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クーとカイトは、「革命軍リーダーのコウ」と名乗る、見た目も自称もこの上なく胡散臭い男の先導で、神都の外へと出た。
「ここはとりあえずの潜伏先なんだ。神都に近いとそれだけ危険が大きいから、少ししたらまた別の場所へ移動する。あんたたちも今のうちに、ちょっと身体を休めておいてよ」
そう言ってコウが案内したのは、棄民の街の密集した建物の群れ、その一角にある、古びて小さな家だった。
神都から一歩出た途端に広がる、貧しく荒んだ景色に懐かしさを覚える暇もない。クーは強張った表情で馬から降りると、すぐさま扉を開けてその家の中に飛び込んでいった。
そこには見知らぬ男女が数人いて、各々勝手に寛いでいたようだが、突然ものも言わずにずかずかと入り込んだクーに、ぎょっとした顔つきで立ち上がった。
「お、おい、なんだ、小僧」
「そのナリ──神民か? なんだってこんなところに」
「おい、こら、あちこち動き回るな! 誰だお前!」
クーを捕まえようと男が伸ばしてきた手は、そこに届く前に別の手によってがっちりと掴まれた。
「クーに触るな」
男の腕を潰しかねない強い力で握り、カイトが剣呑な眼つきで凄む。
その加減のなさと、近寄っただけで弾かれそうなピリピリ尖った雰囲気に、男は怯んだ。
体格で言えばその男のほうが縦にも横にも大きいくらいだったが、カイトが全身から放出させている気配には、腹を減らした獣なみに凶暴で物騒な波動を孕んでいたからだ。
現在のカイトもまた、普段の精神状態からは程遠い。
「な、なんだよ、おまえら……」
「母さんはどこ?」
思わず後ずさり、声が尻すぼみに弱まった男のほうを向いて、クーは性急に問いただした。
「ここにいるんだろ? 母さんはどこにいる? ちゃんと無事なんだよな?」
「母さんって……」
戸惑いながらクーを見返した男の顔に、ようやく徐々に理解の色が広がった。
「あ、ああ、じゃあお前が……え?」
理解したと同時に、疑問も生じたらしい。困惑した目で、不安そうなクーを見て、不機嫌そのもののカイトを見る。
男がそれまで想像していたものと、現在目の前にあるものの姿が、どうにも上手く繋がらないようだった。
「ラダ、それがお待ちかねのお客さんだよ。丁重に迎え入れてやって」
「コウ!」
遅れて入り口の扉を開けて入ってきたコウに、男がホッとしたような声を出す。
それから改めて、すぐ前にいるクーをまじまじと見やった。
「え、じゃ、この貧弱なガキが神女……?」
うっかり本音を漏らした男は、カイトにそのまま腕を捩じり上げられて、いててて! と悲鳴を上げた。
***
「母さ──」
案内された一室の扉を乱暴に開け放ったクーは、すぐに大きく踏み出した足をそこで止め、出しかけた大声を慌てて喉の奥へと押し戻した。
……狭い部屋の中、粗末なベッドに横たわった母親は、静かな寝息を立てている。
額に汗を滲ませ、荒い息を必死に抑えつけながら、クーは足音を立てないようにゆっくりとベッドへ近づいていった。
目を閉じた母親に、取り立てて苦しそうな様子は見られなかった。顔色も悪くはない。そっと布団を捲って確認してみたが、神都の病院にいた時と同じ寝間着を着て、腹部の上で両手を組んだ端然とした姿勢で眠っていた。上下する胸の動きも規則的で、呼吸も至極穏やかだ。
「言ったでしょ? あそこから連れ出すのに乱暴な真似はしていないって。ちゃんと説明をして、納得ずくで同行してもらったんだから」
部屋の入り口から顔だけを覗かせて、コウがやれやれというように言ったが、その傍らに立つカイトは苦々しい表情を崩さない。
「どんな説明をしたんだよ」
「そこは適当に出任せを」
「それのどこが納得ずくだ」
「だって本当のことを全部話しちゃうわけにはいかないでしょうが」
コウとカイトの声を頭の上で通過させて、クーはただ黙ってじっと母親の寝顔に視線を据えつけていた。
彼女はコウのその出鱈目な説明を、どう思って聞いたのだろう。不安だったろうし、怖かったはず。きっと、クーが──「ユウル」があとで来るから、とでも言われて、その言葉に縋るような気持ちでここまで来るのに肯ったに違いない。以前のように窶れてはいないが、眠る彼女の顔には疲労の色が残っていた。
神都の病院で、おっとりと微笑んでいた母親の顔を思い出す。
せっかく落ち着き場所を見つけられたと思ったのに、またこうして棄民の街に逆戻りだ。
しかも今度は、クーともども追われる立場になっている。ひょっとしたら、これからずっと場所を転々と移動しながらの逃亡生活になるかもしれない。
こちらの事情に振り回されてばかりで、母親の脆い神経は果たして保つのだろうか。
「…………」
クーはぎゅっと拳を握りしめ、歯を喰いしばった。
──結局、何も出来なかった。
母親も、キリクも助けられず、何ひとつ成し遂げられず、クーはまたこの棄民の街へのこのこと舞い戻って来ただけだった。
ただ大事な人たちに笑っていて欲しかっただけなのに、その望みすら叶わない。
どうして? いいや疑問に思うまでもない。それはクーが弱いから、無力だからだ。あのクリスタルパレスという場所に巣くっていた巨大な何かと対峙することもなく、ただ逃げてくることしか出来ないほどに、この手が小さすぎたからだ。
何のために自分は棄民の街を出て神殿に行ったのだろう。カイトとキリクに頼まれたから──だけど、行くことを選んだのは自分自身だったのに。
クーがククルという名を捨て、ユウルとして偽ってきた過去も捨て、何もかもを手離し、住み慣れたあの小さな家を出て行く時、心の中にはただひとつの願いがあったのではなかったか。
「クー」という新しい自分の手の中に、何かを入れられるように。
一度は空っぽになったその手は、確かに、何かを掴みかけていたはずだった。
神殿は窮屈だったけれど、楽しいことだってたくさんあった。三人で笑ったり、喧嘩をしたり、勉強したり。腹立たしいことはいくつもあったが、つらいと思ったことはない。いつも自分を守ってくれる存在が、両隣にあったから。
明るい陽射しの下で、カイトと一緒に馬に乗ってはしゃぎ、キリクが笑顔で手を振ってくれていた、あの日。
クーはとても満たされていた。
でも、今のクーはこんなにも心細く、頼りない。近くにいてくれるカイトの顔に笑みはなく、母親は昏々と深い眠りに就いている。キリクは──キリクは今頃、どうしているのだろう。
これじゃダメだ。クーはせっかく一度は自分の手の中に入れたはずのものを、取り落としてしまった。クーの掌はまだ開いた状態にある。
こぼれたものは、まだあそこに──クリスタルパレスに残されたままだ。
これでは、クーもカイトも、そしてキリクも、これからずっとまた中途半端に生きなきゃいけない。
「──……」
思いきり鼻を啜って、ごしごしと勢いよく腕で目許を拭った。
嘆いている場合じゃない。愚痴を言ってもはじまらない。今はそんなことをしている時じゃない。
泣き言を垂れ流す暇があったら、その分、前へと進むんだ。どんなに心が痛くても。
クーはクーのまま、クーはクーの思うように。
カイトとキリクがそう望むのなら。
「……話を聞かせて、コウ。オレたちが知っていることも、知らないことも、全部」
後ろを振り返ってそう言うと、コウがにやりと唇を上げた。
「そうこなくっちゃ。神女は切り替えが早くて助かるよ」
「言っておくけど、オレたちにまで出任せの説明をしたら、ぶっ飛ばすからな」
「へえ、あんたが?」
「カイトが」
ニヤニヤと楽しそうに笑ったコウは、クーが付け加えた言葉に、ちょっと閉口した顔になった。「任せろ」と頷いて指の骨をボキボキ鳴らすカイトは、むしろ今すぐにでもそうしたい、という顔をしている。
「勘弁してよ、ここに来るまでの道中でもさんざん突っかかってこられて、さすがにウンザリしてるんだ」
「俺はお前なんて、これっぽっちも信用していないんだ」
「もうあの時みたいに突然襲いかかったりしないって。あれはただ、あんたの腕を確かめてみたいと思っただけだよ。俺がこうして素顔を晒している時点で、いろいろと察してほしい……いや無理か、あんたすげえ鈍感らしいから」
「なんだその上から目線の言い方は。最初から思っていたが、ガキのくせに生意気なんだよ」
「あ、言ったらいけないこと言った。あんたね、俺の前でそりゃ禁句」
「うるさいぞ、おまえら」
お互い掴みかからんばかりに睨み合うカイトとコウの足を、クーは遠慮なく蹴飛ばしてやった。
「でっ」「うわっ」と叫び声をあげる二人を、さらに蹴って部屋の外へと押し出す。
「母さんが起きるから、静かにしろ。大体、女性が寝ている部屋を男二人が覗くってどういう了見だ。さっさと出て行け」
「いや、それは悪いと──いてっ、ちょっと手加減しろ、クー!」
「え、ホントにこの子、神女なの? ここまで乱暴だとは聞いてな……いてえっ!」
最後に一発ずつ蹴りをお見舞いし、クーは自分も部屋を出た。
そっと扉を閉める間際に、もう一度振り返り、穏やかに寝入っている母親の横顔に目をやる。
──ごめんね、母さん。
オレはあそこに置いてきたものを、取り戻しに行かなくちゃ。
首根っこ引っ掴んででも、今度こそ。
***
母親が眠っているのとは別の部屋に、他の男女が集まっていた。
革命軍という大層な名前のわりに、そこにいるのは棄民の街のどこにでもいるような風体の連中ばかりだった。
特に人相の悪い凶暴そうなやつはいない。しかし、あまり頼りになりそうなのもいない。
がっちりした体つきの若い男もいるが、ひょろりと痩せた壮年の男もいる。女たちは大体、着古した服にエプロンで、普段はおかみさんと呼ばれて子供を威勢よく叱りつけていそうな感じだった。
殺風景な狭い室内には、小さなテーブルと椅子と棚くらいしかない。掃除はされているようだが、全体的に薄汚れていた。おそらく、誰かの家というよりは複数の人間の溜まり場として使用されているのだろう。べったりとした生活感はなく、人が出入りするだけの場所特有の落ち着きのなさがある。
テーブルを挟むようにして椅子に座ったのは、クーとコウだけだった。コウは相変わらず何を考えているか判らない飄々とした顔と態度だが、周りを囲むようにして立つ人間たちはどこか不穏なものを立ち昇らせている。
半信半疑でクーを見ているのが半分、嫌悪と警戒心を浮かべてカイトを睨んでいるのが半分、といったところか。
カイトはカイトで、やっぱり警戒心丸出しでクーのすぐ近くに立ち、いつでも剣を抜けるような体勢をとって、それらの視線を跳ね返していた。
緊張感が張り詰め、ギスギスと軋む音が聞こえそうなほど、雰囲気が悪い。
「……そうだな、まずはどこから話そうか」
コウは少し面白そうな顔で一同をぐるりと見回してから、とんとんとテーブルの上を指先で叩いた。
そのテーブルには、なぜかなみなみと牛乳が入った大きな水差しと、空のグラスがひとつ置いてある。
「これから俺が話すことはね、たぶん、すぐに呑み込めるようなことではないと思う。特に、神都で生まれ育った人間には、到底容易には受け入れられるもんじゃない」
カイトが何かを言おうと口を開きかけたが、コウは軽く手を挙げてそれを止めた。
「──だけどまあ、とりあえずは、黙って聞いてくれ。あんたたちには、この国の真実の姿を知っておいてもらわないといけない。それからどうするかは、あんたたち自身が決めて判断するにせよ」
今度は周りにいる男たちが口々に何かを言いかけたが、コウはそれも手で制した。
ここにいるのはみんなコウよりも年上に見えるのに、誰もが黙って彼に従っているようなのが、なんだか奇異に思える。この男は、一体どういう人物なのだろう。
コウは目を細め、テーブルを叩いていた指の動きを止めた。
「うん、まずは、このアリアランテという国が戴いている『女神』の実像からにしようか。女神リリアナと、女神アリアナ。二つの顔を持つ、双面神についてだ」
***
女神リリアナと、女神アリアナ。
対立し、対抗する、真逆の性質を持つ二つの力。
コウの口から語られるその話を聞くにつれ、カイトの顔からは徐々に血の気が引いていった。
「バカな」と呟き、汗の滲む額を掌で押さえる彼のその姿に、周りの男女は冷ややかな目を向けている。
自分たちが崇めていたのが邪神であったと知った気分はどうだ、とそのうちの誰かが小声で吐き捨てた。
いい気味だ、とせせら笑う声も聞こえた。
クーも以前は「あちら側」にいたから、そう言いたい気持ちは判る。棄民の彼らにとって、カイトはまごうことなく、神の庇護のもとでのうのうと暮らしてきた神民にしか見えないのだろう、ということも。
しかしもちろん、いい気分にはならない。はっきり言って、不愉快そのものだ。
腕を組んで、テーブルの脚をガン! と音を立てて蹴っ飛ばし、周囲に鋭い一瞥をくれると、ひそひそと囁く声と抑えられた嘲笑がピタリと止まった。
ずっと信じてきたものが崩れて衝撃を受けている姿が、そんなに可笑しいか。
「そうおっかない顔をしないでよ。こりゃ確かに、いきり立った猫だ」
くっくと笑うコウも気に障る。確かに、って何のことだ。
「いいから続けろ。この国が戴いているのは女神リリアナとアリアナという双面神。……で?」
「あんたは話が早くていいね。後ろの衛士ほど驚きはしなかったかい?」
クーはその問いに肩を竦めた。
「オレは棄民の街で生まれ育ったから、そもそも女神ってものが遠い存在だったんだ。赤ん坊の頃から植え込まれた価値観が、カイトとは根本的に違う。だけどそれは、どっちがいい、どっちが悪いってものじゃないだろ。悪いとしたら、自分の価値観だけが正しいと信じ込み、相手が間違っていると決めつけたり、馬鹿にしたり、疎外したりする行為のことだ。違うか?」
クーがそう思えるようになったのは、半民という立場にあっても、決して誰も責めることはないカイトを見てきたからだ。
しょうがない、といつも寂しそうに笑っていた。
そのカイトを、今度は棄民が「神都で暮らしてきたから」という理由だけで見下すのは許せない。
それは神民が、棄民というだけで自分たちを侮蔑し軽んじることと、どう違う?
クーの言葉に、周りに立つ人間の何人かが目を逸らした。しかし何人かは、まだ腹の虫がおさまらないというように口を曲げている。
コウが苦笑して、両者を宥めるように掌を広げて押さえる真似をした。
「了解、わかった。今のはこちらが悪かった。……だけど、こいつらの気持ちも少しは理解してやってくれ。この中には、神民に大した理由もなく家族を殺されたってやつもいるんだ。そうそうすぐに快く受け入れられるもんじゃない」
「……うん」
クーは目を伏せた。
棄民の街で、そんな話はいくらでも耳にした。彼らが神民に抱く憎悪も判る。
しかしそれをカイトにぶつけるのは間違いだ。カイトもまた、神民によって母を失い、多くのものを傷つけられてきたのだから。
──互いのこの深い溝は、果たして埋めることが可能なのだろうか。
「で、話に戻るけど」
コウはそれ以上のことは触れず、改めて舵を切り直すように言った。
「その女神たち……いや、うーん、『女神』っていうのは、あくまで便宜的につけられた名称だと、俺は思うんだよね。要するに、『相反する性質を両方持った、ひとつの大きな力』と考えるべきだ」
「大きな、力」
クーは呟いて、威容を誇る巨大な街、クリスタルパレスのことを思い浮かべた。
あの場所だけを守っている、歪な力。
それは決して、「女神」と名付けられるような崇高なものではない、という意見には同感だ。
「その大きな力は、表と裏、あるいは前と後ろ、あるいは両端に、正反対の極を持っている。詳しくは俺だって判らないけど、思うに、その両極は、循環して力を構成し、より大きな力を得るんじゃないかな」
「…………」
クーが無言だったのは、その説に納得できなかったわけではなく、コウが何を言っているのかさっぱり判らなかったためだ。
それが露骨に顔に出たらしく、コウは「うーん」と唸って頭を掻いた。
「そうだな、たとえば」
と言いながら、テーブルに置いてあったグラスを手に取った。
「ラダ、ちょっとこっち来て」
最初にクーを捕まえようとした人物に向かって手招きする。ラダと呼ばれているのは二十代後半くらいの、いかにも筋肉が自慢です、というような外見をした男だったが、うええ、と情けなく眉を下げた顔で近くまでやって来た。
「いい? このグラスが、『神女』」
空のグラスを目の前に突きつけられて確認するように言われたが、クーもカイトも、はあ? としか返せない。
コウはそれを無視して、今度はそのグラスの中に、傍らにあった水差しから牛乳をとくとくと注ぎ入れた。
「この牛乳が、『女神リリアナの力』と呼ばれるもの」
何を言っているのか判らない。クーは眉を寄せて、じっとその真っ白い液体を眺めた。
空っぽのグラスが神女で、牛乳が女神リリアナの力──
「そしてここにいるラダが、『女神アリアナ』と呼ばれているものだ。はい、飲んで」
「勘弁してくれよ、俺はお前と違って、牛乳は好きじゃねえんだから」
「いいから飲む」
素っ気なく命じられて、ラダは渋々グラスを持ち上げ、一気に牛乳を飲み干した。ごくんと喉を鳴らしてから、気持ち悪そうな顔で口を手で押さえている。
女神アリアナが、女神リリアナの力を、飲み込んだ?
「わかった?」
コウに訊ねられたが、クーは曖昧に首を傾げるだけだった。こんな説明で判るわけがない、とも思うのだが、何かが頭に引っかかる。
神殿でずっと抱いていた違和感が、少しずつ形になっていくような、そんな感じがした。
「両極の片方──女神リリアナと呼ばれているほうは、百年という時間をかけて、少しずつ力を内部に溜め込んでいく。それが水差しになみなみと入ったこの牛乳だ。でも、このままだと溢れてしまうから、それを減らすために外に出さなきゃならない。百年に一度ずつね」
「それが──神女選定?」
クーは低い声で問いかけた。
百年に一度、女神の力を分け与えられる儀式。
コウがこっくりと頷く。
「でも、いっぺんには出せないからね、何回かに分けて『器』に注ぐんだ。さっき入れた分は、そうだな、『眼』の力。その力を、ラダ……女神アリアナと呼ばれる両極のもう片方が、吸収する」
そう言いながら、コウはまた新たにグラスに牛乳を注ぎ入れた。
「これは、『耳』の力」
牛乳で満たされたグラスを渡され、ラダは嫌な顔をしたが、思い切ったようにそれを傾けて、また一気に飲み干した。
「それから、『鼻』の力」
続けて注がれた牛乳を、泣きそうになりながらラダが飲み干す。
「そして、『声』の力」
一拍の間を空けてから、覚悟を決めて、ラダはそれも飲み切った。空になったグラスをテーブルに戻した時、彼は死人のような顔色になっていた。
「……と、このように、器に入れられたリリアナの力を、アリアナが飲み込んで、それがまた新しい力となるわけだ。牛乳を四杯も飲んだラダが、しっかり栄養補給出来て元気いっぱいになるように」
ラダはその場にしゃがみ込んで、「元気じゃねえ……」と呻いている。
「リリアナの力を吸収したアリアナは、より力を増す。その大きな力をもって、クリスタルパレスという場所を守る。それが人間との契約によって成り立っているものなのか、あるいは人間が勝手にその性質を利用しているのかは判らないけど、アリアランテという国は、建国以来ずっとそうしてやってきたというわけだ」
女神リリアナの力を吸い込み、大きくなった女神アリアナの力によって守られた国。
だからここは、「神国アリアランテ」なのだ。
「アリアナは陰陽の陰。光と闇なら、闇のほう。クリスタルパレスは、最初から、正ではなく、邪の力に支配されている」
コウは再び、とんとんと指でテーブルを叩いた。
「あの場所はその強力な力によって保護され、いかなる攻撃も災いも寄せつけない。あの地を脈々と流れるアリアナの力は、『閉じる』という性質を持っている。あそこは何もしなくとも、それ自体が堅牢なんだ。固く閉ざして、受け入れず、弾き返し、結果として、中のものだけを守る」
「…………」
クーはじっと空になったグラスを見つめた。
これが、神女。
その視線に気づいたのか、コウがグラスを持ち上げ、口角を上げた。
「……神女ってのは、ただの『器』のことさ。それも空っぽの。他に余分なものが入っていたら、リリアナの力が十分注げないだろう? 水晶はね、そういう人間を神女として選ぶんだ」
それぞれの属性が欠けた人間を選び出す。ただ、女神リリアナの力を入れて、アリアナに飲ませるために。
それだけのために。
「少しくらい中に本来の資質が残っていたって……こうして」
コウが水差しを傾けて、グラスの中に牛乳を注ぎ入れていく。
「入れてしまえば、混じってしまう。もう分けられない。それをそのままアリアナに吸収されてしまうんだから、同じことさ。もともとあった分まで、すべて一緒くたに飲まれてしまって、最後には、もう何も残らない」
グラスのふちまで牛乳が入っても、コウは水差しの角度を変えなかった。
「入れるほうもそんなこと、お構いなしだからね。グラスの容量を超えても、あるだけの力を器の中に注ぎ込むんだ。女神と呼ばれているその力には、慈悲なんてものはない。そして意志というものもない。ただ、出して、入れる。それだけ」
牛乳は、とうとうグラスから溢れて零れ、テーブルの上に広がった。
じわじわと白が侵食していく様を、クーは声もなく見続けた。
モリス、サンティ、ロンミ、イレイナ。
……単なる力の器として使われた彼女たちは、今、どうしているんだ?
「アリアナの力はクリスタルパレスの『下』を巡っている。リリアナはそれを少しずつ吸い上げ、アリアナはその分消耗していく。百年かけてリリアナの中に溜まっていったその力を、今度はアリアナへと戻してまた次の百年のために力を蓄えさせる。どちらが欠けてもうまく廻らない。……アリアランテという国は、そうやって続いてきたんだよ」
コウが口を閉じると、しんとした静寂が落ちた。
クーだけでなく、後ろに立つカイトも、息をする事さえ忘れたようにその場に立ち尽くしている。そこにいる誰もが、他にどうしようもなく、ただテーブルの上に流れる牛乳を凝視していた。
「──キリクは」
しばらくして、ぎこちない声がクーの口から出た。カイトが小さく身じろぎする。
「キリクは、オレが『五人目の神女』だって」
君が五人目の神女だ、クー。
あの時、キリクは確かにそう言った。五人目の神女が確定すれば、その存在は直ちに抹消されることが決まっていたと。だから自分が監視役として送り込まれていたのだと。
五人目は、禁忌の神女だ、とも。
クーはやっと顔を上げ、コウと目を合わせた。まっすぐその顔を見て、口を開く。決意を込めて。
それがきっと、いちばん自分が知らなきゃいけないことだ。
「……五人目の神女って、なんだ?」
コウは少しの間黙ってクーを見つめ返し、ふ、と口元を緩めた。
一直線に向かってくる瞳の中に、「何か」を見つけたように。
「五人目だけは、他の四人の神女とはまったく異なる役目が与えられるんだ。自分の眼と耳と鼻と声をすべて奪って力を増すアリアナに対する、リリアナの最後の反撃の手段、とでも言うかな……いや、意志なんてものはないから、それも変か。どこかの誰かは、こう言っていた。『大きすぎる力の中には、必ず自らを滅びへと導く因子をも含んでいるものだ』とね」
クーは戸惑った。
「自らを滅ぼす、因子……?」
「そう。他の四つの力がアリアナに吸収されることで、はじめて与えられる力。その特殊性ゆえに、ソブラ教皇が──アリアナに守られたクリスタルパレスが、なによりも恐れ、だからこそすぐにでも消してしまおうと躍起になる力」
コウは正面からクーを見据えて、きっぱりと言った。
「──最後の五人目は、『反転の神女』」