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招かれざる神女(旧「5th」)  作者: 雨咲はな
Ⅸ.天に背きし者
37/50



 ニーアが塔の上の部屋に閉じ込められてから、刻々と時間だけが経過していった。

 キリクは死に物狂いで封印の力を破る方法を模索したが、それはまったく上手くいかなかった。どれだけ調べても見つからない。まるで前進しているような気がしない。むしろもがけばもがくほど、目の前に塞がる壁の大きさ頑丈さを実感して、自分の無力さと小ささを思い知らされる。その繰り返しだった。

 半年、一年、二年と経っても、解決の糸口さえ掴めない有様だ。キリクはクリスタルパレス内を隅から隅まで歩き回り、その場所にまつわるありとあらゆることを調べたが、結果として見えてきたのは、彼にとってどうにも受け入れがたい現実だけだった。


 ──ここには確かに、目には見えない大きな力が働いている。


 神民が「女神リリアナ」と呼んで尊ぶその力は、一度見方を変えてみれば、ひどく禍々しいものとしてキリクの目に映った。

 なぜならそこには、意思も、自我も、判断力もないからだ。ただ、この地を巡り、流れているその力が、君主とその周辺の思惑と私欲によって、いかにも崇高なもののように扱われ、捻じ曲げられているに過ぎない。

 それが「神」というものなのかどうかキリクには判らないが、自分一人ではどうにもならないものがそこにあるのは事実だった。

 長い時間をかけて刷り込まれてきた、「神に加護された国アリアランテ」と、「聖なる女神リリアナ」。

 人々の中には、もうすでにそれが確固として形成されてしまっている。キリクが何を訴えようと、その言葉は誰の心にも届かないし、浸透もしない。神女についても同じことだ。

 今さら、五人目の神女の存在を声高に叫んでも、誰もそれを信じる者などいやしない。

 この国の真実を知ったところで、キリクが無力なのは何も変わりない、ということなのだった。彼は孤立無援で、どれだけ足掻こうと目の前の壁に弾かれるばかり。ニーアの姿を隠してしまっているあの扉のように。

 キリクがあれこれと嗅ぎまわっていることをリシャル卿も承知していただろうが、それを止めようともせず放っておいたのは、いずれキリク自身がそれを認めざるを得なくなることを知っていたからなのだろう。

 リシャル卿は女神に対しても傲慢で不遜だったが、その「力」への信頼だけは揺るぎなく強固だった。

 彼はおそらく、キリクもまた、その大きすぎる力の前には敗北するしかないことを確信していたに違いない。


 しかし、キリクは諦めなかった。

 相手が神のように強大な存在でも、いいやそれが大きければ大きいほど、その力は内部に、()()()()()()()()()()()をも含んでいる。

 女神リリアナとアリアナの場合、それが「五人目の神女」ということだ。

 しかし、それが判っても、キリク一人ではどうしようもないのが現状なのだった。


 ……どうすればいい?


 表面上はリシャル卿に唯々諾々と従う姿勢を見せながら、目と頭を常に全方位に向け、物事の動向を注意深く探っていた。

 どこかに必ず突破口はあるはず。どんなに小さくてもいい。どんなに細かいことでもいい。

 キリクはクリスタルパレスだけではなく、神都も廻った。

 そして、棄民の街へも足を延ばした。

 以前とは違った目で見てみれば、そこは自分の手足と頭を使って貧しい日々を切り抜けていこうとする、荒々しくも逞しい人々の世界だった。

 犯罪も暴力もあるが、誰もがみんな、知恵を絞り、己の身体を動かして、這ってでも前へ進んで生きようとする、したたかさと懸命さがある。

 ──そこで人々が頼るのは女神の力などではなく、自分の力のみだった。




 そんな頃、その男と知り合った。

「神民がこんなところにいたら、狙われるよ?」

 と軽い感じで声をかけてきた彼は、当時、今よりも細身で小柄で、若者というよりは少年と言ったほうがいいような外見の持ち主だった。そのくせ、すでにどこか老成した雰囲気もあって、こちらに向ける黒い瞳には油断ならない光が居座っていた。

 その左の頬には、斜めに走る目立つ傷がある。

「棄民の中には、神民に酷い目に遭わされて恨んでるやつも多いんだ。こんなところを一人でふらふらしてる神民は、身ぐるみ剥がされたり、ボコボコにして道端に放り捨てられたりして、痛い目を見てもしょうがない。あんたがそこらで死体になって転がっても、誰も同情なんてしやしないよ」

「それは困るな」

 キリクは答えながら、ちらっと腰の剣に目をやった。


 リシャル卿に対抗するために鍛えた分、それなりに腕は立つほうだ。普通のゴロツキ程度ならなんとかなるだろうと思っていたのだが、目の前の少年は、妙に隙のない空気を周囲にまとわせている。

 特に構えをとるでもなく、両手はズボンのポケットに入れたまま、ゆらゆらと揺れる上半身は、強風が吹いたら今にも飛ばされそうなほどに頼りないにも関わらず、簡単に倒せるような気がまったくしなかった。


「それで、君が僕に近づいてきた目的は何なのかな。金? あいにく、今はさほど持ち合わせがないんだけど、すべて差し出せば見逃してもらえるかい」

 キリクの答えに、少年は軽く口笛を吹いて目を細めた。

「いいね、話が早いなお兄さん。俺はそういうやつが好きなんだ。金はもちろん喜んでいただくけど、その前にちょっと俺と話でもしない?」

「話?」

「立ち話ってのもなんだから、店にでも入ろうよ。あ、心配しなくても、店に入った途端あんたを仲間で取り囲んで袋叩きにするなんてことはしないから。神民っていうとすぐに喰ってかかるような血の気の多いやつもいるけど、とりあえず、俺とそこにいる連中全員に酒を一杯奢ってくれたら、そういうやつは抑えておいてやるよ」

「酒? 君にもかい?」

「うん」

「しかし、君はまだ子──」

「言っておくけど、その続きを口にしたら、俺怒るから。俺こう見えてけっこう寛大なほうだと思うけど、チビとかガキとかの単語には身体が勝手に反応するから。それで再起不能になったやつも多いんだ、あんたも十分気をつけてね?」

 目は細められたままだし、口も笑いの形になっているが、全身から発散されるものが一気に不穏になった。どうやら冗談ではなく、本気で言っているらしい。

 キリクは目を瞬いた。

 自分の前に立っているのは、飄々としているわりに変なところにこだわりのある、どうにも掴みどころのない風変わりな人物のようである。

「じゃあ聞くけど、君いくつ?」

「個人的なことを言うのは好きじゃない。でも、あんたよりは年上」

 問いに返ってきた言葉に驚いたのは、自分よりも年上ということではなく、その言い方が、まるでキリクの年齢を知っていることを前提に出されているようだったからだ。

 キリクは表情を引き締め、改めて目の前の人物をまじまじと見つめた。

「君は──」

 彼はにやりと笑った。


「年齢だけじゃなく、あんたのことはもう少し知ってるよ。第三位神民、キリク・ソロ・リシャル。パレス内でなんだか怪しげな動きをしているらしいね」


 キリクは無言で、今度こそ剣の柄に手を伸ばした。硬く冷たい光を帯びた目を向けられ、相手は「おっと」とようやくポケットから手を出し、こちらに掌を見せた。

「おっかねえ顔だなあ。あんた、そんな風に全身に針を立てて、疲れない? 俺はちょっと話がしたいと言ってるだけだよ」

「……どんな話かな」

「そうだなあ。たとえば──」

 彼はそう言って、ふらりと首を傾げた。

 と思ったら、次の瞬間には、キリクの間合いにまで接近していた。空気を乱すことなく、しかもおそろしく迅い。その尋常ではない動きに目を見開き、咄嗟に剣を引き抜こうとしたキリクの手は、素早く上から押さえられた。こうなるともう、武器の有無など関係ない。彼は到底キリクが敵うような相手ではなかった。

 男は顔を寄せ、唇を上げて囁くような声音で言った。


「──たとえば、この国を引っくり返す、なんて話はどうかな。俺たちはね、今、切実にパレスの中の情報が欲しいんだ。あんた、俺たちに味方してくれる気はない?」



           ***



 目を開けると、そこは暗い牢獄の中だった。

 どうやら、昔の夢を見ていたらしい。昔のといっても、あれからまだ三年ほどしか経っていない。それとも、もう三年、か。

 時間というのは、その中に立っている時はなんともじりじりと歯がゆいばかりに進まないものだが、過ぎてしまえばあっという間だ。

 ここに入れられて、どれくらいが経過したのかも、もうキリクには判らなくなりつつある。ここは常に暗く静かで、キリク自身の意識も朦朧としていることが多いからだ。バーデン司教から指示が出ているのか、食事はちゃんと入れられるが、それが朝の分なのか夜の分なのかも、もはやはっきりしなかった。

 あれから何日経ったのか。未だにしつこくクーとカイトの行方を訊ねられるということは、二人はまだ見つかっていない、ということだ。コウとはちゃんと合流できたのだろうか。

 キリクはまだ生きているが、それはただ、「生存している」というだけのことだった。

 今のキリクはもう、何も話さないし、動かない。背中で両腕に枷を嵌められ、鎖がつけられた足はずっと冷たい石の床の上に曲げられている。強引に飲み物や食べ物を口の中に詰め込まれるので咀嚼して呑み込んではいるが、それもなければ、その格好のまま干からびていただろう。


 ……本当は、生きようという気もさらさらなかった。

 リシャル卿の首を刎ねてから、宮士たちに殺されたってよかった。というより、彼らに剣を向けたのは、あちらに自分を串刺しにしてもらうつもりだったからだ。

 自分の痕跡も残らないくらい、跡形もなく消して欲しかった。

 ──なのに、カイトが何かというと、キリクに剣の相手をさせるものだから。

 いつの間にか、うっかりキリクは強くなりすぎてしまっていたらしい。宮士たちの剣の動きがカイトに比べてあまりに遅すぎるので、じれったくて先に手を出していたら、つい死にそびれてしまった。だから訓練ばっかり付き合うのはイヤだって言ったのに。

 ニーアはいなくなった。クーとカイトはパレスから逃げおおせた。復讐も果たした。

 リシャル卿を自らの手で屠ったあの瞬間に、これまでキリクを支えてきた憎悪も消えた。ニーアがとうに亡くなったと知った今、自分の存在意義もなくなった。

 キリクは、もう生を続ける必要を感じない。


 この五年、そしてコウとのあの出会いから三年、やれるだけのことはやってきた。キリクにやれたことなど本当に少ししかないが、コウから話を聞いたら、その先を選んで決めるのは、クーとカイトだ。

 もちろんキリクの希望はあるが、それを押しつけるのは間違いだし、許されないことだと思っている。

 本音を言えば、これ以上、あの子に重いものを背負わせたくもない。

 嫌だったら、逃げてもいいんだ、クー。



 ──君は君の思うように、進んでほしい。

 これから何があっても、きっと、カイトが最後まで君を守り、助けてくれる。



          ***



 いよいよ神女選定が近づいてきていた。

 水晶はまだ誰の名も挙げてはいないが、どちらにしろ、キリクは神殿の衛士として五人の娘のうちの一人に付くことになっている。水晶に示される娘のうちの誰が「五人目の神女」となるかは判らないが、そこはどうとでも調整するから心配は要らない、とリシャル卿は言った。

 それにしても問題なのは、キリクの相方となるもう一人の衛士である。

 上のほうには上のほうの思惑があるのだろうが、複雑な事情を抱えているキリクにとっても、その衛士は重要な意味を持っている。あまり鋭くても困るが、あまり無能すぎても困るのだ。




「神殿の衛士の中には、目ぼしいのはいないわけ?」

 とコウに訊ねられて、キリクはため息をつきながら首を横に振った。

「いるわけないじゃないか。あそこにいるのは、自分の虚栄心を満足させるためにあの職を選んだ神民のお坊ちゃんばかりさ。そんな連中に、この重大な仕事が務まるわけがない」

「重大な仕事ねえ」

 コウがくくっと笑って、手に持ったグラスを口につけて傾けた。


 ここは棄民の街の中にある小さな酒場である。しかしそのグラスに入っているのは酒ではなく、牛乳だ。ここ最近でぐんと身長が伸びたコウなのだが、それは酒をやめて、牛乳を飲むようになったからだと、本人は大真面目に考えているらしい。

 牛乳で童顔までは変えられないんじゃないかとキリクは思うが、面倒なので黙っていた。後の報復を恐れてもう誰も彼のことを子供扱いすることはなくなったというのに、未だにコウはその手の話題には過敏に反応する。彼がいろいろと変装ばかりしたがるのも、実はそれが理由なのではないかとキリクは思っているのだが、もちろん面倒なので指摘したりはしない。

 もうこの男との付き合いも三年になる。時と場合によって鼠にも蛇にもなれる人物だ。あまり深く関わっていい相手ではないとキリクも判っていた。


「俺らの仲間のうちの誰かを潜ませてもいいけど」

 コウの言葉に、キリクは再び首を振った。

「さすがに無理があるね。神民に成りすましてパレスに入り込むのはともかく、君たちの中にちゃんと剣を扱える人はいないだろう?」

「まー、それを言われると弱いよね。腕っぷしが強いのはいくらでもいるけど。仲間は棄民ばっかりだし、棄民はそもそも剣なんて持ったこともないからなあ」

 彼が「仲間」と呼ぶ人間たちは、この数年でどんどんその数を増やしていった。いつの間にかリーダーという位置に収まっていたというコウでさえ、正確には把握していないらしい。彼の周囲にはいつも複数人の男女がいたが、その顔触れは毎回同じというわけでもなかった。


 ただ単に志を同じくしているという連中だから、軍隊なんかとは違う。本当は統率者だって必要ないんだろうけど、誰かがまとめなきゃ収拾がつかないことがあるから、俺がその役目を負っているだけさ──と、コウは言う。


 理由やきっかけは違えど、目的はひとつ。年齢も立場もバラバラの、棄民ばかりの烏合の衆とはいえ、人から人への口伝えで広まり、各地へ分散して、その数はもう馬鹿にならないくらいまで膨れ上がっている。

 それだけ、不満や鬱屈が溜まっていたということだろう。未来への希望と期待を抱くことで、つらく貧しい日々を支えている者も多いと聞いた。


 ……いつか、この国を変えるのだと。


 しかしキリクは、その輪の中に入ったつもりはなかった。コウとは、あくまで利害が一致して手を組んでいるだけの、協力者に過ぎない。

 コウもそこは理解しているからか、キリクと話をする時はいつも彼の仲間たちを離れた場所に置いていたし、最初に会った時から変わらない距離感を保って接していた。

 だからコウの仲間たちは、キリクを信用していない。いつも胡散臭そうな目で睨んでくるか、「神民なんて」と陰で吐き捨てるように悪態をついている。

 それでいいんだ、とキリクは思う。



 自分に、「仲間」なんてものはいらない。



「国境警備隊にいるやつらなら……いやでも、年齢の問題もあるしな……あ、そうだ」

 ぶつぶつ言っていたコウは、そこでふと思いついたように声を上げて、こちらを向いた。

「そういえば、知ってるかい? 今、境界警備隊の中に、変わり種がいるって話」

「境界警備隊?」

「神民ばかりの境界警備隊で、副隊長に抜擢されたのが半民ってことで、ちょっとした騒ぎになったんだぜ。しかもけっこう若い……あんたと同じ齢くらいじゃなかったっけ」

 どう見ても二十前後くらいにしか見えない男が、「けっこう若い」と口にするのは非常に違和感があるが、そこには触れず、キリクは考えるように自分の顎を指で撫でた。

「半民……そういえば、そんな話を聞いたな」

 その年齢の、しかも半民が、副隊長にまで出世するのは異例中の異例だと、パレス内でも話題になっていた。

「間違いなく、腕は立つ。どんな性格をしているかまでは判らないけどね。一度、自分の目で見てみたらどうだい?」

「そうだな……」

 考えながら、キリクは曖昧に返事をした。

 実を言えば、この時点ではまだ、その人物に対してほとんど期待はしていなかった。必要なのは剣の腕だけではない。あまり自分の力に驕りすぎているようなのも扱いにくい。

 半民、というところには、まったく引っかからなかった。こちらが望むような働きをしてくれるのであれば、棄民でも半民でも構わない。現在のキリクは、むしろ選民意識の強いリシャル卿のような神民に対する嫌悪感のほうが勝っている。

 キリクがその人物に望むのは、ただひとつ。


 何があっても、五人目の神女を守り通してくれること。


 絶対に、リシャル卿の思い通りに事を運ばせない。

 ──そのために、五人目はどうしても、必要な人材なのだ。



          ***



 まったく人のことなど言えた義理ではない、とキリクは苦笑する。

 その時の彼もまた、父親と同じように、人を駒として利用することをためらわない、非情で傲慢な人間だった。認めたくはないが、確かにキリクと彼とは血の繋がりがあるのかもしれない。


 実際に会ってみると、カイトは思っていた以上にその役目にうってつけの男だった。


 彼は、副隊長にまでなってしまったために境界警備隊の中で起きる悶着に、心底からうんざりしていた。国境警備隊への転属願を出そうと思っていた、と言うその顔には、ようやく掴み取った地位に対する未練は微塵も感じられなかった。

 裏表のない単純な性格でありながら、カイトはいつも、何かをはじめから諦めているような寂しさを漂わせていた。

 言葉を交わす前に、キリクは彼の過去を調べてみたが、そこからでもその孤独な半生は十分に推し量れた。

 神民の父親が、棄民の母親を無理やり攫って自分の許に縛りつけたこと。母親は、不自由な生活に耐えられず、幼い子供の前で首を掻き切ったという。血溜まりの中で、動かなくなった母親の死体の傍らに座り込んでいたという悲惨な記憶は、彼の人生観にどのような影響を及ぼしただろう。

 そしてそれとは別に、キリクの心を非常に動かした事柄もある。

 カイトの母親は、七年もの間、屋敷の中で軟禁状態に置かれていた。七年で、彼女の精神は限界を迎えてしまったということだ。子供を産んで、その幼子がすぐ近くにいてもなお、自分の生命を維持することが困難になるほどに。


 ニーアが塔の上に閉じ込められてから五年。

 ……彼女ももう、とっくに限界を迎えていてもおかしくはない。


「君は、父親のことを恨んでいないのかい?」

 胸の中にせり上がってくる衝動に耐えかねてそう聞いてしまったキリクに、カイトは、は? と困ったような顔をした。

「いや、まあそりゃ、なんとも思っていないと言ったら嘘になるけど……でも、恨んだり憎んだりしたってしょうがないじゃないか。どうしたって、母親は戻ってこないんだからさ」

「…………」

 何を呑気なことを言っているんだこの男は、と本気で苛ついた。

 元凶の父親は、現在も神都の中でのうのうと生きている。しかも神民の妻と子供までいる。カイトには、半分だけ血の繋がった弟と妹がいるのだ。ちょっと調べればそんなことくらいすぐ判る。

 彼を疎外した場所で、彼を不幸にした人間だけは幸せに暮らしているのに、それに対する怒りも持たないのか。

「殺してやりたい、とは思わないの?」

 カイトはそれを聞いて目を丸くした。

「物騒なこと言うなよ。そんなこと、思ってないって。いや──」

 少し躊躇するような間を置いて、視線を何もない空中に向ける。見えない何かを、そこに探すかのような目をしていた。


「……俺の命は、母親がこの世界に残したたったひとつのものだからな。そんなことに使ったら、申し訳ないような気がするんだよ。だからといって、じゃあ何に使えばいいのか、まださっぱりわからねえんだけどな」


 キリクはその言葉に大いに呆れた。

 なんというお人よし。なんという馬鹿さ加減。今まで他人から向けられてきた悪意というものをどう処理して浄化すれば、こんな人間が出来上がるのか。

 しかし呆れると同時に、その人柄に、強く引き寄せられもした。

 カイトはもしかしたら本物のバカなのかもしれないが、でも、とてつもなく大きな器の人物である可能性をも秘めている。

 キリクはどうしてもその可能性に賭けてみたくなった。こういう男が、「自分の命の使い道」をしっかり見つけた時の、その変わりようを見てみたい。その時に目覚めるはずの強い意思は、おそらく周囲の人間をも動かさずにはいられないだろう。

 カイトは、自分にはないものをたくさん持っている人間だった。

 ──この男ならきっと大丈夫、とキリクは思ったのだ。




 ……結局、カイトを選んだのは計算だったのかどうか、今となってはキリクにもよく判らない。カイトという男が今までの自分が知る人間たちとはあまりにも異なっていて、ちょっと呑まれてしまったというのもあるだろう。

 とにかく、キリクは適当な理由をくっつけて、自分の相方となる衛士に、カイトを推した。

 半民ということで、特にバーデン司教などは渋っていたようだが、水晶が示した娘の中に棄民が入っていることが判明すると、折れざるを得なくなった。他の神民の衛士たちは、みんな彼女に付くことを拒否したからだ。

 キリクはカイトと共に、ククル・デニという娘を迎えに棄民の街へと赴いた。

 水晶が示した、唯一の棄民の娘。

 そこで出会った彼女は、あらゆる意味でキリクの予想を斜め方向に裏切る人物だった。可愛くないし、素直じゃないし、警戒心が強いし、人を騙すことも平気でする。おまけに、女の子にも見えない、ときている。

 でも、「自分に神はいない」という彼女の言葉を聞いた時に、確信した。

 他の四人とはまったくの別物。特別で、特殊で、異端。その言葉に、これほど当てはまる存在は他にはいない。

 この子が、「五人目」だ。




 一体、どのあたりから狂いはじめてきたのだろう、とキリクは考える。

 友人も仲間もいらないと思っていた自分なのに、いつからそれが変わっていったのだろう。

 思い返してみれば、カイトに会った時、クーに会った時から、それはもう判っていたことだったのかもしれない。じゃあ最初からずっとってことじゃないか。今になってそんなことに気づくなんて、相当に間が抜けている。

 キリクはいつの間にか、夢を見るようになっていた。

 青空の下、あの澄んだ泉のほとりのような場所で、クーと、カイトと、キリクと、ニーアとで、またあんなに穏やかで優しい時間が過ごせたらと。

 美しい夢だ。実現することはないだろうと判ってはいたけれど、願わずにはいられなかった。



 ──いつまでも、このままでいられるといいのになと思うよ。クーがいて、キリクがいて、ひとつのテーブルを囲みながら美味い茶を飲んで、ずっと馬鹿げた話ばかりをして、笑ってさ。ああいう時間が、ずっと続けばいい。



 ああ、僕も同じだよ、カイト。

 僕もそう望んでいた。

 君たちと過ごした時間は、ずっと楽しかった。あの場所はいつも明るい光に包まれて、眩しくて、温かかった。

 君たちがつまらないことで喧嘩して、騒いで、笑い合っているのを見るのが、本当に好きだった。

 二人が「おかえり、キリク」と笑顔で迎え入れてくれたあの瞬間、切ないほどに、幸福だった。

 自分もずっと孤独で寂しかったんだと、君たちと会って、僕はようやく気づいた。

 ──闇の眷属に堕とされたこうもりが、長いこと、探し求めていたところ。




 キリクの意識は、夢と現、過去と現在との間を行ったり来たりして、茫洋と虚空を彷徨っていた。

 まどろみの合間、愛しい人たちの幻を見る。

 冷たく、一筋の光も射さない暗闇で。





      (Ⅸ・終)





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