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招かれざる神女(旧「5th」)  作者: 雨咲はな
Ⅻ.黎明の「人の子」
46/50



 ──キリクはずっと、苦痛の中にあった。


 それが肉体から生じているものなのか、それとも精神的に限界が来ているためなのか、自分でも判別がつかない。

 とにかく、どこもかしこも痛くて苦しくてたまらないのだ。目を開けても閉じても、そこにあるのは暗闇ばかりなので、しまいには自分が目覚めているのか眠っているのかさえ、判らなくなりつつあった。

 流れた血がこびりついて固まってしまったせいで、左目はもうしばらく開けてもいない。地下の牢獄は空気がひんやりとして寒いくらいなのに、全身が燃えるように熱かった。後ろに廻されたまま枷を嵌められた腕は、長いこと動かしてもいないので、とっくに感覚がなくなっている。

 一日に二度、食事と飲み物を強制的に喉に流し入れられる時と、「逃げた神女はどこに行った」と尋問される時だけ、かろうじて、自分がまだ生きていると判る、というくらいだ。

 強引に口を開けさせられて、もはや味もしないが何か食べ物らしきものを突っ込まれれば苦しいと思うし、あちこちを殴られたり蹴られたりすれば痛いと思う。こんな状態になってもまだそういうことを認識できる力は残っているのかと呆れるが、それらの苦痛だけが、今のキリクにとって唯一の現実世界との接点であるとも言えた。

 常に朦朧としている意識の中で、キリクが見ているのは、過去であり、夢である。

 薄っすらと闇に浮かぶ人影は、牢番ではなく、しょっちゅうここを訪れるバーデン司教でもなく、もうこの世にはいない、妹の姿だった。


『にいさま』


 キリクの前に現れ、呼びかけるニーアは、五年も前の、幼い容姿をしている。

 まだ十三歳だった頃の、あどけない少女。なぜその姿なのか、答えは簡単だ。キリクがそれ以降の彼女をこの目で見たことがないからである。見ていないものは判らない。だからキリクの前に現れる妹は、その姿をとることしか出来ないのだ。

 それはつまり、ここにいる彼女が亡霊などではない、ということの証でもあった。

 闇の中に立つこのニーアは、キリクの記憶が生み出した、ただの幻。混濁した脳が見せている、儚く愛しい、過去の残像だ。


「やあ、ニーア」


 それが判っていても、キリクは微笑んで返事をする。

 優しい眼差し、とろけそうに甘い声で、幻覚と会話をするキリクを、牢番らはいつも恐怖心を浮かべた顔で見ていた。

 他の人間の目には、幼い少女の姿など、どこを探しても存在しないからだ。そこにはただ、何もない空中に向かって一人で話し続けるキリクがいるだけである。

 彼らが狂人を見る目で自分を見ていても、キリクはなんとも思わなかった。

 狂っているなら狂っているで、構わない。

 どうせ、自分に残された時間はあとわずかだ。

 命が尽きたら、その時こそ、幻ではないニーアに会えるのだろうか。


『にいさま、だからわたしが言ったでしょう?』


 どうせ幻覚なら、愛らしく笑っていてくれればいいのにと思わなくもないのだが、キリクの前に現れるニーアは、大抵唇を尖らせて、文句を言っている。

 考えてみたら、ニーアはもともと、勝気なところがある性格をしていた。塔の中の部屋に閉じ込められるまで──いや、クリスタルパレスに来るまでは、よく泣き、よく笑い、よく怒る、無邪気で感情豊かな子供だった。

 そしてキリクは、昔からそんな妹に弱かった。泣いていればすぐに慰め、笑ったなら自分も嬉しくなり、怒られると困ってしまう。

 ひたすら可愛くて可愛くてたまらない、たったひとつの宝物。


「ごめんね、ニーア。なんだったかな」

『もう、判らないのに、とりあえず謝るのね。いつもにいさまはそうやって、わたしのことを子供扱いするんだから』


 頬を膨らませてむくれる顔は、台詞とは裏腹に、子供そのものだ。ここで噴き出したらさらにニーアの機嫌を損ねるのだろうな、と予想がついて、キリクはなんとか笑いを噛み殺した。

 そして、思い出した。以前もこれと同じようなことがあったっけ。子供扱いをされて拗ねる女の子を見て、笑い出すのを我慢したことが。

 温かく懐かしい、そして妙に切ない痛みを伴う面影が、脳裏を過ぎる。

 ──クーだ。

 大人びたところもあるけれど、たまにぽろりと年齢相応の顔を覗かせる、愛らしい娘。

 もしかしたら、ここにいるニーアは、妹の記憶と、クーへ向ける感情とが、いつの間にかキリクの頭の中で複雑に混同し、入り混じった結果、出来上がったものなのかもしれない。

 五年前から姿を見ることが叶わなくなった妹。最後の二年はすり替わっていた別人だった。混乱した無意識と願望が、クーという存在に救いを見出そうとしていたのか。


『だからわたし、言ったのに』


 黙ってしまったキリクに向かって、ニーアの幻がもう一度同じことを言う。

 怒ったような言い方だが、その口許は柔らかく綻んでいる。手のかかる子供に向かって言い聞かせるような顔だ。にいさまには困ったものね、とでもいうように、腰に手を当て、首を傾げた。


『にいさまがいつか、本当に大事な友人、本当に大事な女性を見つけたなら、その時は絶対に、何も隠してはダメ。自分から手を離すような真似をしてはダメ。困った時には困ったと打ち明けて、素直に助けを求めなければダメ。……そう言ったでしょう?』


 確かに、そんなことを言われた。今になって思い出して、苦笑する。

 キリクは片っ端から、ニーアのその言いつけに背いてしまったことになる。


「そうだったね。ごめんよ、ニーア。──だけどもう、遅いんだ」


 何もかもが、もう遅い。

 大事な友人も、大事な女性も、キリクは裏切った。自分のことを隠し、欺き、自ら切り離した。親殺しの大罪を背負い、たくさんの返り血を浴びたこの手を、彼と彼女に向けようと思うほど、キリクは恥知らずではない。

 失ったものは、失ったままでいいんだ。

 自分は一人で、ここから消える。


『いいえ、そんなことはないわ』


 ニーアがきっぱりと言った。

 顔を上げると、彼女はまっすぐこちらを向いて、真面目な目でキリクをじっと見つめていた。

 ……カイトもいつもこうしてまっすぐに、こちらを見返してきたなと、ぼんやり思う。

 どうやらこのニーアは、彼もまた混じっているらしい。

 キリクはあの濁りのない澄んだ瞳がものすごく苦手で、そして同時に、ものすごく好きだった。

 おそろしく鈍感で、実力はあるくせに自信がなくて、愛することにも愛されることにも臆病で、自分には厳しいのに他人にはとことん優しい、底抜けのお人よし。

 あの明るい太陽のような眩しさに、自分のすべてを暴かれそうで、いつだって怖くて、腹立たしくて、焦がれるほどに憧れていた。


『まだちっとも、遅くなんてないわ。だってにいさまは本当は、諦めてなんていないもの。今もにいさまの心は変わらず、大事なあの人たちを求めているもの』

「……そんなことはないよ。僕はもう、すべてを捨てた。友人も、仲間も、未来も、この生も、自分が人であることも」

『いいえ。捨ててなんていないわ。だってにいさまは今もこうして、生きているじゃない。いつ死んでもいいと思いながら、それでも命は手離さないでいる。それはなぜ?』

「…………」


 いっそ死んでしまったほうが楽だと、何度思ったことだろう。

 それでもキリクは口の中に入れられる食べ物飲み物を拒みもせず、咀嚼し呑み込んで、命を繋いでいる。本気で死のうと思ったら、手足が不自由でもいくらでも手段があるのに、そこからは目を逸らして。

 それは、なぜだ?


()()()()()()()よ。本当はちゃんと、にいさまにはわかっているの。さあ、今度こそ、素直にならなければダメよ、にいさま。ね?』


 ニーアが叱咤するようにそう言って、にこっと笑った。

 これは幻だ。束の間の、夢だ。

 それは判っていても、その笑顔を見たら、胸が張り裂けそうに痛くなった。愛しい妹、たった一人の家族。彼女はもう、永久に喪われてしまった。

 ごめん、僕は君を助けられなかった。


『しっかりして、にいさま。いつまでも過去に縛られていてはダメ。わたしの大事なにいさま、わたしのことを想うなら、どうかお願い、わたしが大好きだったにいさまのままでいて』

「……今の僕じゃ、ニーアは好きでいてくれないのかな」

『賢くて優しくて努力家でしっかりしていて、ちょっぴり腹黒いところもあるにいさまが、わたしの自慢だったのよ』

「こんな情けない僕は、嫌いかい?」

『わたしがにいさまを嫌いになるわけないでしょう? 今までも、これからも、ずっと好きよ、にいさま。……だから、悲しいの』


 少女のニーアが目を伏せる。

 今のにいさまを見ているのが悲しい、と。


 そう、とキリクは小さな声で呟いた。

 枷に嵌められた両手の指先が震えている。唇も震えて、微笑の形が保てない。何かが詰まって塞がった喉から、ようやく掠れた声を絞り出した。


「それは……困るな」

 ニーアに嫌われるのも、悲しませるのも。

 どちらも、困る。


「ごめん、ニーア」


 片方だけ開いたキリクの右目から、涙が一粒だけ、零れて落ちた。

 胸の中につかえていた何かが、それと一緒に、外に出たような気がした。


『──にいさまの大事な人たちは、にいさまのことを救ってくれる。あちらから差し出された手を、今度こそ、ちゃんと掴むのよ。ほら!』


 ニーアが笑顔でそう言った瞬間、大音量の喚き声が耳をつんざいた。



           ***



 ニーアの姿がふっと消失し、ただの暗闇が戻ってくる。

 キリクがいるのは、見慣れた牢獄の中だった。意識が現実に戻ってくると同時に、全身を蝕む苦痛が一気に襲いかかる。奥歯を喰いしばり、胸をぎりぎりと締めつけてくるような圧迫感に耐え、キリクは耳を澄ました。

 叫び声の主は牢番だと察しがついた。キリクがいる牢は最も奥まった場所にあるため、何が起こったのかを確認することは出来ない。しかし、聞こえてくる音からして、不穏な気配を感じるには十分すぎるほどだった。

 「うがっ」という苦悶の声と、くぐもったような殴打の音がして、何か重いものが落ちるような音が続いた。牢番と誰かが争っているのだとしたら、その誰かは相当な手練れということだ。ほとんど相手に反撃の隙を与える間もなく、あっという間に倒している。

 ジャラジャラという金属が触れ合うような音がするのは、おそらく牢番がぶら下げている鍵束を外しているのだろう。

 この牢獄は罪人が入れられる場所ではあるが、そもそもクリスタルパレス内で罪を犯す者はほとんどいないし、いたとしてもすぐに神都の牢獄へ送られるのが普通だから、現在ここに収容されているのはキリクしかいない。


 つまり、やって来たのが誰であれ、その目的はキリク以外にないということだ。


「……っ」

 勝手に眉と口が歪んだ。心臓が大暴れして、胸の内側を叩いている。痛い。傷の痛みよりももっと、心のほうが痛い。

 悲鳴を上げる身体に鞭打って、下半身に力を入れた。

 筋肉と体力が衰えている上に、すっかり萎えてしまった足が、何度もバランスを失わせる。それでも踏ん張って立ち上がろうと努力した。足首につけられた鉄環は鎖で壁に繋がれているから、鉄格子まで手も届かないことは百も承知だ。けれどどうしても、そうせずにはいられなかった。

 ふらふら覚束ないが、なんとか立てた。冷たい岩の感触が、じんじんと足裏を伝わってくる。



 立ち上がることが出来たじゃないか、ちゃんと。

 やって来る死を待っているだけだと思っていたのに。このまま朽ち果ててもいいと考えていたのに。

 立てる。それくらいの力を残している。そのために蓄えていたものがある。

 結局、自分はやっぱり、願っていたんだ。

 ──生きたいと。



 軽い足音がこちらへ近づいてきていた。

 暗くて、岩肌が剥き出しの地面は、とても危なくて走れたものじゃないというのに、それでももどかしげに駆けてくる。ああ、ほら、やっぱり転んだ。ハラハラするキリクの心配を余所に、足音の主はまたすぐに起き上がって走り出したらしかった。

 転んでも、つまずいても、一途に、懸命に、こちらへ向かって走ってくる音。

 なんのために、なんて愚かなことはもう考えるのはやめた。熱いものが体内に膨れ上がって、今にも溢れ出そうなのをこらえるのでやっとだった。

 ……本当にバカなんだから、君たちは。


「キリク!」


 力強く迷いのないその声に、すべての苦痛と懊悩が吹っ飛んだ。

 暗闇を一瞬でかき消してしまうような、眩い光輝。

 怖くて、腹立たしくて──焦がれるほどに、憧れる。

 待っていた。会いたかった。その顔が見たかった。声が聞きたかった。自分一人では、きっともう立ち上がれなかった。その力は、二人がキリクにくれたから、出せた。



 わかってるんだ、いちばんバカなのは、僕だった。

 君たちがこちらに向けていっぱいに伸ばしてくれた手を、今度こそ、握り返すよ。



          ***



「──キリ」

 姿を見せるや否や、鉄格子に飛びついたクーは、キリクの悲惨な様子を見て絶句した。

 強張った表情のまま牢番から奪った鍵で錠を開け、すぐさま中に踏み込んでくる。

 キリクの手足が枷と鎖で拘束されているのを確認してまた息を呑み、持っている鍵束からそれを外すための鍵を探しはじめた。

 指が大きく震えすぎて、何度も取り落としそうになっている。喉から唸るような声を押し出し、ガチャガチャと鍵束を探る手つきはなんとも荒っぽい。


「さっき転んだだろう? 怪我はない?」

「ないよ」

「でも、手に擦り傷がついてる」

「ただの模様だ」

「落ち着いて、クー」

「わかってる」

「その鍵はどう見ても大きさが合わないね」

「わかってるって、うるさいな!」


 眦に涙を溜めて怒りながら、クーはようやく目的のものを見つけ出した。

 手首に嵌めていた枷を外し、足首の鉄環を外す。ジャラン、という重い音を立てて鎖が床に落ち、キリクは久しぶりに自由になった両手をまじまじと眺めた。

 指が二、三本折れているが、一応、右手で物を掴むことくらいは出来そうだ。ちょっと動くだけで身体がバラバラに引きちぎれそうな痛みはあるが、この際そんなことは言っていられない。

 今はむしろ、この苦痛を感じなくなるほうが怖かった。それはすなわち、自分が気絶したということだからだ。これ以上、クーの余計な荷物になるわけにはいかない。


「キリク、歩ける?」

「全速力で走ること以外なら、なんとか」

「オレに掴まって」

「いくらなんでも、自分より小さくて細い女の子に縋るほど弱っては──」


 いないよ、と言いかけて足を一歩前に出した途端、ふらついた。


「ほら見ろ」

「ここは暗くて足元がよく見えないんだ」

「相変わらず口だけは廻るやつだな! いいから掴まれ、ぶっ飛ばすぞ!」

「君も相変わらず乱暴だね……自分が本末転倒なことを言ってるって、わかってる?」


 言い返しながらも、素直に差し出された小さな手を取り、ぎゅっと握った。

 温かくて、柔らかい。

 キリクは目を細めた。


 ……きっと、ずっと、これを求めていた。


 クーはキリクの腕を自分の肩に廻し、支えるようにして背中に手を添えた。

 身長差があるので、肩を借りるというよりは杖代わりになってもらうという感じだが、一人の時よりもずいぶん歩くのが楽になった。


「カイトは?」


 その問いに、クーからの返事はなかった。

 唇を引き結び、目を前方に据えつけて、足を動かしながら黙りこくる。その沈黙が何を意味しているのか、キリクには判らなかった。クーがいるということは、カイトだって必ずいるはずだという確信があるからこそ、ざわりとした不安が湧き上がる。

 あの男がクーから目を離すとしたら、よほど切羽詰まった事情があるということではないのか。


 一体、今、どんな状況で、何が起こっている?


「クー……」

 もう一度問いただそうとしたら、クーの足が止まった。

 上へと続く階段のところまで出たのである。最下段のところに、おかしな格好で牢番がうつ伏せで寝そべっている。視線を上方へ移すと、階段の突き当り、扉の手前に一人の男が立っていた。

 扉を細く開けて、その隙間から外を窺っている。そこから射し込む光で、顔が見えた。

 あれは──


「……コウ?」


 どう見ても年寄りの姿だが、細い体つきと、こちらを見下ろす黒い瞳が、キリクが知る男のそれだった。変な扮装をして他人を惑わす彼の悪癖は、キリクもよく知っている。

 コウは口に人差し指を当てて、来い、と手で合図をした。

 クーの手を借りながらなんとか階段を上っていくと、コウはじろじろとキリクの頭からつま先までを眺めて、「またこっぴどくやられたもんだねえ」と感心するように言った。


「まあ、生きていてなにより。なんとか間に合ったようで、よかった」

「コウ、カイトは? 一緒に来たんだろう?」

「あの過保護男が、俺と神女だけでパレスに来させると思うかい? まったく、あんたが人を見る目はイヤというほど確かだったよ。あれくらい神女のお守り役に適した奴は他にいないね」


 そう言いながらもう一度外を確認し、扉を開ける。

 その先に広がる光景を目にして、キリクは驚いた。

 扉前に男が一人、そして向こうへと伸びる廊下に、ざっと見ただけで十人ほどの男が倒れている。

 全員、宮士の制服を着ていた。一瞬、自分の殺戮行為が脳裏に蘇ったが、眼前に倒れている男たちは、どこからも血を流してはいなかった。よくよく気づいてみれば、呻きながら、もぞもぞと身動きしているのもいる。


「すげえ不器用な性格のわりに、こういうところは器用だよね。これだけ人数がいたら、殺しちゃうほうがいっそ簡単だと思うんだけど、みんな気を失わされてるだけみたいだ。しかも効率よく一発で」


 コウは呆れたように言ったが、キリクは唖然とした。


「……これ、みんなカイトが?」

「手前にいるのは、俺だけどね。ここに入る前にちょっと面倒なことになってさ、あいつが足止めを引き受けてくれたんだよ」

「でも、肝心のカイトの姿がないようだけど」

「たぶん、宮士たちの目を俺たちから逸らすために、自分に注意を引きつけようとしているんだろう。せっかくカイトが陽動をやってくれているんだから、俺たちはそれとは違うルートで水晶の間に行かなきゃならない。キリク、案内できるかい?」

「陽動……」


 キリクはクーのほうに目を向けた。

 クーは、倒れている宮士たちの向こう、廊下の先をじっと見つめている。固い横顔は、無表情に近かった。いろんなものを抑え込んで、かえって何も外には出なくなっているようだ。

 カイトが突然パレスから飛び出して行方が判らなくなった時も、こういう顔をしていたのを思い出す。

 あの時も、クーはキリクの前では何も言わず表情も変えず、青い顔で、ただ黙って耐えているだけだった。

 弱音も吐かない。涙も落とさない。


 ……カイトはちゃんと判っているのだろうか。

 キリクはずっと近くで見ていたから知っている。

 クーが弱いところを曝け出すのは、彼の前だけ。

 カイトが傍にいないと、そしてその目が自分に向けられていないと、彼女は途端に、不安そうになる。

 行き場所を失った迷子のように、頼りなく、心細げになる。

 可愛いヤキモチをやいて独占欲を見せるのは、それだけ、クーがカイトという存在を誰よりも必要としているからだ。


「クーは、それでいいの?」

 訊ねると、クーがこちらを振り返り、キリクの顔を見上げた。

「カイトと別行動になってもいいのかい? 心配なら……」

「ううん」

 意に反して、クーははっきりと首を横に振った。

「カイトはちゃんと後で来るって言った。自分も水晶の間に行くって。どこにいても、必ず見つけるって」


 ──どこにいても、必ず見つける。

 カイトは決して、嘘をつかない。

 その彼がそう断言したと言うのなら、キリクもそれを信じたい。


「だから行こう、キリク。この手で、いろんなものを引っくり返すんだ」

「…………」

 キリクは口を閉じ、彼女の顔を見返した。

「──いいのかい」

「そのために、ここに来たんだ。キリクを助けるため。そして、最後の神女になるために」

「最後の神女……」


 呟いて目を閉じ、そっと息を吐きだした。


 彼女がそう言ってくれるのを願い、同時に恐れてもいた。

 キリクはこれまで、四人の神女たちがリリアナの力を与えられ、アリアナに喰われたのを目の当たりにしてきた。不安はある。恐怖もある。本当のことを言えば、この国のことよりも、クーが平穏に暮らせるほうがよほど重要なことではないか、と思う自分もいる。

 クーまで失ったら、キリクはその時こそ生きていく自信がない。

 ……でも、離れている間。

 クーはクーで、たくさんのことを考えて、迷って、悩んだのだろう。五人目の神女の話を聞いて、その意味が判らないほど愚かな娘じゃない。革命などというものに巻き込まれ、細い両肩に圧し掛かる重みにも苦しんだはず。

 それでも彼女は、このクリスタルパレスへと戻ってきたのだ。カイトと共に。


「決めたんだね?」

「うん」


 すべてを知った上で彼女が得た答えがそれだというなら、キリクは何も反論するすべを持たない。

 傍にいて、守り、見届ける。それだけだ。


「じゃあ、行こう。別の道筋を通って、水晶の間へ」

 キリクの言葉に、クーは頷いた。

 コウが手を出し、半ばキリクを背負うようにして担ぐ。一瞬眉を顰めたのは、想像以上にキリクの体重が軽かったためだろうが、何も言わなかった。

 キリクとクーは、首だけで振り返り、カイトが進んでいったと思われる方向を見やった。もう、そこに彼の姿はないけれど。



 ……早く来るんだよ、カイト。

 僕らの神女が──いや。

 僕らの大事な女の子が、待っている。





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