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 夜になって、宮殿のほうから、「今回の神女選定においては、五人の『神女となるべき娘』が、水晶によって示された」という回答が返ってきた。

 返事はその一文のみで、それ以外は何も書かれていなかった、とのことだ。

 なんだそれは、と混乱が増すばかりのカイトに、周りからいろいろと情報を仕入れてきたキリクが、もう少し詳細を教えてくれた。

「水晶は時間を置いて一人ずつ、神女を示すだろう? 一人を示したら、数日してから次を、という具合に。神女の名前と居場所が判明すれば、すぐに迎えが差し向けられる。『ククル・デニ』という娘の存在は、四番目に示されて、少し()()()()があった後、僕らが神都を出発した」

「……うん」

 カイトは頷いてから、ちらっとクーを一瞥した。


 ──要するに水晶がクーを神女として示したその時、それが棄民だったということで、宮殿と神殿にかなりの衝撃が走ったのだ。

 まさかと否定する者、あり得ないと嫌悪する者、本当なのかと水晶を疑う者で、それぞれが侃々諤々の議論となり、大きな騒ぎとなったらしい。

 結局、「水晶に間違いなどない」というソブラ教皇の一言で、誰も表立っては反論が出来なくなったのだが、それで事がすべて収束したかといえば、そういうわけでもなかった。

 今度は、神殿の衛士たちが、「棄民の娘を迎えにあの薄汚れた街に行くなんて御免だ」と、その役を負うことを誰もかれもが拒絶したのである。

 神女を見つけ出し連れてきた衛士は、そのままその神女に仕え、常に近くに侍って身辺を守ることになる。だから通常、大層な誉れとして志願する人間が後を絶たないものだ。しかしその時ばかりは、まったくなり手がおらず、従って神女を迎えに行けない、という由々しき事態となった。

 結果として、それまでまったく神殿とは縁のなかったカイト、そして自らその役目に志願したというキリクが、棄民の街へと赴くことになったのだが……


「四人の神女が出たのだから、それでもう終わりだ、と誰もが思っていた。けれど、僕らが神都を出たすぐ後くらいに、水晶はさらにもう一人、神女を示した」

「なんだそりゃ……」

 カイトは唖然とした。

 ただでさえ、宮殿・神殿内で、「棄民の娘が神女なんて」と疑う空気が充満していたところに、「新たな神女の存在が示された」などということになったら、どうなるか。


 ──やっぱりあれは間違いだった、という結論になるのは、火を見るよりも明らかだ。


 カイトたちが神都を出る時に渋い表情をしていた他の衛士や神殿関係者たちの、「それみたことか」というしたり顔が頭に浮かんで、眩暈がしそうになった。

「クー以外の神女はすべて神民だ。みんな神都内にいるわけだから、居所が判れば、あっという間に神殿に連れてこられる。僕らがあの街に行ってクーを見つけ、ここに到着するまでの間に、他の四人はすでに神殿内にすっかり収まっていた、という次第さ」

 クーのような特殊な事例は別として、普通は神女に選ばれたとなったら、大喜びですぐさま承諾する。なにしろ、教皇なみに「特別な存在」になれるのだから。

 選ばれた娘たちは、我先にと神殿に駆けつけただろう。


「早い者勝ちってことかよ……」

 カイトは苦々しい声でそう言って、長い息を吐き出した。先着順で神女の座が埋まるなんて、そんなバカバカしい話があるものか。


「で、結局、どういうことになるの?」

 椅子に腰かけてテーブルに頬杖を突いたクーが、何度も目を瞬きながら問いかけた。食事を腹に収めたら眠くなってきたのか、さっきから欠伸を連発している。ここまでずっと馬に乗りづめで、心身ともにかなり疲れているのだろうから、無理もない。

 早く休ませてやりたいが、この部屋にはベッドもなかった。

「まあ、今は様子を見るよりしょうがないようだね。宮殿だってあんな素っ気ない返事しか寄越さないのは、それ以上答えようがないからさ。水晶が示したのは間違いのないことなんだから、五人の娘が集められたというのも、何か意味があることなのかもしれない。どちらにしろ、いつかははっきりするだろう。それまでは五人とも、『神女候補』という形になりそうだね」

「神女候補……」

 カイトは呟いた。



 集められた娘たちは、いずれ女神の力を受け取ることで、正式な神女となる。

 誰が「何人目の神女」かということも、力を得てからはじめて判る。

 ……その時、何もかもがはっきりとするのだろうか。



「じゃ、すぐにここを追い出されるようなことにはならないんだ」

 クーはほっとしたように言った。おそらく、母親のことを考えているのだろう。

「もちろん。ただ、クーには悪いけど、当分の間はこの部屋で我慢してもらうことになりそうだね。なにしろ神女用の部屋は四つとも、もう各々の荷物も運びこまれてしまっているらしくて、今さら明け渡してもらうことは出来そうにないんだ。ここは狭いけど、必要なものはなるべく早急に揃えさせるから」

「いいよ、ここで十分。オレにはもったいないくらいさ」

 クーの言葉は、別に気遣いでも謙遜でもなく、本気で出されているものらしかった。ベッドもクローゼットも鏡もないこの部屋でも、不満そうな様子も見せない。

 それを見たら、かえって胸がずきずきと痛んだ。

「……すまない、クー」

「なんでカイトが謝るんだよ」

 眠そうな目をこすりながら、クーがちょっと笑った。




 とにかく、クーを床に寝させるわけにはいかない。とりあえずベッドを運び込んだが、その時点ですっかり夜が更けてしまっていたので、カイトとキリクは神殿近くにある衛士舎に引き上げることになった。

「明日の朝、また来るから」

「うん」

「扉と窓にきっちり鍵をかけるんだぞ」

「うん」

「枕元に棒を置いておくといい」

「うん」

「何かあったら、外に聞こえるくらいの大声を出せ」

「うん」

「夜は冷えるから、ちゃんと毛布を被って寝ろよ」

「……うん」

「あ、夜中に用を足しに行きたくなったらな」

「オレは子供か!」

 こまごまとした注意事項は他にもまだたくさんあったのだが、眉を吊り上げたクーに途中で遮られて、部屋を追い出された。

 大丈夫かね、と心配そうに呟くカイトの後ろでは、キリクが俯いて小刻みに肩を揺らしていた。



          ***



 戻ったからには、カイトもキリクも衛士の制服に身を包み、衛士舎で寝泊まりして、規律に則った行動をしなければならない。

 課せられている朝の訓練を終えてから急いで神殿に向かうと、クーはもう起きて、身支度も整えていた。

 慣れない場所だというのに、よく眠れたのか、昨日よりもずっとすっきりした顔をしている。大分、疲労も取れたらしい。図太くてなによりだ、とカイトはうんうんと頷いた。

 聞けば、ちゃんと朝食も出されたという。下手をしたら食事も用意されず放置されるのではないかと不安だったのだが、さすがにそこまでのことはなかったようで、安心した。


「本当は、神女には、身の回りの世話をする女官が付くんだけどな」


 女官はそれこそ神女に付きっきりで、洗顔から食事、着替えに湯浴みに化粧と、すべてにおいて細かな面倒を見る。女官を選ぶのは神女の裁量に任されているので、場合によっては四人や五人の女官に囲まれていることもある、らしい。

 しかし女官というのは、神女よりも身分の低い神民がなるのが普通だ。神女が第二位の神民なら第三位以下の者、第八位神民の神女なら第九位以下の者、というように。

 その点、棄民のクーには、それより下の身分に該当する人間が、この神都にはいない。そして同じ棄民を神殿に入れることが許可されるとも思えない。

 よって、クーには今のところ、これといった世話係がいない。

 棄民の娘に仕えられるか、と揃ってそっぽを向いた気位ばかり高い神民の衛士たちのことを考えると、この先もかなり絶望的だ。


「そんなの、いらないよ。食べるのも着替えるのも、ぜんぶ一人で出来る。自分で自分の面倒を見るのは当たり前のことだ」

 クーの返事はあっさりしたものだった。少し安堵し、少し拍子抜けし、少し申し訳なくなりながら、うん……と曖昧な返事をした。

「悪いな」

「だから、なんでおまえが謝るんだよ」

「代わりに、着替えでも湯浴みでも、俺が全力で手伝ってやるから」

 冗談で言ったのに、クーに思いきり足を蹴られた。

「いてて……じゃ、行くか」

 蹴られたところをさすりながら、さっき自分が入ってきた扉へと目を向ける。クーは首を傾げた。

「行くって?」

「たぶん、近いうちに神女……候補たちの顔合わせがあって、今後のことについての話もされるんだろうけど、通達もない今のところは何もすることがないんだよ。かといって、ふらふらと神殿の外に出るのも難しいようだし。だからせめて、この神殿の中を案内してやろうと思って」

 実を言えばカイトだってそう詳しいわけではないのだが、衛士に任じられた時に一通りの説明くらいはされているので、そんなに見当違いのことを教えることにはならずに済みそうだ。

 神殿は広いし、立ち入り禁止区域などもあるので、そのあたりもちゃんと言っておかなければならない。

 特に危険があるとは思えないが、腰の剣の鞘をぎゅっと握った。



          ***



 最初に向かったのは、神殿の中央にある大広間だ。

 ここがこの神殿における中心で、最たる要でもある。神殿を神殿たらしめている場所、と言ってもいい。

 そこには、神都一巨大な、女神リリアナの石像が祀られているからだ。

 繊細な彫刻が施された円柱がぐるりと囲むようにして立っている、円形の広間。ここは他よりも一段高く作られており、正面に女神リリアナの像があるだけで、他には何もない。

 天井には色とりどりのガラスが組まれた窓が嵌め込まれ、上から降り注ぐ陽の光がそのまま鮮やかなガラスを通して下に降り注ぎ、滑らかな乳白色の石の床に彩り豊かな模様を浮かび上がらせている。

 この広間は、神殿内で最も空気が清浄だ。しんとした無音のような静寂が、空間を透き通らせ、余計にこの場所の近寄りがたい神聖さを際立たせる役目を果たしているようだった。



「──オレ、前から思ってたんだけど、どうして女神リリアナの像は、半身しかないんだろう?」

 圧倒されるほどの荘厳な雰囲気に、さすがに声を出すのも憚られるのか、クーが囁くように言った。



 正面にある女神リリアナ像は、壁から身体の前半分だけを出したようにして作られている。

 あちら側にある神の世界から、女神が壁を抜けて、今にも人の世界へと現れようとしている途中、という感じだ。

 こちらに向かって優しく差し伸べるような腕、そして一歩を踏み出すように前へと出された片足は全部見えるが、もう片方の足と後頭部、背中は壁に埋もれて見えない。というより、存在しない。非常に例えは悪いが、首から先だけが突き出された、動物の剥製のようなものだ。

 神殿だけが特殊なのではなく、この国の女神像はすべてこの形になっている。

 女神リリアナが人間に見せるのは、常に前面のみなのだ。


「慈愛深き女神リリアナは、決して人に背中を向けない、ということらしいな。人々に向かって手を差し伸べ、足は前へと進むだけ。女神の後ろ姿を見る者はない。よって後面は不要だと言われている」


「……ふうん」

 カイトの解説を聞いても、クーはさほど感銘を受けた様子はなかった。醒めた目で、自分の数倍はあろうかという高さにある、女神の白い面を見上げている。

「棄民の街でも、女神像をありがたそうに家に置いているやつはいたよ。もちろん、掌に載せられるくらいの、小さなものだけどね。四角い板から前半分だけ飛び出したような女神像に対して、いつも熱心に祈りを捧げていた」

「──そうか」

 カイトは短い返事をしたが、その声も聞こえないかのように、クーの目は揺らぎもしないで女神の顔を見据えていた。


「神の加護もない棄民が、そんなことをして何になるんだって、オレは思ってた。捨てられても、見放されても、それでもその捨てたやつに対して、祈って、縋って、救いを求めずにはいられないのか。……だとしたら人間ってのは、なんて弱い生き物なんだろうって」


「…………」

 カイトが何も言えずにいると、クーも黙った。ただじっと女神像を見上げる横顔は、上からの明るい色合いの光に照らされて、何を考えているのかまったく読めない。

 しばらくの気詰まりな沈黙を置いて、ふいにクーがこちらを向いた。


 その顔に乗っている表情が、いつもと変わりないものに戻っていることに、わずかに息を吐く。


「そういや、今日、キリクは?」

 カイトも全身から力を抜き、普段の顔で何気ない声を出すよう努力した。

「ああ、今は宮殿に行ってる。知り合いに話しかけて、あれこれ探りを入れてみるってよ。それから、このままじゃあんまりだから、部屋の調度を整える談判をしてくるそうだ」

 そういう交渉事に、キリクほどうってつけの人材はいない。あの柔らかな微笑で会話を交わしているだけで、どういうわけか最終的に相手はキリクの要求をほとんど呑むことになっているのだ。

「へえ、宮殿か……。カイトは行かないの?」

「俺は半民だからな、宮殿になんてそうそう足を踏み入れることは出来ない。今、神殿にいるのだって、相当な異常事態なんだぞ」

「半民ってなに?」

 きょとんとしたその顔を見て、ん? と自分も首を傾げた。少しして、「ああ」と思い出したように声を上げる。

 そういえばまだ、クーには話していなかったか。

 いや、そもそもクーは、「半民」というものを知らないのか。


「半民ってのは、その名の通り、半分神民、半分棄民、ってことだよ。俺の場合は、父親が神民で、母親が棄民」


 その説明に、クーは目を見開いた。

「え、でも、神民と棄民は……」

「結婚は出来ない。うん。けど、結婚はしなくたって、子供を作ることは出来るだろ?」

 にやりと笑いながらカイトがそう言うと、今度は口を曲げた。

「神都の中にも棄民は大勢いる、っていうのは知ってるよな? まあ……過酷な労働条件で、神民に雇われていることが大半だ。普段はそういう棄民たちをそこらの石程度にしか思わない神民でも、たまに、彼ら彼女らが異性に見えることもあるらしい」

 よくある話だ。大概の場合は、適当に嬲られて、そのまま放っておかれる。棄民の女は性欲処理の道具に過ぎない、終わってから殺してもいい、と堂々と言い放つ神民までがいるくらいだ。

 どうせ棄民に何をしたって、本人が罪に問われることは決してない。


 ……しかしカイトの母親の場合は、それとは少し違った。



          ***



 カイトの母親は、神民の邸で下働きをしていた。

 親を早くに亡くし、天涯孤独だった彼女は、毎日の重労働に追われながら、なんとか一人での生活を成り立たせていたようだ。

 苦境の中にあっても、陽気で闊達でおしゃべり好きで、前向きな性格だったらしい。


 そして、大変に美しい人だった、らしい。


 その美しさが仇となり、一人の神民が彼女に懸想した。神都にいたからには、遅かれ早かれ、そういうことにはなっていたのかもしれない。

 しかしその男は、他の神民のように、軽く手を出して捨てる、ということはしなかった。


 母親を攫うようにして自分の邸へと連れて行き、その中に閉じ込めたのだ。


 それを愛情と呼ぶのかは、カイトには判断できない。しかし、根深い妄執じみたものがあったのは確かだ。男は誰からも見られないように邸の奥深くに彼女を隠し、そこから出ることを絶対に許さなかった。

 やがて母親は身ごもり、カイトを産んだ。この時点で、彼女の神経は相当消耗していたのだろうと思われる。

 以前はよく笑う人だったらしいが、幼かったカイトの記憶に刻み込まれているのは、部屋の中でひたすら泣いていた姿ばかりだ。

 無理もない。籠の鳥のように閉じ込められて、外にも出られず、部屋にやって来ては自分を組み敷く男に怯えるだけの日々。たとえばそこに情というものがあったとしても、とても耐えられるものではなかっただろう。

 それでも母親は、その状況で、なんとか七年くらいは保った。

 よく頑張ったと思う。それだけでも、彼女は強かったと胸を張っていい。


 母親にとって、ほんの少しでも、ほんの一瞬でも、幸福な時があったのなら、よかったのだが。

 ──今となっては、もう何も、知り得ない。



          ***



 クーの表情は強張っていた。余計なことを言ってしまったか、とカイトは今になって後悔した。

「……それで、カイトのお母さんは?」

「死んだ。最後には、自分で自分の首を切って」

 なるべくさらりとした口調で答えたつもりだが、クーの目線は床に向かった。

 視線の先の床では、ここにいる人間たちが交わしている会話にはまったく似つかわしくない、明るい色が踊っている。

 輝くように眩しく、幻想的なまでに華やかな色彩。

 人の幸不幸にはまったく関係なく、世界は廻っているんだなと思うのは、こんな時だ。


「神民と棄民の間に生まれた子供は、棄民の街に放り出されることが多いんだけど、俺の父親はそうしなかった。どういう理由かは、未だによく判らないんだけどな。邸からは追い出されたけど、小さな家を与えられて、世話をする年寄りの婆さんだけをつけられて、なんとか食っていける程度の生活費ももらえた。……それから、神民籍も」


 おかげで、最下位の神民といえど、カイトは親がいなくともなんとか神都内で生きていくことが出来た。教育も受けられたし、剣術を身につけて、それを仕事にすることも出来た。その点については感謝してもいいかもしれない。

 第十位神民というのは、大体において、そういう「訳あり物件」ばかりだ。だから神民でありながら、同じ神民に疎まれ、見下される。自分と似たような境遇で、どんどん身を落としていく人間の姿は腐るほど見てきたから、カイトが今この場にこうしているのは、僥倖に近い。


「母親は、まだ子供の俺を一人で残していくのが不憫だと思ったんだろうな。自分が死ぬ前に、俺を殺そうとしたんだ。……結果的に、失敗したけど」


 クーがはっとしたように顔を上げる。

 何を思い出しているのかはもちろんカイトにも判るから、続きを出すべきかどうか迷ったが、結局、口を開いた。

「あのさ、クー。……こんなこと、言ってもいいかどうか、わかんねえんだけど」

 クーのほうにまっすぐ向き直る。


「あの時、おまえは、母親を手にかけることはしなかったと思うよ」


「…………」

 クーは何も言わず、目を伏せた。

「おまえは首に手を置いていただけで、そこにまったく力は入っていなかった。殺気もなかった。あの場の空気には、針で引っ掻くほどの乱れもなかった。だからおまえの母さんも、安心しきって眠っていられたんだと思う。ああいう時の、ピリピリと肌に突き刺すような緊迫感とか切迫感とかを、俺は直に感じた経験があるから、判るんだ。……だからさ、あの時のことについて、あんまり自分で自分を責めるなよ」


 あの時のクーは、結局のところ、母親を殺すことは出来なかっただろう。

 ただ、自分自身を殺してしまっていた可能性は大いにあった。

 それを止められただけでもよかった、とカイトは思っている。


 クーはゆっくりと顔を上げて、カイトの顔を見た。

「……カイトは、自分を殺そうとしたお母さんのこと、恨んでる?」

「いや、ぜんぜん」

 その言い方はあっさりしすぎていて、かえってクーの疑念を買ってしまったらしい。彼女の口の端にぐっと力が入ったことに気がついて、カイトは苦笑した。

「本当だって。むしろ、悪いことをしたなあって思ってる。それだけ母親が追い詰められていたのに、俺は何も出来なかったからな。助けてやることも、守ってやることもさ。一緒に死んでやれればよかったのかもしれないけど、生存本能だけは自分でもどうしようもなくってなあ。その頃から俺は丈夫なガキだったから」

 母親は死の手段として、ナイフを選んだ。

 凶器になりそうなものを父親は十分気をつけて遠ざけていたはずだが、それこそ人間のやることなのだから、どこかしら遺漏というのはあるものだ。なにしろ、時間だけはたっぷりあった。

 今も、カイトの腹部には、母親に刺された時の傷が残っている。

 ……心臓を一突きするか、自分と同じように頸動脈を切れば、ちゃんと殺せたかもしれなかったのに。


 錯乱していたのか。それとも。


「父親のことも、特になんとも思っていない」

 今までに数えるくらいしか顔を見たことのない父親だが、特に怒りも憎しみも湧かない。今さらどうしたところで、失われたものは戻ってこないのだし。

 そこにはただ、母親が死んで、自分が生き残った、という事実があるだけだ。



 きっと、カイトの心は、母親に刺され、真っ赤な血に染まった彼女の亡骸を目にした時に、半分死んでしまったのだろう。

 半分棄民で、半分神民のカイトは、半分生きて、半分死んでいる。

 こんな中途半端な自分が、巡り巡って、本来ならあり得るはずのない「神女を守る存在」になるとは、思ってもいなかった。

 ──そこには果たして、何かの意味があるのか。



 女神リリアナの半身像は、何も言わずにただ微笑んでいる。






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