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サンティ嬢が神殿から姿を消してから、数日が経った。
神殿は表面上、平静を保っている。司教と神官は普段通りに日常の神事をこなしていたし、神殿付きの女官や衛士たちも通常の務めを粛々と行っていた。
……だが、やはり、神女候補とその衛士たちは、到底心穏やかではいられなかったようだ。
それはそうだろう。ただでさえ、このクリスタルパレスでは、位階がすべての順位を決定づける。神女に選ばれるのも、最も位階の高いイレイナ嬢が栄えある一人目となるだろう、と誰もが当然のように考えていた。本人もそのつもりでいたはずだし、彼女付きの衛士たちもそれについては確信して、衛士舎ではいつもふんぞり返っているくらいだった。ロンミ嬢とその衛士たちも、そういう意味では似たようなものだ。
それが、モリス嬢に引き続き、神女に選ばれたのはサンティ嬢。
その現実に、誰もが驚き、狼狽しはじめている。
神女選定においては、位階の上下など、なんの意味も持たない──それどころか、「神女に相応しいかどうか」もあまり関係がないかもしれない、ということが明らかになってきたからだ。
万事に控えめで、これといって突出した長所も見当たらなかったモリス嬢はもちろん、サンティ嬢という娘が、美しくはあってもあまり清廉さとは縁のない性質であったことは、全員が承知していた。
その二人が先に選ばれたということは、神女として求められているものは、一般の神民たちが思い描いていたような、品位や崇高さではないのではないか、ということになる。だとしたら、女神リリアナは、一体どういう基準で神女を決めているのか、という疑問と混乱が生じてくるのも無理はない話だ。
イレイナ嬢とロンミ嬢は自分の居室からあまり出てこないようになり、たまにその姿を見かけると、二人とも焦慮のせいか神経質に尖った顔つきをしている。彼女らの部屋の前に立つ衛士たちは、明らかに以前ほどの威勢はなく、どこか肩身が狭そうだった。
彼らが自分たちの神女に向ける目には、「期待外れ」という落胆の色が現れている。
自分たちは確かに勝ち馬に乗っていたはずだったのに、いつの間に、前を行く馬から引き離され、こんなに後方まで下がってしまったのか──
不安なのは神女候補たちのほうに決まっているのに、彼らにはそちらを慮る余裕もないらしい。時々、彼女たちの部屋の中から、何かが叩きつけられて壊れるような派手な音が響くことがあったが、衛士らは扉の前に立ったまま、動くこともしなかった。
神殿内の空気は澱むように悪くなっていく一方だ。
カイトもさすがに、不審の念を抱かざるを得ない。
これが、「百年に一度の神聖なる神女選定」の実態か。
あまりにも、自分が想像していたものとは違う。
神女候補たちの不安も疑問も撥ねつけて、互いへの反目と猜疑心が増大していくのも放置し、この神殿という籠の中に閉じ込め続けて。
前置きも一切なく、ある日突然、神女候補が一人ずつ消えていく。
何も言わずに、ひっそりと。神女は宮殿に居を移したと聞かされてはいるが、実際に彼女らの姿を見た者は、誰もいないのだ。
──これでは、まるで。
その考えに至った時、ぞくりとした悪寒がカイトの背中を駆け抜けた。
モリス嬢がいなくなった後、クーが口にした言葉を思い出す。
これじゃまるで、罪人を処刑しているみたいだ──
***
サンティ嬢の姿が見えなくなってからも、クーが以前とほぼ変わりないということだけが、カイトにとっての救いだ。
彼女はいつもと同じように、朝起きて、食事して、馬に乗って、夜眠る、という生活を淡々と続けている。その顔にも態度にも、これといって不安そうなものは見当たらない。空いた時間には、本を開いていることが多くなった。
モリス嬢の時は、カイトと同じように事の成り行きを訝しがっていたが、今回はサンティ嬢の名前を口に出すこともほとんどなかった。
何かを考えるように窓の外を見て、そして──
キリクの姿を、じっと目で追うようになった。
そのキリクもまた、サンティ嬢のことについて、まったくと言っていいほど言及しなかった。「耳の神女に選ばれた」という話を聞いた時も、黙って目を伏せているだけだった。
その様子に、取り立てて変化があったわけではない。穏やかに微笑むのも、柔らかい口調で少し皮肉めいたことを言うのも同じだ。しかしだからこそ、サンティ嬢のことを何も言わないのが、なんだか不自然に思える。
キリクはこれを変だとは思わないのだろうか。それとも、位階の高い彼の目から見るものは、カイトのそれとは異なっているのだろうか。
あれこれと一人で考えるのも疲れてきて、カイトはある日、神殿に向かう前の衛士舎の食堂で、キリクに向けて直接疑問をぶつけてみることにした。
「サンティ嬢の衛士は一体どこに行ったんだ? また、この衛士舎からもいなくなってたぞ。まさかモリス嬢の時のように、衛士を辞めさせられて、パレスから追い出されたってことはないんだろ?」
サンティ嬢が気に入っていたかどうかは別として、彼女と衛士たちの間に、モリス嬢の時のような確執はなかったはずだ。
そう言い募ると、キリクは少し困った顔でさっと周囲を見回し、人差し指を唇に当てた。
「カイト、彼女たちのことはもう、『耳の神女』『声の神女』とお呼びしなくてはダメだよ。どこで誰が聞いているか判らないからね。……耳の神女の衛士たちは、そのまま一緒に宮殿に行ったという話だ。彼らはこれから宮殿勤めとなるから、所属が変わり、呼称も衛士ではなく宮士というものになる。荷物も衛士舎から宮士舎に移された、というだけのことじゃないかな」
「そうなのか?」
カイトは驚いた。それは初耳だ。
クリスタルパレス内で護衛や警備に当たる者の呼び方が、その所属によって違う、ということは知っている。神殿勤めを衛士と呼び、宮殿勤めを宮士と呼ぶこともだ。カイトは個人的に、宮士と呼ばれる連中が身にまとっている冷ややかな空気が好きではなかった。
「じゃあ、もしクーが神女に選ばれたら、俺たちも衛士ではなく宮士になるってことか?」
「……そういうことになるね」
キリクの目が一瞬、ふらりと泳いだ。
やっぱりキリクも、あの宮士というものが好きではないのかな、とカイトは思う。
しかし、そういうことなら少し安心した。衛士と宮士では桁違いにあちらの数のほうが多いし、宮士舎の規模もずっと大きい。両者の間にはまったく接点がないから、あちらに移ったのなら彼らの姿を見なくなったというのも頷ける。
「サン……いや、耳の神女はキリクにご執心だったようだからな、本当のところ、おまえに宮殿まで一緒に来て欲しかったんじゃないか?」
「たとえ要請されたってお断りしたよ。僕はクーの衛士なんだから」
あっさり返ってきた言葉に、内心でホッとした。その表情とその声音のどこにも、嘘はないように感じる。
キリクは他の衛士たちのように、「あちらに付いておけばよかった」などという考えは一片も持ち合わせていない、ということだ。
これを聞けば、きっとクーも安心するだろう。
「まあ、あちらにとっても、そのほうが良かったんだろうな。耳の神女付きの衛士たちは、彼女を崇拝しきっていたようだし。キリクのように笑顔で『興味ない』って言い切っちゃう人間よりは、ああいう根っからの信奉者が側にいたほうが、気分がいいだろう」
「そうだね。……まあ、どんな賛美の言葉も、もう……」
キリクは曖昧に言葉を濁して、宙に視線を流した。
その表情には、どこか翳が差している。
最近のキリクは、特に言動に変わったところはないものの、時々こんな顔をする。カイトが気づくくらいだから、もちろんクーもそんなこと、とっくに気づいているだろう。
だから、心配している。
このところのクーの目が、いつもキリクの一挙一動を見逃さないようにと動いているのも、無理のないことなのだ。
その瞳の中に、「心配」以外のどんな感情が含まれているのか──は、カイトはなるべく見ないようにしているので、判らない。
「──あのさ、キリク」
やや下を向いて、ぼそりと言うと、キリクがこちらに顔を向けた。
「なんだい?」
「……えーと、その、なんだ」
言葉を探してうろうろと視線を彷徨わせる。どう言えばいいのか、よく判らない。
「耳の神女からの誘いを、『クーの衛士だから』と言って断ったって、クーに話してやれば喜ぶんじゃないかな」
キリクの両眉が怪訝そうに真ん中に寄った。
「……どうして? だって、君が同じことを言われても、同じように断っただろう?」
「いや、俺のことはいいんだよ」
「でも──」
「そうだ、たまには、馬の練習をキリクとクーの二人でしてもいいんじゃないか? 神殿の近くなら、別に毎回毎回、三人で出かけなくてもさ。俺はその間、留守番してるから。クーも、俺に文句を言われながら乗るより、キリクに褒められながら乗ったほうが楽しいだろ。なにしろ、あんなに熱心に勉強するようになったのだって、キリクの教え方が良かったからなんだろうし」
「…………」
キリクはまじまじとカイトを見つめた。
気のせいか、その顔は、カイトの提案に驚いている──というよりは、呆れているように見える。
……いや、もっと言うと、「バカなの?」と思っているような顔、に見える。
「──カイト」
「お、おう」
「衛士舎の食事はあまり美味しくないよね」
「え、そうかな。俺は別に」
「それで、たとえばここにね、天井からとても美味しそうな食べ物がぶら下がっているとしてね」
「は?」
いきなり突拍子のない喩えを持ち出されて、カイトはぽかんとした。
キリクは妙にしみじみと憐れむような目つきで、口を動かしている。
「でもその美味しそうな食べ物はね、ぶら下がっている位置が高くて、普通に手を伸ばしただけでは届かないわけさ。周りを見れば、ここには椅子とテーブルがあり、剣や警棒を持っている者もいる。ちょっと頭を働かせるだけで、それらの道具を組み合わせて簡単に食べ物が取れるのにね。想像力がない人間は、床に立ったまま、ただ指をくわえて見上げることしか出来ないんだ」
カイトは困惑した。
「……え、と、それが、何か?」
「別に? ただ、目の前に落ちているあれこれが見えていない、あるいは見えているのにその意味も価値も判らない人は、つくづく気の毒だねという話だよ」
「……? うん、そうだな……」
不得要領な顔で相槌を打ったが、キリクは深いため息をついて、その不可解な話を打ち切った。
そして、つくづく気の毒だ、という目をしてこちらを見た。
***
そんな会話を交わした後、キリクはまるで当てつけのごとく、「ちょっと用事がある」とカイト一人にクーの護衛を任せ、どこかに行ってしまった。
放り出されたかのように神殿に向かいながら、カイトは途方に暮れるしかない。キリクが何を言わんとしているのかが、判るような、でも判らないような、と混迷は深まるばかりだった。
だって、クーはずっと最初から、キリクに対しては素直だったではないか。
いつもクーを笑わせてやっているのはキリクのほう。
カイトはいつだって、彼女を怒らせるか泣かせることしかしていない。
……キリクが一緒にいることでクーが安心して笑えるのなら、そうしてやりたいと思ったのだ。
悶々としたものを抱えて神殿に到着すると、入り口の前に立っていた警護の衛士が、はっとしたように身じろぎした。
ん? とよくよくその顔を見てみれば、そこにいるのは、以前クーを巡って揉め事を起こした男である。
衛士舎の中では向こうはこちらを避けていたし、こちらも極力顔を合わせないように調整していたのだが、同じ仕事をしている以上、いつかはこういうことになるのは自明の理というものだ。
少々気まずい思いで、衛士同士の挨拶として軽く手を挙げる。
あちらは強張った表情で頑なに目を逸らしていたが、それくらいで済むならよしとせねばならない。とりあえず、いちいち突っかかってこられる面倒が減ってよかった。
そういえば、キリクは結局、この男に何を言ったのだろう。「僕が片付けておくよ」と請け負ってくれたので、すっかり丸投げしてしまっていたが、その後どうなったのかは聞いていなかった。
どうするかな、と思ったものの、ここで自分が口出ししてもまた厄介なことになるだけだろうと思って、カイトはそのまま素通りすることに決めた。別に謝罪を求めているわけではないし、この男が衛士をクビになるのも望んでいない。これ以上クーに対して余計な真似をしないというなら、カイトとしてはそれで十分だ。
が、足を動かし、男の脇を通ったところで、
「──例の件については、引き受けたと伝えておけ。これで貸し借りなしだとな」
と、囁くような低い声で言われた。
例の件?
何のことか判らずに振り返ったが、男は青い顔でまっすぐ前を見据えたまま、こちらに目をやろうともしない。唇は固く結ばれて、問い返しても、答えはなさそうだ。
カイトは首を傾げて、その場を離れた。
……キリクのやつ、あいつにどんな脅しをかけたんだ?
***
釈然としないままクーの居室まで行くと、そこでもまた問題が起こっていた。キリクがいない時に限って、こういうことが次々に降りかかるのは何故なのだ。
クーが自分の部屋の扉の前に立っている。その彼女と正面切って対峙しているのは、ロンミ嬢である。
彼女はそもそも棒のように細くて高身長なので、小柄なクーの間近に立つと、大人が子供を叱りつけているように見えた。
ロンミ嬢付きの衛士はまだ神殿に来ていない。二人がいる位置から考えて、彼女は一人でクーの部屋を訪ねたらしかった。それだけでも、異常事態だ。
まるで詰め寄るように上体を傾けているロンミ嬢に対して、クーは腕を組んだ仏頂面で彼女を見上げている。横顔からでも、うんざりしたような表情をしているようなのが見て取れた。
「どうされました、ロンミ嬢」
カイトは急いで二人の娘の間に割り入って、なるべく穏やかな声を出すように努力した。
半民の自分が口を出すことで神女候補の怒りを買うことは避けたかったが、だからといって傍観しているわけにもいかない。
ロンミ嬢はカイトを見て、高い鼻にくっきりと皴を寄せた。
「半民は黙っていなさい」
ぴしゃりとした口調で命令されたが、そういうわけにはいかないとカイトが反論する前に、クーが皮肉っぽく笑った。
「へえ、半民のカイトが黙ってなきゃいけないなら、棄民のオレはもっと喋ったらいけないんじゃないか? きっと棄民が吐く息は、繊細過ぎる神民には毒なんだろうな。口を閉じておいてやるから、さっさと自分の部屋に帰りなよ。オレの毒に当てられて倒れても、責任は持たないぞ」
ずけずけとした言い方に、ロンミ嬢の顔色が変わる。カイトは頭を抱えたくなった。クーのやつ、喧嘩を買う気満々じゃないか。
「わたくしがお前に話があると言っているのよ」
居丈高に言われても、クーは怯まなかった。
「オレには話すことなんてないね。一方的な命令だって、受けるいわれはない。オレと対等な『話』がしたいと言うなら、まずはその態度を改めろ。そうでなければ、聞く気はない、と言っているんだ。棄民だから半民だからという理由で見下してくるやつには、こちらだってそのように対応するしかないね」
ロンミ嬢を見返すその目に、臆するものはまったくない。ふてぶてしいほどに落ち着いていて、堂々としていた。
彼女が口にしているのは、悔しまぎれの負け惜しみなどではなく、どこまでも正当で、まっすぐな主張だった。
同じ神女候補同士──いや、同じ人間同士としての。
カイトは思わず息を呑んだ。
その姿は、見惚れそうになるほど、美しく眩しい。
「対等──」
ロンミ嬢は嫌そうに顔をしかめた。彼女にとって、その申し出はどうにも受け入れがたいものだっただろう。
しかし同時に、彼女はその賢さで、理解もしたようだ。
この相手に対しては、自分の「常識」はそう簡単に通用するものではないと。
ゴホン、と咳払いをして、背筋を伸ばす。
「……わかりました。では、棄民と神民という立場は今だけは忘れて、話をいたしましょう」
しっかり「今だけは」と釘を刺すことは忘れないあたりに根深さを感じるが、クーは短い息を吐いただけで、そこには突っ込まなかった。いかにも、「しょうがねえな」と言いたげな顔をしている。
「で、なに?」
「ですから、サ……耳の神女のことですわ。お前、いえ、あなた、彼女が神女に選ばれる前に、どんなやり取りをしたの?」
「やり取り?」
クーは眉を顰め、カイトも首を傾げた。
「別に何も……後ろから突き飛ばされたくらいかな。あの時、あんたもいたから、見てただろ? サンティが、オレとカイトを無視してキリクにべったりくっついてたところ」
「クー、『耳の神女』って呼ばないと」
耳打ちするカイトに、クーは鬱陶しそうな顔をした。その様子も目に入らないように、ロンミ嬢が「だから、その後のことよ!」と声を張り上げる。
カイトとクーは今度は揃って、「は?」ときょとんとした。
「その後ってなに」
「その後、耳の神女と何かがあったでしょう?」
「ないよ」
「そんなはずないわ」
「なんで言い切るんだよ。ないよ。モリスの時と同じさ。気がついたらもう、サンティの姿は神殿から消えてたんだ」
「クー、『耳の神女』『声の神女』って言わないと」
「うるさいって」
カイトとクーがぼそぼそと言い合いをしていても、ロンミ嬢は意にも介さない。ますます頑固に、「そんなはずがない」と言い張った。
「だって、だったらどうして、彼女は耳の神女として選ばれたの」
「知らないよ」
「何かがあったはずなのよ。女神リリアナが耳の役目を授けることを決めた何かが。そうでなければ、どうしてわたくしを差し置いて、あんな女たちが先に神女として選ばれるものですか。誰にどの役目が当てがわれるか、その選別の決め手となる出来事があったはず」
ロンミ嬢は空中に視線を据えつけて、ぶつぶつと独り言のように言葉を出していた。自分の考えに気を取られているのか、モリス嬢とサンティ嬢のことを「あんな女」呼ばわりしていることにも自覚がないらしい。
「神女の役割分担を決める試金石として、棄民が選ばれたのではないの……? いいえ、いいえ、わたくしの考えに間違いはないはずよ。だって、そうでなければ、わたくしが未だに神女にならないのはおかしいではないの」
「…………」
カイトとクーは、顔を見合せた。
どうやらロンミ嬢は、彼女独自の考えで、神女選定の基準を決めつけていたようだ、とようやくのように理解する。
彼女のその考えでは、棄民への接し方次第で、神女の役目が決定される、ということらしい。そのために、水晶は五人目として棄民を選んだのだと。
誰もが蔑むことしかしない棄民に、表向きだけでも優しくしたなら、女神リリアナはすぐにでも自分を神女として選ぶだろうと思っていたのだろうか。
頭の良い人間というのは、時に驚くほど素っ頓狂な仮説を立てるものだなあ、とカイトは心の底から感心した。
「──あのさ、ロンミ」
クーが口を開く。そこから出た自分の名前が呼び捨てであることにも気づいていないのか、ロンミ嬢は血走った目をクーに向けた。
ここ数日、そんなことばかり考えて、彼女は彼女で、精神的に追い詰められていたのかもしれない。
その顔を改めて見てみれば、少し見ない間に、痩せて、頬がこけている。顔色も悪い。
クーもそんなロンミ嬢に一抹の不憫さを覚えたのだろう。声の調子からは、すっかり刺が抜けていた。
「結局、神女ってなんだと思う?」
クーのその問いに、ロンミ嬢は目を瞬いた。カイトも同様だ。
「なに、って……」
「百年に一度選ばれて、時の教皇を助け、それからの百年間、国を盤石にするために働く──それが神女だと言われている。そうだよな?」
「そ、そうよ」
「だけど、実質、選ばれた神女がどういう働きをしたのかは、まったく伝わっていない。神女は女神の力を与えられる、とされているけど」
クーは真っ向からロンミ嬢の目を見た。
「具体的にその力を使って何をしたのか、ってところはまったく判っていない」
ロンミ嬢はその言葉に、わずかに動揺したように肩を揺らした。
「そ……そんなこと、一般民衆は知る必要が」
「そうか? そういうところを盛大に宣伝してこそ、神女としての意義があるんじゃないか? もしも人ならざる力が本当に人の身に宿ったというなら、それを誰の目にも判るように見せつけてやればいい。そのほうがずっと人心を掴めるし、国のためにもなる。神女たちは、女神に貰った力で、どうやって教皇を助けていたんだ?」
ロンミ嬢は口を噤んだ。
きっとその頭の中では、今までに彼女が目を通してきた多くの書物の中にあった、輝かしくも誇らしい「歴代神女の名」が、ぐるぐると巡っているのだろう。
神女サザナ、神女メローラ、神女コーラン、神女アメリア、神女オレアンヌ……
ロンミ嬢が、いずれ自分もそこに並ぶと興奮していた、栄光と共に刻まれた名だ。
そういえばカイトも、彼女たちの名や生い立ちは嫌というほど覚え込まされたが、神女としての具体的な功績については、習ったという記憶がない。
カイトと同じことに、ロンミ嬢も思い至ったらしい。彼女はさらに固い表情になった。
「で……でも、それはもちろん、教皇に適切な助言などをして」
「選ばれるのは神民の娘ばかりだよな、それも十代の。政治のことなんて、なにも知ってはいないだろ。あんただってそうじゃないか? それで助言なんて出来るかな? いくら女神の力を貰ってもさ。教皇の周りには、ちゃんとした政官たちがいるのに」
女神から与えられるのは、正しきものを見通せる眼、真の言葉を拾える耳、善なる気配を嗅ぎ分けられる鼻、慰撫を他者に与えられる声。
カイトはよく判らなくなった。
……それらは果たして、国を繁栄させるために本当に必要なものだろうか。
「なんとなくイヤな感じがしないか?」
「イヤな、感じ?」
クーの言葉を、ロンミ嬢が繰り返す。何を言っているのか、まったく判らない、という顔をしていた。
「キナ臭いっていうか」
「キナ臭い……」
「わからないか?」
「…………」
ロンミ嬢は面をつけたような無表情になり、黙り込んだ。
次第に、その瞳が硬玉に似た冷たい光を帯びていく。
神女候補たちの中で最も賢く、最も多く本を読んできたロンミ嬢は、論理的思考を重んじ、自分の考えに固執する。
目に見える文字として記されたものを尊んできた彼女にとっては、「なんとなく」や「イヤな感じ」「キナ臭い」という抽象的な言葉、直感や予感などの不確かな事柄は決して認められるものではなく、自分が認められないものは存在しないと同じなのだろう。
──そしてなにより、ロンミ嬢の価値観の中で、自分よりも下の人間が自分の知らないことを知っている、理解している、ということは、あってはならなかった。
「だって、本当に女神の力が人の身に分け与えられるっていうのなら、どうして教皇は──」
「お黙りなさい!」
続けようとしたクーの言葉は、ロンミ嬢の甲高い声によって遮られた。
彼女は眉を吊り上げ、呼気を荒げ、目の前のクーがすべての悪の元凶だというように、憎悪を込めて睨みつけている。
「女神リリアナの威光を地に堕とし、神女の名を貶める、不届きもの! だからお前たち棄民は、女神に見捨てられているのだわ! お前のような汚らわしい者の言葉を耳に入れようとしたわたくしが間違っていた! 過去の偉人が記した叡智を信じず、邪悪な考えにとり憑かれた愚か者め! もうこれ以上、お前のような者の言うことなど聞くものですか! 女神リリアナ、お許しを!」
クーは小さく舌打ちした。
「ロンミ、物事を冷静に見てみろよ。本に書かれていることがすべて正しいとは限らない。自分の頭でもっとちゃんと考えて──」
「お黙り! お前のように、本を読むことも満足にできないような知恵の足りない者に、書物の偉大さが判るものですか! お前たち棄民はやはり獣と同じよ! 文化文明の何たるかを知らず、浅ましく屍肉を貪るしかない、穢れに満ちた生きものなのよ!」
「……あ、そう」
クーの目が剣呑に細められた。この時点で、彼女はロンミ嬢を突き放すことを決めたのだなと、カイトには判った。
「じゃあ、勝手にしなよ。オレは忠告はした。……頭が固いのもほどほどにしておけってね。この世界に化け物はいないと本に書かれてあったら、たとえすぐ鼻先に本物の化け物がいたってあんたは気づかないんだろうさ。世の中には、目には見えなくとも存在するものもあるんだぜ」
そう言い放ち、クーはカイトの腕を掴んでロンミ嬢に背中を向けると、さっさと二人で部屋の中に入った。
バン、と乱暴に扉を閉じる。
「……いいのか?」
「これ以上、オレにどうしろっていうんだよ」
「だよな……」
疲れたような顔をしてそう言うクーに、カイトも同意せざるを得なかった。あれだけクーが理性的に話そうとしているのに、あちらにそれを受け止める気がこれっぽっちもないのだから、どうしようもない。
扉の向こうから、ロンミ嬢が喚く声が聞こえた。
「不浄の者! 神罰が下るがいい! お前のような卑しき者が、神女候補と名乗るだけでおぞましい! やはりお前は神女選定の試金石だった! お前の本性を暴いたのだから、次の神女はわたくしよ!」
……可哀想だな、と、カイトはふと思った。
神女候補に選ばれることは、決して彼女たちを幸福にはしていない。