結城が知らなかったのも無理はない。ここ『喫茶幻燈白華』は、地方都市の中心部から電車で三十分の、郊外の片田舎にある無人駅からさらに徒歩で二十分のところにある。もとは小さな神社だった敷地にオープンした現代風のカフェで、ブックカフェとギャラリーが一体になっている。ランチタイムのセットはなく、メニューはエスプレッソマシンで淹れるラテ系のアレンジコーヒーと、紅茶とケーキしかない。
日中は小さなセルフスタイルのカフェで、夕方になってオーナーがカウンターに現れると自家焙煎のブレンドコーヒーが楽しめる。ペーパーフィルターを使うドリップ式ではなく、フラスコを使うサイフォン式だ。こちらはもちろんフルサービスで、夜は静かなバーのような雰囲気になる。
結城の通う高校は駅から徒歩十分のところにあるが、学校から見て駅は西、この店は南にあるので、ここが学校帰りの高校生でにぎわうことはない。自転車通学の生徒が夏の暑さや梅雨の雨、冬の寒さをしのぐために時々立ち寄るくらいだ。
この日、ヒーターのスイッチが入ってカウンター上のサイフォンがオレンジ色に光ったとき、喫茶幻燈白華には結城のほかにもう一人高校生がいた。
カフェラテを買ってテーブル席に座った結城は、カウンター席の人影を見てぎょっとした。そこに座っていたのはクラスメイトの水谷綾名だった。
矢が……刺さってる?
結城の目には、彼女の背中に刺さった長い矢が見えていた。
思わず立ち上がった拍子に、結城のイスががたんと音を立てた。
「あ、牧野くん」
結城に気づいた綾名は、イヤフォンを耳から外した。
「水谷さん」
すでに矢は見えなくなっていて、結城はうろたえた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよぉ。日本史がヤバい」
「そっか。それなら、まぁ、いいけど」
「いいってどーゆーことよ?」
「いや、べつに」
「って、あれ? 牧野くんって電車通学じゃなかったっけ?」
「そうだけど」
「こんなとこで何してるの?」
「あー、帰るのだるくて、ちょっとお茶でもしようかと」
「ほぉ、ずいぶん余裕ですな。牧野くんって成績よかったっけ?」
「まさか」結城は思わず笑った。「現代文と英語以外はいつも赤点だよ」
「ちっ。使えないヤツめ」
「なんだそれ! 失礼すぎるだろ!」
綾名は笑ったが、結城は彼女がこんな風に話すところを見たことがなかった。結城はいつも男友達とつるんでいるし、綾名も仲のいい女子と静かに話をしていた。
けっこうハッキリしゃべるんだな……。
目立たないクラスメイトの意外な一面だった。
「わたしはテスト勉強で忙しいの! じゃ、またね」
笑顔でそう言い放つと、綾名はまたイヤフォンを耳に押し込んで問題集に向かった。
結城が何か言い返そうとした瞬間、綾名の背中に矢が突き刺さった。
「!?」
声も出せずに口をパクパクさせるうちに、矢は彼の目の前で煙のように消えてしまった。
結城は店内を見回してみたが、ほかに目撃者はいなかった。店の人はカウンターの中やキッチンの奥で、こちらに背を向けて何かをしていた。
どうすることもできず、しかし落ち着かないので彼は店内の本棚を物色することにした。
この店の壁の半分は本棚だった。半分というのは壁の下半分、つまり腰から下が本棚になっているという意味だ。
入り口のある、通りに面した東側の壁の上半分はガラス窓で、その下は本棚になっている。西側の壁の右半分は注文カウンターとカウンター席があり、左半分は天井まで本棚だ。残る北面と南面の壁は、上半分が白い壁で、絵が何枚か飾ってある。
結城は窓の下の単行本コーナーをしばらく眺めた後、入り口近くのマガジンラックからライフスタイル雑誌を選んだ。
コンビニでよく見かける、都市とシティボーイのためのファッション誌。カレーと読書の特集が謳われていて、オシャレなのかだらしないのかよくわからない男が、だるそうに本を開いてカレーを口に運んでいる写真が載っていた。東大の近くにカレー屋が多いことが説明されていて、カレーと勉強の相性がいいと強調されていた。
日が落ちて暗くなった店内の雰囲気は、カウンターでオレンジ色に光るサイフォンや、壁の絵を照らすライトの明かりで落ち着き払っていた。天井近くに設置されたスピーカーからはジャズが流れていた。
普段あまり体験しないムードのせいか、結城は自分がずいぶん真面目なことをしているような気分になった。カウンターには、相変わらず試験勉強に集中している綾名の姿があった。その背中に、例の矢は見えない。いつの間にか時間が過ぎていて、時計の針は午後八時に近づいていた。
そろそろ帰るか。
結城はそう思い、荷物を持って立ち上がった。綾名に何か言葉をかけようとカウンターに近づいたものの、どう声をかけていいかわからず、彼女の前に並んでいるサイフォンに目を向けた。
「げっ、もうこんな時間」
唐突に顔を上げた綾名がそう言うと、結城は「おう」とだけ答えた。
「うわっ。牧野くん、何してんの?」
「いや、これ、なんだろーと思ってさ」
「サイフォンのこと?」
「サイフォン?」
「コーヒーをいれる道具だよ」
「へぇ。どーゆー仕組みなの?」
「うちら理系なんだから、自分で考えてみたら? 見てるとおもしろいよ」
「見られるの?」
「ブレンドコーヒーを頼めばね」
「今度注文してみようかな」
「もしかして雨降りそう? 夜、雨予報だっけ?」
綾名は暗くなった外を振り返り、慌てて問題集やノートを片付け始めた。
外に出るとたしかに空は雲に覆われているようだった。
「午後八時、四十パーセント」と、結城はスマートフォンで調べた降水確率を読み上げた。「降るかもなぁ」
「あと十分、降りませんように!」
自転車のカゴに鞄を放り込みながら綾名がそう言うと、また矢が飛んできて背中に突き刺さった。
「牧野くんも駅までダッシュしたほうがいいよ。あたし送ってあげないから」
「はぁ?」
あっけにとられる結城に「じゃーねー」と手を振って、綾名はそのまま走り去った。
結城は帰りの電車の中で、あのカフェについて調べてみた。
数年前まであそこは神社だった。ボロボロの鳥居と小さな社があるだけの古い打ち捨てられた神社で、敷地を囲むように生い茂った木々のせいで昼でも鬱蒼とした暗い場所になっていたようだ。
社に安置されていたというのが木彫りの不動明王像なのだが、これにはちょっとした言い伝えがあった。関ヶ原の合戦でこの像を運ぶ役目をしていた武士がいた。その男は不動明王を背負って戦場を駆け抜け、無事お役目を果たした。その際、木像を下ろしてみると、不動明王の頭に矢が刺さっていたという。もしその像を背負っていなかったら、武士は矢を受けて死んでいただろうということだった。
翌朝、結城が教室に入ると綾名はすでに自分の机に座っていて、友達と英単語の問題を出し合っていた。
「おはよ」と結城は声をかけた。
「おはよう」
綾名の友達がちらっと意外な顔をして見せた。結城はそれっきり自分の机に座り、綾名も英単語に戻ったので友達は何も言わなかった。
第一話 完