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二日ほどして、自分を見る周囲の目が、少し変わったことに気がついた。
どうやら、ラダとの一件が知られたらしい。カイトは誰にも何も言っていないのだが、そういうことはどこからか漏れてしまうものなのか、あるいは意図的に広めている人間がいるのか、ちらちらと目を向けられながら囁かれる会話の中には、「あのラダが」という言葉が混じっていることがよくあった。
仲間を痛めつけられてもっと険悪になるかと思えばそんなことはなく、男たちはどこか腫れ物に触るように遠巻きになり、女たちはまるでカイトを改めて値踏みするかのようにじろじろと眺めて、ふうん、と何かを納得して頷いている。
そしてなぜか、若い女性たちの姿をちょくちょく見かけるようになった。
革命軍は老若男女の棄民が寄り集まった大所帯だから、中には、見ているだけで心配になりそうな年寄りもいれば、血気盛んな十代の若者もいる。だから若い娘がいても不思議ではない。
しかし最近見かける彼女たちは、特に用事もなさそうなのにふらっと現れては、カイトと目が合うと逃げるように去って行ってしまう。あちこちから視線は感じるのだが、一定以上は近寄ってこない。自分が見世物の珍獣になったような気分になる。
彼女らの目に嫌悪の色はない。どちらかといえば、その逆だというのは、なんとなく判る。
悪感情を心地良いと思うような特殊さは持ち合わせていないので、これはこれでよかったと思うべきなのかもしれない──が。
……正直、ものすごく、居心地が悪い。
***
カイトは一日に数回、馬の世話をしに行く。
なのでこの日も、こっそりと家を出て、厩に向かった。どうしてコソコソしているかといえば、どういうわけか近頃カイトが外に出ると、後を尾けてくるような娘がいたりするからだ。話しかけてくるでもなく、じっと見られるだけというのも、ちょっと怖い。
「よう、調子はどうだ?」
パレス育ちの黒馬は、あまり上等とはいえない厩の中でも、それなりに元気に過ごしているようだった。ただやはり、質の良くない飼葉は食べたがらない。同じ厩の中にいる馬たちとは明らかに毛並みが違うので、馬泥棒に狙われたこともあったのだが、前脚を高く蹴り上げて自ら撃退してしまったと聞いた。
「おまえも女の子のわりに、気性が荒いからなあ」
艶のある毛を梳いてやりながら、カイトは感心するように言った。この黒馬は雌なのである。「も」と言っているのはクーには内緒だ。
カイトには懐いているし、よく言うことも聞いてくれるが、好き嫌いが激しくて、気に入らない相手には歯を剥いて威嚇することもある。人間で言うなら、気が強くてプライドの高いお嬢様タイプなのだろう。
乗りこなせるのがカイトしかいないので、クリスタルパレスへ向かう時は、この黒馬も一緒に行くことになる。
「……どうやらおまえとは結局、これからも命運を共にしなきゃならないみたいだ」
首を撫でながら、ぽつりと呟く。
パレスから飛び出した時の二回とも、この黒馬に乗ってというのも、不思議な偶然だ。他の馬だったら、また違う結果になっていたかもしれないな、としみじみ思う。
これが「縁」というものなのだろうか。
「せっかくだから名前を……いや」
パレスでは、衛士たちの共有財産である馬は、すべて番号で呼ばれていた。この馬も確か「十二号」というような無機質な名がついていたはずだ。
これからも付き合うことになるなら、ちゃんとした名前をつけてやろうかなと思ったのだが、すぐに口を閉じた。
そんなことをしたら、別れがつらくなるだけじゃないか。
自分の愚かしい考えに苦笑を漏らしてしまう。必要以上に感傷的になっているのかもしれない。こんなことじゃダメだな、と軽く頭を振った。
「また来るよ。じゃあな」
笑いかけてやると、黒馬は甘えるように鼻面を押しつけてきた。
***
家に戻って中に入ったら、しんと静まり返っていた。
珍しく、誰もいない。
今までは必ず、クーやカイトを見張るように、最低一人か二人は革命軍のメンバーがいたものだが、今は誰の姿もなかった。たまたま出払っているのか、それともさほどピリピリしなくても逃げられることはないと見極めがついたのか、どちらだろう。
何にしろ、ちょっとほっとした。やっぱり、どういう意味であれ、四六時中こちらの動向を気にされるというのは気分のいいものではない。
クーとセルマは母親のところにいるのだろうかと思いながら廊下を進み、居間に続く扉を開ける。
そこで、ぴたりと足を止めた。
──クーが眠っている。
彼女はテーブルに突っ伏すようにして、自分の腕を枕にすやすやと寝息を立てていた。
誰もいなくて、静かで、気が緩んだのかな──と思いかけて、いや違うなと思い直した。
きっとそれだけ、疲労が溜まっている、ということなのだ。
クーがこんな風に無防備な寝顔を晒すのを、カイトははじめて見た。母親のもとではなく、誰もいない無人の部屋で眠るというあたり、意地っ張りな性質をよく表している。
足音を立てないように近づき、クーの隣の椅子を引いて、腰を下ろす。
こんなに間近に寄っても、目を覚ますような気配がなかった。熟睡しているらしいその顔を眺めて、さすがに心配になってくる。
ここに来たのが俺じゃなくて他の男だったら、どうするんだ?
かといって、起こして注意する気にもならない。むしろ、なるべく長く眠らせてやりたかった。
もしも今ここで、クーの安らかな眠りを邪魔するようなものがあったら、たとえそれが女神リリアナやアリアナでも、すぐに追い払ってやろうとさえ思った。
このひとときを守るためなら、何だって。
静寂の中、クーの規則的な寝息だけが聞こえてくる。
カイトはテーブルに頬杖をついて、飽きることなくその顔に見入っていた。
こうしてクーを近くで見るのは、久しぶりだなと思う。このところ、お互いの目が合うことすら、あまりなかった。
少し顔色が悪いような気がする。ちゃんと睡眠はとっているのだろうか。せっかく女らしくふっくらとしてきた頬も、この分ではまた肉が削げていくのかもしれない。
よく見ると、すごく睫毛が長い。顔を形づくる線も繊細で、全体的によく整っている。普段はあの言葉遣いと口の悪さと乱暴な言動でうっかり忘れそうになるが、こうして目を閉じて黙っていれば、可愛らしい女の子にしか見えない。
そういえば、あの白いケープとドレスをまとった姿は、本当に綺麗だったな──
とりとめのないことを考えながら、マレにしっかりと化粧を施してもらって美しくなった顔を思い出す。
もちろんあれも良かったが、カイトはどちらかといえば、いつもの素顔のほうがいいなと思っている。
素直じゃないし、可愛げもないけど、ありのままで笑っているクーがいい。
だんだん思考が散漫になりだした。もしかしたら、カイトも眠気が差してきているのかもしれない。夢に入り込む一歩手前くらいの、どこかぼんやりと陶酔したような気分で、無意識に自分の手を持ち上げる。
意志とは関係なく引きつけられるように動いた指先は、そこに届く寸前でぴたりと止まった。
躊躇する間を置いてから、柔らかな頬にそっと触れる。
自分の唇から、押し殺した吐息が漏れた。
滑らせるようにクーの頬を撫でるカイトの顔は苦渋で歪んでいる。
今まで必死になって押さえつけていたものが一気に溢れ出てしまいそうで、ぐっと歯を喰いしばる。身の裡に、なんともいいようがない不安と後ろめたさが膨れ上がって、胸を圧迫していた。
どうしてクーは神女に選ばれてしまったのか。こんな細い身体、この小さな両肩に、どうして何もかもを背負わせる必要がある? いつもいつも、誰かのために自分の身を削って。普通の娘のように、自分のことだけを考えたっていいじゃないか。
キリクを助けたいという気持ちは判る。カイトだってそれは同じだ。いっそ、キリクを奪還して来いと命じてくれれば、そのほうが楽だった。
本当のことを言えば、カイトはクーを革命なんてものに関わらせたくはないのだ。結果がどうであろうと、乱を起こしてしまえば、多大な犠牲が出る。これから目にする現実は、どれだけ彼女の心を傷つけていくだろう。
反転の神女になんて、ならなくたっていい。女神の力を得た代償に、クーは何かを失うことになるかもしれない。それを考えるとたまらなくなる。
目を覆って、耳を塞いで、両手で囲って守ってやれたらいいと思う。しかしクーは決してそれを受け入れたりはしないだろう。すべてを撥ね退けてでも、自分で見て、自分で聞いて、自分の足で進んでいくことを選ぶ。そういう娘だ。
これから激動の渦の中心に向かうことになるのが判っていても、カイトにはそれを止めることが出来ない。自分のすべてと引き換えに彼女が自由になれるというなら、すぐにだってそうしてやるのに。
──キリク、おまえは一体、俺に何をさせたかったんだ?
「……ん」
クーが身じろぎした。
ぱっとカイトが手を引っ込めると同時に、閉じていた瞼が押し上げられる。
「カイト……?」
クーは何度か目を瞬いて、そこにいるカイトの姿を認めると、ぼやけた声で言った。まだ完全に目が覚めたわけではないらしい。むっくりと起きて目をこする仕草が妙に子供っぽく見えて、カイトは微笑した。
「おはよう。寝るなら、ちゃんとベッドに入ったほうがいいぞ」
「んー……あれ、オレ、寝てたのか。おかしいな……」
むにゃむにゃと独り言のように呟きながら頭を振る。口に手を当てて、ふわあと大きな欠伸をした。
「疲れてるんだろ? もう一回ちゃんと寝てこいよ」
「うん……んーん、もういい……ちょっと寝たら、すっきりした……顔、洗ってこようかな」
「何か飲むか? っていっても、水くらいしかないけど」
「うん、飲む」
起きたてだからなのか、話し方がゆっくりでたどたどしい。普段はっきりしすぎるくらいズケズケとした物言いをするクーを見慣れている身には、やけに新鮮に思えた。こくりと頷くその姿も、ずいぶんと素直だし。
いつも人を警戒している猫が、ふいに甘えてすり寄ってきたような感じがする。今なら手を出したら頭を撫でさせてくれるんじゃないか、という埒もない考えが頭に浮かんで、カイトは急にそわそわしてきた。
「あ、じゃあ、待ってろ、すぐ」
焦って立ち上がろうとしてテーブルに手をついたら、その上に、ふわりとクーの手が重ねられた。
一瞬、固まった。
「ここにいてよ。せっかく今、二人なんだから……ね?」
クーの目が見上げるように向かってくる。
カイトは身動きできなかった。時間が止まったかのように、何も考えられず、何も言えない。ただ、その視線を受けるだけで精一杯だった。
赤い瞳がまっすぐこちらに据えられる。そこからはもう、先程までの稚さは消えていた。瑞々しい生気の宿る双眸は、可憐な若い娘のそれだった。
いつか見た泉を思い出させる、美しく澄んだその瞳から、目が外せない。心もだ。
「ク……」
ようやく口が動きかけた時、クーが思いきり噴き出した。
細い手が離れていく。
「なーんてな」
「…………」
「ほら、いつか見たサンティの真似だよ。なにが『ね?』なのか、自分でも言ってて意味がわかんなかった。こんなんで男を腑抜けにするなんて、やっぱりあいつ、すごいな。オレには出来ない芸当だ」
バカみたいだ、とひとりごちて、椅子から立ち上がる。
「……そりゃ、オレじゃ無理だよな。マレやセルマならともかく」
クーはそう言って笑ったが、目はどこか悲しそうに伏せられていた。
「──クー」
カイトの抑えられた小さな声には返事をせず、クーはそのまま背中を向けて、部屋の扉へと向かった。
「顔、洗ってくる。まだ寝惚けてるみたいだ」
こちらを振り向きもしないでそう言って、扉を開けて出て行った。
パタン、という音を耳に入れて、カイトの身体がようやく強張りから解けた。力が抜けて、椅子の背もたれに身を預け、そのままずるずる滑って沈む。
掌で顔を覆った。誰もいないのは承知だが、それでも隠さずにはいられない。
こんなにもみっともなく赤く染まった顔を。
「あのバカ……」
指の間から、呻くように声を絞り出す。
いや、バカなのは、たぶん間違いなく、自分のほうだ。
***
「あの……どうかされましたか?」
声をかけられて、びくっとした。
「え──え?」
慌てて意識を戻してみたら、いつの間にかセルマがすぐ傍までやって来て、自分の顔を覗き込んでいた。
扉が開いたことにも、彼女が部屋に入ってきたことにも、まったく気づかなかった。
一体どれだけぼんやりしていたのか……と思いながら窓の外を見て、また驚く。ついさっきまで昼だったはずなのに、もう陽が傾きはじめている。なぜだ。
「あれ、俺、寝てた?」
さっきのクーと似たような台詞を口にすると、セルマは怪訝そうに眉を寄せた。
「目は開いているようでしたが……」
「クーは?」
「お母さまを見ていらっしゃいます」
「あ、そ、そう」
もしかして自分は白昼夢を見ていたのかもしれない。目を開けながら寝るなんて、どうかしている。あれ、馬の世話に行ったのは本当にあったことだよな……?
どこまでが現実で、どこからが夢だっけ?
「…………」
はあー、と大きく息を吐き出す。セルマはちょっと黙ってカイトをまじまじと眺めてから、隣の椅子に座った。
「お疲れなのですね」
労わるように言われて、急いで手を左右に振った。
「いや、そんなことはないよ。俺は丈夫なのが取り柄だからな。セルマのほうが疲れてるだろ? こんな、慣れない環境でさ」
周りも冷たいし……というのは心の中だけで続けたのだが、セルマはまるでその声が聞こえたかのように、少し困ったように微笑んだ。
「そうですね……正直に申しますと、戸惑うことは多いですし、つらいこともあります。でもそれよりも今は、自分を恥じるような気持ちがあります。神都で生まれ育ったわたしは、棄民の街のことも、棄民の暮らしも、まったく判っていなかったのだという事実を、毎日突きつけられているようで。……きっと、わたしの中にも、棄民を見下すようなところがありました。自分のその無知と傲慢さが、たまらなく恥ずかしいのです」
「知らなくても無理はないさ」
棄民と神民、そのどちらも互いへの理解が足りない。それに現実を知ったところで、セルマのように殊勝に反省をするような神民のほうが稀で、大半はなんとも思わないだろう。
この国の禍根となっているのは、まさしくそういうところだ。
「あんたのその心根は貴重だし、立派だと思うよ」
カイトの返事に、セルマは目許を緩めた。
「でも、つらいばかりではないのです。あの塔の部屋にいた時、わたしはずっと一人でしたから。食事を運んできたりする女官は数人いましたが、誰もわたしと目を合わせることも、話しかけてくることもありませんでした。おそらく、リシャル様に禁じられていたのでしょうけど。……だから、こうして普通に人と話をすることが出来て、ようやく息がつける気分になりました」
脅され、閉じ込められ、たった一人。
会話が出来るのは、キリクだけ。
しかしそのキリクは、自分のことを妹だと思っている。
罪悪感に押し潰されそうで、けれど声は聞きたくて、そんな自分が厭わしく情けなく、いつもびくびくしながら耳を澄まし、泣くことしか出来なかった。
セルマは静かな口調でそう話した。
「そうか……大変だったな。クーはどうだ? あいつ、けっこうきつい言い方するけど、大丈夫か?」
「はい、そうですね。よく、叱られます」
「……ごめん。でもさ」
「ええ、わかっております。クーさまは厳しいけれど、優しい方です。キリクさまが仰っていた通りの方でした。あの方でしたらきっと、キリクさまを救ってくださると、信じられます」
「…………」
胸に手を当てて目を閉じるセルマに、カイトは何も返せなかった。
視線を落とし、テーブルについた染みをじっと見つめる。
いろんなことがごちゃごちゃと交錯して、自分でも収拾がつかなくなってきた。もともと、物事を深く考えるのは得意じゃない。こんな時キリクがいたら、さっさと整理してくれただろうに。
……今頃、どうしているだろう。
カイトだって、キリクのことが心配でたまらない。無事なのか。痛い思いをしていないのか。こうしている間にも、その命はすり減っているのではないのか。
暗い牢獄に横たわる、キリクの亡骸。そんな夢を見て飛び起きることもしょっちゅうだ。そういう時はいつも、全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れている。
早く助けてやらないと、と居ても立ってもいられないような気持ちで頭がおかしくなりそうだから、日中はあまり考えないようにしているだけなのだ。
クーとセルマも、同じような思いでいるに違いない。
「……俺も会いたいよ、キリクに」
ぼそりと呟くと、セルマが頷いた。眉を寄せているのは、頑張って泣くのをこらえているからだろう。
「ここにいたらきっと、今の俺を見て、呆れて笑うか怒ってくれるだろうからな。『バカだね、君』なんて、皮肉っぽい口調で言ってさ」
あの声が無性に聞きたい。顔が見たい。
キリクはカイトにとっても、大事な存在だった。
一緒に笑い合える仲間で……そして、かけがえのない、友人だった。
「……あの、カイトさま、もしよかったら」
セルマが遠慮がちに言って、カイトの顔を覗き込んだ。
「わたしでよければ、キリクさまの代わりに、カイトさまのお話を聞かせていただけませんか。……何か、悩んでいることがおありなのでしょう? わたし、こう見えて、聞くのは上手なほうなんです。だってずっとキリクさまのお話を聞いていましたから。目の前に扉があるつもりで、心の中にあるものを出してしまわれたらいかがですか。それだけでも、すっきりすることだって、あるかもしれません」
意外な申し出に、カイトは目を瞬いてセルマを見返した。
彼女が真面目な表情をしているので、ちょっと笑ってしまう。そんなにも、自分は弱って見えるのか。
考えてみたら、パレスでは、カイトが迷った時や落ち込んだ時、キリクが聞き役を担ってくれて、それで楽になることも多かった。
だったら確かに、今のうちに吐き出して、さっぱりしておいたほうがいいのかもしれない。
これからの困難に立ち向かうためにも。
目の前に扉があるつもりで、か。
「──あのさ、俺の母親は、棄民だったんだよ」
ぽとりと言葉を置くようにして話しはじめたカイトに、セルマはただ黙って頷いた。
「神都で働いていた棄民の彼女を、神民の男が見初めた。それが俺の父親。だけど棄民と神民だから、普通に結ばれるのは無理だった。結婚なんて出来るわけがない。かといって、ちょっと遊ぶ程度でも満足できなかった。父親は、母親をどうしても手に入れて、自分だけのものにせずにはいられなかったんだ。……自分自身にもどうにもならないほど」
その強い思いは、徐々に屈折していった。
神民が棄民に本気で懸想する、というのを、自分でも認めたくなかったのかもしれない。
周りの目も気になっただろう。神民にとって、棄民は自分たちと対等の「人間」ではない。
奴隷や家畜に恋愛感情を抱くなんて、そんなのはあってはならないことだと、友人も、家族も、そして自分自身も思い込んでいる。
そうして、最初のうちはおそらく「恋心」であったものは、おかしな形に曲がって軋んだ。
「父親は母親を自分の邸に連れて行って閉じ込めた。セルマと同じように、自由を奪い、外にも出られないようにして、軟禁し続けたんだ。──七年もの間」
七年、と呟いてセルマが息を呑んだ。
「その七年の間に、俺が生まれた。それでも父親は母親を手離さなかった。──結局、母親は自分で自分の喉を切って死んだ」
腹を刺されて息も絶え絶えだったカイトが見たのは、母親が泣きながらナイフで喉を掻き切った瞬間だ。
勢いよく噴き出る鮮血。その向こうで倒れていく母親。真っ赤に染まった視界の中で、誰かが獣のように吼えていた。狂ったように、泣き叫んでいた。それが自分の声だということすら、幼いカイトには認識できていなかった。
「クーには、『自分を殺そうとした母親を恨んでいないのか』と聞かれたよ。キリクには、『父親を殺してやりたいとは思わないのか』と聞かれた。だけど、俺はどちらも否定した。俺はただ……怖かったんだ」
可哀想な母親を一人で逝かせて、生き残ってしまった自分の罪の大きさに慄いた。
そして、この悲劇を引き起こした人間の妄執というものに、心底からの恐怖を覚えた。
「父親は、母親の遺体を抱きかかえて泣いていた。いつも無表情でほとんど言葉も出さないような男が、子供のように咽び泣いて、慟哭していた。父親は父親で、母親のことを愛していたんだと思う。愛が深すぎて、歪んで、捩れて、誰からも見られないよう、誰にも取られないよう、邸の奥に隠さずにはいられないくらいに」
その愛情の結末が、これだ。
人目も憚らず号泣し、もう動くこともない母親の身体を揺さぶって抱きしめ、何度も名を呼ぶ男の背中を見て、カイトの中に湧き上がったのは怒りでも憐れみでもなく、ただひたすら恐怖心だけだった。
人が人を愛するというのは、こういうものなのか。棄民と棄民、神民と神民であれば何の問題もなく幸福になれたかもしれない二人が、ほんの少し掛け違えただけで、ここまで悲惨な終焉しか迎えられないなんて。
だとしたら愛というのはもはや、狂気でしかない。
その果てにあるのが大事な人の喪失であるのなら、自分はそんなものは要らない。求めないし、望まない。決して手を伸ばしたりしない。
愛という名の狂気に呑まれ蝕まれて犠牲になった母親への贖罪のためにも。
何があったって、誰に対してだって、必ず。
自身を苛む肉体の痛みと絶望感に打ちひしがれ、泣きながらそう決意した小さな男の子は、今もカイトの中にいる。
「父親は俺を邸から追い出したけど、神都には残した。母親に似た俺を見たくもなかったんだろうし、かといって母親の血を引く俺を完全に捨てることも出来なかったんだろう。俺に対する情じゃない。あの男は今も、一人の女の影だけに縛られ続けている」
その後、神民の女性と結婚して、子供も二人いるというのは知っている。でもカイトはそれを別になんとも思わない。背中に母親への未練をべったりと貼りつけた父親が、どこでどんな家庭を築こうと、幸福になれるなんて思えないからだ。
カイトが手を下すまでもない。そうやって、死ぬまで叶うことのない夢と幻を抱きながら、地獄のような生を歩まなければならないあの男はもはや、ただの抜け殻と同じだ。
「──俺にも、その父親の血が流れてる。俺はそれが、怖くてたまらない」
恋も、愛も。
綺麗なものであるはずのそれらが、いつの間にか醜く浅ましく変化して歪んでいくのが怖い。
手を伸ばし、自分の腕の中に入れたが最後、どこまでも執着し、閉じ込め、追い詰めて、大事な人を苦しませてしまうのが怖い。
……だから、ただ傍にいるだけでいいと思った。
でも。
カイトはぐっと自分の拳を強く握りしめた。
「でも、やっぱり──」
そこで言葉を途切れさせて、下を向く。
セルマは目を細め、ゆったりと穏やかな口調で言った。
「キリクさまがここにいらっしゃったら、どう言われるか、カイトさまにはもう、おわかりなのでは?」
その微笑みと、記憶の中のキリクの微笑が重なる。
あの男ならそうやって笑ってから、やれやれと肩を竦めて、きっとこう言う。
バカだね、君。
──本当は、自分でも、もうわかってるんだろう?




