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招かれざる神女(旧「5th」)  作者: 雨咲はな
Ⅻ.黎明の「人の子」
47/50



 キリクたちは、廊下の細い明かり取り用の窓から外に出た。

 建物の外は、明るい日差しが照りつけて、暗闇に慣れたキリクには眩しすぎるくらいだった。目を眇めても、なかなか視界がはっきりしない。外気に触れるのも、風を感じるのも、ずいぶんと久しぶりだ。

「これはカイトがいたら無理だったな」

 とコウが窓から身を滑らせて地面に降り立ちながら、独り言のように呟く。吹けば飛ぶような痩身の彼はもちろん、クーもそこから出るのに大した苦労はなかったようだ。

 以前であればキリクもそこを通るのは無理だっただろうが、今は少々窮屈なのとあちこちが痛むのを我慢すれば、なんとか可能だった。クーが非常に複雑な表情をしているのは、骨と皮だけのようになってしまった現在のキリクを見て、どんな顔をすればいいのかよく判らないためらしい。


 大丈夫だよ、と言おうとしたが、やっぱりやめた。


 明らかに大丈夫ではないことは、クーも自分自身もよく判っている。そんな言葉は、彼女にとって気休めにもなりはしない。

 足手まといになったら、いつでも捨てていって構わない、と言うのもやめておいた。そんなことを口にしたところで、クーがどう返事をするのかは判りきっている。なんなら、拳や蹴りの一発でも飛んでくるかもしれない。キリクだって、これ以上痣を増やしたいとは思っていないのだ。


「こうなったら、引きずってでも這ってでも、君たちについていくよ」


 そう言ったら、クーは当たり前だと言うように鼻を鳴らし、コウはちょっと楽しそうに笑った。

「珍しく正直だね」

「もう嘘をつくのはやめようと思って。なるべく」

「そこはきっぱり断言しろよ」

 クーがしかめっ面で言い返す。

「調子が出てきたじゃないか」

 と、コウがまた笑った。




 クーとコウ、そしてコウに支えられたキリクの三人は、宮殿建物の壁に沿うようにして進んでいった。

 どこで誰と出喰わすのか判らないため、じれったいが前方を窺いながらそろそろと進んでいくしかない。装飾過多で複雑な造りになっている宮殿は、壁面も平らではなく、あちこちに曲がり角がある。他からの視線を遮るものに不自由しないのは幸いだった。

 周りは整えられた植え込みや、美しい形の木が配置よく並んで建物を囲み、その向こうにはとてもよじ登ることが出来ない高さの鉄柵がそびえ立っている。

 もちろん宮士の見廻りはあるが、巡回時間が決められているので、それ以外にこんな場所をうろうろする人間はそうはいないはずだ。


「で……俺たちは一体どこに向かっているんだい。またどこからか建物の中に忍び込もうってことだろ? 人目につかず水晶の間からも遠くない、そんな都合のいい場所があるのかね」


 キリクに肩を貸して歩きながら、コウが訊ねてきた。

 宮殿内には、宮士だけでなく文官もいれば多くの女官もいる。地下牢があったところはあまり人の出入りもないような宮殿の端だが、他の場所はそういうわけにもいかない。いくら人通りがなくても、あまりにも水晶の間への距離が遠すぎては意味がない。コウの疑問はもっともだ。


「忘れたのかい、コウ。宮殿には、数少ない第一位神民も個人の部屋を賜って、居住しているんだよ」

「第一位神民? その中に、あんたと懇ろの娘がいるの?」

 そういうことを、当たり前のような顔と口調で聞くのはやめて欲しい、とキリクは思った。かえって信憑性が増すではないか。

 クーのほうに目をやったら、非常に生暖かい視線を向けられた。これがニーアだったら、「にいさま不潔」とでも言いそうな目つきだ。

「人聞きの悪い……それよりももっと身近なところにいるじゃないか。いや、『いた』と言うべきかな」

 その言葉で、ようやくコウが、ああ、と理解した顔になった。クーがまだピンときていないのは、おそらく、キリクが彼女の前でその名を出したことが一度もないからだ。



「リシャル卿の部屋から建物内に入る。あそこなら、確実に誰もいない」

 なぜなら、キリク自身の手で、その部屋の主を葬ったからだ。



「そうか……なるほど。ソブラ教皇の側近だったリシャル卿の居室からなら、水晶の間はそう遠くない」

 コウが考えるように呟いた。その人物についてそれ以上言及しないのは、キリクに気を遣っているというよりは、ほとんど関心がないためなのだろう。

「おまけに、気味悪がってあまり人も近づかない」

 なにしろ、死に方が死に方だ。一応息子の扱いを受けていたキリク以外、あの男に「家族」と呼べる者はいない。今はまだ、室内は何も手を付けずそのまま放置してあるはず。

 ここでクーも、「リシャル卿」というのがどういう人物なのか思い当たったらしい。心配そうに顔を覗き込んできたが、キリクは少し口の端を上げるだけでそれに応えた。その名を口にしても、自分の中で、波立つものは何もなかった。

 あの男の死は、キリクの心に何の影響も及ぼさない。

 この手で殺して、喜びが湧いたわけではなかった。かといって無論、悲しいとも思わない。復讐なんて虚しいと考えるのも、あまりに陳腐だ。

 ──ただ。


 あれが実の父親であったとしたら、こんな風に乾いた気持ちでしかその死を受け止めることが出来ない自分も、あの男も、ひどく哀れなのかもしれない、とは思った。


 キリクは小さく頭を振って、その愚にもつかない考えを追い出した。今はそれよりも、優先させなければならないことがある。

「そこに行くまでに、君たちのほうの事情も聞かせてもらいたいんだけど、いいかな。クーたちは、パレスから出て、どこで何をしてた? 今は一体、どんな状況になっているんだい?」

 クーとコウは、互いの顔を見合わせた。



          ***



 身を隠して進みながら、コウは今までのことと現在のことを、手短にキリクに向かって説明した。


「……つまり、今、パレスの外では革命が起きている真っ最中だと」

 さすがにそこまでは予想していなかったので、キリクは呆気にとられた。


 まさか、クリスタルパレスへの侵入と革命を同時進行でやろうとしていたとは。せっかちにも程があり過ぎやしないか。

「無謀、の一言に尽きるね」

「おまえが言うな」

 ため息交じりに感想を零すと、クーとコウの両方から、同時に突っ込まれた。


「クーとカイト、そして俺たちも、事を急ぐ理由がある、というのは同じだったんだよ。あっちもこっちも暴走しかねないのを抑えていた俺の苦労が、あんたにわかる? 精神状態がどちらもギリギリだったってことさ。……計画通りなら、あちらは境界警備隊の武器庫を制圧している頃だ」

 コウがちらっと鉄柵の向こうを一瞥したが、もちろんこの場所からは何も判らない。いつものような静謐さがあるだけだ。

「境界警備隊の武器庫?」

「そう。六箇所あるだろ? そこを一斉に襲ってから、奪った武器を手に、神都に侵攻する」

「しかしそれは……かなり難しいんじゃ?」

 眉を寄せると、コウは頷いた。


「だよね。俺もそう思った。だけどカイトが協力してくれたから、なんとかなりそうだと目途がついたんだ。警備が手薄になる時間帯と場所ってのがあって、これは確かに盲点だと俺もあいつの説明を聞いて感心したくらいだよ。副隊長だった時にも、ここを狙われたら危ないって上に進言したけど、半民の言葉なんてと聞き入れてもらえなかったんだってさ。警備隊の連中は、つくづく、敵に廻すと厄介なやつを追い出したもんだよね」


「カイトが協力?」

 キリクは今度はコウではなく、クーのほうを向いた。彼女もキリクを見返して、こっくりと大きく頷いた。


「出来る限り、可能な限り、犠牲が出ないように、って言ってた。棄民も、半民も、神民も」


「棄民も、半民も、神民も……」

 キリクはその言葉を繰り返して、あのお人よしの顔を思い浮かべ、少し頬を緩めた。

 革命に関わる人間として、それはもしかしたら、甘い考えなのかもしれない。人によっては、「綺麗ごと」という一言で片づけられる台詞なのかもしれない。

 バカだな、と笑われるようなことであるのかも。



 ──けれど、頑なにその信念を貫いて、今もどこかで誰一人として命を絶つことなく戦っているカイトのことを考えたら、キリクはとてもそんなことは言えないし、笑えなかった。

 愚かなまでに他人に手を差し伸べようとする彼のことを、尊いと思わずにいられない。

 この世界がどれほど人の醜さを見せつけ、汚泥に引きずり込もうとしても、それでもなお、彼の中には決してそれらを寄せつけない、透明に輝くものがある。

 こんなにも胸を衝かれるような感動を、キリクは今まで誰に対しても抱いたことがなかった。女神リリアナに対してさえ。



「……カイトらしいね」

「そうだろ」

 キリクの呟きに、クーが目許を和ませた。

 呆れながら、時には怒りながら、彼女もきっと、あの男のそういうところを、なにより愛しているに違いない。

「僕も、早く会いたいよ」

 キリクもクーも、待っている。だから必ず、カイトは無事に自分たちのもとに辿り着いてくれなければ。

「カイトもそう言ってたよ。キリクに絶対文句を言ってやるんだって。それに──」

 何かを言いかけたところで、クーがぴたりと口を閉ざした。コウの足も止まり、表情が引き締まった。



 先にある角の向こうから、複数の足音が近づいてきている。



 聞こえてくる音から判断するに、五、六人はいるようだ。かすかに金属がこすれるような音がするから、武器を所有している。おそらく宮士だろうが、走ったり立ち止まったりしている様子から、見廻りなどではないと察せられた。

「……どうするかな。二、三人なら俺一人でも倒せると思うけど、それ以上はちょっとキツいかも」

 コウがいつの間にか手に持った金属の棒を握り、あちらの気配に耳をそばだて囁いた。

 街のゴロツキなどと違い、宮士は戦闘訓練を積んでいて、おまけに剣も持っている。いくらコウでも、決して楽に倒せるような相手ではない。

 キリクは歯噛みをして、地面を踏みしめる弱った足を忌々しく見下ろした。


 今の自分では、手助けどころか、コウの邪魔にしかならない。


「まあ、でも、迷っていてもしょうがない。こうなったらやるしかないね。あんたたちはここにいて」

 キリクを支えていた手が離れる。コウの横顔は、獲物を見据えた鷹のように鋭く冷酷に見えた。舌で唇を湿らせる。ぐっと手に力を込め、足を踏み出そうとした時──


「ダメだ」

 クーがきっぱりと言った。


 彼女は青い顔で、キリクとコウを睨みつけていた。強い眼差しは、何かを決意した時のものだ。正直に言って、嫌な予感しかしなかった。


「オレ一人でやる。二人はそこの植え込みの中に入って隠れていて」


「バカな。何を……」

 気色ばんで反論しかけたキリクの口を、コウが手で塞いで止めた。

「何か策があるのかい、クー」

「今、ここで余計な騒ぎを起こすわけにはいかないんだ。そんなことをしたら、建物の中を進んで注意を引こうとしてるカイトの努力が無駄になる。ここは穏便に済ませないと。いいから早く」

「了解」

 そんなことは絶対に駄目だ、と言おうとしたキリクの口を片手で覆ったまま、コウは無理やり引きずるようにして植え込みの中に飛び込んだ。キリクの頭を上から押さえつけ、人差し指を唇の前で立てる。

「今、何か音がしなかったか?」

 あちらで話し声がして、足音がさらに近くなった。もともと血の気がなくなっていたキリクの顔から、さらに血が引いていく。

 二人が潜んでいる植え込みのほうを向いて、クーが「心配するな」と言うように片手を挙げた。

 心配に決まっている。何を言っているんだあの子は、というキリクの焦燥を知ってか知らずか、クーは何かおかしな動作をしていた。着ている衣服を指で摘まんでひらひらと振ったり、結った髪の形を整えたりしている。ますます不安になった。

 キリクの頭をぐいぐい上から押さえつけ、「ああ、なるほど」とコウが小さく噴き出した。


 とうとう、角から宮士たちが姿を見せた。


 キリクの心臓がぎゅっと縮む。牢に囚われていた時でさえ無縁だった恐怖を覚えた。

 連中がクーを捕まえたら。もしも乱暴なことをしたら。彼女に傷のひとつでもついたら、キリクはカイトに顔向けが出来ない。

 宮士らは、そこにいる娘を見て、一様に驚いた顔になった。



「なにごとですか、騒々しい」

 クーはまっすぐ立って彼らと相対し、凛とした声で言った。



 その顔もその声もその口調も、どこからどこまでも普段のクーからはかけ離れていて、キリクは口を半開きにした。

 葉と枝に埋もれながら、すぐ近くでコウが必死になって笑い出すのをこらえている。


「あ……そ、その、申し訳ございません」

 クーの居丈高な態度に押されたのか、宮士たちは揃って姿勢を正して謝罪した。

 クーのことを、よほど位階の高い娘だと思ったらしい。彼女が身につけている衣服はかなり上等なものだし、宮殿敷地内にいるということは第一位神民、あるいはその身内なのか、と考えたのだろう。


 いや、しかし、だからといって。


「あの……このようなところで、何を?」

 宮士が疑問を抱くのはもっともである。普通、位階の高い娘が、こんな場所を一人でふらふらするなんて考えられない。彼らの目には驚きと共に不審も現れていて、キリクは強く拳を握った。鼓動が胸郭をがんがんと打ちつけている。

 ほっそりと頼りなさげな姿をしている娘に、未だ誰一人として警戒心は抱いていないようだが、詳しく問いただされれば、あっという間に正体が露見する。


「そのようなことを、あなたたちに説明する筋合いはありません」

 クーはぴしゃりと叩き返すように言い放った。


 どうやら彼女は、ものすごく強引にこの場をやり過ごすつもりらしい。無茶苦茶だ、とキリクは頭がくらくらした。これのどこが「穏便」なのだろう。


「わ……わたくしは、人に指図されるのは好きではないの。わかったら、さっさと行きなさい」

 それは一体、誰の真似なんだい、クー。


 犬を追い払うように手を振るクーを見てキリクは倒れそうになったが、コウはさっきからずっと肩を震わせて苦しそうにしている。

 カイトがここにいても、きっと失神しそうになっていたに違いない。


「は、いや……」

 宮士たちはこの訳の判らない成り行きに、少々混乱しているようだった。

 彼らからすると、突然現れた神民の娘に理不尽に叱られているわけで、対応に困るのも無理はない。

「実は、宮殿内に侵入者がありまして……」

「侵入者?」

 クーの顔色がさっと悪くなる。これは演技ではないようだ。

「このあたりで怪しい人物を見かけませんでしたか」

 目の前にいるこの上なく怪しい人物に向かって、宮士はそう問いかけた。

「見ていないわ」

「念のため、周囲の捜索を……」

「まあ!」

 クーは血相を変えて叫んだ。


「なんてこと、わたくしの言うことを疑うの?! これは侮辱だわ! わたくしの散策を妨害した上に、この美しい景色まで壊そうというの?! まったく宮士というのは礼儀を知らないこと! 大体、あなたたちが頼りないからこの宮殿内に賊の侵入を許したりするのよ! あなたたちの目はどれも揃って節穴なのではなくて?! いいわ、一人ずつ名を名乗りなさい! あとからうんと厳しいお咎めを──」


「わ、わかりました」

 驚いたことに、宮士たちは引き下がった。

 クーの脅しが効いたというよりは、キンキン声でまくし立てられることに閉口したらしい。なにしろクーも必死なので、その迫力だけは間違いなく本物だ。

 なんだかよく判らないが、面倒くさそうなこの娘に、もう関わりたくない、と思ったのだろう。宮殿勤めの彼らは、それがどんな内容でも、位階の高い相手には黙って従うことに慣れきっている。


「それでは、失礼いたします。早くお部屋にお戻りになりますよう」

 そう言い残すと、宮士たちはそそくさと退散していった。


 彼らの姿が見えなくなってから、クーがふうと大きく息を吐きだした。

「なんとか上手くいった……」

 そう呟いた途端、脱力してその場にへたり込む。

 コウは「いやあ、俺も変装ばかりに頼るのは改めないとなあ」とやたらと感心していたが、キリクは胸を押さえて植え込みの中で突っ伏し、切実に願った。



 早く来て、カイト。

 僕一人であの子を見るのは、とてもじゃないけど、心臓が保たない……



          ***



 おもにキリクの心臓にとって幸運なことに、それ以降は宮士や他の誰かに行き会うことなく、リシャル卿の部屋に到着することが出来た。

 外から窓を割って錠を外し、中へと侵入する。

 あまりにも簡単なので、コウはちょっとばかり不満そうだった。


「いくらなんでも無防備過ぎない?」

「この宮殿で、泥棒に入られるかもしれない、なんて心配をするような人はいないからね」


 主を失った部屋は、しんとして空気が冷たかった。いや、考えてみれば、主がいた時から、ここはこういう感じであったかもしれない。

 大きな執務机の置かれた部屋から、続きになっている寝室へと移動して、そこにある棚の扉を開ける。

 キリクとコウは、その中の衣服から適当なものを見繕って着替えた。

 宮士たちが見た目だけで人を判断しがちということを嫌というほど実感した今、そこにある高価な衣服を身につけるのはかなり有効な手段だと思えたからだ。

 ボロ布のようになってしまった服を脱ぎ捨てて上着を羽織り、顔についた血を拭って、乱れた長い髪を後ろでひとつに纏めて括る。削げてしまった肉を戻すのは不可能だが、これでなんとか一応の体裁は整ったと言えるだろう。

 棚の中には、剣も立てかけてあった。あの人物が剣を手にしたところなど見たことがないが、所持はしていたらしい。

 キリクがそれを手に取り腰に着けるのを見て、クーは顔をしかめた。

「僕だって、以前のようにこれを使えるとは思ってないよ。だけど、手ぶらで君の武勇伝をただ眺めているよりは、このほうがずっと気が楽なんだ」

 キリクはそう言って、さあ行こう、と扉のほうに目を向けた。




 悪事というのは、コソコソするよりは堂々としていたほうがむしろバレにくい。

 キリクのその信条のもと、三人は出来るだけ普通に宮殿内を歩いた。さすがに目立つので、もうコウに担いでもらうわけにはいかない。一歩進むたびに顔から汗が噴き出して、残り少ない体力がますます削られていくようだった。

 苦痛が長引きすぎて、もはやどこが痛くてどこが苦しいのかもよく判らない。悪寒はするのに、身体中が熱かった。目が眩み、膝ががくがくしてくる。腰の剣がどっしりと重かった。

 ともするとふらついてよろけるキリクを、クーとコウが両隣から掴むようにして、崩れるのを食い止めてくれている。どちらの口からも、キリクを案じる言葉は出てこなかった。それはもう聞くまでもないと、互いによく判っている。こうなったら先へと進むしかないことも。

 時々、ひそひそと話す女官たちや、バタバタと駆けていく宮士の姿を見かけた。


「侵入者が……」

「神殿の衛士らしいって……」


 交わされる会話の端々を耳にして、クーの顔もどんどん強張っていく一方だ。視線は前方に据えられているが、キリクの身体を支える手も、そして踏み出す足も、さっきからずっと震えている。

 不安だろうし、怖いだろう。クーはキリクの前では弱音を吐かないが、非常に繊細で脆い部分もある。

 彼女の強さは、決して、一人だけで保持してきたものではない。すぐ傍に支える手があるからこそだ。


「大丈夫だよ、クー。カイトは必ず、君のところに戻ってくる」


 身を屈めて囁くように言うと、クーが目を上げた。

 うん、と頷く。

 そして唇を引き結び、また前を向いた。

 表情はあまり変わらないのに、キリクにはなぜか今のクーが、膝を抱えて小さく身を縮めている女の子に見えた。

 はやく見つけて、と泣いている。



          ***



 宮殿の奥へと進むにつれ、徐々に人の姿が減っていった。

 本来、宮士が警護しているはずの場所に誰もいないのは、侵入者捜索を命じられたからなのだろう。カイトはしっかり陽動の役目を果たしている。おかげでキリクたちは、ほぼ見咎められることなく水晶の間の近くまで入り込むことが出来た。

 周囲はしんと静まり返っている。


「しかしここは本当に迷路だね」

 コウが呆れ返ったように言う。


 自分たちが今進んでいる通路も、あちこちに分岐して、それぞれ別方向へと伸びている。

 右の脇道があり、左の脇道があり、目印のようなものもないから、一旦迷ってしまうとぐるぐると同じ場所を廻ることにもなりかねない。


「それだけ厳重に隠したいものがあるということだよ」


 キリクは返事をして、額の汗を拭った。出来るだけ普通の声を出そうとしているのに、気を許すとすぐに呻き声が漏れてしまいそうになる。

 しっかりしなければ。水晶の間はもうすぐだ。

 今頃は、キリクが牢から逃げたという報告が、教皇のもとに上がっているだろう。自分たちの目的を悟られたら、宮士たちが大挙してここに押し寄せてくる──

 そう思いながら通路を曲がった途端、キリクはその考えが誤っていたことを知った。



 ……もう、遅かったか。



 クーとコウも、そこで硬直したように止まった。

 三人の前方、通路の先には、五人の宮士たちが待ち構えている。

 彼らの前には、怒りの形相も露わなバーデン司教が立ちはだかっていた。

「キリク……! そして、そこにいるのは神女か……そなたたち、やはり……!」

 わなわなと身体を震わせ、顔を真っ赤にしながら、司教は声を絞り出した。

「ここから先へは行かせぬぞ! 女神アリアナの加護を失わせるわけにはいかぬ! 禁忌の神女もろとも、ここで死ぬがよい!」

 コウがキリクから手を離し、構えを取って油断なく敵を見渡す。宮士たちもそれぞれ剣を鞘から引き抜いた。

 キリクも腰の剣に手をかけた。


 五人──二人か三人なら、とコウは言っていた。だとしたら最低二人は、キリクが何とかしないと。


「クー、君は離れていて」

「でも、キリク」

「いいかい、隙が出来たら君だけでも進むんだ。きっとカイトが来てくれる。後ろは振り返らずに行くんだよ、いいね?」

「キリク、なんのためにオレたちが……!」

 顔を歪ませてクーが口を開けた、その瞬間。



 横の通路から吹っ飛んできた何かが、立っていた司教に勢いよく激突した。



 ぎゃっ、と悲鳴を上げて、力のない老人は呆気なく飛んできた何かと一緒に床にもんどりうって倒れ、気を失った。

 何かは人間だった。宮士の制服を着ている。こちらも白目を剥いて気絶していた。

 いきなりのことで、宮士たちも茫然として立ち尽くすことしか出来ないでいる。と思ったら、通路から新たに飛び出してきた黒い影が、彼らの中に突進していった。

「な、なんだ?!」

 仰天して悲鳴を上げた宮士の一人が、重い音と共に弾き飛ばされた。

 同時に、コウも動いた。まだ動揺の抜けきらない宮士に素早く駆け寄り、手に持っていた獲物を振り下ろす。「がっ!」と叫んでよろけた相手の腹に蹴りを入れ、壁に叩きつけた。

 一方的な戦いだった。宮士は突如として現れた第三の敵に、まったく太刀打ちできなかった。剣を構える暇もなく、次々に倒されていく。

 コウももう一人も、動きが迅すぎて捉えきれない。宮士たちは、まるで二匹の俊敏な獣を相手にしているようなものだっただろう。ただの人、それもまだ態勢が整ってもいない彼らに、敵うはずもなかった。

 白刃が空を切る鋭い音がして、最後の宮士が崩れ落ちた。

 倒れている男たちの中で、そこに立っているのは二人だけ。コウと──


「カイト!」


 クーがその名を叫び、駆け出した。

 ぶつかっていくような勢いで、彼の胸の中に飛び込んでいく。カイトは剣を右手に持ったまま、「うわ」とちょっとびっくりした顔で言って、それでもその身体を難なく受け止めた。


「クー、無事でよかった」


 柔らかく目を細めて、左手でクーの頭をよしよしと撫でる。

 両腕を背中に廻したクーは、無言のまま顔を埋め、もう離さないというように思いきり強くしがみついた。

 カイトは自分の胸にぎゅうぎゅう押しつけてくる小さな頭をしばらく見つめてから、キリクのほうに目を向け、微笑んだ。


「……よう、久しぶり、キリク」

「うん、久しぶりだね。カイト」

「ちょっと見ないうちに、さらにいい男になったな」

「君もね」


 キリクは微笑して言い返した。

 その姿を見れば、ここに来るまでに彼がどれだけの激戦をくぐり抜けてきたのか、推し量れるというものだ。額からも腕からも胴からも血が流れ、衛士の制服はあちこち斬られている。

 二人や三人を相手にしただけでこんなことになる男ではない。自分に注意を引きつけるために、カイトはどれだけの人数を一人で倒し、ここまで駆け抜けてきたのだろう。

 その手にある剣の刃に、一滴の血もつけず。


「相変わらずバカだよね、君」

「その言葉、そっくりそのまま返してやる。俺はおまえに言いたいことが山ほどあるんだからな」

「うん、ちゃんとあとで聞くよ」

「セルマも心配してたぞ」

「セルマ?」

「なんだ、まだ名前も知らないのか」


 カイトが少し困ったような顔になった。

 どう言えばいいと思う? というようにクーを見下ろす。そして腕の中の彼女がさっきからずっと同じ格好で止まったままであることに気づき、ますます眉を下げた。


「クー? どうした、どこか痛むのか?」

 カイトが心配そうに上体を傾けて覗き込もうとしたら、クーが何の前触れもなく突然ぱっと顔を上げた。

 がつん、という鈍い音がして、カイトの顎とクーの頭頂部がぶつかった。

「いって!」

「遅い!」

 カイトが悲鳴を上げ、クーが怒鳴りつける。頭を手で押さえ、涙目になっているのは、痛むからなのか、それとも別の理由からなのか、キリクには判断できなかった。

「何してたんだ、今まで! ずっと待ってたのに!」

「悪かったよ、これでも急いで来たんだって!」

「どれだけ心配したと思ってるんだ?!」

「なんでそんな怖い顔で怒られてるのか、よくわからねえんだけど!」

 二人が言い争う姿を見ていたら、無性に陽気なものがキリクの腹の中を突き上げてきた。

 ぶぶっと噴き出す。


 ……相変わらずだ、本当に。


 笑うとあちこちが痛むのに、止められない。苦しそうに笑うキリクを見て、クーとカイトが目と目を見交わし、表情を緩ませた。

 こちらを向いて、二人同時に口を開く。


「行こう、キリク。水晶の間へ」


 キリクは頷いた。

「──うん、行こう。パレスの扉を開けるんだ」


 この通路を進めば、そこに水晶の間がある。



 ボロボロなのはお互い様なのに、カイトが肩を貸してくれた。コウが苦笑しながら足を踏み出す。クーがわざわざ回り道をして、倒れているバーデン司教の背中を踏んづけていくのを見て、キリクは噴き出した。

「やめてやれよ、クー。年寄りなんだからさ……」

 カイトに言われても、知らんぷりだ。これこそ、いつものクーである。

「それにしても、よくここがわかったね、カイト」

 キリクがそう言うと、カイトはにやりと唇を上げた。

「まあな、匂いでわかるんだ」

「へえ。クーの匂いって、どんな匂い?」

「そりゃ、とんでもなく甘い……」

「うるさいぞ、二人とも!」

 真っ赤になって怒鳴るクーを見て、カイトと二人で笑った。


 ──やっと、この場所に戻ってこられた。





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― 新着の感想 ―
[良い点] ついに3人が揃った…!! はなさんの文章は、いつも映像が脳内に浮かんでくるので、今回のキリク奪還作戦では緊張してドキドキ、 合流の一連の流れで興奮してドキドキ、眠れそうにありません!笑 ク…
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