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母親の元に戻ると、彼女は目を閉じて静かな眠りに就いていた。
この場所に来てからの母親は、ほとんどがこんな調子だ。一日の大半、夢と現の間をうつらうつらと漂いながら過ごし、残りの時間を食事などの最低限の栄養補充に充てている。
疲れが出ているのかとも思ったが、傍に付き添ってじっとその姿を眺めているうちに、もっと根本的なところに問題があるのではないかという気がしてきた。
神都の病院に入ってから少しふっくらした頬。肌だって以前のように荒れてはいない。顔色も良くなったようにしか見えないし、起きている時、母親の瞳は昔のような危うげな空虚さは失せて、ずっと落ち着いている。
でも──何かが少しずつ、抜け落ちている。そんな感じがしてならない。
病院で面会した時に抱いたその印象が、さらに強くなっている。以前、クーは母親に対し、「生きる張り」をなくしつつあるのではないかと思ったが、ここに来て、それはそんな精神的なものではないかもしれないと気がついた。
母親が失いかけているのは、「生命」そのものなのではないか。
……もしかして、母さんはもう、あまり永くないのかも。
どこか虚脱したような気持ちで、そんなことを考えている自分がいる。
他人事のように冷静にそう思う一部がありながら、別の一部では、まさかそんなはずがない、と躍起になって否定してもいる。
その部分は、だってそうならないように病院に入れたんじゃないか、起きている時はちゃんと元気そうにしているじゃないか、今だって目立った不調なんてどこにも見られない、とまくし立てるようにクー自身に向かって反論するのだ。
嫌だ、認めない、そんなこと絶対にあるわけない、と泣き叫ぶ子供のように。
愛と憎しみ。諦念と執着。希望と絶望。憐憫と怒り。
クーの中には常に、矛盾と混沌が存在している。
その時、瞼がぴくりと震え、母親がゆっくりと目を開けた。
ぼんやりした視線が天井に向けられ、彷徨うように動く。ここがどこなのか、どうして自分が今ここにいるのか、記憶を辿っているのだろう。クーは何も言わずに、黙ってその様子を見守った。
母親の頭がゆるりと巡り、最終的にベッドの傍らに座るクーのところまで来て、止まった。
「…………」
クーの顔をじっと見つめて、唇を動かしかけたが、そこからは何の言葉も出なかった。
その瞳が徐々に焦点を合わせていくのを見て取って、クーが優しく笑いかける。
「──目が覚めた? 母さん」
母親は二、三度、目を瞬いた。自分にかけられた言葉を咀嚼して認識するために、それが必要な作業であるかのように。
そして、ふわりと微笑んだ。
彼女はこの頃、よくこういう幼子に似た表情をする。俗世の汚さや迷いから抜け出したような、清らかささえ感じる。
そのことがまたある予感を生じさせて、クーの心臓は何かに掴まれたかのように痛くなった。
「私、眠っていた?」
「うん。気持ちよさそうに寝ていたね。何か夢でも見た?」
もしもそうであったなら、せめて楽しい夢であるといい。彼女にとっての「現実」は、つらく苦しいことばかりであろうから。
「さあ……どうだったかしら。とても綺麗な夢を見ていたような気がするのだけど、あまり覚えていないの」
「そっか」
クーは目を細めて頷いた。
綺麗な夢か。
人は、眠った時だけではなくて、起きている時でも、そういうものを自分の胸に抱いて生きているのかもしれない。
クーにもあった。泣きたくなるほど美しい、でも決して実現することはない「夢」が。
母親がまた昔のように、自分を「ククル」と呼んで、笑ってくれる夢。
ユウルとして暮らしていた頃、そればかり考えていたこともある。とうに失われたものへの追慕の念に捉われ、幸福だった過去に縛られ続けていた。胸をかきむしるほど切なく、狂おしいまでに孤独だった、あの頃の自分。
──でも、今の自分の中にある「夢」は、もう違う。
変わったんだ。変わってしまうんだ。現実を生きる以上、同じ場所にいつまでも留まってはいられない。
自分で選んだ道を、進んでいくしかない。
「あのね母さん」
口を開くと、母親が「なあに?」と柔らかく答えた。
「明日またここを出て、別のところに移らなきゃいけないんだ。体調はどう? もちろん母さんはカイトの馬に乗せてもらうけど、もしも動くのがつらいっていうなら」
「いいえ、大丈夫よ」
この家を出て別の場所に移動するという話に驚くか、少なくとも理由を訊ねられることくらいはあるだろうと思ったのに、意外にも母親はすぐにそう言った。
そのきっぱりとした言葉と態度に、クーのほうが慌ててしまう。もしかして誤解を与えてしまったのではないか、と思ったためだ。
「ごめん、また神都の病院に戻るってことじゃないんだ」
「ええ、わかってるわ。本当のことを言うと、棄民の街に戻ってこられて、ちょっとほっとしているの。私にはやっぱり、こちらの空気のほうが落ち着くみたい」
軽く笑いながらそんなことを言われて、クーは面喰らった。
棄民の街に戻れてほっとした、というのもどこまで本音か判らないが、何もかもが整った神都の病院よりも、複数の人間が出入りするこの胡散臭い場所のほうが落ち着く、ということはさすがにないだろう。
しかし母親の顔は、特に無理をしているようにも、クーに気を遣って嘘を言っているようにも見えなかった。
「……聞かないの?」
「何を?」
「どうしてこんなことになっているのか。オレの厄介事に母さんまで巻き込ませてるってことくらいは、わかってるんだろ? 事情を知りたいんじゃない?」
むしろ、それについて今まで何も聞いてこなかったことのほうが不可解だ。コウが言った「神都の勤め先を追い出された」なんて話を信じているとしても、以前までの母親だったらもっと詳しく知りたがり、身を揉むように心配したに違いないのだから。
「もし」
言いかけて、一旦口を噤み、目を伏せた。
ぐっと拳を握りしめてから、意を決して目を上げ、母親の顔を見据える。
「……もし、母さんが知りたいなら、オレ、ちゃんと本当のことを説明するよ、ぜんぶ」
本当のこと。
クリスタルパレスのことも、水晶による神女選定のことも。
今まで自分が「ユウル」を騙っていたことも、すべて。
──自分でやったことは自分で責任を取れ、とセルマに言ったのは、クー自身だ。
室内にしんとした静寂が満ちた。
鼓動が早鐘のように高鳴る。自分の膝の上で握りしめた拳は、力が入りすぎて小さく震え出していた。強く奥歯を噛みしめているため、下顎がガチガチに固まりそうだ。噴き出した汗が、やけに遅い速度で耳の横を伝っていった。
それを聞いて、母親はどんな反応を示すのか。以前も怖かったが、やっぱり今でも怖い。クーはまだ臆病のままだ。真実を知って狂乱されたら、きっとどうしたらいいのか判らなくなる。
でも、受け止めなくちゃ。
大丈夫、今のクーは、一人ではないのだから。
「…………」
母親は口を閉じて、じっとこちらを見返していた。自分と同じ赤レンガ色の瞳は静かなままで、そこにどんな感情を乗せているのか、はっきりとは読み取れない。
……でも。
でもそこには、光が灯っていた。
気のせいなんかじゃない。クーには確かに、そう見えた。あの小さな家で、二人だけの狭い世界の中で生きていた時にはなかったもの。ぽっかり空いた暗い穴をも塞ぐ光。
温かくて優しい、「母親」という生き物だけが持つ輝き。
一瞬、呼吸を忘れた。
──ユウルが生きていた頃、母親はよくこんな目を双子に向けていた。
「私、なにも心配していないわ」
母親は、しっかりとした口調でそう言った。
相変わらず儚げで、弱々しくて、今もベッドに伏せたままだというのに、彼女のその目も声も、揺らいではいない。
「……母さん?」
クーは茫然として、身動き出来なかった。
「あなたは大丈夫だって、わかったの。だから平気よ。あなたも、私のことはもう心配しなくていいの。……あなたには何か、しなくてはいけない大切なことがあるのでしょう? それだけわかっていれば、十分よ」
細い手が伸びてきて、クーの手の上にそっと乗せられる。
クーはその時になって、ようやく気づいた。
そういえば母親は、ここに来てからただの一度も、クーを「ユウル」という名で呼んでいない。
しなやかな掌の感触に、頭の芯が痺れた。全身がこまかく震えはじめる。熱いものが身体の中に膨れ上がって、今にも外へと溢れ出そうだった。
「……っ、母さ……」
わななく唇から、呻くような声が漏れる。どうしてもこらえることが出来ず、目から零れた涙の粒が、自分と母親の手の上に滴り落ちた。
曲がっていたものが元の形に直ったのか。あるいはずっと深いところに閉じ込めていたものを、外に取り出すことが出来たのか。
……あるいは、ようやく夢から覚めたのか。
母親の目は、ここにいる「自分」にまっすぐ向けられている。
確認の言葉は必要なかった。形にして表に出したら、その瞬間に何かがまた壊れてしまう気がした。母親の口から「ククル」の名前が出ることは望まない。今、ここにいるのはクーだから。
他の誰でもない、クーという人間を、ちゃんと見てくれれば、それでいい。
腕を上げて、ごしごしと自分の目元を拭った。
「あのね……母さん」
「なあに?」
「オレね、今、すごく大事な人がいるんだよ」
「そう」
母親は優しく頬を緩めた。
「母さんと、あと二人」
「まあ」
それは素敵ね、と笑いながら言う。クーも涙の跡が残る顔で笑った。内緒だよ、と付け加えて。
「一人には、笑っていて欲しい。一人には、そばにいて欲しい。どっちも大事で──どっちも大好きなんだ」
母親は、内緒なの? と茶目っ気を込めた声で確認し、目許を和らげた。
「その人たちが、今のあなたを支えてくれているのね。だからこんなにも強くなって、そんな顔で笑うことが出来るようになったのね」
「うん」
クーは頷いた。
「だからオレは、その二人に恥ずかしくない自分でいたい。大きなことはよくわからないし、この国全体のことなんて、オレの小さな手には余る。正直、そこまでは背負いきれないよ。ただオレは、二人を助けられる自分でありたいと願ってるし、そういう道を選びたいと思ってるんだ。……母さんを巻き込む形になってしまって、ごめんね」
「いいえ」
母親は首を横に振り、
「あなたはあなたの、やりたいようになさい」
我が子を送り出す時の、力強く美しい笑顔を浮かべ、そう言った。
***
夜になって、家の外で空を眺めていたら、カイトが扉を開けて出てきた。
「あ、ここにいたか」
壁に寄りかかってしゃがみ込んでいるクーを見て、ほっとしたように息をつく。どうやら今まで探していたらしい。
「てっきりお母さんのところにいると思ってたから……見に行ったら、姿がなかったんで焦った。おまえなあ、外に出る時は俺に声をかけろよ。心配するだろ」
「だからこの家からは離れてないだろ。どこかに行く時はちゃんと言うって」
クリスタルパレスからの追手がかかっている今、カイトが過敏になっているのも判る。しかし外の空気を吸いに行くくらいは自由にさせろ、と思うのも本当だ。クーがひらりと手を振って返事をすると、カイトは渋い顔になったが、それ以上文句は言わずに自分も隣に腰を下ろした。
「セルマは?」
「寝てるよ」
「よくこんなバタバタしているところで眠れるな」
なにしろ明日には移動するということで、今、家の中ではコウの仲間たちが後片付けに大わらわなのだ。
クーたちはほとんど自分の荷物がないからいいが、彼らにしてみれば、なるべく人がいた痕跡は残したくない、ということであるようだった。
クーが外に出たのも、その落ち着かない雰囲気にうんざりして、という理由が大きかった。コウは「じっくり考えて」と言っていたが、どうもここの環境は、考え事には向いていない。
「今までろくに睡眠もとらなかったみたいだからな。疲れも溜まってたんだろう」
「ふーん」
カイトの表情にも声にもたっぷり同情心が上乗せされている。クーの返事はことさら素っ気ないものになった。
「これからも、大変だろうな」
それには気づかず、カイトは心配そうに言った。
コウの意向でセルマが自分たちに同行することが決定となったものの、棄民連中は誰一人、彼女を温かく迎え入れようという気がない。彼らは半民のカイトに対しても冷たいが、神民にはさらに冷淡になるだろう。これから彼女が慣れない環境で孤立することを、カイトは案じているのだった。
そりゃ、カイトの立場からして、似たような待遇を受けることになるセルマに肩入れしたくなるのも、無理はないと思う。
思うけど。
「……まだ、セルマに怒ってるのか?」
不貞腐れたクーの顔を覗き込んで、カイトが眉を下げた。なんだよ、とますますムッとする。
「怒ってない」
「でも、ものすごく機嫌の悪そうな顔してる」
「気のせいだろ」
「てっ! なんで耳を引っ張るんだ?!」
クーはふんとそっぽを向いて、そのまま顔を再び暗くなった空に向けた。
カイトはわけが判らないという顔をしていたが、ここでセルマを擁護する言葉を出すとさらに酷い目に遭いそうだ、ということだけはかろうじて感じたらしく、口を閉じて、同じく顔を上に向けた。
二人並んで、吸い込まれそうな闇に見入る。
そこに誰の面影が浮かんでいるのかはお互いに判っているので、わざわざ口には出さなかった。
「──あのさ」
しばらくして、クーはぽつりと言った。
「うん?」
カイトはこちらを見たが、クーの目はまだ空へと向けられている。
「オレ、ここでずっと考えてたんだ。水晶がどういう基準で神女を選ぶのかって話なんだけど」
「うん」
「コウが言ってたよな、神女ってのはただの『器』なんだって。それも、空っぽのグラスだ。与えられる力の属性が著しく欠けた人間が選ばれる──そのことは、神殿でオレも自分の目で見て感じてた。カイトもだろ?」
「……そうだな」
カイトは低い声で同意した。
他人も自分も傷つける言葉しか出せなかったモリス。
──気持ちに寄り添うことが出来ない人間に、人は慰められない。
耳に入る言葉を自分に都合のいいようにしか解釈できないサンティ。
──真実も偽りも、彼女には意味をなさなかった。
目に見えないものは存在しないと決めつけていたロンミ。
──気配、などというものも信用しなかっただろう。
自分のプライドよりも我欲を優先させてしまったイレイナ。
──彼女にとって正しいものとは、一体何だったのか。
「四人の神女だけじゃないんだ。オレも、きっと、そうだった」
呟くように言うと、カイトが訝しげな表情になった。そんなことはない、という言葉が返ってきそうだったので、クーは苦笑して、ようやく顔をそちらに向けた。
「水晶がオレを選んだのは、オレが空っぽのグラスだったからだ」
「そんなことは──」
「だってさ、思い出してみなよ、カイト。水晶がオレの名を示した時、オレはどんな状態だった?」
水晶が「ククル・デニ」という名を示した時──カイトとキリクが棄民の街へやって来た時、クーはただ、真っ暗な闇の中で立ち止まっているだけだった。
「……『反転』の力は、『状況を引っくり返す』力なんだろ?」
そう言うと、カイトがはっとしたように目を見開いた。
クーの言葉に、ようやく思い当たるものがあったらしい。クーはもう一度苦く笑って、目を地面へと向けた。
「オレは何もせず、膝を抱えて座り込み、やって来る明日に怯えていることしか出来なかった。なにより変化を恐れていたのは、オレ自身だったんだ。自分の外見が女へと変わっていくことが怖い、母親に気づかれるのが怖い、今日と違う明日になることが怖い。この世界の何もかもが、少しでも変わることが、怖くてたまらなかった」
引っくり返すなんて、思いもしない。そんな力もない。クーはひたすら、今の状態を崩さないよう、そのままの形を保つことで必死だった。
進んでいくのも限界で、かといって戻ることも叶わず、どうしたらここで止まっていられるのかと、そればかり考えていた。
疲弊した頭で辿り着く結論は、毎回ひとつ。生存自体を終わりにしてしまうこと。
あの頃のクーはいつも死のすぐ手前にいて、誰かが背中を押してくれるのを、怯えながら、期待しながら、待っていることしか出来なかった。
その先に道があることなんて、まるで考えなかった。あったとしても、クーの目には見えなかった。自分の前にあるのはいつだって、行き止まりか、断崖絶壁だけだった。
変化を願いもせず望みもせず、閉塞し固定した状況を自ら求めて受け入れていたクー。
与えられるものの属性が、著しく欠けている。
──だから、水晶は「反転の力の器」として自分を選んだのだ。
「……でも、今のオレは、その時のオレとは違う」
クーはそう言って、正面からカイトの顔を見た。
「変えたいんだ。止まることも、逃げることもしたくない。クリスタルパレスで、オレは何も出来なかった。だからもう一度あそこに行って、やり残したことをやりたい。忘れてきたものを、この手に取り戻したいんだ」
「…………」
カイトは口を結んで、やっぱりこちらをまっすぐ見返してきた。
真面目な表情は、何かに耐えているようにも見えた。
「革命とはまた別の話だよ。オレはオレの意志でそうしたい。コウの思惑とは少し外れることがあるかもしれないけど、それでもいいと思ってるんだ。棄民の不満はもっともだと思うし、それを少しでも是正しようという気持ちもわかる。オレも、その意見には賛成だ。力になれるなら手を貸したい。──だけど、それを最優先には出来ない。今のオレには、もっと大事なものがあるから」
クーの言葉に、カイトは短く息をついた。うん、と頷く。
「……キリクを助けたいんだろ?」
小さく呟くような声でそう言った。それはいちいち確認するようなことではない、という口調で。
カイトも同じ気持ちでいたんだと、クーはほっとした。
「簡単なことじゃないとは思うけど。だから、カイト……」
自分のそばにいて欲しい、とも、隣で支えていて欲しい、とも、クーはすぐには口に出せなかった。
それを率直に出すのは、なんとも恥ずかしい。ここに来て、天邪鬼的な自分の性格が、その言葉を舌に乗せて押し出すのを邪魔している。
だけど言わなくちゃ。大事なことだからこそ、ちゃんと──
そう思って、下に向かいそうになる顔を勢いよく上げる。おかしいな、なんだかちょっと暑くないだろうか。頬が火照って湯気が出そうだ。
「あのっ、カイト──」
意気込んで口を開こうとした時、自分の手を掬うように取られた。
クーの手を握ったカイトが、こちらに視線を向ける。
え、とクーは動揺した。さらに赤くなったが、カイトは真顔のままだ。いつものように笑いもしないし、からかうようなことを言ったりもしなかった。
ただ、静かな瞳で見つめている。
掌から伝わる熱に、心臓が暴れ始める。クーは内心で狼狽しきって慌てふためいた。あれ、何を言おうとしたんだっけ。ちょっと待って、頭が真っ白に──
「もちろんだ」
何かを言う前に、カイトが微笑み、そう返事をしてくれた。
そこには迷いも躊躇いもなくて、クーの胸は歓喜に震えた。
安堵からもたらされる温かさが、じんわりと沁みるようだった。
だから自分も、カイトに向かって笑い返そうと、した。
しかし続けられた言葉で、表情も口も心も止まった。
「──おまえが決めたことなら、俺はどこまでも従う。決して背かず、いかなる時も身命を賭して忠誠を尽くすことを誓う、と言っただろう?」
「……え」
その瞬間、クーの背中がざあっと冷たくなった。
顔にあった熱が一気に消えて、代わりに、血の気が引いていく。
……なんて?
カイト、なにを言ってるの?
忠誠って、あれは冗談じゃなかったの?
それは自分が欲しかったものと、似ているようでまったく違う。
そんな言葉、クーはこれっぽっちも求めていなかった。
「俺はおまえの盾になり剣になる。俺の生命はおまえにやる、存分に使え。必ず、キリクを助け出そう」
カイトの声はどこまでも穏やかだった。彼が本心からそう思っていることは、疑う余地がないほど明らかだ。
クーの全身が強張った。
胸が軋むように悲鳴を上げている。なにより安心するはずのこの場所が、途端にぐらぐら揺れて落ち着かないものになった。指先からどんどん冷たくなっていく気がする。
……こんなにも近くにいて、触れ合っているのに。
今まででいちばん、カイトが遠い。
クーは自分を叱咤して、なんとか表情を変えずにいた。震えそうになる唇を噛みしめ、歯を喰いしばる。
「──うん」
小さな声でやっとそう答えて、強引に口を笑いの形にした。
何を言おうか迷ったけれど、ひりつく頭の中に浮かんだのはひとつしかなかった。
「オレが、『五人目』だ」
あくまでカイトがクーの「衛士」でいることを望むというのなら、きっと、この言葉が最も相応しいのだろう。
「反転の神女に……最後の神女になるよ」
(Ⅹ・終)