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ロンミ嬢は「鼻の神女」となったらしい。
今回もまた、それについての報告は、司教から神官を介して、二人の神女候補たちへと通達された。司教自らの口から伝えられるでもなく、他の連絡事項となんら変わりない素っ気ないやり方は、サンティ嬢の時と同じだ。
クーとイレイナ嬢は、神女選定における当事者でありながら、毎回、すべてが終わってから、単なる「結果」としてそのことを知らされるのみ。
おかしい。おかしいだろう。いくらなんでも。
心の片隅に火を点けられたような気分になって、カイトはじりじりとした焦慮に駆られた。
残る神女の枠はあとひとつ。
「眼の神女」は、クーか、あるいは、イレイナ嬢か。
それを考えると、何をしていても落ち着かない。見えない大きな手が自分の身体を握り潰そうとしているかのように、胸郭が締めつけられて苦しい状態が続いている。何かをしなければいけないのではないかと気は焦るのに、じゃあ何をすればいいんだと我が身に問いかけては立ち止まる、その繰り返しだ。
胸の中に膨れ上がる危惧と不安は、もはや、「クーが正式な神女候補に選ばれるかどうか」ということに対するものではない。
四人の神女が揃ったらどうなるのか、だ。
すでに、神殿内にあった三つの部屋が空っぽになった。ここまで来て、水晶はどうやって神女候補を選び出したのか、カイトにもやっと、おぼろげながら見えてきつつある。
不安を他者から取り除き、慰撫を他者に与えられる、「声の神女」。
偽りの言葉を弾き出し、真の言葉を拾える、「耳の神女」。
悪しき気配を打ち払い、善なる気配を嗅ぎ分けられる、「鼻の神女」。
自らの裡に抱え込んだ鬱屈から、他人を傷つけ、また自分をも傷つける言葉ばかりを舌に乗せるようになったモリス嬢が、声の神女に。
周囲から外見を持ち上げられ続けてきたゆえに、耳心地のいい言葉だけを受け取り、それ以外の言葉は弾き返すか捻じ曲げてしまうサンティ嬢が、耳の神女に。
文字となって見えているものだけを信用し、人の感情や不穏な兆候など、目には見えないものには興味を持たず気づきもしないロンミ嬢が、鼻の神女に。
──女神の力を与えられるのは、それを受け取る側の人間に、「それぞれの力の属性についての資質が特に欠けていること」が条件なのではないか。
残っているのは、邪なるものを見抜き、正しきものを見通せる、「眼の神女」。
どう考えても、クーにその資質が欠けているとは思えない。そういう意味で、彼女は水晶が望む神女としての条件を満たしていない。
たぶん、近いうちに「眼の神女」に選ばれるのは、イレイナ嬢だ。
カイトにも、そこまでの予測は立てられた。
しかし、そこからが、さっぱり判らない。
ロンミ嬢が神女となって以降、クーとイレイナ嬢は、クリスタルパレスから外に出ることを禁じられた。クーの母親がいる病院にも行けない。表向きは、神女選定が終わりに近づいているため万全を期する、とのことだが、どうにもいい気持ちがしない。
神殿の許可がなければ、あの頑ななパレスの門は厳重に閉ざされたまま、決して外には出られない。
……まるで、残る神女候補二人を瓶詰めにして、教皇や司教がガラスの向こうから眺めているかのようではないか。
カイトは神殿の窓の外から見える美しい景色を、深い憂悶の滲む瞳で見やった。
これから何があるのか。
クーはどうなるのか。
──自分は、何をすべきなのか。
***
しかし、切迫感に捉われていたのは、カイトだけではなかったらしい。
イレイナ嬢付きの衛士二人も、カイトとはまったく別の方向で、焦りを募らせていたようだ。
四つある神女の椅子に座ることが出来なければ、あぶれた一人は虚しく立っていなければならない。「栄誉」という名の椅子に座り損ねた者は、周りから侮蔑され、嘲笑されるだけ。神都のそういう価値観で育ってきた彼らにとって、そんな屈辱はとうに耐えられる限界を超えていたのだろう。
最も位階の高いイレイナ嬢付きの衛士となって、自信も慢心も人一倍大きくなっていただけに、衝撃と反動も激しかった、というのもあるかもしれない。まさか、最後に棄民との一騎打ちになるとは、彼らはもちろん誰も予想もしていなかったことだったのだ。
正式な「鼻の神女」が決定したということが伝えられてから、いよいよ追い詰められた衛士たちは、その日、とんでもない暴挙に出た。
「おい、イレイナさまの首飾りをどうした?!」
「……はあ?」
いきなりクーの居室の扉が乱暴に叩かれたと思ったら、開けた途端に眉を吊り上げた衛士に怒鳴られて、カイトはわけも判らず問い返すしかなかった。
「なんのことだよ。それよりお前ら、もう少し礼儀ってもんを弁えたらどうだ」
「黙れ! 盗っ人相手に礼儀も何もあるか! 薄汚い棄民めが、さっさと盗んだ首飾りを返してもらおう!」
「盗っ人だと?」
「あの棄民を庇うというのなら、きさまも容赦せんぞ! 半民は半民らしく、隅っこで小さくなって大人しくしていろ!」
「……おい、いい加減にしろ。さっきから意味の判らないことばかり喚きやがって。神女候補に対してその暴言、許されるとでも思っているのか」
あちらの怒鳴り声が大きくなるにつれ、カイトの声はどんどん低くなっていく。左手が勝手に動いて、腰の剣の鞘へと伸びた。
そこへ、声高に盗っ人呼ばわりしていた衛士の肩に手を置き、もう一人の衛士が前に出てきた。
そちらはそちらで、相方のように興奮で顔を赤くするようなことはなかったものの、厭らしい薄笑いを浮かべている。
ち、と小さく舌打ちした。こういう顔、カイトは飽きるほどに見てきたから判る。
──神民が、自分よりも立場が下の人間に対し、ろくでもない言いがかりをつけたり、相手を罠や策略に嵌めて愉悦を感じている時の顔だ。
今の場合、その対象はカイトではなくクーであることは明白だった。落ち着け、と自分に言い聞かせて、息を吐き出す。
子供の頃から、警備隊に在籍していた時に至るまで、このテのことはうんざりするほど経験済みだ。
言ってもいないことを言ったとされ、してもいないことをしたとされ、根拠もなく因縁をつけられて、笑われたり殴られたりは日常茶飯事だった。
業腹だが、頭に血を昇らせるわけにはいかない。こちらの対応次第では、ますます面倒なことになりかねないからだ。
「ちゃんと説明をしてもらおう。盗っ人とはなんのことだ?」
カイトが訊ねると、薄笑いを浮かべた衛士のほうが、入り口から部屋の中に視線を向けて、さらに口の端を上げた。
後ろに廻した右手で「動くな」と牽制するカイトに従い、クーとキリクはテーブルのところから息を詰めるようにして成り行きを見守っている。
「実は、イレイナさまの首飾りが見当たらなくてな」
「それは気の毒に。もっとしっかり探してみたらどうだ?」
「箱に入れて、鏡台の上に置かれていたそうだ。それが、少し部屋を不在にされた隙に、忽然となくなっていたと。銀の鎖に、素晴らしい細工の宝石が飾られたものだ。無論、大変に高価でもある」
「それで、盗まれた盗まれたと大騒ぎしているわけか? その場合、まず最初に疑ってかかるべきは、その部屋に出入りする女官か衛士だと思うがな」
「きさま、我々を愚弄する気か!」
最初に怒鳴り込んできたほうの衛士が、自分のしていることを完全に棚に上げて、さらに険しい顔つきでカイトに詰め寄った。その右手は、すでに剣の柄を握っている。
あちらが抜いてきたらいつでも応戦できるように心の準備をしながら、しかし自分はまだ右手を柄にはかけず、カイトも真面目な表情になった。
「そちらの思い違いということもあり得る。もう少しよく探して、それでも見つからなければ司教に報告しろ。俺たちは関知しない。話は以上だ」
出来るだけ冷静に言って扉を閉じようとしたが、態度だけは落ち着いているもう一人の衛士が、その扉を手で押さえて止めた。
「その前に、この部屋を検めさせてもらおう」
カイトは眉を寄せた。やっぱりそう来たか。
「断る。お前らにそんな権限はない。勝手に犯人扱いされるのも認めない。その場所から一歩でも室内に足を踏み入れたら、俺はクーの衛士として剣を抜く」
理不尽な要求をにべもなく振り払ったが、衛士の口許から嘲るような笑いが消えることはなかった。
「では、神官と司教の立ち会いのもとで、捜索させてもらおう。それなら異論ないな? それさえも拒むというのなら、後ろ暗い理由があるのだと思わざるを得ない」
「何を勝手な──」
カイトはぐっと奥歯を噛みしめた。どうも変だと思っていたが、相手のその言葉を聞いて、嫌な予感は確信に変わった。
──おそらく、なくなった首飾りは、すでにこの部屋の中にある。
簡単なことだ。いつものようにクーが馬に乗るためにこの部屋を留守にした午前中、侵入した「誰か」が、室内のどこかに首飾りを隠した。
部屋の錠は中からは下りるが、外からはかけられない。まさかこの神殿で、神女候補の部屋の中に忍び込む輩がいるとは思いもしなかったカイトが迂闊だったのだ。
隠した人物は、あとで首飾りがなくなったと騒ぎ立てて、探すという名目でそれをまた取り出せばいいだけ。首飾りがこの部屋の中にあることは判っているのだから、司教や神官が立ち会ってもまったく構わない。いやむしろ、そのほうがずっと効果的だ。
どこに隠しやがった、とカイトは懸命に思考を巡らせた。
こいつらが司教らを呼びに行っているうちに見つけられれば──いや、無理だ。一人がいなくなっても、もう一人が必ず残って自分たちの動向を見張るに決まっている。
第三者の立会いのもと、首飾りがこの部屋から発見されれば、もう言い逃れ出来まいと連中はますます強気に出るだろう。盗んでいない、という証明は不可能に近い。
棄民に盗みの罪を着せて、神殿を追い出させる。
そうすれば、残る神女の座は自動的にイレイナ嬢のものだ。
もはや、形振り構っていられない、ということか。
「──イレイナ」
その時、カイトの後ろから抑えつけたような声が聞こえた。
振り返ると、クーが椅子から立ち上がって、こちらにまっすぐ目をやっている。いや、正確には、その視線はカイトも、そこに向き合っている二人の衛士たちも飛び越えて、さらにその先へと向けられていた。
「イレイナ、いるんだろ? 出てこいよ」
しばらくの無言があって、衛士二人を手の動きひとつで左右に追いやり、その中央からイレイナ嬢が姿を見せた。
彼女は青い顔をしていた。ロンミ嬢と同じく、頬の肉が削げ落ち、すっかり窶れてしまっている。あまり眠ってもいないのか、目の下には濃い隈が出来ていて、眼窩が落ち窪んでいるように見えた。
──そこにはもう、かつてクーが「自信家」と呼んだ傲慢な娘の面影はない。
考えてみれば、彼女が苦しい立場に追いやられているのも、無理はない話なのだ。
第三位神民で、クリスタルパレスに居住していたイレイナ嬢は、この地に自分の知己も多い。衛士を引き連れ、たびたび神殿の外に出かけていた彼女を見て、パレスの住民たちは、神女選定が始まったのだと噂し合った。
当然、彼らもまた、イレイナ嬢が神女になるのだと疑いもなく考えていただろう。
神女の椅子を獲れず神殿を出された者をまた以前と同じように受け入れるほど、神民の世界は寛容ではない。
もしも神女になれなかった場合、イレイナ嬢にはもう、戻る場所もなくなる。
その絶望的な状況が、彼女をして、衛士たちの愚かな振る舞いを黙認させている、ということか。
誇りだけで「自分」というものを成り立たせているようなイレイナ嬢が、自身の主導でこんな真似をするとは思い難い。おそらく、この件は衛士らの暴走によるものだろう。
それでも、イレイナ嬢はもう、彼らのその行動を止めもしないし、諫めもしない。いや、そう出来ない。
だからこんな蒼白な顔で、黙っていることしかしないのだ。
「イレイナ、わかってるんだろ? そいつらを退かせるなら今のうちだ」
「…………」
「この卑怯な手段を受け入れれば、今後あんたは、自分が依って立つ場所を失うぞ。威張りくさって鼻持ちならないやつだけど、あんたは自分自身のプライドをずっと生きる支えにしてきたんだろ」
「…………」
「しっかりしろよ、棄民を嫌いなら嫌いで構わない。だけど、こんなやり方は、あんたにとっても本意じゃないはずだ」
「…………」
イレイナ嬢が自分の両手をぎゅっと握りしめる。拳になったそれは、小さく震えていた。
しかし、何かに堰き止められているかのように、彼女の口は強く引き結ばれたまま動かない。
大きく見開かれた目だけが、クーを凝視している。
「黙れ、生意気な棄民が! お前こそ、自分の卑劣さを反省するがいい! これでもうお前は終わりだ! 棄民が神女候補になるなど、やっぱり間違いだった! お前なんていなければよかったんだ! そうすれば、最初からすんなりとイレイナさまが神女になられていたのに!」
衛士の叫び声に、イレイナ嬢の肩がぴくりと揺れた。
「──……」
クーを睨みつけていた目からふっと力が抜け、虚ろな視線が空中へと逸らされる。
その瞬間、カイトは悟った。
冷え冷えするような実感を伴って、芯から理解した。
己の矜持を砕き、邪な計略を受け入れて、自分のすぐ前にある正しき真実から目を背けた。
──イレイナ嬢は確かに、「眼の神女」として選ばれる条件を満たしている。
衛士は、部屋を調べさせろ、司教にその目で見てもらう、とがなり立て続ける。
カイトは迷った。これで衛士の言う通りこの部屋から首飾りが見つかったとして、いやこの分だと見つかるのは間違いないようだが、それからどんな判断が下されるのか見当もつかない。
今となっては、神殿を追い出されたほうがクーにとっては良いことなのではないかという気もするが、事はそんな簡単には済まない可能性のほうが高い。
最悪なのは、こちらの言い分も聞き入られず、クーがカイトともキリクとも引き離されて、一人で身柄を拘束されてしまうことだ。
このクリスタルパレスで、棄民の彼女に他に味方はいない。これから、どんな事態に巻き込まれるのかも判らないこの状況で、クーを孤立させることだけは避けなければならなかった。
「……キリク、いざとなったら、俺が被る。クーとおまえは知らぬ存ぜぬで通してくれ」
自分の傍らにそっと寄ってきたキリクに、囁くように耳打ちした。
クーを一人にさせるくらいなら、カイトが盗っ人の汚名を着るほうがはるかにマシだ。カイトは処断されるが、キリクは残る。
首飾りが出てきたら、自分が盗んだと名乗りを上げよう。どうせ「これだから半民は」と、疑われることもない。
そう思ったのだが、厳しい表情のキリクに同じような囁き声で鋭く言い返された。
「馬鹿なことを考えたらダメだよ、カイト。僕が君に言ったこと、もう忘れてしまったの?」
これからもクーの傍にいて、あの子を守ってやって欲しい。
もちろん忘れてなんていない。というか、あれっきり、自分が言ったことも忘れたような顔で、それについては二度と蒸し返すこともなかったのは、キリクのほうだ。
カイトだって、クーのことは守ってやりたいと思っている。
しかし、この現状では──
「──お待ちくださいませ」
打開案が見つからず、カイトが窮したその時、救い手が現れた。
「みなさまがお探しの首飾りとは、こちらのことではございませんか?」
やって来たのはマレだった。
ゆったりと歩いてきた彼女は、弾かれたようにそちらを向く衛士たちにも怯む様子を見せず、自分の両手に包むようにして持っているものを差し出した。
そこには、布張りの細い箱がある。
カチンとかすかな音を立てて箱を開くと、銀色の鎖が光を反射して輝く、繊細なつくりの煌びやかな首飾りが現れた。
「なっ……」
二人の衛士が同時に狼狽するような声を上げた。
「大広間に落ちておりました。司教様にお届けしようかと思っていたところ、こちらのほうで騒々しいお声が聞こえてきまして。首飾りがどうのと怒鳴っておられるようでしたから、お持ちしたのですが」
マレは、神殿付きの女官らしい、つんと気取った口ぶりでそう言って、衛士に押しつけるようにして箱を渡した。その態度は、この神殿で揉め事など迷惑な、と思っているようにしか見えない。
「……そんな、馬鹿な」
衛士たちは唖然として箱とマレとを見比べている。そこに、キリクがわざとらしいまでに優雅な口調で言葉をかけた。
「やあ、不思議だね。なくなった首飾りが、女神リリアナの像が祀られた大広間で発見されるとは。出来心でそれを持ちだした誰かが、罪の意識に耐えかねて、女神像に預けたのかな? それとも」
あたふたしている衛士たちを意味ありげに見て、微笑する。
「それとも、くだらない陰謀ごっこが、女神リリアナのお怒りに触れたかな?」
衛士たち二人の顔から血の気が抜けた。今になってようやく、彼らはここが、不浄と穢れを厭う神聖な場所であることを思い出したようだった。
「し、しかし、確かに」
「これは何かの間違いで」
うろたえながらもまだ往生際悪く自分たちの正当性を主張しようとした衛士たちは、「──もう、おやめなさい」という底冷えのする声に、びくっと全身を痙攣させるかのように身じろぎした。
「これ以上みっともない醜態を晒すなら、今すぐこの神殿から出ておいき。わたくしはもう、うんざりだわ」
イレイナ嬢は衛士たちに軽蔑の眼差しを向けると、くるりと身を翻した。
靴音を響かせて、自分の居室へと戻っていく。
「イレイナ」
クーが名を呼ぶと、ぴたりとその背中が動きを止めた。
「心配しなくても、あんたが四人目の神女だよ。……それが良いことなのかどうか、オレにはわからないけど」
その眼差しには、どこか痛ましいものに向ける哀切が込められている。
もしかしたらクーは本当は、イレイナ嬢が神女に選ばれるのを止めたいと思っているのかもしれなかった。しかしそれは無理だということも、イレイナ嬢本人が望んでいないということも判っていて、だからこそ、こんな表情で彼女を見送ることしか出来ないのではないか。
イレイナ嬢は振り返らなかったし、返事もしなかった。立ち止まったのはほんの少しの間で、彼女はまたすぐに前を向いて、歩みを再開させた。
ただ、聞こえるか聞こえないかくらいの小ささで、
「──棄民のくせに」
と呟いた声に、これまでのような嫌悪感は混じっていなかった。
***
イレイナ嬢に続いて二人の衛士たちもそそくさとその場を立ち去り、ようやく静けさが戻ってくると、カイトは大きな息を吐き出した。
ちらっと廊下の先に目をやってから、何も言わずにマレの腕を取って部屋の中へと入れ、扉を閉める。こちらの話す声がまた連中の耳に届いたら厄介だ、と思ったからなのだが、すぐに気がついて、自分の手をぱっと離して上げた。
「あ、すまない」
腕とはいえ、半民の自分に触れられたら、さぞマレは嫌な気分になるだろう。なにしろ以前は、髪飾りに触れようとしただけで、彼女の怒りをかってしまったくらいだ。
そう思って即座に謝ったのだが、マレは憤慨もせず気味悪そうにするでもなく、目線を下に向けて固まっていた。そんなにショックだったのか、とさらに申し訳なくなって、彼女から距離を取るようにして後ずさる。
これ以上マレの気分を害さないようにと気を遣ったつもりなのに、顔を上げたマレは恨めし気に見ているし、キリクは失笑しているし、クーは怖い顔でこちらを睨んでいる。なにやら自分の対応が間違っているらしいことは判るが、何がどう違っているのか、カイトにはさっぱり判らない。もっと床に手をつくようにして謝れ、ということなのだろうか。
「何はともあれ、助かったよ、マレ」
弱りきっているカイトに助け舟を出すように、キリクがマレに笑いかけた。
「彼らの企みに気づいて、阻止してくれたんだね?」
カイトに対して何かを言いたそうだったマレは、そう言われて渋々キリクのほうに顔を向け、頷いた。
「はい。みなさまが神殿から出ていったあと、あの衛士たちがこそこそとこの部屋を窺っていることに気づいたものですから。柱の陰に身を隠して、こっそりと様子を探っていたんです」
「まったく馬鹿なことをするものだよ。首飾りはどこにあったんだい?」
「棚と壁の隙間に。勝手に室内を物色いたしまして、申し訳ありません」
「いや、緊急時だから、やむを得なかったと理解しているよ。君が機転をきかせて首飾りをここから持ち出してくれなければ、かなり困ったことになるところだった。その賢さは君の強い武器だね」
キリクの言葉に、マレが頭を下げる。控えめな態度ではあるが、ほんのり唇が綻んで、嬉しそうだ。
上の立場でいることに慣れているだけあって、キリクは人を褒めるのが上手い。だからクーもやる気が出るんだろうな、とカイトは心の中で思った。
簡単な一言さえ告げられない自分とは違う。
キリクはマレに向けて、自分の唇に人差し指を当てた。
「この件は、内密に頼むね」
「司教様にお伝えしなくてよろしいのですか。なんでしたら、わたくしが証人として……」
「それには及ばないよ。彼らももう、こんなつまらないことはしないだろう」
マレは少し納得がいかない顔をしていたが、それ以上踏み込むつもりもないようだった。神殿付きの女官とは、本来、自分の仕事以外のことにはあまり関わったりしないものなのだろう。
「では、わたくしはこれで……」
と言うので、てっきり扉を開けて出ていくのかと思ったら、マレはその場に立ったまま、取っ手に手をかけることもしなかった。
ちらっとカイトに目を向ける。
ん?
カイトは首を傾げた。
マレは何かを待つかのように、こちらをちらちらと見ては小さく足踏みをしている。よく判らない。ひょっとして礼金を求められているのかとも思ったが、それならカイトのほうを見たりはしないだろう。それに、なんとなくだが、ここで銀貨を出すと、非常にまずいことになりそうな予感がする。
「……え、と」
困った挙句、もぞもぞと口を開いた。
マレを不快にさせるかなと思って黙っていたのだが、このまま無言を通すのは許されないような空気が流れている。
「助けてくれてありがとう、マレ」
彼女に感謝しているのは本当だったので、遠慮がちだが真面目にそう言うと、マレは一瞬、すうっと息を吸った。
その息を吐き出すと同時に罵声でも飛び出してくるんじゃないかと覚悟したが、その口からは何も言葉は出てこない。じゃあ吸い込んだものはどこに行ったのかと訝ると、彼女はそこで束の間、ぴたっと呼吸を止めたようだった。
……それからゆっくりと息を吐き、マレは頬を薄っすらと赤く染めた。
あれ?
カイトは動揺した。それと同時に、自分に突き刺さる視線があるのを感じて、身を固くした。
背中が冷えるほどに険悪な何かが後方から押し寄せてきて、怖くて振り向けない。ちなみにキリクはさっきから明後日の方向を向いて、他人の振りをしている。
「……わたくし」
カイトがひそかに冷や汗を流していることにも気づかず、マレがぽつりと言った。
「わたくし、今まで、誰かにそんな風に、『ありがとう』と言われたことがなかったんです。……あなたのその言葉は、とても、心が」
そこで唐突に言葉を切り、マレは頬を赤くしたままさっと踵を返すと、扉を開けて部屋から駆け出していってしまった。
「…………」
中途半端なところで取り残されて、カイトは茫然とその場に突っ立っているしかない。
もしかして、今のって──と思いかけて、すぐに自分自身で打ち消した。
いや、まさかな。
その時、自分自身が無意識に怖れているものが何なのか、本当は少し気づいていたのかもしれない。
しかしカイトは、強引にそれを胸の奥底に押さえ込んで封をした。
深く考えちゃダメだ。
──「あの感情」は、いずれ災いを呼び込んでしまう。
「とにかく、何事もなく済んで、よかったよ」
たった今のことなんて何もなかったようにそう言ったカイトを、キリクは意外そうな顔で見つめた。
クーはその日一日、非常に機嫌が悪かった。




