3
バカな。
キリクはそれを聞いて、内心で吐き捨てた。
五人目の神女を見つけ出して監視し、それから殺すだって?
「……仰っている意味が判りません。そんなことをせずとも、最初から、五人目の神女となるべき人物を見つけることなく、そのまま放置しておけばよいことではありませんか」
あるいは、水晶がその名を示した時に、さっさと消してしまうか。
とまでは言葉にせず、キリクが疑問を呈すると、リシャル卿は底冷えのしそうな眼差しを返してきた。
「そういうわけにはいかんのだ。いや、そんなことが出来れば話は至極簡単なのだがな。水晶が名を示した時点ではまだ、こちらにはその娘が何の役目を与えられるのか、さっぱりわからんのだ。まったく神意というやつばかりは、どうにもならん。忌々しいことに」
実際、リシャル卿の顔は少し腹立たしそうだった。
彼が口にしているのは女神に対するとんでもない冒涜であり、神意以外のものならすべて自分の意のままになるという傲慢な台詞にも聞こえるが、それでもこの男の思い通りにならないものがひとつでもあると判って、キリクはわずかに溜飲を下げた。
「いいか、キリク、よく聞け」
巨大な執務机の上に肘をつき、顎の下で両手を組んで、リシャル卿は重々しい声を出した。
「五人目の神女だけは、その性質も、与えられる役目も、他の四人の神女とはまったくの別物なのだ。あれだけは特殊で、異端だ。水晶が名を示してから、五人の娘にそれぞれ力が授けられていくことになるが、四人──つまり、眼と耳と鼻と声の神女は、選ばれる順序が毎回一定していない。何か意味や理由があるのかもしれんが、我々には判らない。それこそ、女神の気まぐれとしか思えないような不規則さで、任意に決められる。しかし、五人目の神女だけは、必ず最後に選ばれると決まっているのだ」
キリクは眉を顰めた。
「決まっている、のですか」
「そうだ」
「なぜです?」
「言っただろう。五人目の神女だけは、性質も役目も他の四人とは別物だと。その性質と役目の特殊さゆえに、眼、耳、鼻、声の神女が選ばれてからでないと水晶は決してそれを教えない。四人の神女が判明しないと、誰が五人目かを確定することは出来ぬのだ」
「…………」
だから、五人の娘を集めてそれが確定するまで監視せよ──ということか、とキリクは考えた。
誰が五人目の神女か判らないうちは、下手な真似は出来ない。もしもまかり間違って、四人の神女のうちの誰か一人を傷つけでもしたら大変なことになる。注意深く監視し、観察し、五人目と確定したら、その娘を即座に切り捨てなければならない。
「それで……その『五人目の神女』とは、どういう存在なのです?」
これほどまでに警戒する「第五の女神の力」とは、一体何なのか。
ひょっとしたら、災いをもたらす力、という類のものなのだろうか、とキリクは想像した。天災を呼び込む、あるいは、自然現象を操って日照りや大雨を起こす、とか。
それなら確かに、躍起になって五人目の神女の存在を消そうとするのも判る。そんな大きな力が、ただぬくぬくと甘やかされてきて世間を知らない神民の娘の身に宿ったら、国としてはたまったものではないだろう。
しかし、心優しき女神リリアナが、そんな物騒な力を人間に分け与えるだろうか──?
その時のキリクがよほど解せない表情をしていたのか、リシャル卿は唇を歪めるようにして上げた。
「その説明の前に、おまえには、まず、知っておいてもらわねばならん重大なことがある」
「神女は四人ではなく本当は五人で、五人目の神女は生存を許されない。これ以上に重大なこととは、一体どんなことでしょう」
もちろん、キリクの皮肉など、目の前の男にはまるで通じない。唇は嗤いの形をとっていても、こちらを見返す目には冷ややかな無感情さがあるばかりだった。
「このアリアランテが戴く女神は、双面神なのだ」
キリクがその言葉を呑み込むまでに、十を数えるほどの間が空いた。
「……双面、神?」
「そうだ。半身の女神リリアナと、半身の女神アリアナ。二つの頭部が、一つの身体に乗っている。腕はそれぞれ二本ずつ持つが、足は二本を両者で共有する。リリアナとアリアナは互いの背中と後頭部が接合しており、どちらも決して相手の顔は見られない。それぞれが常に完全に正反対の方向を向いているゆえに、両者は常に対立し、対抗している。リリアナが是と言えば、アリアナは非を。リリアナが否と言えば、アリアナは諾を。リリアナとアリアナは、二つで一つ。両者が揃ってこそ、唯一の絶対神となるのだ」
「……ちょっと、ちょっと待ってください」
キリクは眩暈を起こしそうな頭をなんとか手で支えて、リシャル卿の言葉を遮った。
今まで当たり前のようにあると思っていた大地が、いきなり泥沼になったかのような気分に襲われた。足元がぐらぐらと揺れる。何を言われているのか、その言葉の意味は理解できても、頭と心が理解を拒んでいた。
これまで自分というものを形づくっていた価値観や信念というものが、がらがらと音を立てて崩れていく。疑うことなく女神リリアナを信奉していた自分自身が急に頼りない子供になったように思えて、その場に立っているのも覚束なくなった。
ずっと縋っていた大人から、一方的に手を振りほどかれたような。
女神「アリアナ」だって? なんだ、それは。
「でしたら、なぜ我々は、その存在を今まで知らされなかったのです」
「必要がなかったからだ。一般の民は、女神リリアナのみを崇めていればいい。心優しく、慈悲深く、正しき女神だ。民衆が畏敬の念を抱くその女神が、同時に、世に怒り、人を憎み、無慈悲かつ冷酷だなどということを、知ってどうなる?」
「そんなこと……到底、受け入れられません。僕だって」
「受け入れろ。そのために、おまえは今ここにいるのだから」
リシャル卿はキリクの混乱などまったくお構いなしだった。素っ気ない声には、一抹の同情も憐憫も含まれていない。
「おまえはすべてを把握せねばならん。その上で、私の手足となって働いてもらう。否とは言わせんぞ」
「…………」
高圧的で断定的な言い方に、キリクの裡で苛立ちがもたげた。普段はそれを隠して、胸の下に押し込むことが難なく出来たはずなのに、この時、彼の意志はそうすることを拒絶した。
ここにいるキリクはまだ十七歳の若者で、感情を完全に制御できるすべを身につけていたわけでもない。ましてや、今まで自分が信じていたものを根底から覆されるようなことを言われて、それについての収拾もまだつけられていなかった。
「……お断りします、と申し上げたら?」
低い声で出されたキリクの返答に、リシャル卿は怒りも慌てもしなかった。そう言われることは予想していたというように、眉ひとつ動かさず、落ち着き払ったままだった。
顎の下で両手を組んだまま、再び口を開く。
「女神リリアナと女神アリアナは、司る力も、性質も、すべてが必ず対極にある。一方が『進む』ならもう一方は『止まる』。一方が『開く』ならもう一方は『閉じる』。対抗しているからこそ、その力は強大にもなるのだ。……キリクよ、自分の目で、それを確かめてみるか?」
うっそりと笑いを含んだ声に、キリクの胸がざわりと騒いだ。こちらを向いている冷酷な目が、意味ありげに細められている。
ぞくりとした恐怖心が、背中を駆け上がった。
「おまえもこのパレスに来て二年が経つ。宮殿に併設されている塔に入れられた者は、決して外に出ることが叶わない、という話くらいは耳にしたことがあるだろう?」
じわりと額に汗が滲んだ。
この男は一体、なんの話をしているんだ?
「このクリスタルパレスが、長い年月、変わらぬ平穏を保っていられるのはなぜだ? どんな災害も、どんな禍も、どんな攻撃も、このパレスには届かないのはなぜだ? ここが『永遠の繁栄を約束された場所』と言われているのはなぜだ? その約束は、誰と交わされたものなのか、本当のところを知っている者はパレスの中にさえ、わずかしかいない。喜べキリク、おまえはその選ばれた数少ない人間のうちに入ることが出来たぞ」
リシャル卿は突然、笑い声を立てた。
感情が入っていない分、おそろしく不気味に歪んだその笑顔を、キリクは凝然と立ち竦んで見ているしかなかった。
「リリアナの力で護られているだと? いいや、その力は、女神リリアナではない、女神アリアナのものだ!──いいかキリク、アリアナの『閉じる』力で封じられた扉は、決して誰にも破られん。私がなぜおまえと共に、あの妹を引き取ったと思う? おまえには私の命令を断る選択肢など、はじめから存在しておらんのだ」
「……っ!」
蒼白になったキリクは素早く踵を返し、床を蹴って駆け出した。
後ろでは、リシャル卿の笑い声がいつまでも響いていた。
「ニーアっ!」
塔の上の部屋の閉じられた扉を叩いて、キリクは怒鳴った。
「に、にいさま……にいさまなの?」
扉の向こうから、ニーアの声が聞こえてくる。
今にも泣きそうな、怯えて困惑しきったその声に、胸が締めつけられた。いきなりこんなところに入れられて、動揺しているのが手に取るように判る。
取っ手を掴んで開けようとしてみたが、それはびくとも動かなかった。ガタガタと鳴ったり揺れたりすることもない。まるで、壁と扉が溶接でもしてあるかのようだ。
「ニーア、大丈夫か? 怪我は? 手荒なことはされていない?」
「いいえ、そんなことはないわ。平気よ。でも、どうしてこんなことになっているのか、さっぱり……」
彼女が意味も判らず困り果てているのももっともだ。
いつものように家の中で本を読みながら、または菓子でも焼きながら兄の帰りを待っていたのだろうに、突然塔の上まで連れてこられ、一室に押し込められたのだから。
扉は押しても引いても埒が明かなかった。手を当てて探ってみたが、その扉には、奇妙なことに、鍵穴も外付けの錠前もない。
キリクの焦燥は激しくなる一方だ。
「ニーア、そちらに鍵はついてる?」
「いいえ、にいさま。どこにも鍵らしきものはついていないの。さっき、女官が食事を持って入ってきた時も、鍵を開けた様子はなかったわ。その時、扉はすんなり開いたはずなのよ。でも、わたしが開けようとすると、びくともしないの」
「…………」
だんだん、キリクの顔から血の気が引いてくる。
どこにも鍵はついていないのに、決して中のものが外に出ることを許さない扉。そんなことが果たしてあるのだろうか。
──本当に、人ならざる力が働いている、と?
「ニーア、ちょっと離れていて」
キリクはそう言って、扉から後ずさった。
扉の外にある空間は決して広くはない。数歩後ろに進んだだけで、キリクの背中はすぐに壁に当たった。あとは横手に延々と下へと続く長い階段があるばかりだ。
そういえば、塔の入り口には宮士が立っていたが、ここにいるのはキリクだけで、他に見張りらしき者の姿もない。
人間の守りは必要ない、ということなのだろうか。
数歩離れた場所から、勢いをつけて扉に体当たりした。
が、すぐさま弾かれるように吹っ飛ばされて、キリクの身体は後方の壁に激突した。
「にいさま?!」
「……つ」
唇に滲んだ血を指先で拭う。壁に叩きつけられた全身が、軋むように痛んだ。キリクは茫然と見開いた目を、自分の前に立ちはだかる扉に据えつけた。
……見えない力で、弾き飛ばされた。
扉にまったく変化はなかった。キリクの体当たりなど、まったく意にも介していないように、傷ひとつついていない。こちらはまだ痺れるように痛む腕を満足に動かすことも出来ないというのに。
その後、何度試みても、結果は同じだった。剣の鞘を突き立てようとしても、石で殴りつけようとしても、ぶつけた分と同等の力が、こちらに跳ね返ってくるだけだ。
扉は決して動かず、開かず、揺れもしない。
女神アリアナの力で封じられた扉は、どんな攻撃も受け付けなかった。
「ニーア……」
キリクは力なく床に膝をつき、両手をついた。放心したように、唇からその名が滑り落ちる。
妹との距離はほんの数歩分しかないというのに、人知の及ばない扉が自分と彼女との間をとてつもなく遠く隔てている。
ただの人間が、どうすれば神の力に抗えるのか、キリクにはまったく思いつかなかった。
顔も見られない。触れることも出来ない。この部屋の中で、ニーアは一人、どんなに心細く寂しい思いをしているだろう。それでもキリクはもう、幼い頃のようにその小さな頭を撫でて慰めてやることも出来ない。
「にいさま、ごめんね……ごめんなさい。わたしのせいで」
キリクに許されているのは、扉の向こうからの泣き声を耳に入れることだけだ。
ぐっと握った拳が震えていた。血の気の失せた頭を垂らし、額を冷たい床に押しつけ、歯を喰いしばる。そうしないと、獣のように吼え猛りそうだった。
キリクのたったひとつの大事なものまでが、奪われた。
……もう、何も信じるものか。
この世界のすべてが自分とニーアを見捨てるというのなら、こちらだって捨ててやる。
親もいらない。友人もいらない。仲間もいらない。天も、神も、女神リリリアナもアリアナも、すべて。
ニーア以外、何もいらない。
他の誰を騙しても、何を裏切っても、僕は必ず、ニーアをここから救い出す。
女神リリアナと、女神アリアナ。
その双面神は、それぞれ対立する力と性質を司るという。
たとえば光と闇。たとえば陽と陰。たとえば動と静。……そしてたとえば、正と邪。
建国の際につけられた名前は、「アリアランテ」。だとすれば、この国の君主が、最初からどちらの女神を信奉し戴いていたのかは、明らかだ。
それで一般の民衆に秘匿されていた理由も判る。はじめから、この国は欺瞞の上に成り立っていたのだ。
──ここは、邪神の国、アリアランテ。
***
地下の牢獄は、まるで地面を抉ったかのように、ごつごつとした岩肌がそのまま露出して壁となっている。
窓はなく、陽が射さないため、ここは昼間でも真っ暗だ。灯りはあるが、それは虜囚の様子を見張るための最小限のみに限られる。
牢番以外に、ひんやりとした湿った空気と陰惨な雰囲気の充満するこの牢獄までやって来るのは、よほどの物好きか、あるいはそうせざるを得ない切羽詰まった理由がある者くらいだ。
「──さて、あなたはそのどちらですか、バーデン司教」
キリクの問いに、牢の鉄格子の前に立ったその人物は、あからさまに嫌そうに顔をしかめた。
「なんというザマだ、キリクよ。そなたともあろう者が、この醜態。今の自分を顧みて、恥ずかしいとは思わぬか」
かけられる声には激しい怒りが乗っているが、その怒りはおおむね、自分の都合によるものであるらしい。
「そなたともあろう者が、ですか? もしかして僕、あなたからの評価は悪くなかったんでしょうかね? 司教に目をかけていただくとは、望外の喜びです」
喉の奥で笑いながら、キリクは揶揄するように言って、頭を軽く下げる真似をした。
もっと大げさに礼を取ってもよかったが、両手は後ろに廻され木製の枷が嵌められている上に、石の床に座らされた足の片方には壁から伸びた鉄の鎖に繋がれているので、その程度にしか身体を動かせないのだ。
「ふざけるな」
バーデン司教が声を荒げた。
キリクは笑うのをやめて彼を見返したが、口許には薄っすらとした微笑が貼りついたままだった。
その瞳がこの牢獄よりもなお暗い闇に覆われていることに気づき、司教はぞっとしたように表情を引き攣らせた。
「……なぜ、あのような真似をした、キリク」
押し殺すような声で出された問いに、キリクは虚ろな仕種で首を傾げた。
「あのような真似、とは」
「とぼけるな。そなたの父親、リシャル卿を恐ろしい手段で殺害し、やって来た宮士たちも次々と手にかけたというではないか。そなたに惨殺された者たちの血で、宮殿は真っ赤に染まったというぞ。かろうじて生き残った宮士の中には、手や足を斬り落とされた者も多かったとか……なんという、おぞましい」
バーデン司教は、身の毛がよだつというように、胴を細かく震わせた。
「そうでしたか?」
キリクがそう答えたのはとぼけようとしたからではなく、本当に覚えていなかったからだ。自分が何人殺したのかを数えることに、あまり意味があるとも思えなかった。
「わかっているのか、そなたはよりにもよって宮殿内を血で穢したのだぞ。自分がどんな重罪を犯したのかすら、認識していないのか」
「それは、重罪ですか?」
「当然だろう!」
叩きつけるように返されて、キリクが口角を上げる。
「おかしいなあ。だけど司教も、同じようなことを僕に命令されましたよね。神殿で、何も知らない無垢な女の子を一人、殺すようにと。神殿を穢すことにぶつぶつ言いながらも、結局はそれを受け入れて決断したのはあなただ。違いますか? 神殿と宮殿、場所が違っただけで、あちらは罪にはならず、こちらは罪になるんでしょうか。それとも単に人数の問題ですか? 十人殺すのは大変なことでも、たった一人殺すだけなら問題ないと、そういうことですか?」
その反論に、司教は思わずというように、一瞬口を噤んだ。
「──あれは、棄民だ」
低く呟くように言う。キリクは微笑んで頷いた。
「ああ、そうですよね。神民は棄民を殺しても罪にはならない、それがこの国の法でしたよね。神女候補に棄民も神民も関係ない、と司教は以前仰っていたと思うのですが、それは僕の気のせいだったんですね」
「黙れ、屁理屈ばかり言いおって! この罪人めが!」
一喝するように怒鳴られても、キリクはまるで動じなかった。彼の心はもう、何を見ても何を聞いても、ことりとも音を立てない。
薄く笑んだまま、冷然とした眼で鉄格子越しに司教を見上げた。
「──そうとも、僕は罪人だ。でもあなただって、僕と同じ罪人だ。あなたも見ていたはずですよ、四人の気の毒な娘が、あの水晶の間でどんな悲惨な目に遭ったか」
「……っ」
バーデン司教が一歩、後ずさる。キリクの言葉は、彼の痛いところを突いたらしい。
あの薄暗い水晶の間で。
モリス嬢が、サンティ嬢が、ロンミ嬢が、イレイナ嬢が。
どれほどの悲嘆に顔を歪め、涙を流して咽び泣き、身を捩るようにして叫び声を上げ、絶望に打ちひしがれたか。
キリクと共に、バーデン司教もその目で見ていた。知らない、覚えていない、関係ないとは言わせない。
キリクも司教も大嘘つきの罪人で、自分のために彼女たちを犠牲にした共犯者だった。
モリス嬢が美しい声で何を言い、サンティ嬢が賢明なる耳で何を聞き、ロンミ嬢が鋭敏なる鼻でどんな気配を感じ取り、イレイナ嬢が曇りなき眼で何を見たか。
その瞬間の彼女たちの驚愕と恐怖を、その場に立ち会ったキリクも司教も目の当たりにしている。
サンティ嬢は、自分に向けられる言葉に潜む偽りに。
ロンミ嬢は、その場に立ち込める悪しき気配に。
イレイナ嬢は、教皇を含む周囲のすべてが持つ邪悪さに。
女神リリアナの力を強制的に受け取らされて、ようやくそれに気づいた彼女らは、逃げ出す暇もなく、今度は女神アリアナによって、その力を喰われてしまった。
「四人の神女たちは、アリアランテを支える尊き柱となり、その身を女神に捧げたのだ。私は何も嘘など言っておらぬ」
なんとか態勢を立て直した司教が、強い口調で言い返した。
だから騙したわけではない、ということらしい。「人柱」や「生贄」という言葉を使わなかったのは、むしろ慈悲だったとでも言いたげだ。
「ああ、神女候補たちとの対面の席で、そんなことを仰ってましたね。ものは言いようだなと、あの演説を聞いて、僕は感心しましたよ」
あの時、司教の言葉を真に受ける四人の横で、クーが白けた顔をしているのを見て、キリクがどれほどほっとしたことか。
知識が多いわけではなく、清く正しい性格をしているわけでもなく、素直なわけでもないのに、クーはいつも、物事の本質のみを掴む。
不思議な子だ。
だからこそ、五人目の神女として選ばれたのだろうか。
「……どう言い繕おうと、僕とあなたの罪はなくならない。四人の神女が今後どうなるか、知らないわけではないでしょう。声、聴力、嗅覚、視力を失って、今もまだ生かされている彼女たちは、これからはただの人形として扱われることになるんだ」
人々の前に立つ時は、必ず背後に護衛という名の見張りがつく。余計なことを言わないように、涙を流さないように。神民たちの熱烈な歓声に、彼女たちは泣きそうになりながら微笑んで、手を振らねばならない。
「そんなことはどうでもいい! キリク、五人目の神女はどうした!」
哀れな四人の神女のことを「どうでもいい」と放り出し、司教は鉄格子に掴みかかるようにして詰め寄った。
「五人目の神女がどうしました」
「とぼけるな! あれの逃亡にそなたが一枚噛んでいたことは判っておるのだぞ! あやつらはどこへ行った?!」
「まだ捕まっていないんですか。衛士も宮士も無能揃いだ」
「そなたなら知っているはずだ! あの棄民の母親は、いつの間にか病院から姿を消していたというぞ! 他にも仲間がいたというのか!」
クーの母親は、パレスに捕らわれることなく済んだらしい。キリクはひそかに息をついた。
「ソブラ教皇は凄まじくお怒りだ! 私にも責任があると仰って、パレスから出て行けと命じられたのだぞ! 神殿の司教であるこの私にだ! 早くあの棄民を見つけ出さねば、私は、私は……!」
鉄格子を掴んだまま、司教がずるずると崩れ落ちた。頭を抱えて、しゃがみ込む。
なるほど、それでこの男はわざわざこんな場所までやって来たらしい。キリクはすすり泣く彼を醒めた目で眺め、「知りませんね」と素っ気なく言い放った。
「僕はもともと彼らの仲間ではなかったんですから。言われていたのは、パレス内で棄民の神女候補を監視し、何も知らない半民の衛士を牽制すること、でしたよね? ここを出た彼らが、何を考えてどう動くかなんて、僕の関知するところではありません」
顔を上げた司教の目は、怒りと猜疑心に塗り固められて血走っていた。
神殿で権勢を振るっていた人物としての威厳はもう消えて、そこにいるのは手から零れ落ちていくものを必死になって掬い取ろうとする、浅ましく醜い老人でしかなかった。
「騙されんぞ……! そなたは絶対に何か知っているはずだ。必ずあの棄民の居所を吐かせてみせる!」
「今の僕の姿が目に入りませんか。それと同じことを何度も聞かれて、そのたびに暴力を振るわれて、もうボロボロなんですけどね。何か知っていたら、もうとっくに喋ってますよ」
キリクの身体はどこもかしこも痣だらけで、口中はずっと血の味がしている。ずっと座ったままなのは、足が鎖で繋がれているという以外に、痛みで立てない、という理由もあった。
咳き込むと胸が苦しくなるから、もしかしたら肋骨が折れているかもしれない。さっきから頭の芯がぼうっと痺れている。正直、口を動かすのをやめたら、そのまま意識を失ってしまいそうだ。
「そんな言い分を信じるものか! 五人目の神女が見つかるまでは、決して死なせはせんぞ、キリク! この狂人の人殺しめ!」
バーデン司教は怒鳴るように言い捨てると、鉄格子に縋って立ち上がり、よろよろとした足取りで牢獄から出ていった。
喧しい存在がいなくなり、その場所にまた静寂が戻ってくる。
しんとした中で、ぴちゃんと水が跳ねる音だけが硬い岩壁に反響した。
「──人殺しか……」
その言葉を反芻するように呟く。
そうだ、その通り。
リシャル卿を殺し、宮士たちを殺した。……ニーアも、キリクが殺したようなものだ。
それなのに、自分自身を殺すことだけが許されないとは、なんという皮肉だろう。
キリクは自嘲した。
そっと目を閉じる。
「クー……カイト」
君たちは、僕のように間違った道を選んではいけないよ。