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招かれざる神女(旧「5th」)  作者: 雨咲はな
Ⅹ.最後の神女
40/50



「……あ、あなたが」

 緑の瞳がまっすぐこちらを向き、呟くようにそう言ってから声を詰まらせた。すぐにまた、そこからぽろぽろと透明な雫を落とす。

 クーとそう変わらないくらいの年齢の、朗らかに笑っていれば愛嬌のありそうな顔立ちをした娘だったが、現在の彼女の顔はくしゃくしゃに歪み、痛々しいまでに泣き濡れている。

 しかしクーは困惑するばかりだ。

 そこにいる娘が誰なのかも、どうしてそんなに泣いているのかも判らない。彼女は明らかに、コウが口にした「クー」という名前に反応していたが、なぜそんなにも青い顔で罪悪感にまみれた目を向けてくるのか、クーにはまったく心当たりがなかった。

「──誰?」


 首を傾げてそう訊ねるのと、娘が弾かれるように立ち上がり、床に両手両膝をついて顔を伏せるのがほぼ同時だった。


 クーはぎょっとした。

「な……ちょっと、あんた、何してんだよ」

 慌てて自分も膝をつき、なんとかその格好をやめさせようとしたが、彼女は頑ななまでに顔を上げようとしない。小さな両肩は怯えるように震え、呻くような嗚咽を漏らして、罪人のようにぺったりとひれ伏している。あまり清潔とは言い難い床だから、上等な衣服が汚れてしまうとクーのほうが気が気ではなかった。


「も……申し訳ございません、申し訳ございません」

 娘は必死になって、何度も同じ言葉を泣き声で繰り返している。


 何が? と聞いても、まずは顔を上げてよ、と頼んでも、それに対する答えはなかった。「申し訳ございません」以外は喋れない人形のようだ。これでは話にならない。

 クーは困り果てて、コウに視線を移した。

 椅子に座っているコウは、腕を組んだ姿勢のまま、唇を曲げてクーを見返してきた。難しい表情をしてはいるが、娘の土下座と謝罪を止めようという気はないらしい。

「コウ、どうなってるんだ? これ誰? それに……キリクは?」

 そうだ、そもそもカイトは、「クリスタルパレスの情報が入った」とクーに伝えに来たはずなのだ。クーとカイトにとって、それは「キリクの情報」を意味している。いきなり見知らぬ女の子に泣きだされて混乱してしまったが、まず確認すべきはそれだったと、ようやく思い出した。

「……あのねクー、ちょっと、予想外のことが起きて」

 コウは眉を寄せている。普段からあまり驚いたり慌てたりしない男だが、彼は彼で、「予想外」のその事態に戸惑っているようなのが見て取れた。

 何が起きたというのか。クーの内部は緊張で締めつけられすぎて、キリキリと痛くなってきた。顔の筋肉が強張って固くなり、喉に棉でも詰まったかのように息が自由に出来ない。


 キリクに何があったんだ?


「その子、仲間がクリスタルパレスから連れてきたんだけど」

 コウが顎でしゃくって指し示す娘に、クーも再び目をやった。

 彼女はさらに身を縮め、痙攣するようにぶるぶると震え続けていた。もはや声も出ないのか、悲痛な呻き声だけが絞り出されている。

「……キリクの『妹』だそうだよ」

「えっ」

 クーは短く声を上げ、大きく見開いた目を、すぐ前にある小さな後頭部に据えつけた。


 これが、キリクの妹?


 高い塔の上の一室に閉じ込められていたという妹──と内心で呟きながらも、クーは衝撃と同時に疑問も隠せない。

 その妹がここにいるということは、外に出られたのか? だったらどうして、キリクは一緒にいないのだろう? どうして彼女は謝ってばかりなんだ?

 いや……でも、そんなことより。


 妹、にしては、まったく似ていない。


 もちろん、そういうこともあるだろう。ククルとユウルは双子だったから見分けがつかないほどよく似ていたが、世の中にはまったく似ていない兄妹だって珍しくない、ということくらいは知っている。血が繋がっているからといって、髪の色、目の色、顔立ちに、同じ特徴を有するとは限らない。

 でも、目の前の娘には、キリクと同じ血を宿すということを感じさせるものが、何ひとつとして存在していなかった。外見の問題だけではなく、雰囲気からしてまったく違う。

 コウの話だと、キリクと妹は十代の頃までひとつ屋根の下で一緒に暮らしていたということだった。にも関わらず、まとう空気というか、匂いというか、そういうものも完全に別物だ。

 兄妹でここまで共通点を見出せないなんて、正直、違和感しか覚えない。

 クーがどういう顔をしていいのか判らないまま、次の言葉を探して迷っていると、コウが大きなため息をついた。


「──正確には、『キリクの妹を名乗っていたどこかの誰か』、だそうだよ」


 その瞬間、娘がわっと声を上げて泣いた。



          ***



 コウの説明を、クーは茫然として聞いた。


「本当の妹は、もう死んでた……?」

 顔からいっぺんに血の気が引いていくような感じがして、その場にぺたんとしゃがみ込む。

 頭の中が真っ白になったようで、何も考えられない。

 すぐ前では、褐色の髪の娘がぶたれた犬のように背中を丸めて泣き続けている。今はその哀れな姿と弱々しい声すら、煩わしく思えてならなかった。


 こいつは一体、何を泣いてるんだ……?


「どうも、キリクの父親であるリシャル卿という人物に脅されていたらしいね。その子の家族は神都で暮らしているんだけど、言うことを聞かないとその家族がどうなるか判らない、と言われたんだってさ。それで二年もの間、妹に成りすまし、塔の上に閉じ込められ、扉越しにキリクと会話をしていた、と」


 コウが淡々とした口調で言った。

 その顔には特に同情も憐憫も見えない。そのことについてどう思っているにしろ、椅子に座った彼は、無感情な目で娘とクーを見下ろしていた。

 二年、とクーは口の中で繰り返す。


 キリクはその二年の間もずっと、一人で戦い続けていたのに。

 扉の向こうにいたのは、見ず知らずの「妹のニセモノ」だったなんて。


「キリクは今、宮殿内の牢獄にいるらしい」

 続けて出されたコウの言葉に、耳を疑った。


 牢獄?


「……なんで」

「妹がすでに亡くなっていたことと、自分が騙されていたことを知って、激昂したんだろうね。キリクらしくない……いや、キリクらしい、と言ったほうがいいかな。なにしろ、あの男は今まで、自分の妹のためだけに生きてきたと言っても過言じゃないくらいだったから。妹がこの世に存在しないと判った瞬間、自分自身の存在意義も見失ったんだろう」


 コウは冷静な口調を変えなかったが、娘がより一層大きく身じろぎした。


「存在意義を失うと共に、人としての心も失った。空ろになったキリクは、人間が踏み出しちゃいけない領域を越えた、そういうことさ。──父親のリシャル卿の首を、刎ねたんだそうだよ。剣で一刀両断して頭部を落とし、その後、向かってきた宮士も次々に殺害した。死傷者十数人、命を拾った者も腕や足など、身体の一部がどこか欠けているという惨状だったらしい。……目撃した人間の話によると、その間、キリクはずっと微笑んでいたって」


 その場面を想像したのか、周りにいる人間が、揃って息を呑んだ。額に滲んだ汗を拭っている者もいる。

 でも、クーには、どうしても無理だった。キリクが──あの穏やかで優しいキリクが、血に濡れた剣を手に、微笑みながら次から次へと人を傷つけていくなんて、どうやっても、頭に思い浮かべることさえ、不可能だった。

 もしも、それが本当なら。


 キリクは……自分たちが知っていたキリクは、もういない。


「結果、キリクは捕まり、牢獄にぶち込まれた、ということだね。これだけやらかしたなら、すぐに死罪になっても不思議じゃないんだけど……どうかな、あちらにとっても、キリクは逃げた神女の居場所を知るかもしれない、貴重な証人のはずだから──」


 コウが考えるように言って顎の線を手で撫でたが、死罪と聞いて、ますますクーの顔から血の気が抜けた。

 後ろを振り返ると、カイトが棒のように立ち尽くし、同じく蒼白になっている。

 どうして、そんなことに。

 自分たちは、こんなことになるために、離れたのではなかったはず。


「……っ、申し訳、」

 馬鹿の一つ覚えのようなその言葉を娘が出し終える前に、クーの手が伸びた。

 無理やり頭を上げさせ、胸倉を掴んで乱暴に引き寄せる。

 怯えるようなその表情と、白っぽい頬がびっしょりと濡れているのを見て、目の前が真っ赤に染まった。自分でもどうにもならないほどの怒りが、頭の中で暴れ狂っているのを感じる。きんきんと甲高い音が耳の中で唸るように鳴っていた。


「泣くな!」


 燃えるような眼で鋭く怒鳴りつけると、娘がひくっと息を呑み込んだ。

 涙の膜に覆われた緑の瞳がこちらを凝視している。その目も、その震える唇も、打ちひしがれたその様子も、何もかもが悔しくて腹立たしくてたまらなかった。

 この世界の理不尽と不公平が、まるでこの娘の形を取って現れたように思えた。



「おまえに悲しむ権利なんてない! おまえ、自分が何をしたかわかってるのか! キリクが今までどんな思いでいたか、どんなに苦しんでたか、本当にわかってるのか?! キリクにとっては、妹の存在だけがたった一つの救いだったんだぞ! キリクの希望を、願いを、祈りを、おまえは最悪の形で裏切ったんだ! おまえはキリクのいちばん大事なものを、粉々に破壊して、踏みにじったんだ! それがわかってるのか?!」



 娘の全身の震えがまた大きくなった。引きつけを起こしたように、息を何度も短く吸い、苦しそうに喘いでいる。

 クーが言っていることはこの娘も十分に理解していて、そのために罪の意識に苛まれているのだろうということは、その顔を見るまでもなく判ったが、それでも怒りを収めるのは難しかった。

 自分は一体、何に怒っているのだろう。この気の毒な娘か。それとも、祈っても祈っても願いを叶えてくれない神というものか。それとも、何も出来ない自分自身にか。

 視界がぼやけた。娘も震えているが、彼女の上着を掴んでいるクーの手もまた、震えている。

 その手に、上から大きな手が包むように置かれた。



「……クー、もうやめろ」

 後ろから、カイトが静かな声で言った。



 クーは子供のように首をぶんぶんと横に振った。その勢いで、涙の雫が飛び散った。

「だって!」

「その子を責めてもどうにもならない。キリクだってそれが判っていたから、彼女を逃がしたんだろう?」

 カイトは問いかけるように娘を見た。艶のある褐色の髪を乱れさせ、苦しげに呼吸をする娘は、再び涙を溢れさせた。


「キ……キリクさま、は……わ、わたしを、あの部屋から出して……『行け』と……」

 途切れ途切れになりながら、涙で崩れた声で言う。


「パレスに潜り込ませていた仲間の居場所を教えたらしいよ。そいつは彼女の話を聞いて、保護するためにここまで連れてきたんだ。そうでなきゃ、その子も今頃捕まってたか、始末されてたかもね」

 コウが肩を竦めて、付け足すように説明した。それでも、クーの昂った感情は収まらなかった。

「だから、許してやれって?! そうか大変だったなって言ってやればいいのか?! ずっと、妹のフリして、妹の名を騙って、キリクを欺き続けていたこいつに──」

 そこでぴたりとクーの口が止まった。

 頭のてっぺんから、一気に血液が引いていくような気分になる。冷たくなった背中を、汗が伝っていった。荒い呼気が耳の奥で響いている。


 ……何を言っているんだ。

 それを、オレが言えるのか。



 ずっと、「ユウル」のフリをして、「ユウル」の名を騙り、母親を欺き続けていた自分が?



「──……」

 真っ白になった顔色で、ふらりと立ち上がった。

 目の前の娘からも、カイトからも顔を逸らし、よろけるように踵を返して歩き出す。

 後ろから「クー」とカイトに声をかけられたが、振り返らずに部屋を出た。



          ***



 今はとても母親の顔を見られない。クーはそのまま外に出て、家の壁にもたれた。

 棄民の街はむわっと生暖かい空気に包まれていた。貧しい生活に対する疲労感が漂い、全体的に乾いて、荒んでいる。まるで今のクーの心をそのまま表しているかのように。

 石壁にくっつけた背中をずるずる下げて、地べたに腰を下ろした。惑乱しきった頭でも、理性の一部が、ここから離れてどこかへ行ってしまうわけにはいかない、と歯止めをかけている。

 今のクーは追われている身なのだ。自分のことで精一杯な棄民は大抵他人にあまり興味を示さないとはいえ、不用意な真似は出来ない。

 神都からはすでに、人探しの要請が送られているだろう。棄民は神民に敵愾心を抱いている場合が多いが、報酬が入るとなったらまた別である。以前住んでいた家などは、当然衛士か宮士の手が廻っているはず。クーとカイトは今や、クリスタルパレスが血眼になって追いかける、指名手配犯も同然なのだ。


 ……囚われの身になっているキリクも今頃、厳しい追及を受けているのだろうか。


 無事なのか。ちゃんと食事は与えられているのか。酷い目に遭わされていないだろうか。つらい思いをしていないといいけれど──いいや、きっとキリクにとって、妹の死以上に、「つらいこと」はないのだろう。

 座り込んで立てた膝に両腕を廻し、自分の顔を伏せた。

 暗い牢の中で、今、何を見て、何を思ってる?


 あらゆる願いが絶たれ、未来への希望が失われた時、人というものがどんなに弱く脆くなるかということを、クーはよく知っている。

 周囲は真っ暗な闇ばかり、先へと続く道が見つからない。そんな状況で、どんな気持ちになるかということも、その時に自身を襲う無力感も、経験がある。

 だから願わずにはいられない。両手を組んで、力を込める。

 キリク、どうか、頼むから。



 生きることを、諦めないで。



 焦燥感が突き上げてきて、頭が変になりそうだ。今すぐクリスタルパレスに取って返して、キリクを助けに行ってやりたい。

 ……囚われた穴の中から引っ張り上げてやると、クーは決意したはずなのに。


 その時、建物の扉が中から開いた。

 数人分の足音が外へと出てきたが、クーは顔を上げなかった。

 置き物になったかのようにじっとしているクーの傍らに、誰かがしゃがみ込む気配がする。

「クー、俺たちは明日にでもここを出て、別の場所へと移動する。あんたらもそのつもりでいてくれ」

 かけられたのは、コウの声だった。これからその準備のために、仲間たちとあれこれ動き回るのだろう。彼らには彼らの事情があり、いつまでもキリクやあの娘のことになど、関わってはいられない、ということだ。

 クーは頭を少し動かし、目だけを出してそちらを見た。


「……あの子、どうすんの?」

 くぐもった声で訊ねると、コウはちょっと苦笑した。


「ここに連れてきた以上は、そう簡単に神都に戻すわけにはいかないんだ。本人がどういうつもりにせよ、しばらくは俺たちと行動を共にしてもらう他ないね」

「…………」

 クーはそれに対して返事をしなかったが、不満そうな声が別のところから聞こえた。

「でも、ありゃあ神民なんだろう? あたしたちと同じ生活なんて出来るのかね」

 声の主は、コウの仲間の女性だった。ふんと鼻で息をして出す言葉には、「そんなの無理に決まってる」という苛立ちが混じっている。

「食事や寝るところだって、あの子だけ特別扱いなんて出来やしないよ。どうせ、こんな貧しいもの食べられない、羽の布団でないと眠れない、って文句を言うだろうさ」

 この女性は、クーやカイト、そして母親の分の食事を作って差し入れてくれているうちの一人なのだろう。当番制なのか、それとも適当に手が空いている人がしているのか、毎回のように世話役が変わるので、クーは今のところ、誰の顔も名前もほとんど覚えられていない。

 彼女らは、クーと母親には普通に接しても、カイトに対してはことさら不愛想だったり、無言だったりする。その態度が、半民だからという理由から来るものであれば、相手が神民であったらなおさらだろう、というのは容易に想像がついた。

「それでも辛抱してもらうしかないね」

 コウは素っ気なく言うだけだった。彼自身も神民に対していい感情は抱けないからなのか、それとも、仲間が半民や神民に対して過剰な反応をすること自体を気にかけていないのかは、クーには判断がつけられない。


 どちらにしろ、この男が思っているのは、たぶん、このことが計画にどんな影響を与えるか、ということだけだ。


 クーは不意に空恐ろしくなって、寒気を覚えた。

 一人一人の気持ちや感情とは別に、革命という大きな渦の中に一旦巻き込まれてしまったら、誰もが歯車の一部と化してしまうのではないか。

 それはまるで嵐のように、クーの思いも、カイトのつらさも、キリクの苦しみも、あの娘の悲しみも、すべて簡単に吹き飛ばしてしまうだろう。

 嵐が通り過ぎた後の道に、幾多もの犠牲者の亡骸が打ち捨てられるように転がっていても、誰もそこには目を向けないのかもしれない。さらなる悲しみや苦しみが、呪いのように地面に染みついて残っても、みんながそれを踏みしめて歩いていくだけなのかもしれない。

 本当にそれでいいのか、振り返りもせず。

 クーだって、この国の現状はよくないものだと思っている。神に見捨てられた棄民たちを救える方策があるのなら、なんとか力になりたいとも思う。助けたいもの、守りたいものはたくさんあるのに、何も出来ない自分がもどかしくてたまらない。

 クーは、それを変えられる可能性を持っている。

 ……だけど。



 クーは自分の両手を広げて、じっと見つめた。

 流されるように革命軍の一員になってしまっては駄目だ。それではきっと後で悔やむことになる。「五人目の神女」としてではなく、クーはクーとして、きちんと考えて決めなければ。


 この小さな手に出来ること、自分が本当にやりたいことは、何だろう?



          ***



 足音を立てないようにそっと家の中に戻り、細く開いた扉から部屋の中を窺うと、カイトが片膝をつき、泣いている娘を宥めているところだった。

 予想はしていたが、面白くない。いろいろな意味でムカムカしながら、薄暗い廊下で、扉の真横の壁に張りつくようにして耳をそばだてる。まるで、というか、完全に覗き見だが、他にどうしたらいいか判らないのだから、しょうがない。


「少しは落ち着いたか? 水でも持ってこようか」

「い……いえ、も、申し訳ございません……大丈夫、です……」

「あんた、名前は?」

「……セ、セルマ、と申します」


 問いかけるカイトの声が穏やかなものだったからか、娘がしゃくり上げながらも素直に答えた。

 クーのいる位置からカイトの表情までは見られないが、その口調はいつも通りの彼のものだった。クーに怒鳴られ、周りの棄民たちから冷たい視線を浴びせられていた娘には、それだけで十分安心できるのだろう。お人よしの面目躍如だな、とクーは内心で思った。

 こういう時に、わかるんだ。

 キリクのように器用ではないし、甘い言葉も、柔らかい微笑みもないけれど。

 ──カイトは本当はいつだって、優しい人だと。


「うん。あのさセルマ、クーを悪く思わないでやってくれな。さっきは興奮していたけど、いつもは誰かに向かってあんな風に怒鳴ることはしないんだ。キリクのことを聞いて取り乱して、自分でも制御できなかったんだと思う。皮肉っぽいところがあるし、愛想も悪いし、性格も……その、あんまり良いとはお世辞にも言えないけど、根はいいやつなんだよ」


 貶すか褒めるかどっちかにしろ、とクーは憮然とした。


「今頃は頭も冷えて、あんなきついことを言ったのを、反省してるんじゃないかな。たぶんあとで謝りに来るだろうけどさ、ものすごく判りにくい、ひねくれた謝り方をしてくると思う。でもきっと、悪いことをしたと思ってるのは間違いないから、許してやってくれないかな」


 誰が謝るかバカ、とクーは内心で舌を出した。

 別に、悪いことをしたなんて思ってないし。ぜんぜん思ってない。というか、どんどんバツが悪くなってくるから、いい加減その口を閉じろ。

 と胸の中でぶつぶつ言っていたら、カイトが慌てたように付け足した。


「あ、言い忘れてたけど、あいつあれで女の子だから」


 よし殴ろう。

 クーがそう決心したその時、セルマが小さく噴き出した。

 その目からはまだ涙が落ちているが、笑おうと努力しているのが丸わかりの、情けなく眉を下げた顔で、「はい」と頷く。


「存じています。クーさまのことも、カイトさまのことも。──キリクさまが、あなた方お二人のことを、いつもよく話しておられました」


 必死に泣くのをこらえているのか、語尾が震えている。クーはその言葉に驚いたが、カイトも同じように驚いたらしかった。


「え、キリクが?」

「はい。以前は、キリクさまが他の方のことを話題に出されることは滅多になかったのですけれど、神殿の衛士になられてからは、お二人のことばかり」

 カイトは少し笑ったようだった。

「どうせ、あいつらには手を焼く、とか、そんなことだろ?」

「くだらない喧嘩をしてばかりで困ったものだ、とか。クーは女の子なのに乱暴で言葉遣いも悪い、衛士舎にいるとカイトが剣を片手に追いかけてきて面倒くさい、とか。……それはもう、いつも、とても楽しそうに、話していらっしゃいました」

「──楽しそうに?」

 カイトの問いに、セルマは小さく何度も頷いた。



「はい……。お二人の名を口にされる時は、キリクさまは本当に、本当に、楽しそうでいらっしゃいました。扉に隔てられて、わたしからはお顔を見ることは出来ませんでしたが、きっとその時、優しく笑っていらっしゃったと思います。いつもニーアさまの心配ばかりされていたキリクさまが、その時だけは楽しそうで、わたしもどれほど安心したかわかりません。……ニーアさまも、きっと、お喜びでいらっしゃるだろうと」



 セルマが再び涙ぐむ。一拍の間が空いた。

「……キリクの妹は、ニーアっていうんだな。あんたは彼女の面倒を見てたんだって?」

「はい。ニーアさまがあの部屋に入れられて一年ほどしてから、女官として仕えさせていただきました。ニーアさまもとても優しい、可愛らしい方でした。わたしにも友人のように接してくださって……わたしは、あの方のことが大好きでした」

 その人のことを思い出しているのか、セルマの声がぼんやりしたものになった。

「ニーアさまもずっとキリクさまのことを心配しておいででした。自分のために無理をしていらっしゃるのではないかと……笑顔の仮面をつけたまま、たった一人で苦しんでおられるのではないかと。病気でお亡くなりになる直前まで、キリクさまのことを気にかけていらっしゃいました。女神リリアナに祈る時は必ず、キリクさまをお救いくださるように、ではなく、こう言っておられました」



 ──どうか、にいさまに救いの手を差し伸べてくれる誰かが現れますように。



「…………」

 カイトは無言だった。彼が今どんな顔をしているのかは、クーには見えない。でも、なんとなく想像はついた。

 自分もきっと、それと同じ顔をしているだろうから。


「ずっと、ニーアさまのそのお言葉をキリクさまにお伝えしたいと思っておりました……でも、今となっては、もう」

 セルマがすすり泣く。

「……そんなに自分を責めなくていいんだ。あんただってつらかったんだろ。二年もの間、一室に閉じ込められていたんだし、秘密を抱え込んでいた分、なおさら苦しかっただろう。一人でよく耐えて、頑張った。キリクはあんたのことを怒っても恨んでもいないと、俺は思うよ」

 カイトの声は、変わらず穏やかだった。


 きっと今、彼の頭の中には、母親の姿が浮かんでいる。カイトに、セルマをなじるような言葉が出せるわけがない。

「…………」

 クーは口を結んで、目を伏せた。

 それから、ぎゅっと拳を握り、なんの前触れもなくいきなり扉を開けた。

 二人がびっくりしたようにこちらを見る。


「おい」

 仏頂面で不愛想な声を出すと、セルマはビクッと身じろぎして背筋を伸ばした。それでも、逃げようという素振りはない。考えてみれば、この娘は最初からそうだった。泣いても、怯えても。

 クーが責める前から、ずっと自分で自分のことを責め続けていたのだ。

「さっきは……」

 言いかけて、口ごもる。

 謝る気なんて、さらさらない。ないが、唇がむずむずする。何かを言ってやりたいが、何を言えばいいのか思いつかない。

 びしりと人差し指を突きつけた。


「……いいか、このままいつまでも悲劇の主人公に浸ってたら、承知しない。自分でやったことは、自分で責任を取れ。今度オレの前でメソメソ泣いたら、そこらに落ちてるボロ布で、その綺麗な顔を容赦なく拭く」


 イレイナを真似て意地の悪い目つきと口調で言ってやったのに、セルマはぽかんとした顔つきでこちらを見返してくるだけだった。カイトに至っては、口に手を当てて明後日の方向を向いている。

「あの……わたし、ここにいてもよろしいのでしょうか……?」

 セルマがおそるおそるといった様子で訊ねた。

「当たり前だろ。でも、自分のことは自分でなんとかしないと、棄民の連中に何を言われるかわかんないぞ。ただでさえ、ここは神民には厳しいんだから」

「は……はい」

「こうなったら、最後まで付き合わせてやるからな。キリクに会って、ちゃんと妹の言葉を伝えてやって、それから」

 クーは憤然として言った。

「一緒に、あのバカを蹴飛ばしてやろう」

 我慢できなくなったようにカイトが噴き出した。「素直じゃねえなあ……」と小さく呟く。

 セルマも泣き顔のまま、微笑んだ。


 キリクの妹ニーアも、生きていればこんな風に笑ってくれただろうか。





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