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招かれざる神女(旧「5th」)  作者: 雨咲はな
Ⅺ.境界の守り人
45/50



 いよいよ決行が翌日に迫った夜、小さな家の中には多くの棄民が集まった。

「革命前夜、というわけだね」

 人々の中心にいるコウが、グラスを手にして、いつもの飄々とした口調で言う。

 周囲の面々もそれぞれ手にグラスを持っているが、その中に入っているのは酒などではなく、なぜか牛乳である。全員、しんみりしながらコウの声を聞いていても、そのグラスの中身を見下ろす時は、どこかげんなりとした表情をしていた。


「俺たちはこれまでずっと、たくさんのことに耐えてきた。それも明日で終わり──とはいかないかもしれないが、少なくとも、この閉塞した状況に風穴を開けることくらいは出来ると信じてる。つらいことや苦しいことも多くあったけど、誰もがこの時のために歯を喰いしばって進んできた。押さえつけてくる大きな手を振り払い、今こそ頭を上げて、前を向く時だ」


 その輪から外れた部屋の隅で、カイトとクーとセルマもまた、真面目な顔つきでその話に耳を傾けている。

 革命軍の一員というわけではないから中には入らないが、メンバーたちは誰も、三人がその場にいることに異を唱えなかった。


「俺たちは棄民だ。俺たちは、祈る神を持たない。だけど間違いなく、このアリアランテの国民だ。この牛乳も、パンも、野菜も、毎日毎日汗水たらして働いて、俺たちが作り出したものだ。今までずっとこの国を支えてきたのは神民ではなく、俺たち棄民だ。俺たちに神はいないが、自分自身に誇りを持っている。俺たちは自分の手で、自分の足で、この国を変え、未来をもぎ取ろう。……乾杯!」


 コウがグラスを持ち上げると、メンバーの全員が「乾杯!」と声を揃え、中身を飲み干した。

 カイトも少しだけグラスを上げて口に持っていき、一気に傾けた。

 酒を飲んだわけでもないのに、その場にいる全員が高揚しているのは、緊張と興奮のためなのだろう。互いの肩を叩き合い、すでに涙ぐむ気の早いやつもいる。妙に浮かれているようにも見えるのは、もちろん不安や怖れもあるからに違いない。ここには男もいれば女もいて、みんな年齢もバラバラだが、それぞれが明日戦地へと赴く兵士なのだ。


「ようカイト、飲んでるか?」

 複雑な気持ちで騒ぐ彼らを眺めていたら、ラダに肩をばんと叩かれた。手にはまだたっぷり牛乳が入った、重そうな水差しを持っている。

「飲んでるかも何も、牛乳じゃないか」

「それについての文句はご法度だ。俺らが喜んでコレを飲んでいると思うなよ?」

「革命軍は酒類禁止なんて決まりでもあるのか?」

「あるわけねえだろ。これさえなきゃ、コウは本当に最高のリーダーなんだがなあ」

 首を振ってしみじみしているが、何を言っているのか判らない。しかし、不思議と人を惹きつけ、皆の心を掴む演説だって上手くこなすコウにも、欠点はあるということらしい。

 とくとくとグラスに牛乳を注ぎ込まれ、しょうがなく口をつける。

「──なあ、カイト」

 その様子を見ながら、ラダが口を開いた。


「おまえ、明日が終わったら、どうするんだ?」


 ん? と目を瞬くと、ラダは少し口を曲げてがりがりと頭を掻いた。不愛想な顔をしているのは、機嫌が悪いというわけではなく、照れ隠しなのだろう、ということくらいは判った。

「どうって?」

「俺らはそりゃ、はじめた責任てものがあるからよ、どういう方向に進むにしろ、その後始末に奔走することになるだろうさ。たとえ明日上手くいったとしても、この革命の目的が達成されるまでは、何年もかかることだろうからな」

「……だろうな」

 それにはカイトも同意するしかなかった。



 革命軍が掲げる要求は二つ。

 神民も棄民と同じく、税金を納める義務を負うこと。そして、「棄民を殺しても罪には問われない」というこの国の法を撤廃し、改めること。

 それだけ。たったそれだけだ。

 しかし失敗すればこの要求は棄却されるどころか、より重い枷を嵌められることになる。成功しても、それが実現するまでは、おそらく気が遠くなるほどの時間を必要とする。

 棄民にとって、明日の革命は苦難の終わりではなく、新たなる試練のはじまりなのだ。



「でも、おまえらの目的はそれとはまた別なんだろ。明日を乗り越えて、明後日を無事に迎えられることになったら、どうするつもりだ?」

「…………」

 カイトは無言で、手の中のグラスに目線を落とした。答えたくなかったわけではなく、どこを探しても答えになるようなものが見つけられなかったからだ。

 正直、「その先」のことなんて、まったく考えていなかった。



 もしも明日を乗り越えられたら、明後日は──



「あのよ、特に予定がなかったら、俺たちを手伝ってくれねえか? おまえがいてくれりゃ、俺たちも力強いしよ」

 もごもごと口ごもりながら言うラダを、驚いて見返す。そんなことを頼まれるとは、思ってもいなかった。

「半民は信用ならない、って言ってなかったか?」

「なんだよ、蒸し返すなよ。あの時は悪かったよ。コウに聞いたぜ。出来るだけ犠牲を出さないようにって、いろいろ考えて、教えたり動いたりしてくれたんだろ?」

 そして考えるように目線を宙に向け、首を傾げた。


「……俺にも、偏見や思い込みってのがあったんだよなあ。神民はやっぱり好きにはなれねえけど、一対一で向き合う分には、そんなもんあんまり関係ねえかも、って思うようになったんだ。きっと、半民、神民、なんて名前で括っちまうのが悪いんだな。話してみりゃ、俺らと同じ、泣いたり笑ったりする普通の人間だってことが判るのに」


 そう言いながら、ちらっとセルマのほうを見る。セルマもまた驚いたように目を丸くして、頬を赤らめ俯いた。

「あ、いや、その、なんだ」

 それを見て、なぜかラダまで赤くなる。途端にあたふたしはじめ、「と、とにかく、カイト」と強引に話を引き戻した。

「まあ、ちょっと考えてみてくれってことだ。おまえ見た目が悪くないから、女の子たちも興味津々なんだぜ。実は、何度か橋渡し役も頼まれててさ。まあ今はそれどころじゃねえからって断っておいたけど、落ち着いたらいくらでも紹介してやるからよ」

 ラダのその言葉で、隣にいるクーの周囲の空気がさあっと冷たくなった。

 カイトは慌ててそちらを向いて、違う違うと手を振った。無反応でいられるのも堪えるが、これはこれで、やっぱり怖い。

「余計なことを言うな、ラダ。──その、今は無理だけど、ちゃんと考えてみるから」

「おう、今のうちに良さそうなのを目星つけとけよ。胸と尻はでっかいほうがいいか? だったらな、栗毛の」

「そっちじゃない! これから先のことについてだよ!」

「あ、そっちか。うん、そうだな、まずは明日だな」

 ラダはうんうんと納得して頷いた。カイトが焦っていることにも、その横でクーがむくれていることにも、気づいていないらしい。鈍感だ。人のことは言えないが。


「また、お互いの顔が見られるといいな」

 なにげなく付け足すように言って、にやりと笑う。じゃあな、と手を挙げると、水差しを持って仲間の元へ戻っていった。


 しばらくの沈黙を挟み、

「……ふーん、カイトは胸と尻がでっかいほうがいいのか」

 と、隣でボソッと呟かれ、ちょっと背中が寒くなった。

「いやいやいや、そんなことないって」

「女の子たちも興味津々、って話を聞いてもぜんぜん驚いてなかったな。思い当たるフシがあるんだろ」

 今度は冷や汗をかいた。なぜそう鋭いのだろう。

「言い寄られたのか。いつ、どこで、どんな子に?」

「いや、ないって、そんなこと。まったくラダのやつは何を言ってるんだろうな。あ、クー、もっと牛乳飲むか? 飲んで、今のうちに少し寝ておけ、な? まだ暗いうちにここを発つって、コウも言ってたし」

「オレは子供か! 悪かったな、いろんなところが成長してなくて!」

 眉を吊り上げたクーに、脛を蹴っ飛ばされた。「でっ!」と叫ぶカイトにくるっと背を向けて、すたすたと部屋を出て行く。

「久しぶりにやられた……」

 と足を擦っていたら、セルマが我慢できなくなったように噴き出した。こういうのも久しぶりだな……と、内心で思う。


 次にクーに蹴飛ばされる時は、キリクも一緒に笑ってくれるといい。


「──必ず、キリクを連れ帰るよ」

 そう言うと、セルマは笑みを収め、カイトの顔を見返して、「はい」としっかり頷いた。

「ここも大変だろうと思うけど、留守を頼む」

「はい。クーさまのお母さまは、わたしが何としてもお守りいたします。カイトさまもクーさまも、どうかご無事で」

「うん。……ところで、その呼び方、そろそろ変えてもらえないか? さまなんてガラじゃないんだ。クーもそう言ってなかった?」

「何度も言われました。でも、わたしにとっては、キリクさまも、キリクさまが大事にされていたカイトさまもクーさまも、大事なお方です。だから変えるつもりはありませんと申しました」

「けっこう頑固だな」

「人のことは言えないのでは? カイトさまも、クーさまも、キリクさまも」

 微笑みながら言い返されて、カイトも「そりゃそうか」と笑った。



 自分たちは三人が三人、頑固で意地っ張りで強情だ。

 それぞれが少しずつ違うほうを向いて、足並みだって揃っていない。歩幅も、テンポも、速度も、見事なまでに食い違う。三人とも自分勝手なことを思い、考え、行動して、ちっとも噛み合わなくて、嫌になる。自分も含め、まったくもって、どいつもこいつもバカばっかりだ。

 棄民と、半民と、神民。

 お互いに異なるもの、判らないことは数えきれないくらいあるけれど。

 ──それでも、やっぱり。



 傍にいたいと、願うんだ。



          ***



 その夜、短い睡眠の間に、夢を見た。



 夢の中で、カイトは幼い子供になっていた。自分のすぐ間近には、女性の顔が迫っている。

 彼女の顔の輪郭や目鼻立ちがどこかぼんやりとおぼろげなのは、もう記憶が薄れてしまっているためなのかもしれない。足りない部分を潜在意識が補完しようとしているのか、彼女はクーの母親に似ているようにも見えたし、女神リリアナの像に似ているようにも見えた。


 五歳くらいの子供──昔の自分──は、ひどく怯えていた。


 近寄ってきたその人が、いつもとはまったく違っていたからだ。泣いていることが多かったが、それでも時々は笑顔も見せてくれた優しい彼女が、今は人形のような無表情で、いっぱいに見開かれた瞳には感情がない。

 空気がぴんと張り詰めて、針のように肌に刺さって痛かった。生まれた時からほぼ他人のいない環境で過ごし、小さな世界しか知らない子供に、その緊迫しきった雰囲気は圧力が強すぎて、恐怖でしかなかった。

 自分の顔に、荒い呼気がかかる。細い手にはナイフが握られていた。鋭い刃を伝って、真っ赤な液体が滴り落ちている。


 そうか、刺されたのだ。


 赤い血は、カイトの腹からも流れていた。苦痛で汗が滲み、頭がじんじんと痺れる。

 痛いよ、苦しいよ、助けて。

 そう思っても、声が出せない。助けを求めるその人こそが、自分を刺したのだから。

 ごめんね、と彼女が言った。

 ナイフを持つ手をぶるぶると震わせて、泣いていた。まるで面を被ったかのように表情がないのに、目からはずっと涙が零れている。



 ごめんね、ごめんね、おかあさん、もうあなたを守ってあげられない──



 自分は母を救えなかったのだ、とカイトは悟った。不自由な暮らしでどんどん精神を弱らせていった母親は、とうとうそれを終わらせることを決意してしまった。

 自分という人間は、その決意を止められる存在にはなり得なかった。

 幼いながら、絶望というものを知った。カイトにとって、母親は唯一だったのに。自分に笑いかけ、自分を守り、自分の傍にいてくれる、たったひとつの宝だったのに。

 救えず、守れず、大事な母は孤独なまま、悲嘆の中で生を終わらせようとしている。

 悲しくて、悔しくて、カイトは必死に謝った。ごめんね、お母さん。僕は──俺は。


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 そこにいるのは、子供ではなく今現在のカイトになっていた。背が高くなり、手も足も、どこもかしこも、すぐ前にいる女性よりも大きい。

 ごめん、と大人になったカイトも謝った。

 俺はそこには行かない。

 一緒に死んでやれたらよかったのにと何度も悔いた。生き残った自分を何度も責めた。どうしてあの時、母からナイフを取り上げ、自らの首に突き立てなかったのかと。

 でも──ごめん。

 俺は生きるよ、これからも。外の世界は広くて大きくて、つらいことも、しんどいことも多いけど、それでも逃げずに立ち向かっていくよ。今度こそ、大事な人を守りたい。そのために、頑張って強くなる。

 母さんを救えなくてごめん。

 でも、俺を産んでくれて、ありがとう。


 夢の中の母親は、そう、と返事をした。ナイフが離れていく。

 記憶の中の母親と、クーの母親と、女神リリアナの像が混じったその顔には、まぎれもなく慈愛が浮かんでいた。

 実際の過去とは違う、はずだ。夢の中だからこそだろう。現実の母親はこんな風に微笑んでいなかった。そもそも、幼い頃の記憶は曖昧で、特に腹を刺されて意識が朦朧としていたところからは、あちこち抜け落ちた断片しか、自分の頭の中には残っていない。

 でも、柔らかく綻んだ唇から出た声は、確かに聞いた覚えがあるものだった。


 ……いきなさい、カイト。




          ***



 翌日早朝、朝の大行列の中に混じって、一台の馬車がクリスタルパレスの門をくぐった。

 荷台を曳いているのはずいぶんと毛並みの良い、堂々とした風格の黒馬だったが、幸いにして門番の注意を引くことはなかった。

 御台に座る二人の男は、一人は細身の年寄りで、一人は鼻の下に髭を生やした長身の青年。門番は手渡された許可証と彼らの顔を見比べて、特に問題はないと馬車を見送った。




「……ウソだろ。ものすごくすんなり通れたぞ」

 カイトが付け髭を引っぺがしながら、茫然と呟いた。

 門番は、積み荷を検めることもしなかった。拍子抜けするほどだ。

 確かに、ずらりと並ぶ馬車をいちいち確認するのは手間だし、時間がかかるだろう。しかし、今は非常時である。棄民の街には連日、神都から大規模な捜索隊が送り込まれ、五人目の神女の行方を追っていたはずだ。もっと警戒してもいいではないか。

 隣に座る年寄りの姿をしたコウが、「だから言っただろ」と平然と応じた。

「パレスの門番はね、判断力ってものを持ち合わせていないんだよ。ちゃんと書類さえ整っていれば通行を許可する。その書類を作るところまでは簡単ではないんだけどね」

 カイトは以前、自分がここに入ろうとした時のことを思い出した。

 許可証がないという理由で、何をどう言っても頑として門を開けようとしなかった番人は、まるで同じ言葉を発するだけの置き物だ、と思ったものだ。

 融通が利かなすぎる。裏を返せば、表面上が取り繕ってありさえすれば盲目も同然。


「門番だけじゃないよ。パレスの中にいる連中ってのは、その期間が長ければ長いほど、どんどん自分で考える力を失っていくんだ。それだけ神の力ってやつに依存しきっているのかもしれないし、この地を巡る『もの』が、そういうのを吸い取っているのかもしれないね」


 コウの言葉に、少しぞっとして目線を下に向けた。

 ──クリスタルパレスの下を蠢く、得体の知れない力。

 足元からざわざわとしたものが這い上がってくるような不快な感じがしたのは、気のせいではなかったのだ。


「その書類は偽物なのか?」

「いいや、宮殿発行の用紙を使った、れっきとした本物だよ。ここに記されている店の名も商人の名も、すべて架空のものだけど」

「どうやってそんなこと……」

「持つべきものは頼り甲斐のある協力者だよねえ」

「──キリクか」

 カイトはため息をついた。


 自分はその共犯者の前で、さんざん「頬に傷のある怪しい男」についての報告をしていたわけで、まったく忌々しいことこの上ない。

 キリクに会ったら、真っ先に文句を言ってやろう、と決意した。


「それがいちばん安全なルートというだけで、他にもパレスに入る手立ては幾つかある。正々堂々と正門を通ろう、なんて思わなきゃ、やり方はそれなりにあるんだよ。俺たちはずっと以前から、この場所を探ってた。実際にこの目で見てみなきゃ、わからないことはたくさんあるからね」

 そういえば、パレス内に仲間を潜ませている、と言っていたっけ。ふと疑問が頭に浮かんだ。

「外からは攻撃できなくても、そうやって入れるなら、中から何とかすることも出来たんじゃないか?」

「そりゃ、宮殿に押し入りソブラ教皇を亡き者にしたらそれで片がつく、ってことならそうするけど。でもそれだけじゃ、国を変えることまでは出来ないだろ? 俺たちの目的は、逆賊になることじゃない。あくまで、棄民の立場を認めさせることなんだよ」

「そうか……そうだな。悪い」

 コウの返事はどこまでも正論だ。カイトの言葉は、革命軍を侮辱するものであったかもしれない。恥じ入って謝ると、コウがくすりと笑った。

「俺はね、カイト」

「ん?」

「革命が成功したとしても、今まで見下されていた分、神民を踏みつけてやろう、とは思ってないんだ。他の連中がどう思っているにせよ、それじゃ負の連鎖になるだけさ。国を成り立たせるためには、多少の格差も必要なのかもしれない。上に立つ者も不可欠だろう。それを俺がしようなんて考えちゃいない。教皇一人の首を落としたって、大して益はないしね。それどころか、混乱した状態が長引いて、ますます悲惨なことになる。教皇が玉座にしがみつきたいなら、好きにすればいい」

「……うん」

「だけどさ」

 手綱を操りながらまっすぐ前を向いて、コウは口の端を上げた。


「──だけど、この目で見えないものに服従するなんてのは、真っ平だね。この世界に、神なんて要らない。人ならざる力があるというなら、俺はそれを利用する側に廻る」


「…………」

 どこか凄みのあるその微笑を浮かべた横顔に、一瞬、ぞくりとした寒気が走った。

 教皇はいても構わないが、人ならざる力に支配されるのは許せないという。

 普通は、その逆ではないのか。同じ人間である教皇には反感を覚えても、人ではないものには従うことで安心を得ようとするものだ。

 これまでの人生の何が、どんな経験が、彼にそう思わせるに至ったのか、カイトにはまったく判らない。しかしその言葉には、不意に黒々とした深淵を覗き込んでしまったような闇を感じた。

 コウという男の、底知れない不気味さが、垣間見えた気がした。



          ***



 ガラガラと喧しい音を立て、並走していた馬車の群れが、あちこちに分かれ、それぞれの目的地へと向かいはじめる。

 頃合いを見計らって、カイトたちが操る馬車はさりげなく流れから外れ、目立たない建物の裏へと廻り込んだ。

 馬を止め、周囲を見渡して人目がないことを確認し、御台から降りて荷車のほうへと向かう。

 幌を捲って内部に入り、数個並んでいる樽のうちのひとつを開けた。


「……ふう」

 中でしゃがみ込んでいたクーが、息を吐きだして立ち上がる。


「上手くいったみたいだね」

「まあ、ここまでは上々というところだな」

 大変なのはここからだ。カイトはクーを抱き上げ、樽の中から出してやった。

 荷台の床に足をつき、両腕を上げて伸びをする彼女は、いつものような男物の軽装ではなく、一目で上等と判る女性用の衣服を身につけている。

 セルマがクリスタルパレスを出た時に着ていたものだ。二人は背の高さも体型もそれほど差がないので、借りて着用してもほとんど違和感がない。

 クーは髪の色を変え、セルマの手によって綺麗に化粧も施されている。これなら、まず棄民だと疑う人間はいないだろう。

 カイトは続けて別の樽を開けて、その中に入っていた衛士の制服を取り出し、素早く着替えた。神殿から逃げ出した時に着ていたものだが、こうしてまた役立つ日が来るとは思わなかった。

 制服と一緒に入れていた剣を出して、腰に装着する。

「いいぞ、クー、外に出ろ」

 クーを促して飛び降りると、コウが荷台から外した黒馬を引いてきた。荷物の運搬役をさせられたことが不本意なのか、あまり機嫌がよくなさそうだ。

「悪いな、これからもう少し働いてもらうよ」

 首筋を撫でて言い聞かせる。三人を乗せるのは少しきついかもしれないが、距離が短いので我慢してもらうしかない。幸い、クーとコウはかなり細身なので、大丈夫だろう。

「コウ、おまえ武器は持たなくていいのか?」

「ああ、俺は役回り上、目立つようには持てないからね、服の中に多少仕込んであるよ。その気になればそこらに転がってるものを武器の代用にすればいいし、あとは状況次第で何とかするさ」

 パレスの門番とは真逆で、コウは非常に柔軟性に優れ、適応能力が高い。箒でカイトと互角に渡り合ったくらいなのだから、特に心配することはないかもしれない。

「──よし」

 カイトは宮殿の方向に顔を向けて、目を眇めた。

「行くぞ」




 蹄を鳴らし疾走してきた馬を見て、宮殿の門番をしていた宮士たちは驚いたように腰の剣に手をやった。

 ぐっと手綱を引くと、馬は甲高いいななきを上げ、前脚を振り上げて急停止した。そこから飛び降り、何事が起こったかと固くなる宮士の元へと駆け寄っていく。


「バーデン司教の命により神殿から参上した! 至急、牢内の囚人に面会させていただきたい!」


 怒鳴りつけるような勢いで告げる衛士に、二人の宮士は狼狽して目を見合わせた。

「ろ……牢内の囚人、とは」

「キリク・ソロ・リシャルだ! その囚人の妹らしき娘が、先程パレス内から発見された! バーデン司教が、即刻囚人に会わせて本人かどうか確認せよとの仰せだ! 急いでいる、早く案内を!」

 キリクの名を出されて、宮士たちは明らかに怯んだ。

 その男は、自分の父親ばかりでなく、同僚の宮士たちを殺害した、冷酷無比な大罪人である。そして、司教ら重鎮たちから「絶対に死なせるな」との命令が出ている重要人物でもある。

 宮殿において、物事を進めるには何事も、規律と序列が優先される。普段であれば、申請もなく衛士を牢に案内することなど考えられない。

 しかし、突発事に対する判断力に欠けるのは、宮士たちも同じだ。上からの「命令」ならば従えばいい、と彼らの頭には刷り込まれている。その顔には逡巡が現れていた。


 宮士が馬のほうに目をやる。

 そこに乗っているのは、頭からすっぽりと布を被り、小さくなっている若い娘。そして、いかにも力のなさそうな老人だ。


「あの年寄りは」

「パレス内で娘を匿っていたらしい。あちらはそのまま牢に放り込んでおけとのことだ」

「バーデン司教はいらっしゃらないのか」

「後からおいでになる。司教が馬が苦手なのは知っているだろう? 急を要するので、神殿付き衛士である自分が先行して参った。早急に頼む。何度も言うが、これは司教からの絶対命令だ」

「む……」

「キリク・ソロ・リシャルは、非常に重大な秘密を握っている。ずっと口を割らずに粘っているようだが、妹の顔を見せれば、奴のその忍耐も挫けるだろう。いいか、クリスタルパレスを揺るがすほどの、重要機密なんだ。事は一刻を争う。すぐにでもあの男から秘密を聞き出して、報告しなければならん。ぐずぐずしていたら、司教どころか教皇の怒りも買うことになる。あんたも、比喩ではなく首が飛びかねないぞ」

 抑えた声音で耳元に脅しを吹き込むと、宮士の顔から血の気が抜けた。

「わ……わかった。二人を連れて、ついてこい」

 カイトは頷いた。




 宮殿内に入り、磨き抜かれた廊下を歩く。

 大体の見取り図は、すでにカイトの頭の中に入っている。キリクがいる牢は、建物の端の地下。そこから水晶の間までは距離がある。宮殿内は複雑に入り組んでいて、かなりの回り道をしなければ辿り着けない構造になっていた。


 欺瞞が暴かれるのが先か、あるいは、キリクを救出し水晶の間へ到着するのが先か。


 見張りの宮士たちが、じろじろと不躾な視線を投げつけてくる。見慣れない衛士を不審に思っているのかもしれない。

 もともとパレスに縁のなかったカイトが宮殿に出入りしたのは、クーが教皇と対面した、あの一度きりだ。衛士と宮士とでは接触もないから、カイトの顔を見覚えている者がいるとは思えない。神女と共に逃亡した衛士だと露見する恐れは少ないはず。

 それは判っているが、身体の内部に緊張感が膨れ上がるのはどうしようもなかった。カツンカツンと靴音が響くたび、首筋がチリチリとよだつような感覚がする。

 頭から布を被ったクーも、きっと同じなのだろう。一歩一歩しっかり進んでいるように見えるが、握り合わせた両手は、さっきからずっと小さく震えている。

 コウは下を向いているため表情が判らないが、何があってもすぐ対処できるようにか、そっと指を握ったり開いたりを繰り返している。全身を張り詰めさせて、周囲を窺っているのが感じられた。


 ぴた、と先導する宮士が唐突に足を止めた。


 咄嗟に、指先が反応した。剣の柄に向かいかけた右手を、必死に自制する。背中を冷たい汗が伝っていった。

 後ろを振り向いた宮士は、カイトの顔を見て、廊下の奥を指差した。

 行き止まりの壁に、素っ気ない取っ手だけがついた目立たない扉がある。扉の前には宮士が一人、腕を後ろに組んで立っていた。

「あの扉の先に、下へと向かう階段がある。降りていけば牢番がいるし、そいつに事情を話すがいい。俺はこのことを上に知らせてくる」

「ああ、そうだな」

 乾いた喉から、なんとか普通の声を出した。

「では、牢に向かわせてもらう。いずれバーデン司教もおみえになるだろう。囚人から話を聞きだせたら、きっとお喜びになるさ」

「そうだといいがな。なにしろ強情なやつらしいから」

 ふんと鼻で息をして、宮士はそのまま方向転換した。クーとコウの横を通り、カイトの脇をすり抜ける。完全にその背中が見えたところで、カイトは細く息を吐いた。

 振り返ってコウと顔を合わせ、目配せする。

 しかし、その時だ。


「おい! その三人を行かせるな! 今、バーデン司教が宮殿に来られた! そんな奴のことは知らないと仰ってるぞ!」


 足音も荒く駆けてきた別の宮士が、険しい形相で叫んだ。

「な──」

 驚愕の表情で口を開け、カイトたちを案内してきた宮士がこちらを振り向く。その手が剣に伸びるよりも、カイトが鞘から刃を抜き放つほうが早かった。あちらの態勢が整わないうちに風の速さで背面を首筋に叩き込み、間髪入れずみぞおちに柄先を食い込ませる。

 宮士は白目を剥いて倒れた。

 同様にコウの反応も速かった。床を蹴って走り出し、扉の前に立つ宮士へと突進する。

 するりと服の袖から滑り落ちてきた金属の棒を握ったと思うと、空を切って振り下ろす。何がなんだか判らない相手は、防御をする間もなく強打を受け、壁に激突して意識を失った。

 カイトは二人のほうを向いて怒鳴った。

「俺はここで食い止める、先に行け!」

「ダメだ!」

 撥ね返すように、クーが叫んだ。

「絶対にダメだ、一人で置いていくなんて、オレはもう二度としない! 一緒に行こう、カイト!」

「キリクはもう目と鼻の先だぞ! 俺は大丈夫だから、行け!」

「何が大丈夫なんだよ! いやだ、オレはカイトと一緒じゃなきゃ行かない! 一緒に進もうって言ったじゃないか!」

 激しく振る首の動きで、頭の布がはらりと外れて落ちた。眉を吊り上げ、涙を浮かべたクーの顔がはっきり見える。地団駄を踏むようにして怒り、泣き叫んでいた。

 カイトは大股で彼女に近づくと、左手でその後ろ頭を掴み、ぐいっと自分のほうへ引いて顔を寄せた。


 開きかけた唇を塞ぐように、自分の唇を押し当てた。

 クーが息と声を同時に呑み込み、動きを止めた。

 そのまま噛みつくようにして、強く深く口づける。

 柔らかい唇から震えが伝わってくる。感触も、洩れる吐息も、何もかもが甘かった。痺れるような快感が全身を駆け抜ける。


「……心配するな。俺を置いていけと言ってるんじゃない。後で必ず追いつくから、先に行ってくれと頼んでいるだけだ。少しの間離れたって、俺たちは同じ方向を向いて、同じ場所へ進む。早いところ、あのバカを助けてやってくれ、クー」


 唇を離し、静かにそう告げると、クーが顔をくしゃくしゃに歪めてこちらを見返してきた。

 頬が赤く、口が曲がり、大きな目から涙が流れ、なのに眉は吊り上がったままという、なんとも器用なことをしている。

 カイトは軽く噴き出した。せっかく化粧したのに、台無しじゃないか。


 可愛くないけど、誰より可愛い。


「キリクを牢から出して、水晶の間に向かうんだ。俺も絶対にそこに行く。約束だ」

「……っでも」

 クーが泣きながら、呻くように言う。

 カイトは目を細め、優しく笑いかけた。

「死んだりしないよ」



 母親が残したこの命を、クーのために使えたらいいなと思っていた。実際、クーに「キリクを助けたいんだろ?」と確認した時には、そのつもりでいた。それが彼女の望みなら、自分の生をなげうってでも叶えようと。

 だけどダメだ。それは違う。そんな考えは、クーの気持ちを貶めるのと同じで、悲しませるだけ。彼女にこれ以上、何も失わせはしない。決して。

 クーのことが好きだ。人として、一人の女の子として。彼女だったら、カイトが間違った道に踏み込もうとしたら、殴ってでも蹴ってでも、きっと正しい道へと引き戻してくれる。

 しっかりしろ! と怒鳴り飛ばして。

 いつでも、その強さ、眩しさが自分を救うのだ。だったら自分も、彼女を救えるような男でありたい。

 これからもずっと傍にいるために。



「まだまだやりたいこともあるし、キリクに文句を言うなんて滅多にない機会を逃したくないからな。俺はこの先も、しぶとく生き抜いてやると決めたんだ」


 クーはもう一度盛大に表情を歪めた。

 ぎゅっと拳が握られる。


「……絶対だぞ」

「絶対だ」

「待ってるからな」

「うん、待ってろ。()()()()()()。おまえがどこにいても」


 クーは強く唇を引き結んだが、もう迷わなかった。

 くるりと身を翻し、廊下の奥へと一直線に駆けていく。コウも「頼むね」と短い一言を残し、扉を開けてその向こうへと消えた。

 二人の後ろ姿を見送って、カイトは反対側へと顔を向けた。

「こっちだ! 急げ!」

 大声と共に、数人の宮士がこちらへ向かって走ってくる。

 カイトはその場にまっすぐ立ったまま、それを眺めた。口元には、微笑が浮かんでいた。



 ……生まれて初めて、生への執着が湧いた。

 余分なものをすべて払い落としたように、心が凪いでいる。それと共に、途方もない喜びに包まれた。視界が晴れ渡り、目の前が明確に見える。怖れるような気持ちは微塵もない。


 ようやく、欠けていた半分が埋まった。


 たとえようのない解放感に覆われる。ずっと自分を縛りつけていた重い戒めが外されて、何もかもが軽くなったような気がした。

 生きていてよかったと、心からそう思う。



 ──今こそ、俺は自由だ。



「……さあ、来い」

 カイトは不敵な笑みを浮かべて身構え、ぐっと剣の柄を握った。





      (Ⅺ・終)





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