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「……反転」
復唱するように呟くクーとカイトの声が重なった。コウが頷き、自分の手の甲を二人に見せるように向ける。
「そういうこと。名前そのままの力だよ。反転の神女は、すべてのものを逆へと変換する。たとえば、裏を表に」
言いながら、コウが手をくるっと引っくり返し、今度は掌を向けた。
「陰を陽に。静を動に。闇を光に。邪を正に。──アリアナを、リリアナに」
カイトが息を呑んだのが伝わった。クーは自分の手を口元まで持っていき、ぐっと眉を寄せる。
「今、クリスタルパレスを巡っているのは、アリアナの力……」
「そう、双面神の片割れが、あの地を守っている。神民の信仰の対象は女神リリアナだが、この国の君主が実際に崇めているのは女神アリアナだ。アリアナがこちらを向いている限り、クリスタルパレスは永久に安寧を保っていられるだろう。……でも、もしもそのアリアナが反転して、後ろを向いたら? 彼女に背中なんてものはない、出てくるのはもうひとつの片割れ、女神リリアナだ」
アリアナの性質は「閉じる」。
だったら、反対の極にあるリリアナの性質は、「開く」。
「…………」
知らず、手を拳にして握りしめていた。ここに至って、ようやくその事実が頭に沁み込んできて、じわりと汗が滲む。
コウが話していることが間違いないとしたら、クーは──「反転の神女」という存在は、おそろしいまでに重大な意味を帯びている。頭の中がくらくらと痺れるような気がした。
今まで五人目は覚醒する前に必ず消されていたって? それはそうだ。ソブラ教皇をはじめとして、クリスタルパレスにいる人間たちにとって、五人目の神女はまさに災厄で、脅威でしかない。
アリアナの力が失せれば、あそこを囲むのはただの石の壁だけなのだから。
「今まで、棄民は何度も反乱を起こしてきた」
コウは淡々とした口調で続けた。
「そりゃそうさ。ここまで理不尽で不公平な扱いを受けて、なんとも思わないとしたら、それはただの家畜も同然だ。人間である以上、怒りもあれば不満もある。それが高じれば、暴動だって起きる。当然の流れだ。……だけどそれは、ただの一度も成功したことがない。成功どころか、毎回、多数の犠牲者を出して、惨めなほどに敗北し、より酷い隷属の立場に戻されるのがオチだった。神都まではなんとか侵攻できても、本尊であるクリスタルパレスには、どうしても手が届かない。どんな攻撃も撥ね返され、押し戻される。結果として撤退を余儀なくされ、そうしているうちに徹底的に叩き潰されるんだ」
反乱を起こした棄民たちは、何をしても通用しない、かすり傷の一つも負わずに美しいままの姿を保つクリスタルパレスの建物群を見て、きっと心底から愕然とし、同時に自分たちの無力さをも味わったに違いない。
怒りもあっただろうし、悲哀もあっただろう。けれどそこには、それを上回るほどの恐れも生じていたのではなかったか。
どうしても人の手には及ばない、不可解で、強大な力を目の当たりにして、これこそが神威というものかと思った者も多かったはず。神民のみを守る神の力を見て、糾弾する側が徒労感に打ちひしがれ、何をしても無駄だという諦めに覆われたなら、その時点で勝敗は決したも同じだ。
その時の人々が抱いたであろう絶望感が、クーにも嫌というほど想像できる。
自分たち棄民はやっぱり、神から見捨てられた存在なのか──
「あんたも知っているだろうけど、クリスタルパレスが栄華を誇る裏で、棄民の街は今も、年々困窮していく一方だ。その日の食い物にも事欠いて、死んでいくやつだって多い。この先を悲観して、自分で自分を、そして自分の家族を手にかけるような人間もいる」
コウの指が、とんとテーブルを叩く。一瞬わずかに揺れたクーの肩に、カイトの手が置かれた。
「棄民の街では、神民への憎悪の感情が渦巻いている。もう誰もが限界を感じているんだ。あちこちで騒乱も起き始めて、放っておけば混迷はどんどん広がっていく一方だろう。だけど闇雲に攻め入ったって上手くいきっこないのは、これまでの歴史が証明している。個々に動いてもダメなんだ。それじゃ、あっさり返り討ちにされる。せめて、意志を統一させないと」
「……それが、革命軍?」
クーは小さな声で呟くように言って、顔を巡らせ、周りに立つ人々を見た。
棄民の街のどこにでもいそうな──特に暴力的でもなければ、荒事に向いてもいない、ごくごく真っ当に生活を営んでいるような外見の男女。誰もが、毎日毎日、自分たちの暮らしを成り立たせるために、懸命に働く人間の顔をしている。
……これが、革命軍だとしたら。
それはもはや棄民の現状が、こんな人たちでさえ戦いを決意せざるを得ないほど、ギリギリまで追い込まれている、ということを示しているのではないだろうか。
「なにもこんなことを、衝動的に思い立ったわけじゃないんだ。俺たちはこの数年、ずっと話し合ってきたし、迷ったり悩んだりもした。神都のことも、クリスタルパレスのことも、しつこいくらい念入りに調べて、そのための準備もしてきた。今、声をかければ、数千という規模の棄民が蜂起するところまで用意が出来てる。実際に反乱が起きたら、同調する人間が続出して、すぐ万単位に膨れ上がるだろう。それくらい、民衆の不満と鬱屈は溜まっているんだ」
コウの静かな声に、足元から冷気が忍び寄ってくるような感じがした。
今クーがいるこの場所は、まるでぱんぱんに中身が詰まった水袋だ。針で突いたら破裂して、どっと水が溢れ出る。
それでも──
「……それでも、おそらくこの革命は失敗する。肝心のクリスタルパレスが人ならざる力で守られている以上、何万の人間が集まったところで歯が立たない。まったく忌々しいことにね」
言葉とは裏腹に、飄々とした態度で肩を竦めてみせたコウは、改めてクーの目をじっと見つめて、口を開いた。
「俺たちにとって、あんたは、状況を引っくり返すための、最後の、そして最大の切り札なんだ、『反転の神女』。機運は熟した。あんたがその力で、固く封じられているクリスタルパレスの扉を開いてくれれば、形勢は一気に逆転できる。──俺たちに手を貸してくれ。棄民を悲嘆と絶望から救えるのは、あんたしかいないんだ」
「…………」
この人物にしては珍しいくらいの真摯な口調で言われても、クーはしばらく返事が出来なかった。
当たり前ではないか。こんな要望を、すぐに受け入れられるほど、クーは能天気ではない。そもそもクーは、自身がそんな重責を担えるような器だとは、考えてもいない。
顔だけで後ろを振り返る。そこに立つカイトは、ひどく困惑したような顔をしていた。たぶん、鏡を覗き込めば、クーもまたこれと同じ表情をしているのだろう。
最後の神女となり、その反転の力を使って、革命に協力して欲しい、なんて言われたって──
「……ちょっと、まだ混乱していて、呑み込めない。返事をするまで、時間をもらってもいい?」
正直に言うと、コウは「もちろん」とあっさり頷いた。周りに立つ彼の仲間内からは、かすかに舌打ちのような音も聞こえたので、彼のその返事が総意というわけでもなさそうだ。クーの理解の遅さに苛つくというよりは、状況が前進しないことに焦れているのだろう、ということは理解できた。
それほど、彼らは気分的に切羽詰まっている。
しかし自分だってそんなに悠長な状態でないのは同様だ。現在のクーにとって、女神のことより、革命のことより、もっと気にかかっていることがある。
「あのさコウ、それとは別に、聞きたいことがあるんだけど」
「うん、何かな」
「キリクのこと」
クーのその言葉に、コウは面白そうに目を細めた。
「……もう、俺とアレとが繋がっていたことには、気づいてた?」
「そりゃ、ここまで来ればバカでも──」
と言いかけて、ちらっと後ろを見たら、カイトが非常に衝撃を受けたように固まっていたので、口を閉じた。
一瞬どうしようかと迷ったが、結局見なかったことにして顔を戻し、コウとの会話を続行することに決めた。うん、まあ、今はこいつのことは放っておこう。
コウは面白そうにくくくと肩を震わせて笑っている。その姿を見たら、よくこうしてクーとカイトを見て楽しそうに笑っていた顔を思い出し、心臓が縮むように痛くなった。
五人目の神女を監視して殺すためにそばにいたと言った。でも結局、クーとカイトを逃がして、自分だけがパレスに残ることを選んだ。あんな目で、悲しそうに微笑みながら、首を横に振って。
あの時のキリクを思い出すたび、泣きたくなるほど切ない気分になる。でもその一方で、むかむかしたものが胸に込み上げる。
そうだ、クーは怒っているのだ。
あれだけの期間一緒にいたのに、なんにも言わず、勝手に手を離し、勝手に別れを告げて、自己完結してしまったあのバカに。
「──キリクは一体、どこまで、どんな風に、どんな理由で、この件に関わっていたんだ?」
どんな事情があったとしても、許してなんてやらないけどな、とクーは内心で思う。
絶対に、あいつを蹴飛ばさないと気が済まない。
***
コウの話を、クーはただじっと黙って聞いていた。すべてを聞き終えると、カイトは自分の顔を掌で覆って、一言、「あのバカ……」とクーの感想とまったく同じことを呻くように呟いた。
クリスタルパレスの高い塔のてっぺんに閉じ込められていたという、キリクの妹。
まるで、おとぎ話に出てくるお姫様のようだ。王子キリクは、その愛しい姫君を救出するために、ずっと長いこと、歯を喰いしばり、あらゆるものに耐えながら、顔には穏やかな微笑だけを乗せて、たった一人、孤独に戦い続けてきたのだという。
あちらとこちらの両方、どちらにも決して本音を気づかせないように。
……バカだな。
言ってくれれば、いくらだって手を貸したのに。クーだけじゃない、カイトだって、絶対になんとかしようと奮闘しただろうに。力の及ぶ限り、精一杯、キリクとキリクの大事な妹を助けようとしただろうに。
一緒に考え、一緒に悩み、一緒に戦ったのに。
言ってくれれば、一人で苦しめたりはしなかった。
──キリクにとって、クーとカイトは、そんなに頼りにならなかった?
顔を下に向けたら、ぽとりと雫がこぼれて落ちた。
もっと力があれば。もっと強かったら。もっと気づいてあげられれば。
キリクが言葉に出来なかったものを、クーがちゃんと読み取っていれば。
そうしたら、キリクは今頃、妹と並んでここにいてくれただろうか。
クーとカイトに、笑いかけていてくれただろうか。
「……本当はさ」
コウが苦笑交じりに言った。
「はじめの筋書きは、もうちょっと違うものだったんだよね。俺とキリクは、情報のやり取りはしても、仲間というわけじゃなかった。ただ、『アリアナの力を無効にしたい』という点で、利害が一致していたに過ぎない。あれも喰えない奴だからね、五人目の神女を利用して、ってところは俺と同じはずだったんだけど」
両手を広げて天に向ける。
「ところがどういうわけか、途中からいきなり方針転換しちゃってさ。──五人目の神女は外に出す、それからのことは本人が選んで決めればいい、ときた。妹はどうすんだいと聞いたら、それに関しては、解決の目途がついたから、って言うんだな。まったくこっちはいい迷惑だよ」
クーは目を瞬いた。
「解決の目途?」
「どうも、あんたたちを見ていて、思いついたことがあるらしいね。あくまで推測だから、って濁していたから、俺も詳細は知らない」
「上手くいったの?」
「さてね。それについては、仲間がいずれ情報を持ってきてくれるのを待つしかないな。……まあ、とにかく、俺が言いたいのはさ」
そこで一旦言葉を切り、コウはクーとカイトのほうを向いてにやりと笑った。
「あの慎重な男が、そんな不確定な手段を選んででも、あんたたちをパレスから逃がすことを優先させた、ってことなんだよ。立場的にも、位置的にも、反転の力が欲しいだけだったら、他にいくらでもやりようはあったんだけどね。だから俺もね、あんたたちに無理強いはしない。なにしろ危険も大きいしね。神女と言ったって、こんなちっちゃくて細い女の子に、無理やりすべてを背負わせるのは、さすがに俺だって寝覚めが悪いんだ。それに、キリクにはいろいろと協力してもらった義理もある。あいつがそう望んだからには、俺もあんたの意志をなるべく尊重するよ」
そう言って、コウは確認するように周囲の面々を見渡した。
全員が納得しているわけではないのかもしれないが、反論するつもりはないのか、渋々のように頷いている。
その意見に賛成ではなくても、リーダーには従う、というのが暗黙の了解となっているらしい。それだけでも、彼らの団結力の強さが窺えた。
「二、三日したら、クリスタルパレス内部の状況が伝わると思う。それを聞いてから、俺たちも別の場所へと移動する。どうするか決めるまでは、あんたたちの身はこちらで保護するよ。ま、金がないから、神殿のようにとは言わないけど、なるべく不自由な思いはさせないようにする。じっくり考えてくれ」
そこで話を打ち切って、コウが立ち上がる。
それを合図にして、周りにいた人々も次々にその場から離れていった。ちらちらとクーとカイトに目をやるが、声をかけてくる者はいない。コウはそのまま何人かの男たちと共に、家を出て行った。
バタン、と扉が閉じる音と同時に、クーは大きく息を吐き出した。
「大丈夫か? クー」
カイトが気遣うように顔を覗き込んでくる。
家の中にはまだ数人残っているが、自分たちの周りには誰もいなくなったことで、今まで彼を覆っていた、目には見えないチリチリした緊張感と警戒心がふっと消失した。
突き刺さるくらい針を立てていたからな、とクーは思って少し苦笑する。
カイトはコウをはじめとした「革命軍」に、まったく気を許していない。これから乱を起こそうとしている棄民だからというわけではなく、おそらく彼らがクーを「五人目の神女」としてしか見ていないからだ。
実際のところ、クーが嫌だと言ったとしても、革命軍が最後の切り札をそう簡単に手離すとは思えない。コウは「なるべく」意思を尊重する、と言ったに過ぎないのだ。
保護と言えば聞こえはいいが、クーは母親を人質に取られてこの場所に拘束されている、とも言える。
これじゃ、神殿にいた時とそう変わりない。
クーも椅子から立ち上がった。ふらっと足元がぐらついたのは、いろいろありすぎて肉体も精神も疲れきっていたためかもしれない。カイトがすぐに手を出して、クーの手を取り身体を支えてくれた。
「立てるか?」
「うん。ちょっと目が廻るような感じだけど」
「そりゃそうだな」
カイトは気の毒そうに眉を下げた。目が廻るような心地なのは自分も同じなのだろうに、クーのことばかり気遣っている。相変わらずだ。
クーが「反転の神女」などという名前の得体の知れない存在だと判っても、カイトの態度は何も変わらない。だから自分も、こうしてなんとか立っていられるのだろう。
カイトがいてくれてよかった、と心から思う。
一人では、ただ途方に暮れるだけだった。母親を抱えて、こんなところにまで来てしまって、周りはみんな敵なのか味方なのかもよく判らないような奴らばっかりで。
そんな中で、いきなり真実を突きつけられたところで、どう考えていいかも判らなかった。
キリクだって、たぶん、判っていたのだ。コウという男が信用できるかどうかはともかく、革命という大きな波の中にクー一人がぽんと放り込まれても、訳も判らず呑み込まれてしまうだけだろう、ということが。
……でも、カイトがそばにいれば大丈夫だって、きっと、判っていたんだ。
「お母さんの様子を見に行くか?」
「うん。……だけどさ、その前に」
「ん?」
「──少しだけ、泣いてもいい?」
「…………」
カイトは何も言わずに、大きな掌をぽんとクーの頭に置いた。
上半身を傾けて、その頭をカイトの胸に寄せる。
広い胸板から伝わる温もりに、どうしようもなく安堵して、そしてどうしようもなく哀しくなって、ぽろぽろと目から涙が溢れた。
「カ……カイト」
詰まった喉から、声を絞り出す。情けないほど掠れて、涙に崩れた泣き声になってしまったが、「……ん?」と答えるカイトの声は、今まで聞いた中でいちばん優しかった。
「キリク、ちゃんと妹に会えたかな……?」
「……うん。きっと会えたよ。そのためにあんなにも頑張ってたんだから」
「だよね……そうだと、いいな。今頃、妹と一緒に、笑っていたら、いいな」
名前も知らない、キリクの妹。きっとキリクに似て、美人に違いない。どんな性格の女の子なのだろう。クーとは年齢が近いのだろうか。神民のお嬢さんだから、神女候補連中みたいにつんと澄ました感じなのかな。もしも会えていたら、クーのような棄民を見て、どんな反応をしたのかな。見下す? 怯える? それとも、キリクと同じように、微笑んでくれるかな。
道が違えば、友達になれていただろうか。
クーと、カイトと、キリクと、妹の四人で、仲良くお喋り出来ていただろうか。
「……っう」
引き攣るような嗚咽が漏れる。涙が止まらない。
カイトの手がクーの背中に廻って、小さく叩くように撫でてくれた。
それに甘えることにして、クーは泣き続けた。
祈るように、願う。
……守ってあげて。
なんでもいいよ。女神リリアナでも、アリアナでも、それ以外でも。とにかく、神様というものが本当にいるのなら。彼らが、神に庇護された民だというのなら。
キリクと妹を、守ってやって。
──どうか、今この時、どこかで、キリクが笑っていてくれますように。
***
そして、二日後。
クーは自分のその願いが、無残に打ち砕かれたことを知った。
その日の午後、ベッドで寝たり起きたりを繰り返す母親に付き添っていたクーを、強張った表情のカイトが呼びに来た。
彼は今、パレスで着ていた衛士の制服を脱ぎ、他の棄民たちとあまり変わらない格好をしている。それでも、腰の剣だけは常に手離さない。
「ちょっと、来てくれないか」
彼の声と顔つきで、クーはすぐに、何かよくないことが起きたと悟った。ぎこちない動作でベッド脇の椅子から立ち上がり、母親に断りを入れる。
「ごめんね、母さん。少し席を外すけど、一人で平気?」
「ええ、もちろんよ。私のことは気にしないで」
母親は、コウの口から聞かされた、クーが「神都の勤め先でヘマをして追い出された」という作り話を信じているらしい。どちらかというと、現在は母親のほうがクーの体調面を気にかけているようだった。
あまり訊ねてはこないのだが、置かれている状況から、自分の子がなんらかの厄介事に巻き込まれている、ということくらいは理解しているのだろう。
突然神都の病院から棄民の街の見知らぬ家に移されたことにも、その家に複数の人々が出入りしていることにも、不満を零したことはない。かといって、以前のように、過度にクーに依存する様子もない。
表面上は穏やかに落ち着いている彼女が、本当のところ何をどう思っているのか、正直クーにもよく判らなかった。
「……なに?」
部屋の扉を閉じてから、声音を抑えてカイトに訊ねる。
「クー」
こちらを見返すカイトは、顔色が悪かった。
ざわりとした不安が、身体の奥から湧き上がる。
「さっき、コウの仲間が、クリスタルパレスの情報を持ってきたんだ」
それでなんとなく雰囲気が落ち着かないのか、とクーは思った。革命軍の潜伏先の一つとして使用されているこの家は、一日中誰かが出たり入ったりを繰り返している。しかもその時によって、顔ぶれが違う。コウに何かを言われているのか、最低限の生活の面以外は、みんなしてクーとカイトを遠巻きにしているため、詳しいことは知り得なかったが、それでも今この場所を漂う緊迫感くらいは感じ取れた。
「キリクのことは何かわかった?」
そう聞くと、カイトの瞳に影が差した。
それを見たら、さらに嫌な予感が胸の中に充満して、息苦しくなった。
唇を結び、ぱっと身体の向きを変えて歩き出す。まどろっこしいのは性に合わない。どうせなら、この目と耳で、直接見て聞いたほうがいい。
「クー、キリクは今……」
カイトの声を背に、廊下を進んで扉を開ける。
この家に連れてこられた日、コウの話を聞いた部屋だ。そこにはあの時と同じように複数の男女が立っていて、真ん中のテーブルのところにはコウが座っていた。
違うのは、彼の向かいの椅子に腰かけているのが、クーではなく見知らぬ娘だということだ。
頭から被っているフードから出ているのは、カイトによく似た褐色の髪の毛。粗末な上着を着ているが、その下に見える衣服は相当に上等そうだった。
つい最近までパレスにいたクーには、その衣服が棄民にはとても手が出ないくらいの──神都ですらなかなか見られないほどの質の良いものだと判った。
クーが扉を開けた音が大きかったためか、娘が怯えるように身を縮め、顔を俯かせた。
腕を組んでいたコウが、こちらを向く。そのなんともいえない苦い表情を見て、ますます不安が増した。いつも大抵表情を変えない彼にそんな顔をさせるような、何かが起こったということか。
「やあ、クー」
その声も、いつになく暗い。
娘が、その名に反応して、びくっと身じろぎした。
ようやく隠すように下に向けていた顔を上げ、おそるおそるというように、ゆっくりとクーのほうを向く。
若葉のような緑色をした瞳は、大粒の涙に覆われ、濡れていた。