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ユウルは目の前にある扉の取っ手に手をかけた。
「──あのさ」
そのままの姿勢で、躊躇するような一拍の間を置いてから、後ろにいる二人を振り返る。
「あんたたちがどんな用向きで、神都からこんな場所まではるばるやって来たのかは知らない。でも、何にしろ、その相手は『ククル』なんだろ?……だったら、その話は、母さんの前ではしないでくれないか」
神民が神都を離れ、わざわざ棄民の住む、ごみごみとしたこの街へとやって来る。どんな内容かは知らないが、その話はいずれロクなものではないだろう、ということくらいは予想がついた。
であればなおのこと、母親の耳には入れたくない。どんなことであろうとも、自分は彼女に余計な負担をかけることは、これっぽっちも望んでいないのだ。
「話なら、きちんと後でオレが……ククル本人が聞く。だから」
ユウルは周りの闇と同じように暗い目を二人に向け、低い声で「頼む」と続けた。
カイトとキリクは顔を見合わせ、互いに少し眉を寄せてから、こちらに向き直った。
「わかった」
真面目な表情で二人が頷くのを見て、ユウルは少しホッとし、取っ手をぐっと握って扉を開けた。
***
「おかえりなさい、ユウル!……あら?」
扉の開く音がすると同時に、奥の台所から飛び出すように出迎えに現れた母親は、我が子の後ろに見慣れない人物が二人いるのを認めて、浮かべていた嬉しそうな笑みを引っ込め、不思議そうに首を傾げた。
「ただいま、母さん」
彼女を安心させるように笑いかけてから、ユウルは二人を振り返り、室内に入るよう促した。
「こちらのお二人は、神都から用事があってこの街までいらっしゃったそうだよ。でも道に迷ってしまわれたらしくてね、困っておられたようだから、せめて食事でもどうかと声をおかけしたんだ。このあたりの店は、不慣れな人にとっては危ないところも多いしね」
今までとは打って変わった優しげな声と丁寧な口調で、白々しい嘘を並べ立てるユウルに、カイトは大いに呆れた顔をしたが、キリクのほうはすぐさま柔らかい微笑を唇に乗せて、母親に向かって手を差し出した。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、ご婦人。なにしろ我々はこの近辺には不案内なもので、実のところ、非常に困っていたところだったのです。あなたのお子さんは、大変親切で、清廉な心の持ち主ですね。母親であるあなたの育て方がよろしかったのでしょう」
人のことは言えないが、ぺらぺらとよく廻る口に、思わず感心してしまいそうになる。後半の台詞はどう考えてもユウルに対する嫌味としか思えなかったが、母親は自分の子を褒められて、すっかり感激して頬を紅潮させた。
「まあ──まあ、そんな、ええ、この子は昔から、本当に優しくて、人に対する思いやりも持った、とてもいい子なんですの」
「そうでしょうとも」
笑顔で調子のいい相槌を打つキリクの陰で、カイトがこっそりと母親に見えないように、舌を出して腹のあたりで掌を上に向けている。
バカバカしすぎて、ヘソがひっくり返りそう、と言いたいらしい。
「そうですか、あの、どうぞ、こんなところでよかったら。神民の方々のお口に合うものではありませんでしょうが、少しでも召し上がっていってくださいな」
「お心遣い、ありがたく」
上機嫌になった母親に椅子を勧められ、キリクは礼儀正しく礼を述べた。
母親が弾むような足取りで再び台所に戻っていく。その姿が見えなくなると、カイトが上体を少し屈め、ユウルに耳打ちした。
「……舌が二枚あるのは、お前だけじゃないってことさ」
そんな場合じゃないのに、不覚にもちょっと噴き出しそうになった。
***
テーブルの上に並べられた食事は、お世辞にも神都で暮らす客を満足させられるとは言い難い、量も少なく中身も質素なものばかりだ。
しかしカイトは不満そうな様子も見せずそれらを綺麗に平らげて、キリクに至っては、母親の料理の腕を褒め上げ、巧みな話術で場を盛り上げる、という離れ業までやってのけた。
久しぶりの賑やかな食卓に、母親も楽しそうに笑い続けている。ユウルでさえ、現在の状況も忘れて、ほとんど具のないスープが美味しく感じられるほどだった。
「ユウル、今日もお仕事疲れたでしょう? さあ、もっとお食べなさい。ウイのシズミ蒸しはあなたの大好物でしょう?」
ウイという小魚をすり潰し、香りのするシズミという葉で包んで蒸したもの。ウイ自体はこのあたりでも比較的手に入りやすい安魚だが、シズミの葉は街はずれの草地で辛抱強く探して、一枚ずつ摘まなければならない。
金はかかっていなくとも、手の込んだ料理は母親の子に対する愛情そのものだ。
「うん、美味しいね」
ユウルはそれを口に入れて、味わって食べた。
実を言えば、ウイという魚は昔から苦手だ。いくらすり潰してあっても、シズミの葉で包んであっても、強烈な生臭さはそんなことで消えるものではない。好きな人間は、その生臭さも含めて好きだと言うが、自分には合わないと思っている。
──ウイのシズミ蒸しが大好物だったのは、「本物のユウル」のほう。
双子であっても、同じような顔でも、ユウルとククルでは、趣味も嗜好も性格も、まったく違っていた。
「時にご婦人、大変失礼なことを伺いますが、ご主人は……?」
貧相な食事を胃に収めたキリクが、水の入ったグラスを品よく傾けて、さらりと口を開く。
ユウルはテーブルの上の皿に目をやったまま、フォークを持った手を止めた。
「夫は、子供たちがまだ二歳だった頃に、病気で亡くなりました。とても優しい人だったのですけど、働きすぎて無理をしたのでしょう」
母親が目線を下に向け、寂しそうに話す。父親の記憶はユウルの頭にはほとんど残っていないが、これまでに何度も彼女の口から出てきた。
いかに優しく、頼りになったか。夫を亡くして、自分がどれほど心細かったか。
でも、残された双子の存在に、どれだけ心を慰められ、励まされたか……
「……子供たち、というと」
問いかけるキリクの口調に波はない。しかしその目に、若干の疑惑と不審が現れている。黙って聞いているカイトの顔には、緊張が乗っているのが見えた。
ユウルは俯いて、人形のようにじっとしているしかない。
「ええ、私と夫の間には、二人の子がいたのですけど」
母親はほっそりとした手を、こけた頬に当てて、息を吐いた。
「双子でしたわ。それはもう、二人揃うと、たいそう可愛らしい子たちだったんです。顔も背格好もとてもよく似ていて、他人にはまったく見分けがつかないほどでした」
でも、と悲しそうに言葉を続けた。
「──でも、妹のククルは、八歳の時に亡くなってしまったんです」
キリクは口を閉じ、母親の顔を見つめた。その目、その表情、その口ぶりに、嘘が混じっていないかどうかを見定めるように。カイトは引き攣った表情で、信じられない、というように母親を凝視している。
ユウルが血の気の引いた顔で、全身を固くしていることにも気づかず、母親は悲哀に満ちた声で、失った子を憐れむ言葉を紡ぎ続ける。
「本当に、可哀想な子。とても愛らしかったんですよ。ユウルとも仲が良くて、よく同じ服を着て、互いのフリをして周りを騙して遊んでいましたわ。まだ幼かったのに、あんなにも突然死んでしまうなんて……」
目尻に浮かぶ涙を指の先で拭う彼女の顔にも声にも、偽りなどはない。
母親にとっては、それが唯一の真実なのだから。
「……そんなによく似ていたのでしたら、母親であるあなたにも、見分けることが難しかったのでは?」
キリクの静かな問いかけに、母親は「まあ」というように二、三度瞬きしてから、小さく噴き出した。
「そんなこと、あるはずないじゃありませんか。私はあの子たちの母親なんですもの。同じ顔、同じ服、同じ声で、同じことを話していたって、私にはすぐにどちらがどちらか言い当てることが出来ましたわ、当然でしょう?」
朗らかな口調で、彼女はそう言い切った。
「誰にも判らなくても、私だけはただ一人、どちらがユウルでどちらがククルか、はっきりと判りました。ええ、ただの一度も間違えたことなどありませんとも。本当にいつも一緒に頭を並べていた、仲の良い双子だったのに──可哀想なククル」
口を動かしながら、赤レンガのような色をした目は、まっすぐ前を向いている。
優しく、悲しそうな、「母親」の瞳。
そこに夜空よりも深く暗い、虚ろな闇が潜んでいることに気づいたのか、カイトとキリクは表情を強張らせた。
「ねえ、ユウル?」
と儚げな視線を向けられ、ユウルはぎくしゃくとした声音で、「そうだね、母さん」と返事をした。
本当に、可哀想だね──
***
カイトとキリクは約束通り、母親には何も言わなかった。
突発の客人として振る舞い、大人しく食事をして、当たり障りのない話をしただけ。家を辞去する際には、「失礼ながら、心ばかりの礼として」と銀貨を差し出し、遠慮する母親の手に握らせた。
二人を宿まで送っていく、という口実で、ユウルは彼らと一緒に外に出た。
周りはすでに暗闇に覆われ、照明もほとんどない中を、月と星の明かりだけを頼りに歩く。飲み屋からは男たちが憂さ晴らしに大騒ぎをしている声が聞こえるが、それ以外はどこも静かなものだ。
荒れた石畳が立てる三人分の靴音が、建物の壁に反響していた。
「……ククル、おまえの母親は──」
しばらく無言を続けてから、我慢できなくなったようにカイトが口を開く。冷や汗交じりの、喉につっかえたような声だった。
彼らの前を歩いていたユウルは、ぼんやりと道の先の暗がりに視線をやったまま、上着のポケットに両手を突っ込んだ。
昼はあんなにも暑かったのに、この時間はひやりとした夜気が、寂れた街を包んでいる。
「母さんはもともと、身も心もそんなに強い人じゃないんだ」
ぽつりと言葉を落とすように言った。
「父親はすごくしっかりした人だったらしくてさ、結婚する前も後も、寄りかかるように依存していたみたいだね。誰かに頼ることでようやく安心を得られる、母さんはそういう性格の人だった」
その母が、頼り切っていた夫を亡くした時、どれほど途方に暮れたかは、容易に想像できる。
ただでさえこの貧しく荒んだ街で、女一人が双子を抱えて生きるなんて、並大抵ではない努力が必要だ。それでも彼女は、自分たちの子供のために、歯を食いしばり、折れそうな細身に鞭打って、地面に爪を立てて這いつくばるようにして一歩一歩進んできたのだ。
「……愛情に偏りがあったとは、今でも思っていないよ。母さんは、ユウルとククル、どちらにも同じように笑顔を向けて、いつでも平等に接してくれていた」
ただ──
日々の生活に気を張り詰めすぎていた母親にとって、無邪気であるばかりの妹のククルよりも、父親の性質を引き継ぎ、頭も良くてしっかりした兄のユウルのほうが、より大きな心の支えになっていた、ということだったのだろう。
寄る辺もなく、あまりにも不安定すぎる暮らしの中で、その子供の存在は、亡き夫に代わる、唯一の「頼れるもの」の象徴であったのかもしれない。
それほど、彼女の毎日は、困難と辛抱の連続で、ほんの一突きでパチンと割れてしまう、限界近くまで膨らませた風船のようなものであったのだ。
──だから、八つになったばかりの小さなユウルが呆気なく亡くなり、荼毘に付され、さらに小さな白い骨へと姿を変えた、その時。
「……母さんは、完全に、壊れてしまった」
***
その骨を前にして、それまでずっと涙を見せなかった母は、堰を切ったように泣き出した。誰に憚ることなく、ああ、ああ、なんてこと、と大声で喚き、叫んで、嘆いた。
大好きだった兄の死に打ちのめされて、辛くて悲しくて、ずっと泣き通しだったククルは、それでもその姿を見て、少しだけ安堵したのだ。
それまでの母は、口もきかず、表情も変わらず、すっかり魂が抜けてしまったように茫然としているばかりで、ユウルに続いて母までもどこか遠いところへ行ってしまうように思えて、不安でたまらなかったから。
でも、こんな風に泣けるようになったのなら、きっともう大丈夫なんだ、とククルは思って、ほっと安心した──のだけれど。
泣いて、泣いて、涙で顔をぐしゃぐしゃにした母は、ククルのほうを向いて、はっきりと、こう言った。
「ユウル」
その時のククルの衝撃、ククルの気持ちがどんなものだったのか、今になってもよく思い出せない。
顔がそっくり同じで、誰もがユウルとククルの見分けがつかなくても、母は、母だけは、一度だって、二人を混同することなどなかったのに。
ユウルはユウル、ククルはククル。洋服を入れ替えても、お互いが片割れの真似をしても、母だけは、いつでも間違えることなく、笑いながら名前を言い当ててみせたのに。
母はククルを見て、何度も「ユウル」と名を呼んだ。
「……ああ、ユウル。ククルが、死んでしまったの。可哀想に、可哀想にね。あんなにも、元気だったのに。よく笑う、いい子だったのに。愛しいあの女の子が、こんな小さくて細いものに変わってしまったわ。どんなに苦しかったかしら、可哀想なククル。……ユウル、あなただけは、死んでは駄目よ。母さんを、独りにしては駄目よ。ククルがいなくなって、もう私にはあなたしかいないのよユウル──」
泣きながら、自分に縋りつき、悲痛な叫びを上げ続ける母の身体を抱いてやる以外、幼いククルにどうすることが出来ただろう?
こんなにも弱々しく、優しくて、哀れで、大好きな母を、これ以上傷つけることなんて、自分にはどうしても無理だった。
瞳からとめどなく、ぽとぽとと涙が零れても。
「……うん、大丈夫だよ、母さん。ククルは死んでしまったけれど、僕は──ユウルは、絶対に母さんを置いて行ったりしないから」
その瞬間、ククルはククルであることをやめ、ククルという小さな存在は、この世界から消えた。