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朝、いつものようにクーの居室に向かうと、そこはもぬけの殻だった。
「な……」
血の気が引いて立ち尽くすカイトの肩を、キリクがぽんと宥めるように軽く叩いた。
「落ち着いて、カイト。変事が起こったわけではなさそうだ。あそこに置き手紙らしきものがある」
指差すほうに目を向けると、テーブルに積まれてある分厚い本の上に、ひらりと一枚の紙が載っている。
慌ててそれを手に取って目を走らせれば、「ちょっと外の空気を吸いに行ってくる、すぐ戻る、心配するな」と走り書きらしい乱雑な文字で書かれてあった。
「この大雑把な書き方と字、間違いなくクー本人のものだね」
紙を見ながら、キリクが片手で顎を撫でて感心するように言った。
「あいつ、なに考えてんだ」
カイトは唖然として、唸るような声を出した。驚愕と腹立ちがどっと押し寄せてきて、一気に両肩が重くなった気がする。
イレイナ嬢の衛士たちに冤罪を被せられそうになったのは、つい先日のことである。神女選定はいよいよ大詰めに差し掛かり、先が見えない不安と苛立ちで、カイトはろくろく夜も安眠出来ていない。こうしている間にもクーがふっつりと姿を消してしまうんじゃないかと居ても立ってもいられず、朝は訓練も食事もそこそこに、神殿に駆けつけているというのに。
「君がそうやって一日中神経を尖らせているから、クーは気分転換が必要だと考えたんじゃないかな」
キリクに言われて、カイトの中の怒りがみるみる萎んだ。
そうか、自分がみっちりと張りついてピリピリしているせいで、クーは息苦しかったのか……と反省したのだが、「違う違う」とキリクは首を横に振った。
「気分転換が必要なのは君だよ」
「は?」
「だからクーは外に出たんだろう。あの子のことだから、君を本当に困らせることなんてしやしない。きっと、この神殿が見えるくらいの、すぐ近くにいると思うよ。探しておいで」
「え、いや、もちろん探すけど、なんでそんなに他人事のように言ってるんだよ、キリク。おまえだって……」
「僕はここで二人が戻るのを待ってるよ。またここを空っぽにして何かあったら厄介だし」
「いや、それはそうかもしれないけど、でも」
「いいから」
強引に背中を押されて、困惑しながらそちらを見返すと、キリクはふと真面目な表情になった。
カイトの耳に顔を寄せて、声の音量を抑えて囁く。
「──もうあまり猶予がないんだ、カイト」
「は?」
「君はどうも、僕が思っていた以上に、面倒なものをいろいろ抱えているらしいけど」
「は?」
「時間がない。君にはそろそろ覚悟を決めてもらわないと」
「は?」
「あの子を頼むね」
そう言うと、キリクはそのままぐいぐいとカイトを部屋の出口まで押しやり、廊下に放り出して、扉をバタンと閉めてしまった。
「……は?」
カイトは閉じられた扉の前で佇み、茫然と呟いた。
***
まったく意味が判らなかったが、いつまでも途方に暮れて立ち尽くしているわけにもいかないので、カイトは神殿の外に出た。
とにかくまずはクーを探し出さなければ、と頭を切り替える。
どこに行ったんだと考えて、まず真っ先に浮かんだのは厩だったが、あそこには当番の衛士がいるはずだし、そんな場所へ一人で行くほど、クーは考えなしではないだろう。
厩や衛士舎とは反対方向で、神殿が見えるくらい近いところ、そしてある程度自由に出入りできるところといえば、庭園くらいしかない。
よし、と心を決めて方向転換し、足を庭園に向け走り出した。
「あ、見つかっちゃったか」
クーは庭園の四阿の中で、設置された長椅子にちんまりと腰かけていた。
やって来たカイトの姿を見て、かくれんぼをしていた子供のように笑う。
カイトは、はー……と大きく息を吐き出してぐったりした。どうやら自分で思っていた以上に、「クーがいない」という事実は精神的に負担だったらしい。いつも通りの彼女を目にして、ようやくまともに呼吸が出来る気分になった。
そんなカイトを見て、クーは少し気が咎めたように、ちらりと舌を出した。
「ごめん、心配した?」
「当たり前だろ」
そう言い返したものの、もう文句を言い立てる気にもなれない。とにかく無事でよかったという安心感で、力が抜けた。
クーの傍に寄っていくと、彼女が身をずらしたので、ちょっと迷ったが隣に腰を下ろした。
四阿の周りは色彩豊かな花々に囲まれている。まだ朝の早い時間だからか、人の声もしない。ただ小鳥が囀る鳴き声と、風が葉を揺らす音が聞こえるくらいだった。
静かで、穏やかだ。空気も澄んで、心地いい。確かに、こういう時間がクーには必要だったかもしれないなあ、とカイトは思った。あの刺々しい雰囲気の神殿に閉じ込められているばかりでは、クーの神経まで参ってしまう。近くにいるカイトこそが、もっと早くそういうことに気づくべきだったのだ。
「悪かったな、俺がまたピリピリしてるから窮屈で、ちょっと逃げ出して息抜きしたかったんだろ?」
以前、病院に向かった時もそうだが、カイトはそういうものを他人に気づかれないように抑え込むのが上手ではない。表面上だけでも、キリクのように悠然と構えていれば、クーもまだ落ち着いていられるのだろうが。
そこまで考えて、さすがにうんざりしてきた。
どうしてこう、キリクと比較ばかりしちまうんだろうなあ。
そんなことに意味はないと、自分でもよく判っているはずなのに。
クーはきょとんとした顔でカイトを見返した。なに言ってんの? というような目をしている。
「そういうんじゃないよ、ぜんぜん。逃げたいなんて、考えたこともない。たださ……うーん、なんていうか」
考えるように目線を上空に向けてから、ぽつりと言った。
「──カイトにもう一度、見つけて欲しかった、のかな」
え、とカイトは問い返したが、クーはそこで口を噤んでしまった。
顔をまた前に向けて、動きを止める。四阿の柱の向こうにある整えられた景観に視線を向けていたが、本当にそれを見ているのかどうかは、カイトにはよく判らなかった。
「……クリスタルパレスは、どこもかしこも、綺麗だな」
しばらくして出された言葉は、独り言のつもりだったのかもしれないが、カイトは「うん、そうだな」と控えめに同意した。
「不思議だよな。アリアランテの長い歴史の中で、この場所だけはずっと常に平穏が保たれている。ずっと、常に、だ」
一部を強調するクーを、訝しげに見やる。
こちらに顔を向けた彼女の口許には、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
そういえば、はじめて会った時も、こいつはこんな顔をしていたな、とカイトは思い出した。
──あんたたちに神はいても、自分にはいない、と言っていたクー。
彼女は今に至っても、その考えをまったく変えていないのかもしれない。
「オレさ、最近よく、本を読んでたろ」
「うん」
「アリアランテの歴史……というか、このクリスタルパレスの歴史を、重点的に勉強してた」
「クリスタルパレスの?」
カイトが問うと、クーはこっくりと頷いた。
「このクリスタルパレスでは、大きな災害があっても、毎回ほとんど被害が出ていない。不作の年には棄民から大勢餓死者が出ても、なぜかこの中は不思議と潤っている。棄民の反乱が起きても、パレスまでは決して攻撃の手が届かない。何ひとつ損なわれることなく、いつでも、ここだけは無事なんだ。宮殿も神殿も、これだけの年数が経っているのに、どこも欠けても崩れてもいない。建国以来ずっと、クリスタルパレスの中だけは美しく平和であり続けている。……あり得ないほど」
そうだ、それがクリスタルパレス。神国アリアランテの要であり、女神リリアナに守護された地。
ここは、「永遠の繁栄が約束された場所」だから。
「……何かがここを護っているのは間違いないんだろう」
クーの顔はこちらに向いているものの、その目は何もない虚空に据えつけられていた。
「その『何か』は、見えない大きな力だ。人ならざる力、でもあるんだと思う。それが、『女神リリアナ』と呼ばれているもの、なんじゃないかな」
カイトは戸惑った。クーの言い方は、「女神リリアナがこの国を守っている」という話とは、非常に根本的なところでずれているような気がする。
「オレはそれを信奉する気にはなれないよ。正直、薄気味悪さしか感じない。それが神というなら、どうしてこんなにも限定された一部だけしか守れないんだ? 搾取されて苦しむばかりの棄民はどうして放置されたままなんだ? あまりにも利己的で、不公平で、慈悲というものがない。権力者にしか与さない、そんなものは『神』とは呼ばない。だったら女神リリアナって何だ? すでにこの地を護る何かがあるのに、その力を人間に分け与えるという。そもそもそれは、一体何のためなんだ?」
「…………」
カイトは急に、肌が粟立つような気持ちになった。
ざわりとした、言いようのない嫌な感触が、背中を這いずり廻る。
正しさを見極める眼。真実の言葉を聞き取る耳。善の気配を感じる鼻。他者に慰撫をもたらす声。
……持っていないから、与えられる?
いいや、違う。
それらは本来なら、人がこの世で生きて、経験を積み、出会いを重ね、失敗を繰り返し、つらさ悲しさを知ってから、ようやく手に入れられるもの──自分の力で少しずつ養い、築き、培っていくものであるはずではないのか。
カイトは掌を口に押し当てた。自分の額に汗が滲んでいる。今になって、こんなことに気づくとは。
この国は、何かおかしい。
百年に一度の神女選定という儀式の裏では、不気味な欲望と陰謀が蠢いている。
「──すまない」
ひしゃげたように掠れた声が喉から出た。胸が冷たくなるような恐怖心が疼いてくる。今さらだ。ここまで来て自分の浅はかさを後悔したって何にもならない。自己嫌悪で押し潰されそうだった。
「俺はやっぱり、おまえをこんなところに連れて来ちゃいけなかったんだ……おまえをこんなことに巻き込んだのは俺だ。これから一体、何があるのか……」
神女になってくれと、棄民の街からクーを連れ出したのは自分だ。カイトはあの時、たとえ教皇の命に背いても、彼女と母親を逃がしてやるべきだったのに。
「……あのさ、カイト」
「すまない、本当に」
クーの呆れたような声にも、顔が上げられない。
下に向けて謝罪の言葉を繰り返すカイトの顔が、いきなり伸びてきた両手に掴まれた。
「でっ!」
遠慮会釈ない力で両頬を挟まれ、無理やり首の角度を変えられ上を向かされる。グキッ、という音がした。
「もう、また!」
暴力的な手段で上げさせられた目の中に飛び込んできたのは、眉を吊り上げたクーの顔だった。
彼女はいつの間にか長椅子の上で膝立ちになり、カイトの顔を両手で掴んで上から覗き込んでいた。あまりの至近距離に、一瞬思考が空白になった。
「目を逸らすなよ! カイトはいつでもまっすぐオレのこと見てただろ! オレはおまえが余所を向いてると落ち着かないんだ、ちゃんとこっち見ろ!」
現状、こんな格好で顔を寄せられているほうがよほど落ち着かない。とりあえず手を離してくれと思ったが、口には出せなかった。
たぶん、クーの輝く瞳に魅入られていたためもある。
「カイトとキリクは、オレに道を示してくれたんじゃないか。前にも言ったろ、おまえのその手は、救いの手だ。オレは本当にあの時、二人に助けられた。感謝してる。それを、『すまない』なんて言葉にするなよ。そういうのはイヤだよ。下を向くな。……お願いだから、こっちを見て」
クーの長い睫毛が伏せられる。落とされた声音は囁くように細く、頼りなさげだった。頬に触れる息が妙に甘く感じられる。
眩暈がした。心臓が止まりそうだ。
「──救いの手、って。けど、俺は……俺は、おまえが思っているような人間じゃないんだ。声の神女が言っていたように、俺は、おまえを、ただ、」
自分の欲のために利用しただけ。
そう言おうとしたら、さらに顔を挟む力が強まった。
「また、半民がどうの、ってやつ?……ねえ、カイト」
クーが困ったように首を傾げた。
「どうしたらカイトは、自分を赦してあげられる?」
何を言われているのか判らなかった。目を瞬く。
「ずっと、お母さんを救えなかった自分のことを責めてたんだろ? なんでもかんでも引っ被って、自分の存在が罪だとでも考えているみたいに。半民なんてって、誰よりも頑なに思い込んでいるのはカイトのほうだ。──なあ、どうすればカイトは、自分を赦してやれる? どうしたら、半民という枷を外して自由になれる? オレはどうすればいいのか、言ってくれよ。言ってくれたら、なんでもするから。オレに出来ることなら、なんだってしてやるからさ」
「…………」
カイトは目の前の娘をじっと見返した。こちらにまっすぐ向けられる、視線と言葉を受け止めた。
そこにいるのはすでに、痩せっぽっちで他人を信用せず、全身に針を立てているような荒んだ雰囲気を持つ、少年の姿をした棄民ではなかった。
カイトにとってかけがえのない、この世で最も綺麗な娘だった。
行き場がなく下げられていた両腕が上がる。
すぐ前にある細い身体に廻し、包み込むように抱きしめた。わずかに指が震えていた。
上体を傾けると、ようやくクーの両手がうろたえたように頬から離れた。そのまま彼女の胸にもたれかかるように、頭を垂れる。
「……クー」
「え、あの、はい」
上擦ったクーの声が頭の上で聞こえた。しかし腕の中の身体は逃げる様子を見せない。背中の衣服を掴んだ手に力を込めた。
「怖くないのか? これから何があるか」
「そりゃ、怖いし、不安だよ」
その返事に、カイトは顔を上げた。
「おまえが望むなら、俺がどうやってでも、クリスタルパレスから出してやる」
きっぱりと言うと、クーは眉を下げた。ふるふると首を横に振る。
「今は、それは出来ないよ」
「……今は?」
「オレはたぶん、まだここにいなくちゃいけないんだ。……きっと、そうでないと動かないものがあるんだと思う」
「何が動かないんだ?」
「わからない……だけど、そう望んでいるのなら、その通りにしたい。それで何かが救われるのかもしれないのなら、そうしたいんだ」
クーの言うことはまったく具体的ではなくて、カイトには何も判らなかった。しかし、彼女が「そうしたい」と言うのなら、それに異を唱えることはしたくない。短く息を吐いて、それ以上問いただすのを諦める。
クーがそう望むというのなら、カイトはそれに従うだけだ。
「おまえには、俺に見えていないものが見えてるんだな」
「オレにだって、見えていないものはたくさんあるよ。……でもね、カイト」
「うん」
「せめて、今まで自分が見てきたものは、信じようと思ってる」
「……うん」
「これからきっと、『何か』が起こるよ。オレはそれを見届けたい。オレの傍にいて、付き合ってくれる? カイト」
「もちろんだ」
カイトはそう言って、クーの背中から手を外し、長椅子から降りた。
クーに笑いかけてから、剣を腰から外し、片膝をつく。
今度はクーが戸惑った顔になった。
「……何してんの、カイト」
「境界警備隊に入った時と、衛士になった時、こなさなきゃいけない行事ってのがあってさ」
「うん?」
「こうして、膝をついて、頭を下げて、忠誠を誓うんだ。決して命に背かず、いかなる時も身命を賭して女神と教皇に仕え、忠誠を尽くすことを誓います──とな」
「ふうん」
「……でも、今をもって、その誓いは破棄しよう。俺は女神リリアナとソブラ教皇に対する忠義を捨て、新たにそれを向ける対象を見つけた」
片膝をついたまま、右手を胸に当て、左手で剣を立て、頭を下げる。
「──決して背かず、いかなる時も、身命を賭して貴女に忠誠を尽くすことを誓います」
クーが絶句した。沈黙の一拍を経てから、頭をばしんと叩かれた。
「バーカ! 冗談も大概にしろ!」
いてて、と頭をさすりながら目を上げると、クーの顔が見事に真っ赤に染まっている。カイトは笑い出した。
「たまには俺にもカッコつけさせろ」
「知るか! もう戻るぞ!」
ぷんぷんしながら長椅子から飛び降りて、クーはさっさと神殿に向かって歩き出した。もうこちらを振り返りもせず、闇雲に足を動かしている。
しかし後ろからでも、その耳が真っ赤になっているのは見えた。
「クー」
「なんだよ!」
「おまえって、可愛くないけど、ほんと可愛いよな」
やっと言えた──とほっと胸を撫で下ろしていると、ものすごい勢いで振り向いたクーに、思いきり足を蹴られた。
「いって!」
「バーカ!!」
湯気が出そうな顔でそう怒鳴ると、クーはくるりと身を翻し、その場から遁走してしまった。どうやらカイトはまた誉め言葉の選択を間違えたらしい。
「……別に冗談じゃなかったんだがな」
あっという間に小さくなった背中を見つめて、ぼそりと呟く。
カイトはやっと、覚悟を決めた。
神殿の衛士としての忠義を捨て、女神も、アリアランテという国をも裏切っても、クー一人だけを守るための剣となり、盾となろう。神女であろうがなかろうが、そんなことは関係ない。
それなら、これからも彼女の近くにいられる。
誰を見ていてもいい。隣に誰がいてもいい。心がどこに向けられていてもいい。もう目を逸らしたりはしない。
クーが「要らない」と言うまでは、傍にいよう。
──俺はそれでいい。
カイトは、「忠誠」という名に置き換えた、自分の心の奥にある感情については、そのまま底のほうへと追いやることにした。
それに気づいてしまえば、きっとカイトは彼女を束縛し、自分の手の中に閉じ込め、苦しませることになる。
父親がかつて、母にしたように。
自分には間違いなく、あの父親の血も流れている。
カイトにとって、父親が母親に向けた感情と同じものを誰かに抱いていると認めることは、恐怖でしかなかったのだ。
***
事態が一変したのは、翌日のことだった。
その朝、カイトは一人でクーの居室まで来ていた。中に入って見回し、「あれ?」と首を捻る。
「クー、キリクは?」
そう訊ねると、クーに、は? という顔をされた。
「なんでオレに聞くんだよ。見ての通り、今朝はまだ来てないよ。一緒にいたんじゃなかったのか」
「おかしいな……探しても、衛士舎の中にいなかったんだよ。訓練にも出てこなかったし、部屋にも食堂にもいなかった。俺はてっきり、先にここに来ているのかと思って、慌てて出てきたんだが」
その言葉に、クーも首を傾げた。
「何か、緊急の用事でも出来たかな」
「それなら、一言くらい言っていくんじゃないか?」
「いや──もしかして」
クーが表情を引き締め、閉じられた扉に目をやった。
「宮殿に向かったのかも。実は、今朝から、イレイナのところの女官が姿を見せなくなったんだ。衛士たちはいたか?」
「あ、そういえば……」
キリクがいないことにばかり気を取られていたが、思い返せば、衛士舎の中で、イレイナ嬢付きの衛士二人も見かけなかった。
ということは。
「眼の神女が──」
カイトが言いかけた、その時だ。
突然、大勢の靴音が響いて、部屋の扉が乱暴に開けられた。
咄嗟に剣の柄を握ってクーの前に立ちはだかったが、そこにいる人物を目にして、カイトはほっと息をついた。
「なんだ、びっくりした。……キリク」
そこで、息を呑んだ。
キリクは無表情だった。口元には普段の穏やかな微笑など片鱗も存在せず、ただ冷たい光をたたえた眼差しを、カイトとその後ろにいるクーに向けている。
カイトの安堵は瞬時に霧散し、急速に悪寒が駆けあがった。
そこにいるキリクはいつもの彼ではない。意志も感情も失くした人形のような顔をしていた。
キリクの後ろには、五人ほどの男が控えている。身につけているのは宮士の制服だ。彼らは、カイトが嫌う冷ややかな空気をまとって、それ以上に不穏な気配を全身から発散させていた。
「四人目、『眼の神女』が決定した」
ひどく素っ気ない一本調子の言い方は、今まで自分たちには向けられたことがないものだ。突き放すような冷淡さに、背中に水をかけられたような気分になる。
「宮殿ですでに儀式を終え、『神女イレイナ』が誕生した。──これで、確定だ」
喉が干上がって、何が、とは訊ねられない。キリクの左手は、この部屋に現れた時からずっと、剣の鞘を握っている。
クーが後ろで、小さく「キリク」と呟くように名を呼んだ。その声が震えているのだってちゃんと聞き取れただろうに、キリクは眉ひとつ動かさなかった。
「君が、『五人目の神女』だ、クー」
その言葉が終わらないうちに、キリクが剣を抜いた。ざりっと刃が鞘をこする音がする。掴んだ柄を持ち上げ、キリクはなんのためらいもなく、それを振り下ろした。
ギン! と硬い音を立てて、カイトの剣がそれを受け止める。向かってくる圧は十二分に重かった。カイトは歯を食いしばり、対峙した男の顔を信じられない思いで見返した。
「……なんの、真似だよ」
歯の間から声を絞り出す。
キリクの表情は変わらない。こちらに向ける視線には、凍てつくような酷薄さがあった。
「最初から、この予定だったのさ」
せめぎ合っていた白刃を、押し上げるようにして弾き返す。すぐに再び向かってきた剣先を、自分の剣で勢いよく叩きつけた。
「予定?」
「はじめから、『五人目の神女』が確定すれば、その存在は直ちに抹消されることが決まっていたんだ」
「五人目の神女だと?」
怒鳴りながら、閃くように向かってくる刃を次々に撥ね返して応戦した。激しい剣戟が交わされて、後ろにいる宮士たちは手が出せないでいる。カイトとキリクの動きが速すぎて、目も身体もついていけていないのだ。
「神女は本当は、四人ではない。五人いるんだよ。けれど五人目は禁忌の神女。このアリアランテに──いや、このクリスタルパレスにとっては、災厄にしかならない。だからこれまでもずっと、覚醒する前に存在を消されていたんだ」
そのために、水晶が示した五人の娘を集め、神殿の中に囲い込んで。
誰が「禁忌の神女」であるか、注意深く見定めようとしていたということか。
この国は、百年ごとに、そんなことを?
「今回、最も五人目として有力視されていたのは、ただ一人の棄民だった。だから僕がその衛士として手配された。事がはっきりするまで、決して逃がさないように、疑念を抱かれないようにね。僕はクーの監視役として、ここに送り込まれたんだ」
キリクはなんの感慨もない声音で言った。
「いずれ、クーを殺すために。僕はもともと、そういう役回りだったんだよ」
「……っ、キリク」
カイトは呻くように名を呼んだ。
混乱の中で、馬鹿野郎、とひたすら悲痛な叫びが頭の中で渦巻いていた。
バカが。なに言ってんだ。そんな顔して、そんな声で。
俺に判らないとでも思ってんのか?
殺気なんて、まったくないくせに。
キリクがなんのためにこんなことをしているのかさっぱり判らないから、カイトはその問いを発することが出来ない。顔にも出せない。ただ、向かってくる刃を条件反射のように弾いて、戦っているように「見せかける」、それで精一杯だ。
どうしてだ。どうなっているんだ。何のために、こんなことをしてるんだ。
キリクの剣さばきは素速く、勢いも激しい。本気で向かってこられたら、カイトもこんなことを考える余裕はなかったかもしれない。しかし、何度も何度も衛士舎で互いに剣を交わしたからこそ判る、これは単なる形式だ。自分たちだけに感じ取れる呼吸に従って、模範演技をこなしているようなものだ。
何が起きているのか判らないが、少なくともカイトはキリクの言葉を額面通りに受け取ることもしなかったし、裏切られたとも思っていなかった。
クーが言っていたのは、まさしくこれだ。
見えていないものはたくさんあるけど、せめて、今まで自分が見てきたものは、信じようと思ってる。
唸るようにして飛び込んできた白刃を、甲高い音を立てて自分の胸元で受けた。
軋むように刃と刃が交差する。キリクが剣を握る手に力を込めて、カイトのほうに上体を寄せた。押し切ろうとしている、ようにしか他の人間からは見えないだろう。
「……俺がクーをそう簡単に殺させると思うか?」
「だったら君にも死んでもらうまでだよ」
低い声で殺伐とした会話を交わしながら、間近にあるキリクの視線が、カイトの目を捉えた。
──無表情なのに、そこだけ澄んだ瞳が。
カイトを見て、それから、横へとずれる。
窓を指している。
「キ……キリク」
カイトの背に隠れたクーが、懸命に抑えた声で言った。
声にならないくらいの、息のような囁き声で。
一緒に、と。
部屋の入口あたりに立つ宮士たちの耳には届かなかっただろう。そして、その時のキリクの顔も、彼らからは見えなかっただろう。
キリクはほんの一瞬、悲しそうに微笑んで、かすかに首を横に振った。
「さあ、死にたくなければそこをどいてくれ」
キリクが冷たい声を出して、重ねていた剣を弾みをつけて離し、一歩後方へと飛び退る。
その隙をついて、カイトはぱっとそちらに背中を向けた。片手で剣の柄を立て、片手でクーを脇に抱え上げて、テーブルの上に飛び乗り、勢いをつけて蹴り上げる。
ガシャン! というけたたましい音と同時にガラスが割れて、カイトはクーを抱いたまま窓から建物の外へと飛び出した。
バラバラと破片が砕け散る。部屋の中で、キリクが「逃げたぞ! 外へ廻れ!」と宮士たちに命令する声が聞こえた。このままではすぐに挟み撃ちにされる。
逃げ場を探して視線を巡らせたカイトの耳に、
「──こちらへ!」
と鋭く囁く声がかけられた。
そちらに目をやると、マレが真っ青な顔で建物の陰に立っている。彼女はぶるぶる震えながら、馬の手綱を握り締めていた。
カイトが以前、傷の男を追いかけた時に乗った黒馬だ。何がなんだか判らない。なぜ、マレがここにいて、この馬を連れているのだ。厩の馬は衛士のみに貸し出されると決まって──
そこでピンときた。
──例の件については、引き受けたと伝えておけ。これで貸し借りなしだとな。
キリクが脅しをかけた衛士だ。あいつがキリクに言われて、この黒馬を借りる手続きをしたに違いない。それなら、あくまでカイトたちの敵であらねばならないらしいキリクは無関係だと言い張れる。
一体キリクはいつから、この日のために準備をしていたのだろう。
「ああ、くそ!」
自分の馬鹿さ加減と盲目ぶりに腹を立てながら、クーを馬に乗せ、自分も飛び乗った。
バタバタと建物を廻り、こちらに向かってくる複数の足音が聞こえる。この分だと、多少は時間を稼げるかもしれない。あちらは、このパレス内で、たかが衛士一人と無力な娘が逃げる場所などあるわけないと、高を括っているはずだ。
「わたくしが追っ手を別の方向に誘導します。さあ!」
蒼白のマレが身を揉みしだくようにして急かす。もう迷っている暇はない。手綱をぐっと握った。
「──ありがとう、マレ!」
いつも同じことしか言えない、気の利かない男の言葉に、それでもマレは唇を綻ばせて微笑んでくれた。
「……ご無事で」
そう言って、くるっと背中を向けて駆け出していく。「誰か、誰か!」と叫ぶ声がすぐに小さくなった。
「行くぞ、クー!」
カイトは思いきり馬の腹を蹴った。
一目散にパレスの門を目指して駆ける。
カイトはキリクの思惑に気がついていた。どうして彼がクーのところに来るのに、この時間帯を選んだのか。
──この時間、その場所はここを出ていく商人の馬車でごった返しているからだ。
朝の大行列の馬車の群れは、こちらの事情になど斟酌せず、以前と同じように騒々しく車輪を廻していた。いちいち許可証を見せずにパレスの門から外に出ていける可能性があるのは、この時をおいて他にない。カイトはそれを経験済みだ。
馬車の間をすり抜けるようにして馬を疾走させた。黒馬も前回のことを覚えているのか、怖れもせずに突き進む。強引な進み方に、あちこちから悲鳴が上がった。クーは頭を伏せるようにして、鞍にしがみついている。
蹄の音を荒々しく響かせて、カイトとクーはクリスタルパレスの門を突破した。
***
カイトはそのまま神都を突っ切り、馬を走らせ続けた。
カッカッという音に混じって、クーがしゃくり上げる声が風に乗って流れてくる。
彼女はずっと、泣いていた。
「カイト……オレ、キリクに何もしてあげられなかった」
「──クー」
「助けたかったのに。必ず引っ張り上げてやるって思ってたのに。あそこに置いてきたままにしてしまった。キリクを一人にしたら、いけなかったのに」
それはキリク自身が望んだことなのだと言っても、クーの心は慰められないのだろう。
クーはキリクを一緒に外に出して、彼を縛る何者かから、自由にしてやりたかったのだ。でも、キリクはそれを拒み、自分たちだけを逃がすことを選んだ。
……あそこに残って、キリクは果たして、無事でいられるのか。
一人だけで、何をしようとしているんだ。
「キリクにはきっと、あそこにいなきゃいけない事情があったんだよ」
「わかってる。だけど、こんな形で離れてしまったら、オレたちにはもう、どうにも出来ない。オレが甘かったんだ。キリクが求めるように動いていれば、そのうちきっと機会があるはずだと思ってた。キリクはこれからたった一人で、あそこにある何かと戦わなきゃいけない」
あそこにある、何か。
ざわざわとした黒雲が胸の中に広がったが、カイトはそれを一旦振り払うことにした。
「……クー、でも今は、もっと差し迫っている問題のほうを考えよう。キリクのことはこのまま放っておきはしない、必ず。だけどとにかく、今は病院へ急ごう」
クーがはっとしたように頭を上げて、カイトを見た。
その顔から、ざっと色が抜ける。
クーに追手がかかるとなったら、おそらく真っ先に狙われるのは、病院にいる彼女の母親だ。
ぎゅっと唇を引き結び、クーがまた前に顔を向ける。カイトもまた厳しい表情で、馬を走らせた。
──が。
カイトたちは、病室まで行って母親の無事を確かめることは叶わなかった。
敷地内に入る前に、「やあ、一足遅かったね」とのんびりとした声がかけられたからだ。
弾かれるように振り仰ぐと、病院建物を囲む塀の上に、一人の若い男が膝を折ってしゃがみ込んでいる。
にこにこと笑っている男の左頬には、くっきりとした傷があった。
「おまえ……!」
咄嗟にカイトは剣を引き抜こうとしたが、男は落ち着いた仕種で片手を挙げ、それを制止した。
「おっと、それはあとにしない? あんたたちも急いでるんでしょ? 俺たちも急いでる。こんなところで騒ぎを起こしたくないのはお互い同じだ。その子の母親は、すでに俺たちの手で保護してあるよ」
「な──」
カイトが言葉に詰まり、クーがさらに顔色を失くした。
「いや別に、乱暴なことしてないから、安心してね。あの人を『あちら』に取られたらまずいだろうなと思って、先手を打たせてもらっただけだよ。体が弱ってるんでしょ? ちゃんと医者にも見せるから大丈夫」
「何が大丈夫だ」
相変わらず男は飄々として、喰えないことばかり言ってのける。カイトは噛みつくように言い返したが、あちらはまるでなんとも思っていないようだった。むしろ、楽しげでさえある。
「ちゃんと会わせてあげるから、一緒に来てよ。あ、これ、脅しってわけじゃないからね。あんたたちも、いろいろと知りたいことがあるだろうと思ってさ」
「断ると言ったらどうするんだ」
「お母さん、どうしようかなあ」
「やっぱり脅しじゃないか!」
いきり立つカイトを宥めるように、手綱を握る手の上に小さな手がそっと置かれた。
「……行くよ。説明してくれるんだろ?」
真面目な顔で返事をしたクーに、男はにっこりした。
「やあ、神女はやっぱり話が早い。その単純男を制御するのはあんたに任せるよ」
「ちっ」
カイトは忌々しい思いで舌打ちし、剣の柄から手を離した。腹立たしいが、どのみちクーの母親の安全をあちらが握っている以上、こちらは手も足も出せない。
それにカイトだって、男の「話」とやらを聞きたい気持ちは確かにある。
──こいつはクーを、神女と呼んだ。
何を知っているのだ。カイトたちは、どんなことに巻き込まれて、何と戦わなくてはいけないのだ。何を知っていて、何を知らないのかさえ、今の自分たちには判っていない。
「決まりだね。あ、俺のことはコウって呼んで。みんなそう言ってるから」
どこまでもとぼけた言い草である。自分の名前くらいはっきりさせたらどうだ、とカイトはますます不愉快になった。
「みんなって?」
クーが訊ねると、コウは少し苦笑した。
「俺の仲間のこと。俺ねえ、一応、そいつらのリーダーってことになってるんだよね」
「なんのリーダーだよ。盗賊団か、ゴロツキか」
カイトの嫌味を、「うん、まあそんなようなもんだけど」と受け流し、そしてやっぱり、軽い口調で笑いながら言った。
「一応、革命軍のリーダー、ってことになってる」
(Ⅷ・終)