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カイトとキリクが、ククル……いや、「クー」と彼女の母親を連れて、棄民の街から神都へと向かい、そこにある病院に母親を預けて諸々の手続きを完了させるまでに、五日ほどかかった。
「──ようやく話がまとまったよ。今は病室に入って、クーと母親の二人で医師の説明を受けている」
やれやれという様子で歩いてきたキリクに頷いてから、カイトは廊下の窓から、下にある中庭を見下ろした。
神都の建物は、棄民の街のそれに比べて、はるかに大きく、美しく整えられたものばかりだ。通常は神民しか入れない病院ももちろん、例外ではない。
外観も立派だが、今自分たちが立っている院内の廊下も、どこもかしこも清潔に保たれて、塵ひとつ落ちていなかった。
消毒薬の匂いが漂い、床も壁も艶々と輝き、窓ガラスでさえ外の青い空がくっきりと見えるほどピカピカに磨かれている。
敷地が広いから、建物の外に出れば、植え込みや色とりどりの花がきちんと配置された庭がある。そこをのんびりと散歩する患者たちは、本当にこれで病人なのかと思うほど、余裕のある表情を浮かべた者ばかりだ。
いや実際、命に関わるような重病を患った病人など、ここにはあまりいないかもしれない。神都では、家に医師を呼びつけて、手厚い看護を受けることが十分可能な人間のほうが多いからだ。
──棄民の街とは、あまりにも違う。
内心に込み上げてきた苦く重い感情に無理やり蓋をして、カイトはキリクのほうに顔を向け、笑いかけた。
「ありがとうな、キリク。いろいろと面倒な手続きが多かっただろ。お前一人にほとんど押しつけて、悪かった」
なにしろ、神都の病院に棄民を入れるなんて、ここでの常識に照らし合わせれば、まったくもってあり得ない、横紙破りの違法行為だ。
いくら上からの了承を得たといっても、医師を含め、病院の関係者は誰一人いい顔をしなかっただろう。どころかおそらく、はっきりと拒絶されただろう。それを押し切って、最終的には病院内のかなりいい部屋に母親を入れ、適切な治療と十分な配慮を確約させたというのだから、並々ならぬ努力を要したはず。
こういう時、カイトはまったく何の役にも立たない。むしろ、自分のような「半民」が介入すると、事はこじれるばかりだ。そう思うからこそ、何もせず何も言わずに大人しくしているしかなかったのだが、正直、ただ待っているだけなのは、もどかしくて仕方なかった。
「これからのことを一緒に考えるなんて、クーに偉そうなこと言っといて、俺はまったく何もしてやれてねえよなあ……」
ぼそりと呟いて口元の笑みを消し、また窓の外へ視線を移す。
神女の件については一言も言わず、ただ、神都で新しい仕事を紹介してもらえるから、という口実で、母親を説得したのはクー。
「カイトとキリクの口添えで、これまでよりもずっといい給金がもらえるんだって」
とこちらに話が振られた時、思わずまごついてしまったカイトに代わり、さっさとそれらしい説明を付け加えクーの話に真実味を与える役目を果たしたのは、キリク。
今も病室の中で、不安がったり心細がったりする母親を慰め、「大丈夫、何も心配しなくていいんだよ」と一生懸命言い聞かせているのはクーだ。
結局、カイト自身は何もしていない。
「ずいぶん弱気だね、カイト。今のところすべて順調に進んでいるのに、そんな風に落ち込む必要はないと思うけど」
キリクはそう言って、少し面白がるように目を眇めた。
「それは、罪悪感かな?」
「…………」
苦い表情になって、カイトは口を噤む。自分の考えなど、キリクにはお見通しらしい。
窓ガラスには、情けなく眉を下げた男の顔が映っていた。
「これで、よかったのかね」
「これで、というと?」
「だから……」
言い淀んでから、ちらりと廊下の先に目をやる。クーの姿はまだ見えない。
「──俺たちは、あの母親を人質にして、クーを神都に連れてきたようなもんじゃないか」
ぼそぼそと低い声で言うと、キリクの唇の端がわずかに上がった。
その顔を見たら、そこから出てくる言葉が正確に予想出来て、早くもげんなりする。言わなきゃよかったとすぐに後悔するくせに、どうして自分はいちいち、余計なことを口にしてしまうのだろう。
「もちろん、そうだよ」
躊躇なく返ってきた言葉に、やっぱりな、と肩を落とす。
「僕らはあの母親を人質に、クーを棄民の街から連れ出して、これから神殿に連れていくのさ。本人が、『なるつもりはない』と断言していた神女になってもらうためにね」
「…………」
磨き込まれた床に目線を落とし、カイトは口を曲げた。
──「自分が見たいものしか見ない」、あの母親。
それでもクーは彼女を愛しているし、この上なく大事にもしている。
その気持ちを利用し、クーが断れない条件を出したのは自分たちだ。
「母親を神都の病院という檻の中に入れたのも、クーが逃げられないように囲い込むためさ」
キリクは淡々とした口調で続けた。
「だけど君も、わかっているよね。一度水晶に選ばれたからには、教皇はどんなことがあっても、何があっても、神女になる娘を諦めることはない。たとえ本人にその気はなくとも、僕らが彼女を見逃してやっても、いずれにしろクーは神殿に囚われることになるんだ」
「……うん」
それはカイトにも判っている。
自分自身の個人的な心情などには関係なく、クーはもう、神女として選ばれてしまったのだ。カイトとキリクが手ぶらで神都に戻ったとしても、今度はまた別の手段で、クーは必ず捕まっていただろう。
その時に、棄民のクーと母親の元を新たに訪れる人間が、彼女らの気持ちを尊重する可能性は、限りなく低い。
しかし、だからといって。
……これでよかったんだと自分を納得させてしまうのも、おそらく、間違っている。
「そもそもこの条件を考えて口にしたのは僕だ、カイトはそれについて何も気にしなくていい。君はあの時、クーのところに戻ると言い張っただけ。そして結果として、二人分の命を救った。君にしては、それだけで上出来ってものじゃないか」
「……おまえの言葉は、時々、とんでもない皮肉に聞こえるな」
「やっと皮肉だと気づいてもらえて、僕も嬉しいよ」
いかにも優しそうな笑顔のまま、性格の悪いことを言う。その顔を見ていたらちょっとバカバカしくなってきて、カイトは小さく噴き出した。キリクを相手に、口で勝てるとはもとより考えてもいない。
「──悪い、キリク。要するに、自分の無力さに嫌気が差した俺の、ただの愚痴だ。こんなことをわざわざ言葉にすべきじゃなかった。俺はいつまで経っても、ガキの部分が抜けねえんだ」
苦笑いを浮かべてそう言うと、キリクは微笑んで頷いた。
「それがカイトのいいところさ」
「それも皮肉か」
「いや、これはまごうことなき本心だよ」
どこまで本気で言っているのか怪しいが、キリクはぽんとカイトの肩を叩いた。
「……あの逼迫した状況で、一人追い詰められて石のようになっていたクーの心を動かしたのは、間違いなく君の言葉だよ、カイト。あの子を助けたいと思うなら、これからちゃんと傍にいて、守ってあげるといい。それは君にしか、出来ないことだから」
どこか意味ありげに出されたその台詞に、カイトは「なんだよ、キリク」と少し笑った。
「俺一人に仕事を押しつける気か? これから神女の護衛をすることになるのは、俺だけじゃなく、おまえもだろ」
「──そうだね」
キリクは目を細め、微笑した。
***
病院を出たら、もう陽が落ちかけていた。
カイトとキリクとクーの三人は、今度こそ、クリスタルパレスに向かうため、二頭の馬で道を進んでいった。
神都の通りは広々として、どこも見栄え良く舗装されており、両側には構えを大きくとった住居や店が、ゆったりとした間隔で並んでいる。
神都の町並みははじめて見るのだろうに、クーはまったく興味なさそうに、カイトが手綱を取る馬の前部分に乗って小柄な体を揺らしていた。通りを歩く着飾った神民たちにも、目を向けようとしない。
きっとその頭の中は、病院に置いてきた母親のことで占められているに違いない。
クーにとっては本当に、神都も神女も、どうでもいいことなのだと痛感させられる。何か重いものを払い落としたように、そして何か大事なものが零れ落ちたように、虚脱した細い背中が痛々しかった。
「……待たせて悪かった。オレが出て行こうとすると、母さんが寂しがるもんだから」
と、こちらを振り返りもせず、ぶっきらぼうな口調で言う。
こちらに顔を向けないのは、自分こそが不安そうで寂しそうな目をしているのを、見せたくないからなのだろう。
そうやって、こちらに気遣わせる隙も与えようとはしない。
意地っ張りめ、とカイトは内心で呟いた。
「だけど、十日に一回は会っていい、っていう話をつけてくれて、助かったよ。何回もそれを話したら、母さんもようやく落ち着いてさ」
「あ、そうなのか」
それはカイトも初耳だ。
「よかったな、十日に一回面会できるなら、母親だけじゃなく、おまえも安心だろ。通常、神女がクリスタルパレスの外に出るのはあまり良しとされていないんだが、そんな話まで承諾させるなんて、さすがキリクだな」
ほっとして、感心するように言ったら、クーが訝しげな目つきになって、こちらを振り向いた。
「キリク?」
「そうだよ、この件についての手続きはぜんぶ、キリクがやったからな」
クーは不思議そうに、ぱちりと瞬きした。
「そういう、こまごまとした仕事こそ、従者のカイトがするべきなんじゃないの?」
「は……?」
カイトがぽかんとした間抜け面をするのと、隣を歩く馬の上のキリクが噴き出すのが同時だった。
「待て、おまえ今、なんて言った」
「主人のキリクにやらせないで、従者のカイトが働けよ、って」
あっさりとした返事に、本気で仰天した。
「従者?! 俺が、キリクの?!」
「え、違うのか」
「もしかしておまえ、ずーっとそんな目で俺のこと見てたわけ?!」
「そういう目でしか見てなかった」
「そういう目ってどういう目だよ!」
「いかにも下っ端だ、っていう目」
「おまえなあ!」
恬淡とした態度で、まったく悪びれることもなく返してくるクーに、憤然として叫ぶ。そういえば、いろいろあって忘れていたが、こいつも大概性格が悪く、口も悪いんだった、と思い出した。
「言っておくが、俺とキリクは同僚! 仕事仲間! 主従関係なんてない! 齢も同じ二十二歳!」
「年齢はあまり関係ないと思うけど」
馬を並べて歩かせながら、キリクが笑って割り入った。
クーのほうに顔を向け、補足する。
「あのねクー、僕とカイトは、同じ衛士なんだよ」
クーはまた目を瞬いた。
「衛士?」
「クリスタルパレス内、特に神殿の警備、護衛の任を担う者を、『衛士』と呼称する。僕とカイトはもとはそれとは異なる役職に就いていたんだけど、この度、神女選定に伴って、衛士としての役目を与えられ、神殿勤めをすることになったんだ」
「ふーん」
説明を聞いてもよく判らないようで、クーは曖昧な返事をして首を傾げただけだった。
「他人事みたいな顔をしているが、要するに俺たちは今後、おまえの専属護衛になるってことだよ」
「護衛?」
「兼、側仕えってところだね」
「側仕え……」
クーはますます首を傾げてしまった。護衛や側仕えという名称が、相当ピンと来ないらしい。
「ま、おいおい判ってくるさ」
カイトは小さく息を吐いて、それ以上言うのを諦めた。
神都、そしてクリスタルパレスの複雑さや面倒さは、おいそれと説明できるものじゃない。実際にそこに足を踏み入れて、見て、聞いて、経験してもらうのがいちばんだ。
そう思ってから、少し暗澹とした気分になった。
これからあの場所で、クーが浴びることになるであろう、好奇の目や、決して友好的ではない言葉などが容易に察せられて、どうにも気が滅入ってくる。
──半民である自分に対してすら冷たい連中が、ましてや棄民のクーに、一体どういう態度で接するのだろう。
今でさえ、クーの心はたくさんの傷を負っている状態だというのに。
ため息をつきかけて、ぐっと呑み込む。
いや、だからこそ、自分が踏ん張らないでどうする。いずれにしろクーを神都まで連れてきたのは、カイト自身なのだ。
何があっても、守ってやらないと。
「とはいえ……」
ひとりごちて、自分の前に座る小柄な後ろ姿を、上から下までじろじろと検分するように眺めた。とはいえやっぱり、余計な揉め事を回避するために、直せるところは今のうちに直してやったほうがいいのではないか、と考えたためだ。
「なあ、もっとちゃんとした服に替えないか?」
現在、クーが着ているのは、神都でカイトとキリクが買った新しいものである。そういう意味では、まあ、「ちゃんと」はしている。しかしその服は、自分たちと同じような形の上着とズボン、つまり男物なのだった。
クーはわりと凛とした顔立ちをしているし、これまでの事情から言動も仕種も男そのものなので、こういう格好をしていると、キリクのように鋭い人間は別として、きっと十人が十人、クーを少年だと判断する。
……神女の選定については、正式に発表がなされるまで極秘、ということになっているのだが。
今、馬から降りて、これが神女だと大声で宣伝しても、たぶん、誰にも信じてもらえない。
「やだね」
カイトの提案を、クーはにべもなく振り捨てた。
「ドレスとまではいかなくても……」
「やだね」
「でもおまえ、神殿に行ってもそれじゃあ」
「オレは神殿に行くとは言ったけど、なんでも言うことを聞くとは言ってない」
「じゃあ、その言葉遣い。せめて一人称、『オレ』じゃなくて、『わたくし』にしとけ」
「絶対いやだ。おまえが言え」
「あなたが言ってください、な」
「オレは死んでも自分のことをそんな風に呼ばない」
「わたくしは、自分のことをそのように呼びません」
「うるせえな」
「うるさいでございます」
「いやカイト、それも間違ってるから」
不毛な言い争いを続ける二人に我慢できなくなったらしく、キリクが声を立てて笑い出した。
眉を上げてむっとしているクーを見て、目元を和らげる。
「そう怒らないでくれないか、クー。表現方法に問題はあるけど、カイトはこれでも君のことを、心の底から心配してるんだ」
「…………」
優しく言い聞かせるように声をかけられて、クーは口を閉じて黙り込んだ。
それを見て、ふうん、とカイトは胸のうちで思う。自分にはあれだけなんでも遠慮なくぽんぽんと言葉を投げつけてくるクーが。
……キリク相手には、何も言い返さないのか。
自分も口を噤むと、微妙な沈黙が流れた。なんだか少し居心地が悪くなり、次の言葉を探して身じろぎする。ふと前に目をやると、クーの背中ももじもじと動いていた。
「ほら、クー、あれがクリスタルパレスだよ」
キリクの声に、救われたような気分で顔を上げた。
彼が指で示している方向、道の先の高台には、赤い光を帯びて威容を誇る、ひときわ大きく美しい建物の群れがある。
「どれ? どの建物がクリスタルパレス?」
夕日が眩しいのか、クーが目を眇めるようにして見上げながら、問いかけた。
カイトとキリクは互いの顔を見合わせる。そうか、棄民の街に住んでいたクーは、そんな基本的なことも知らないのかと、今さらながら思い知らされる気分だった。
あそこにある美麗な建物も、今自分たちが立っている道も、ここに住む人々の暮らしも、そのすべてが、クーのような棄民たちの働きによって支えられ、成り立っているというのに。
「……クー、クリスタルパレスっていうのは、ここから見えるあの『場所』のことを指すんだ。建物のどれかひとつ、ではなく、あそこにある複数の巨大な建物群、ソブラ教皇のいる宮殿、そして君がこれから向かう神殿、それらをまとめてクリスタルパレスと呼ぶ。──クリスタルパレスというのは、それ自体が、ひとつの街なんだよ」
クーが目を瞠った。言葉も出さずに、馬上から、じっとそちらへ視線を据えつける。
カイトも同じほうに目をやり、続けて口を開いた。
「クリスタルパレスには、第三位以上の神民が暮らしている。第四位より下の神民は、クリスタルパレスの外に居住することと決められているんだ」
「第三位?」
「あ、そうか、それも知らないのか……。神民には、位階ってのがあってさ、第一位から第十位まで、きっちりと区分けされている。数字が少ないほど身分が高い、ってこと。キリクは第三位神民だから、クリスタルパレス内に自身の住居がある」
「カイトは?」
「俺は、第十位」
神民における、最下層。本来なら、神殿の衛士どころか、クリスタルパレス内に立ち入ることも許されない身分だ。
「へー」
クーの返事は、ものすごくどうでもよさそうだった。
「でも別にそんなの、棄民のオレからしたら、どっちだって大差ないよ。第一位でも第十位でも、雲の上の連中であることには変わりない」
それを聞いて、カイトとキリクがぶっと勢いよく噴き出した。むっつりした顔でクーが振り返る。
「なんだよ?」
キリクがくすくす笑って軽く手を振った。
「いや……あのねクー、ソブラ教皇に、位階はないんだ。あの方は『神の代理』とされているから、人の世界の身分には縛られない。それだけ超越した立場、ということさ」
「それが何?」
ますます機嫌が悪そうな顔になったクーに、カイトがにやりとして、その耳に自分の口を寄せる。
「女神リリアナの力を受け取る神女たちも同じで、位階はない。──クー、おまえはさ、俺よりもキリクよりも、この神都にいる誰よりも、身分が高い存在になるんだぜ」
言いながら、自分の気持ちを宥めるようにして考えた。
そう、クーはこれから、四人の神女のうちの一人としてあの場所に向かうのだから。
いくら棄民でも、クリスタルパレス内では、ちゃんとした扱いを受ける……はず。
なにしろ水晶が選んだのだ。内心はどうあれ、表面的には、誰もその決定に異論を唱えることは出来ない。半民の自分とは違う。
衣食住も、最高水準のものを与えられる。
もうこれ以上、この女の子がつらい思いをすることにはならない、きっと。
そう思うのに、どうしてこんなにも、胸がざわついているんだろう?