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「おかえりなさい、ユウル!」
扉を開けると、母親が食卓の椅子から跳ねるようにして立ち上がり、満面の笑みを浮かべた。
「ただいま、母さん」
微笑して、優しい声で返す。戻ってきた我が子の肩を抱くようにして、「お疲れさま」と労わる母親の細い手は、慈愛に満ちていた。
「外は少し冷えたのではない? お茶を淹れましょうか? あのお二人は無事に宿を見つけられたの?」
次から次へと質問を繰り出してくる彼女をやんわりと制し、再び座らせてから、自分で台所へと向かって温かい飲み物を二人分用意した。カップをテーブルの上に置き、ようやく椅子に腰かける。
「大丈夫、お二人はちゃんと宿に送り届けたよ」
「そう、よかった。このあたりは暗くなると物騒だものね。あなたも気をつけなくてはダメよ、ユウル」
何の話をしていても、母親の台詞が最終的に「あなたも気をつけて」で結ばれるのは、いつものことだ。自分もいつも通り、大人しく頷いて「気をつけるよ、母さん」と返事をした。
しかし今日はそこで、じゃあ疲れたでしょうからもうお休みなさい、といつもの言葉で締めくくられることはなかった。珍しい客人がやって来たことで、彼女の心はまだ少しふわふわと浮かれているらしい。
「……素敵な方たちだったわね」
目線を宙に向けて、ぽつりと呟くように言う。
雲の上の存在と思っていた神民と食事をして、優しい言葉をかけられ、多額の謝礼までもらった。
母親にとってそれは、日常の範囲から大きく逸脱した、現実とは思えない出来事だったのだろう。未だに信じられないような気分でいるのも無理はない。
彼女の表情は、まるで夢見る少女のようだった。
「素敵だったかな?」
ちょっと笑って肩を竦める。自分の母親が、街の若い女の子たちのようなことを言うのが、なんだか可笑しかった。
「あら、だって、身なりも立派で、すらりと背が高くて、お顔もとても整っていらしたじゃない」
「……そう?」
今度は本気で首を傾げた。自分はもともと、男の容姿を素敵か素敵じゃないかなどという基準で見たことが一度もない。
しかし改めて思い返してみれば確かに、輝くような金髪を持ったキリクは、男にしておくにはもったいないほど柔和で綺麗な顔立ちをしていたような気がする。単純そうなカイトは、それとは逆に、目が鋭く引き締まった男らしい容貌だった……ような気がする。
そこまで考えて、ますます首を傾げてしまった。まあ、二人とも、そういう意味では、「整っている」と言ってもいいかもしれないが。
……素敵、か?
どうも自分には、そのテのことを他と比較して判断する計測器が備わっていないらしい。結論を出すことを早々に諦めて、その問題を放り出すことにした。
どうせもう、二度と関わることのない連中だ。
「神民を相手に、母さんも気を張って疲れただろ。片付けはしておくから、もうベッドに入ったほうがいいよ」
大した金にはならないとはいえ、母親も朝から昼までの短い時間、近くの店に手伝いに行っている。その上で家事をして、今日は街はずれに出かけてシズミの葉を摘んでくることまでしたのだから、もともと少ない体力がすり減っているだろう。
寝室へと促すと、母親は少し笑って首を振った。
「ええ、そうね、緊張はしたけれど、でも楽しかったわ。あんなにも賑やかにお喋りしながら食事をしたのは、いつ以来だったかしらね? 私、お客さまを迎えるのはとても好きなのよ」
「……うん」
父が生きていた頃、そしてユウルが生きていた頃は、しょっちゅう客が出入りしていたこの家のことを思い出して、目を伏せる。
父の仕事仲間、そして双子の友達、隣近所のおかみさん、そういった連中をいつも快く迎え入れては、確かに母親は楽しそうにしていた。
今、この家を訪れる人は滅多にいない。自分がなるべく他人との個人的な付き合いを避け、友人を作らず、昔馴染みとの接触も断ってきたからだ。
この家は、自分と母親を閉じ込めるための、狭苦しい檻と化した。
「ユウルも、私に気を遣わないで、どんどんお友達や同僚の人たちをここに連れてきていいのよ。そう──いつかは、あなたの恋人だって」
朗らかな母親のその言葉に、心臓がぎゅっと収縮した。
「自分の子が恋人や結婚相手を連れてきたらイヤな顔をする母親もいるというけど、母さんはそんなことはしないわよ? 心から歓迎する。あなたが選んだ人なら、きっと心根の優しい、いい人に決まっているもの。もしもここに連れて来てくれたら」
屈託のない、明るく優しい笑顔がこちらに向けられる。
「母さん、本当の娘のように可愛がるわ」
その瞬間、自分の中で何かが音を立てて壊れた。
***
ベッドの中で、母親は安らかな寝息を立てていた。
枕元の台に置かれた一本の蝋燭の明かりだけが、その寝顔をぼんやりと浮かび上がらせる。
やつれた頬、青白い肌。薄っぺらい掛け布の下には、繊細すぎるほどの精神とか細い肉体が、無防備に横たわっているのだろう。
明日もまた今日の続きがやって来ることを疑いもしないで目を閉じた母親は、今も穏やかな夢の中を漂っているのだろうか。
それは一体、どんな夢だろう。そこに出てくるのは、誰なのだろう。現実の世界では手に入らない安楽を得て、彼女は嬉しそうに笑っているのだろうか。
ベッド脇に佇み、無言でその姿を見下ろしている人間が、今にも自分の細い首に手をかけようとしているなんて考えもしないで。
「……ね、母さん」
小さな声で呼びかける。
額にかかったほつれ髪を指で優しく直してやりながら、子供をあやすような声音で囁いた。
「母さん、オレね、今までずっと母さんに聞きたくて、だけど聞けなかったことがあるんだよ」
長いこと、自分の胸の中にだけ押し込めていたもの。
聞きたくて、聞きたくて、でも聞けなくて。怖くて、不安で、つらくて、猜疑心に苛まれ続けていることが、いつだって、苦しくてたまらなかった。
「母さん」
頬を撫でるように滑らせている指が、細かく震えている。
「──母さんは、本当は、ずっと正気だったんじゃないの?」
双子の片割れ、息子のユウルを亡くしてから、すっかり「おかしく」なってしまった母親。だからこそ、娘を認識することが出来なくなってしまった──ずっと、そう思い込み続けてきたけれど。
それでも、頭の片隅に湧いてくる疑念を、完全に払うことは難しかった。
思うまいとしても、そんなことがあるはずないと打ち消そうとしても、白い紙に滲む黒インクのように、その考えが、少しずつ少しずつ、自分の頭と胸の中に広がっていくのを止められなかった。
──もしかして母親は、途中から、いいや、もしくは最初から、正気を保っていたんじゃないか。
正常な思考で、自分をククルと知っていながら、「ユウル」と呼び続けているんじゃないか?
馬鹿げた考えだとは思う。こんなことを思う自分こそが、常軌を逸している。
しかし一度生じてしまったその薄暗い問いを、否定し続けることも無理だった。
根深い病魔のように、疑惑と不信が自分の心を蝕んでいくのを、どうしようもなくただ茫然と眺めているしかなかった。
……だって、おかしいじゃないか。
職場の同僚、隣近所の住人たち、それくらいは誤魔化せたとしても、一つ屋根の下に暮らしている身内が、そこにいるのが男か女かなんてこと、気づかないでいられるものだろうか?
どう頑張っても「男」になることは出来ないと自分が確信するまでに、ほんの数年しかかからなかった。それなのに、その二倍以上の時間を一緒に過ごしている母親が──「女」という性を持った生き物が、まったく何も思わないなんて、そんなことが、本当にあり得ると?
ただでさえ、昔は、あんなにもはっきりと、「ユウル」と「ククル」の区別がついた人だったのに。
「母さんには、男の『ユウル』がいてくれたほうが、都合がよかった。息子に頼り切ったまま生きていくほうが、よっぽど楽だった。──だから母さんは、双子の片割れの女のほう、『ククル』を切り捨てることにした」
どんどん貧困の度合いが増していくこの街では、女をちゃんとした働き手として雇ってくれるようなところはほとんどない。あったとしても給金は、同年齢の男と比べてずっと少ない。女だけの家庭は、周りにも侮られ、付け込まれ、利用される。
母と娘がこれから十年二十年と二人で生きていこうと思ったら、とてつもない苦労と、身体を売るくらいの覚悟が必要だ。
依存体質の母親に、それは耐えられることではなかっただろう。
必要なのは、互いに身を寄せ合う相手ではなく、自分が寄りかかれる相手。
だから生き残るのは、ユウルのほうでなければならなかったのではないか。
「……バカだよね。そんなこと、あるはずない。母さんはとても善良で、そしてとても弱い人で、だからこそ、ユウルを亡くしたことで、精神の平衡を失ってしまった。そうに決まってる。目の前にいるのが自分の娘だと知っていながら、目を瞑り、耳を塞ぎ、何も気づかないふりをして、笑顔でユウルの名を呼び続けていたなんて……そんなこと、あるわけがない。きっと、こんなことを考えるオレのほうこそが、狂ってしまっているんだ」
母親を愛していた。でも、憎んでもいた。
内側に溜め込んだ、憐れみと哀しさと怒りと恐怖は、いつの間にか毒へと変わり、こんなにも自分たちは捩れて、軋んで、歪んでしまった。
幸せだった日々は、もう遠い。
「大丈夫だよ、母さん。母さん一人を逝かせやしない。後始末をしたら、ちゃんと、オレも」
母親を殺したら、この家に火をつけて燃やそうと決めていた。
自分はありったけの油をかぶる。
焼け跡から出た遺体が、誰のものなのか、女なのか男なのかも判別できないくらいに。
「ごめん、母さん。でも、これ以外にどうしたらいいか判らないんだ。母さんを一人で置いてはいけない。約束は破れない。だけどオレはこれ以上『ユウル』ではいられない。かといって『ククル』にも戻れない。だからもう、これしかないんだ──」
白っぽい頬にあった手を、首にまで移動させる。
細く頼りない首だ。絞めるのに、あまり力も要らないくらいかもしれない。
なるべく苦しまないように。出来れば楽しい夢の中に留まったまま、逝けるように。
愛していたのに。殺したくなんてなかったのに。自分は、自分は──
「自分」?
自分って、一体、誰だ?
大きな涙の雫が、ぽとりと零れて母親の顔に落ちた。
***
「──ククル」
首に指を廻したところで、抑えた声で名を呼ばれた。
後ろから聞こえたその声に、動きを停止させたまま、目だけを上げる。
背後にある寝室の扉が開いて、そこから伸びる二つの長く黒い影が、向こうの明かりに照らされ、自分の前にある寝室の壁にまで届いた。
「ククル……自分だけで勝手にすべてを終わらせたらダメだ。おまえにはおまえの人生があるように、母親には母親の人生がある。それを強制的に断ち切ってしまう権利は、おまえにはない。誰にもない。苦しくたって、しんどくたって、それを決めて選ぶのは、母親本人だけなんだ」
勝手に人んちに不法侵入しておいてよく言うよ、と思いながら、鼻をすすった。
放っておいても折れてしまいそうな、ほっそりとした首から外した手を顔に持っていき、ごしごしと目をこする。
説教くさい台詞には、どこか懇願が滲んでいるように聞こえた。どうしてこんなにも真剣になって話しているのだろう。神民から見れば、たかが棄民の一人や二人の命、どうなっても構わないはずではないか。
わざわざ戻ってきて、肝心なところで止めに入って。ここで母親を見殺しにしてから自分を罪人として捕まえたほうが、あちらにとっては都合がよかったかもしれないのに。
単純な上に、お節介か。
「ククル、僕たちと取引をしないかい?」
もう一方の声は、最初に会った時とまったく変わらない、静かで穏やかなものだった。
母親は何が起きているのかも知らず、ぐっすりと眠り続けている。その寝顔をしばらく眺めてから、ようやく後ろを振り向いた。
寝室の入り口のところに、二つの人影が立っている。
「取引?」
「君のお母さんは、心身ともに弱り切っている。この閉塞した街と、毎日の生活に疲弊して、衰弱してしまったんだ。栄養状態も、極めて良くない。このまま放置しておいたら、どちらにしろ長くは保たないよ。限界だったのは君だけではなく、君のお母さんもだった、ということさ」
「…………」
冷淡にも聞こえる言葉に、思わずぎゅっと拳を握った。
「すぐにでも病院に入れて、適切な治療を与え、十分な休養を取らせる必要がある。滋養のあるものをたくさん食べさせて、清潔な環境で、然るべき世話をされたなら、物事を冷静に眺めて判断する力も出てくるだろう。身体のほうが健やかになれば、精神状態も、今よりはずっと良好になるはずだ。……子供の死をちゃんと受け入れさせるのは、それからでも遅くはないんじゃないかな」
「病院だって?」
ふっ、と嘲笑した。
「あんたたちは知らないだろうけどね、棄民の街に、病院なんて上等なものは存在しないんだ。せいぜい腕の悪い町医者がいるくらいさ。それさえ、診てもらったら法外な金をとられる。薬代も結構な額だ。食費をすべて削っても、そうするべきだって? しかも、十分な休養なんて──」
「この街に病院はなくても、神都にはある」
「知ってるよ。だけど神都の病院は、神民しか入れない。ましてや、それにかかる費用なんて、オレが一生働いても払いきれる額じゃない」
「だから、取引だ」
キリクは正面からこちらを向いた。
「君が僕らと共に神女として神都に行ってくれれば、君のお母さんも神都の病院に入れるように手配する。その分の費用も、上に掛け合ってすべて負担させる。今までのように一緒に暮らしていくことは出来ないけれど、同じ神都にいるのなら、会うのは容易だ。……それに言わせてもらえば、君と君のお母さんは、少し距離を置いたほうがいいと思うね」
「…………」
思いがけない申し出に、口を噤んだ。
これまでに頭を掠ったこともない可能性を提示されて、どう判断すればいいのか判らない。
大体、自分が神女だという話も信じられないのに。
「母親のことは心配だろうが、この条件を呑んでくれないか。これが俺たちに出来る精一杯だ。俺たちも一緒に母親を説得するし、どうするのが最善なのかも一緒に考える。だから俺たちと共に神都へ来てほしい、ククル」
自分の中にあった重いものが、ぐらりと揺れた。
この褐色頭のまっすぐな目と言葉は、なぜかいつも、激しく何かを突き動かす。
バカだな、痩せっぽっちの棄民一人、神都に連れて行くだけなら、どうとでもやりようはあるではないか。条件なんて出すまでもない。神民が棄民に暴力を振るおうと、攫おうと、殺そうと、この国にそれを裁く法はないのだから。
それを、こんな風に「頼む」なんて。
今の顔を見られたくなくて、くるりと彼らに背を向けた。
眠ったままの母親に目をやり、もう一度ぐいっと腕で顔を拭う。
「……わかった。行くよ」
小さな声でそう返事をすると、壁に伸びた黒い影がゆっくりと大きくなった。
両肩に、それぞれ手が置かれる。ひとつは少し不器用なくらいのぎこちなさで。もうひとつは、そっと優しく触れるように。
でも、どちらもひどく、温かかった。
──ずっと長いこと、自分がいちばん欲しかったもの。
行き止まりではなく、先へと続く道。すぐ隣で支えてくれる手。一緒に一歩を踏み出してくれる足。
「自分」を探して見つけてくれる、誰か。
「ひとつ頼みがあるんだけど」
「うん?」
「これからはオレのこと、クーって呼んでくれる?」
ユウルは死んだ。ククルはもういない。
ここにいる自分は、今から「クー」という新しい人間となって生きるのだ。
短くて、簡潔で、男だか女だかよく判らない名。自分にはこれくらいがぴったりだ。
名前も、家族も、家も、仕事も、故郷も。すべての繋がり、すべてのしがらみ、すべての拠り所を失った。
ユウルとしての自分も、ククルとしての自分も、必要ない。
もう、誰の片割れでもない。
クーという女の子は、この空っぽの手の中に、これから何かを入れることが出来るだろうか。
(Ⅰ・終)