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扉の向こうから聞こえるロンミ嬢の高い声は、しばらくするとぴたりと止まった。
ようやく我に返った、ということかもしれないが、それはそれで不安になってしまうような唐突さだった。ゼンマイを巻いて動かしていた機械が、途中で切れてしまった──あるいは壊れてしまった、ような心許なさを感じさせる。
扉を開けてみようかどうしようか迷ったが、クーが首を横に振るのを見て思いとどまった。確かに、ここで再び自分たちと顔を合わせることは、きっとロンミ嬢にとって悪い結果しか生まないだろう。
細い息を吐きながら、クーを促して窓近くにあるテーブルに向かう。げんなりした顔をした彼女が椅子に座るのを見届けてから、カイトもその隣に腰掛けた。
「……大丈夫か?」
顔を覗き込んで訊ねると、クーがちらりと苦笑した。
「大丈夫だよ。なんでそんなこと聞くんだ?」
彼女はそう言ったが、その表情には少し疲労感が見える。まったく話の噛み合わない人物を相手にしたことによるものだけではなさそうだった。
クーはクーで、ぐらぐらと危なっかしく揺れているロンミ嬢やイレイナ嬢のことを心配する気持ちはあるのだろう。さんざんカイトのことを「お人よし」呼ばわりするクーだが、彼女だって人のことは言えない。
冷淡なようで、優しい娘だ。
そうでなければ、長い間、母親のために「自分」を消して、別の人間として過ごしてきたりはしない。
「なあ、クー」
改めて呼びかけると、赤レンガの色をした瞳がまっすぐこちらに向かってきた。
「おまえ、ずっと、ロンミ嬢に言ったようなことを考えてたのか?」
「ロンミに言ったこと?」
「神女というのはなんだ、ってこと」
「…………」
クーが口を閉じてカイトを見返す。カイトは背筋を伸ばし、真面目な表情になって口を開いた。
「よかったら、クーが考えたことを、俺にもちゃんと聞かせてくれないか」
ほんの少しの間、クーはそのままカイトを見つめて、それから小さく息をついた。
「──まあ、最初から、『神女』ってのは名ばかりのただの虚像でしかないんじゃないか、っていうのは思ってたよ」
「……そうか」
カイトもそっと息を吐き出した。
クーは会った時から「神」に対して不信感を抱いていたし、女神リリアナにもまるで興味を示さなかった。
その彼女が神女というものに醒めた感情しか持てないというのは無理からぬ話だ。
「神女候補って名目で集められた連中はみんな、良くも悪くも、神都で甘やかされて育った普通の娘ばかりだった。『百年に一度の神女選定』なんていうのは要するに大掛かりな芝居みたいなもので、実のところは適当に選んだ娘たちに『神女』という名をつけて、押し上げるための演出に過ぎないんだろうと思ってた」
訥々と言葉を並べるクーの顔には、これといって怒りも軽蔑も見当たらない。
だったら彼女は、ずっと最初から、壮大な茶番に付き合っている、という気分でこの神殿に留まっていたのだろうか。
母親のために。
そして、クーをここへ連れてきたカイトとキリクのために。
「だけど、それは別にいいんだよ」
口を開きかけたカイトを止めるように、軽く手を挙げる。
「神国と謳っているんだから、そういうことも必要なのかもしれない。女神のような神聖さがあり、それでいて教皇よりももう少し身近な、若い娘ばかりの『神女』っていう存在は、神民たちの関心を集めるにはもってこいだ。アリアランテは、国政の一環として、神女という虚像を作り出した、ということなら、それはそれでいい。オレ個人の感想としては、そんなことに金をかけるなんてバカバカしいとは思うけど」
冷静にそう言ってから、クーは眉を寄せた。
「──でも、だったら今の状況は、変じゃないか?」
カイトも同じように眉を寄せる。
「今の……正式な神女が一人ずつ選ばれていくという状況が?」
「そう。教皇は人間で、神女というのも名ばかりの普通の娘。女神の力を分け与えるっていうのも、それらしい儀式で誤魔化して、『そういうことにする』、ということだと思ってた。だけどそれだったら、こんなにも余分な時間をかけないで、はじめから四人の娘を神女に仕立て上げて、大々的に公表すればよかったんだ」
「だからそれが、水晶の導きが神意であるということを示しているんじゃないか? 神の道理っていうのは、人間には理解の及ばないものらしいから。俺たちから見て多少の意味不明さがあっても、それはしょうがない」
カイトの反論に、クーは唇を曲げた。
「もしも本当に神意だっていうなら、どうしてこんなにもコソコソする必要が?」
「それは……」
カイトが口ごもる。それは自分でも変だと感じていたことだった。
「まごうことなく女神リリアナの力が与えられるのなら、それこそ、もっと堂々とやるべきだ。むしろ、そうでなきゃおかしい。そう思わないか?」
「うん……」
「本物なら、隠すことはないんだ。もっと人目に晒して、神民たちからの崇拝を一気に集めればいい。それが出来ないってことは、神女ってのはやっぱりただの形代なんじゃないか、って疑問が湧く。だとしたら、最初のやり方からしておかしい。どちらを取っても、筋が通らない。だから、イヤな感じしかしないんだ」
「……そう、だな」
イヤな感じ。ロンミ嬢には理解できなかったようだが、本当に、そうとしか言えない。理屈よりも本能で感じる、黒雲が忍び寄ってくるような不吉な予兆だ。
それは本来なら、「神女の選定」という華々しい行事とはまったく無縁の感覚であるにも関わらず。
「これまで歴代の神女たちが、女神の力で何かを成し遂げたという記録らしきものもない。それどころか、正式な神女になった後は、ほとんど表にも出てきていない。神女は時の教皇を助け、支えた──そう書かれているだけだ。本にそう書いてあるからといって、それが本当なのかどうかは、誰にも判らない。なにしろ、百年も前のことだからな」
それでも神民たちは、そんなことを疑問に思ったこともないはずだ。カイトだってそうだった。自分も含め、神都で生まれた人間は、そう簡単には変えられない固定観念と、長い時間をかけて培われた既成概念にすっぽりと捉われている。
棄民の街で育ったクーにしか、見えないものがあるのだろう。
「うん……でもさ、クー」
とはいえ、カイトはその意見に全面的に肯うことも出来ない。
確かに、実際のところは判らない。しかし、水晶が神意によって神女を示す、というところを否定したら、今回の神女選定において、根本的な矛盾が生じることになる。
「もしも、神女選定が神意によるものじゃなくて、上の人間たちの計算や思惑によるものだとしたら──そもそも、おまえはここにはいないだろ?」
神女が最初から国の都合で作り上げられた虚像であるというなら、そこに候補の一人といえど棄民であるクーを選ぶはずがない。そんなことをする理由がない。
水晶がクーを示した時、誰もが、これは何かの間違いだと言っていた。今でも、そう思っている者は多いだろう。それほどまでに、神民の常識では考えられないことだった。
神意なのだから、人間には、どうしてそうなるのか判らなくて当然なのだ。否定することは許されず、従うことしか出来ない。
人の目にはおかしく見えても、神の側にはちゃんとした理由がある。
だからこそ、クーは今、この神殿にいるのではないか。
「さあ、どうかな」
クーはあっさりと肩を竦めた。
「どちらにしろ、オレが神女候補に選ばれたのには、何か意味があるんだと思うよ」
どちらにしろ、とは、それが神意であってもそうではなくても、ということなのだろう。
しかし、その言い方……
「──クーはもしかして、自分は四人の神女の中には入らない、って思っているのか?」
カイトのその問いに、クーは曖昧に首を傾げるような仕草をした。なんとも答えようがない、というよりは、それについては明言したくない、というように見えた。
「これからどうなるかは判らないけど、オレは最後までそれを見届けようと思ってる。──どんな結果になっても」
そう言って顔を動かし、窓の外を見る。最近の彼女がよくするような、どこか遠くへ向けるような目をしていた。
「……でもさ、カイト。オレは時々、思うんだよ」
「なにを?」
クーはこちらに顔を戻し、薄く笑った。
「神女になって教皇を助けるっていうなら、せめて神殿にいるこの期間、それなりの教育でも施すべきなんじゃないか? どうして、集めるだけ集めて、あとは放置されているんだろうな? これじゃまるで──」
口許に微笑を刻んだまま、低い声を出す。
「まるで神女候補たちは、ここで飼われているみたいだ。……餌をやって太らせて、食われるためにさ」
「…………」
言葉に詰まったカイトを見て、クーはぷっと噴き出した。「冗談だよ」と言って笑う。
「──悪い冗談だ」
カイトは強張った声を出して、自分の額に掌を押し当てた。いつの間にか、冷や汗が滲んでいる。
求められているのは、女神の威信を保つための象徴としての存在か。あるいは、国にとって利用価値のある、人ならざる力か。
「虚像」か、「本物」か。
──クーが「五人目」だとしたら、そこには一体、どんな意味があるんだ?
「カイト、今日はキリクはどうしたんだ?」
クーの問いかけに、はっとして顔を上げた。
「あ、ああ、ちょっと用事があるんだってさ。もう少ししたら来ると思うよ」
「……そう」
クーは表情を曇らせ、また窓の外に目をやった。
そこにははっきりと、不安と懸念の色がある。
「…………」
カイトは彼女のその顔から目を逸らし、自分の手を拳にして握りしめた。
心臓が何かに掴まれているようで、やけに息苦しかった。
***
漆黒の空は雲もなく澄んでいて、白く輝く星々がはっきりと見えた。
カイトはその夜空を見上げながら、何をするでもなく外に突っ立っていた。近くにある衛士舎の建物はもう半分くらい灯りを落としているが、それでもぼんやりと周囲の景色を浮かび上がらせる程度には明るい。この時間だともう寝ている者が多いのか、男たちが騒ぐ声も聞こえず、周囲は静寂に満ちていた。
さすがに、こんな夜更けに外に出ようという物好きはいないなと思ったのだが、そうでもなかったようだ。
「珍しいね、カイトが夜間外出禁止令を破って、こんな遅くにふらふらと遊びまわるとは」
かけられた声のほうに顔を巡らせ、苦笑を浮かべた。
「夜間外出禁止令なんてものが、衛士の間では完全に有名無実になっていることを誰より知ってるのはおまえだろ、キリク」
「ん? もしかしてそれは皮肉かな?」
カイトの言葉にニコニコして、こちらにゆっくりと近寄ってきたキリクが言い返す。
すぐ傍までやって来ると、さっきまでのカイトのように視線を頭上に向け、「やあ、いい星空だね」と言った。
「おまえが何度か夜遅くに衛士舎を抜け出しているのを、俺が知らないとでも思うのか」
「夜の散歩に誘っても、どうせ君は付き合ってくれないだろうと思って。僕だって、規則を遵守しようという人間を悪の道に引きずり込むのはよくないな、という節度くらい持っているんだ」
真面目な顔でとぼけたことを言うキリクに、カイトは笑った。
「別に、規則だから夜に外に出なかったわけじゃないよ。特にそんなことをする理由がなかったからだ。パレスの外に出られないんじゃ、飲みにも行けないしな」
パレスにはまったく縁のない生活を送ってきたカイトには、この中で行きたいところもなければ、会いたい知己もいない。だからわざわざ出かける必要も感じなかった、というだけの話だ。
でもキリクは、今は衛士舎で寝起きしているとはいえ、ちゃんとこのパレス内に自分の住居があるのだし、友人なども多いのだろう。少ない時間を活用して、自由を満喫しようというのも無理はない。そう思うので、キリクが夜にふっつりと姿を消しても、何も言わなかった。
「でも、今日は違うんだね。剣も持っていないし。……眠れなかったのかい?」
うーん、とカイトは言葉を濁した。
考えれば考えるほど目が冴えて、どうにもならなくなって外に出た、と正直に言えば、きっとキリクは訊ねてくるだろう。
そんなに考えていたことというのは「何」だったんだい──と。
「さてはおまえ、俺が剣を持っていないことを確認して、声をかけてきたな? 俺が素振りでもしていたら、付き合わされちゃかなわないとばかりに見て見ぬふりして、とっとと部屋の中に戻っただろ」
カイトが敢えてからかうような声を出し、話の方向をずらしたことには気づいたのだろうが、キリクはすんなりとそれに乗ってくれた。
「もちろんそうさ。何度も言うけど、僕は決められた訓練時間以外に身体を酷使させる酔狂さは持ち合わせていないんだ」
「もったいないよなあ。おまえ、剣の腕は悪くないのに」
悪くないというより、キリクは実は、かなり強いほうなのではないか、とカイトは思っている。
しょっちゅう剣を交わしている自分だから気づいたが、他の衛士連中などはおそらく勘違いしているやつも多いだろう。キリクは口は廻るが腕のほうはからっきし、などと陰口を叩かれているのも聞いたことがある。どうやらキリク本人が、その部分はわざと表に出さずにいるようなので、そういう時はカイトも沈黙を保っているのだが。
「──本当に、なんでも出来るんだな、キリクは」
カイトはぽつりと呟いた。
強くて優しくて顔もいい。
女が描く「理想の男」の像があるとしたら、これほどまでにぴったりと嵌まる人間もいないだろう。
涼しげな顔をしてなんでもこなし、口も頭もよく廻って、位階も高くて気前も良く、礼儀正しく上品で、人望もある。
──ちゃんと女の子を喜ばせてやることも出来る。
考えれば考えるほど、カイトとは違いすぎて、比べるのも阿呆らしくなってくるほどだ。ここまで差がありすぎると、羨ましいとも悔しいとも思わない。次元が違う相手は、かえって比較対象にもならないものなのだ。
妬みも僻みもない。カイトはそもそも、これまでの人生で、そういう感情が湧く前に自身で抑えつける癖がついてしまっている。
自分以外の周りはみんな神民で、両親がいて愛されて、誰もが胸を張って生きているのだから、いちいち腹を立てていてはキリがない。他人は他人、自分は自分だと割り切らなければ、やってこれなかった。
ただ、キリクに対しては、そうやって完全に割り切ることも出来ない。信用しているし、すごいやつだと尊敬もしているし、半民の自分を受け入れてくれたことへの感謝と恩義もある。他人だと思ってしまうには、距離が近くなりすぎた。
……結果、心の奥底のもぞもぞだけが、溜まり続けることになる。
溜まってきたあれこれがだんだん膨れ上がって内部が圧迫されてきたので、少しでも外に放出するように、はあー、と大きな息を吐き出した。
これでは部屋に戻っても、やっぱり眠れそうにない。
「──キリク」
目線を地面に向け、ぼそりと呼びかけると、キリクが「なんだい」と応じた。
いつもと同じように穏やかな声ではあったが、そこには若干の緊張を孕んでいるように聞こえた。いやしかし、それはもしかすると、カイトのほうこそが緊張しているからかもしれない。
「俺はなんかもう、よく判らなくなってきたよ」
「……なにが?」
「クーをここに連れてきて、本当によかったのかな?」
「…………」
あの時、自分たちにはそれしか選択肢がないと思っていた。そうすることで、クーもクーの母親もこの先の人生を進めるのなら、そのほうがいいのだろうと自分で自分に言い聞かせた。教皇からの命令が出ていた以上、別の方策があるとも思えなかった。
あのまま放っておけば、クーたち親子は破滅へと向かっていくようにしか見えなくて、それだけはどうしても止めたかった。
クーにも、彼女の母親にも、生きていて欲しかった。
──カイトはきっとそこに、自分と自分の母親の姿を重ねて見ていた。
「母親を人質に取るような真似をしても、クーが神女になりさえすれば、すべてが良い方向に行くと思ってたんだ。おまえらが言う通り、ホントに俺は単純だった。クーが神女になったら、誰からも敬われ、大事にされ、頭を下げられる存在になれる。親子で無理心中まで考えるほど悲惨な状態に追いやられていた棄民の娘の、大逆転人生だ。……その未来に、俺はたぶん、自分自身の夢も投影していた」
神民たちから蔑まれ疎まれていた人間が、神女になって人々からの称賛を浴びる姿を想像して、カイトは間違いなく、胸がすくような思いを味わっていた。
自分の今までの惨めな人生と、哀れだった棄民の母親の無念を、クーが代わりに掬い上げてくれるとでも思っていたのだろうか。
……それはなんて、卑しく浅ましい考え方だろう。
「モリ……声の神女が言っていたのは、真実そのものだった。あの時はまるで自分の心をそのまま読み上げられているのかと思ったね。一言も言い返せなかったのは、否定するところがどこにもなかったからさ」
カイトは自嘲するように唇を歪めた。
おまえは自分が半民だから、棄民の神女候補が現れたことが嬉しくてしょうがないのよ。
いつもいつも、神民の顔色を窺いながら、びくびく過ごしてきたおまえにとって、棄民の神女候補は、自分の代わりに神民の上に立ってくれる貴重な存在なのだわ。
おまえに必要だったのは、身分の低い卑しい生まれでありながら神民を見返してやれるための大義名分であって、それに棄民の神女候補というのはうってつけだったというだけの話よ──
認めなさい、と厳しく断罪する声が頭の中で響いている。
ああ、認める、認めるよ、声の神女。
カイトは、自分の汚い欲のためにクーを利用しているに過ぎなかった。
「馬鹿げた話さ。クーが神女になりさえすれば、それでみんなが幸福になれるなんておめでたいことを考えていたのは、俺一人だった。クーは俺よりもずっとちゃんと現実を見ていたし、理解もしていた。それになにより、クーは、俺とはまったく違ってた」
クーは棄民である自分を恥じてはいない。
いつでも誇らしげに顔を上げ、人と人は対等だと毅然と言い切る。
侮られれば、戦うことも辞さない。
カイトとも、カイトの母とも違う。
彼女は到底、カイトが勝手に自分の夢を託していいような人物ではなかった。
「俺はもう、自分が情けなくて恥ずかしくてさ……どうしていいのか、よく判らなくなったんだよ。俺はこれからどうすればいいんだろ。このまま、事態を眺めているだけでいいのかな。神女選定もどうなるのかさっぱり判らない。クーが神女に選ばれるのかどうかも判らない。神女に選ばれたほうがいいのかどうかも……今となってはもう、判らない」
神女選定が神意によるものだとしても、そこには何か、人間側の思惑や利害が絡んでいる可能性がある。
神女がただ人に頭を下げられるだけの存在であるとも言い切れなくなった現在、「ひたすら待て」という司教や教皇の言葉も素直に信じられなくなってきた。
棄民が神女候補に選ばれたのが水晶の不具合だった、ということなら、神殿や宮殿はクーになんらかの補償と謝罪をして穏便に棄民の街に帰すのだと思っていたが、ここまで秘密裏に事を進めようとしているところを見ると、それも怪しいかもしれない。
神女になれたとしても、それが本当にクーにとっての「幸福」であるとは限らない。
だとしたら、カイトは今のうちに、なんらかの覚悟を決めておかねばならないのではないか。
──しかし、その軸になるものが、自分の中で未だ定まっていない。
だって、もしもクーの心が別の誰かに向かっているのなら。
「……カイト」
地面に出来た自分の影に見入っていたカイトは、静かなその声でやっと我に返って顔を上げた。
そちらに目をやると、月明かりを浴びて、まるで白い燐光を発しているように見えるキリクが、まっすぐ立ってこちらに視線を向けている。
「迷っているのかい?」
「……まあ、そうだな。迷ってる」
カイトは正直に言った。迷っている、というか、進むべき方向を決めかねている、と言ったほうがいいかもしれない。
「だったら聞くよ。君がいちばん、望んでいることはなんだい?」
「なんだ、クーと同じようなことを言うんだな」
カイトが少し笑うと、キリクも微笑んだ。それを目にして、なんだか違和感を覚えた。
こいつはこんな風に、儚げな笑い方をするやつだったかな。
「俺が望むものか……」
なんとなく胸が押し潰されるような、たまらない気持ちになって、顔をまた夜空へと向ける。
望むのは、クーがクーでいてくれること。
そして。
「……いつまでも、このままでいられるといいのになと思うよ。クーがいて、キリクがいて、ひとつのテーブルを囲みながら美味い茶を飲んで、ずっと馬鹿げた話ばかりをして、笑ってさ。ああいう時間が、ずっと続けばいい」
カイトと、クーと、キリクと。
愛する人間が、笑っていられるところ。
ようやく見つけた、自分の居場所だ。
それこそ、カイトがずっと夢見ていたものではなかったか。
「──それは、無理だね」
小さい声で、キリクが言った。
彼の目は、さっきまでのカイトのように下へと向けられて、どういう表情をしているのか、カイトからはよく見えない。
「そうだな、無理だよな」
カイトも同意して、ちょっと笑った。
ずっといつまでも、なんて無理に決まっている。
それは、甘ったれた子供の言うことだ。
「カイト、僕も、君に望むことがあるんだ。聞いてくれる?」
続けて言われた言葉に、カイトは少し驚いて目を瞠った。キリクが自分にこんなことを言うのは珍しい。
可能な限り、真摯な態度で頷いた。
「もちろん。俺に出来ることなら、なんでも」
「以前にも言ったと思うけど」
キリクは顔を上げ、カイトと目を合わせた。やっと見えたその顔には、いつもの微笑は乗っていなかった。
「これからもクーの傍にいて、あの子を守ってやって欲しい」
「え──」
一瞬、意味が判らなくて戸惑っている間に、キリクは「おやすみ」と言うと、踵を返して衛士舎の建物のほうへと戻っていった。問い返すことも、意味を訊ねることも、拒むかのように。
取り残されたカイトは、その場に立ったまま、頭を振り絞って必死に記憶を探った。今のは絶対に、簡単に聞き流していいものではないと、自分の直感が告げている。
……以前? 以前っていつだっけ?
そうだ、確か、そんなようなことをキリクに言われた覚えがある。あれは──あれは、そう、クーの母親を神都の病院に入れた時に。
あの子を助けたいと思うなら、これからちゃんと傍にいて、守ってあげるといい、と。
そしてキリクは、こうも言っていたのではなかったか。
──それは君にしか、出来ないことだから。
「…………」
カイトの知らないところで、確実に何かが動いている。
今の自分が立っている場所が、急に揺らぎはじめたような気がした。
ロンミ嬢の姿が神殿から消えたのは、その二日後のことだ。