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病室の母親は、この日も笑顔でクーを迎え入れてくれた。
来てくれて嬉しい、と目を細め、あなたも元気そうでよかった、と喜ぶ。我が子を愛する、優しい母親のままだ。
しかし──以前の彼女とは、確実に何かが違っていた。
穏やかな日々と、明日の食べ物のことを心配しなくてもいい環境が、彼女に変化をもたらしたのだろうか。母親はもう、後ろから背中を押されて急かされるように、クーに対してあれこれと質問を重ねたりはしない。ゆるやかに口を動かし、微笑んで頷き、問われたことに「そうねえ……」と考えながら答える。
そして、時々ぼんやりとする空白が増えた。
落ち着いてきた、というのはこういう状態のことを指すのだろうか、とクーは心の中で考えた。だとしたらそれは、喜ばしいことなのだろうか。よく判らない。
顔色は悪くなく、棄民の街にいた頃よりずっと栄養状態も良くなっているはずなのに、今の彼女は以前よりも儚げに見える。
母親は、ここでどんな生活を送っているか、ということをゆったりとした口調で話した。
朝起きて、用意された食事をとり、外をのんびり散歩して、とろとろと眠りに就く。棄民の街では決して手に入らなかった、優雅なほどに平和な日常だ。暇を持て余しているのではないかと訊ねたら、空いた時間には本を読んだり、編み物をしたり、窓の外を見てあれこれと空想をしているので退屈を感じることはない、と言った。
母親は確かに満ち足りた表情をしていた。棄民の街にいた時には、決して見られなかった顔だ。彼女は今の生活を夢のようだと表現したし、以前の暮らしに戻りたいかと聞けば、首を横に振るに違いなかった。
それでも、クーは思わずにいられない。
……今の母さんは、生きるための支えを一本か二本、失くしてしまったみたいだ。
娘を息子として認識せずにはいられなかったほど母親が追い詰められていたのは、窮乏した毎日の苦しさによるものだ。しかしその困難の繰り返しの日々は、彼女に生きる張りを与えるものでもあったのだろう。
皮肉なことに、そこから救い出された母親は、気持ちが楽になったと同時に、心と身体から何かが抜け落ちてしまった。
「……ねえ、ユウル」
窓の外に目をやって、母親が呟くように言った。
「うん、なに?」
クーはなるべく静かな声で応じた。以前の母親は繊細な壊れ物のようだったが、今の彼女はまるで稚い童女のようだ。
「最近ねえ、わたし、よく同じ夢を見るのよ」
「そう。どんな夢?」
「あの子の──ククルの夢」
一瞬、どくんと心臓が跳ねた。
母親は窓のほうに顔を向けたままだった。その名を口にする時、彼女がどんな表情をしているのか、クーからは見えない。見えなくてよかった、とキリキリ締めつけられる胸の内で考えた。
笑っていても、悲しんでいても、たぶん、傷つかずにはいられないだろうから。
「……ククルが?」
自分の唇から出てきた声は、少し掠れていた。
「子供の頃の?」
つい聞いてしまってから、舌打ちしそうになった。そんなこと、訊ねるまでもないではないか。母親にとって、ククルの記憶はそこで止まっている。八つの時に亡くなったククルが、それよりも成長するはずがない。
クーの夢に出てきたユウルが子供の姿をしていたのと同じだ。母親は、「大きくなったククル」を知らない。
たとえその存在が、彼女の目の前に座っていても、気づかない。
「そうね。あなたと……ユウルと、毎日じゃれ合うようにして転げまわって、明るく笑っていた、あの頃の」
でもね、と母親はぽつりと続けた。
「夢の中で、ククルはいつも、泣いているの」
クーは目線を落とした。膝の上で握りしめた自分の拳が、小さく震えている。
「どうしてかしら。実際にはわたし、あの子が泣いていた姿なんて、あまり見たことがないのに。だって、いつも楽しそうに笑ってばかりだったもの。わたしが落ち込んでいたら、なおさら笑って、母さんもユウルも一緒に笑おうよって言ってくれるような、そんな子だったもの。そうでしょう?……なのに、夢の中のククルは、毎回悲しそうに泣いているのよ」
「…………」
それは、「本当のククル」が、いつも泣いていたからだよ、母さん──と、心の中で答えた。
母さんには見えていなかったけど、いつも、いつでも、ククルという小さな女の子は泣いていたんだ。
ここにいるのに。見つけて欲しいのに。名前を呼んでもらいたいのに。自分に手を差し出してとずっと願っているのに。
いちばん近くにいながら気づいてもらえず、胸に秘めた小さな希望を常に踏みにじられ続けて、一人ぼっち、孤独で、寂しくて、ククルはずっと、哀しかったんだよ。
顔を伏せたら、拳にした手の上に一粒の雫が落ちた。でも、それだけだった。
おそらくそれは、可哀想な子供だったククルへの、最後の惜別の涙だったのだろう。
「ククルはね、母さん」
口を開くと、母親がようやくこちらに顔を向けた。
今まで眩しい光を見ていたせいか、何度かぱちぱちと瞬きをしてから、まじまじとクーを見つめる。
それはまるで、朝が来て、目が覚めた、という様子にも見えた。
その瞳には、以前のような虚ろさはない。彼女の内側に起きた変化は、今まで長い時間をかけて少しずつ歪めたり曲げたりしていた心の一部分を、まっすぐに伸ばそうと試みているようだった。
わずかに動きかけた唇は、ひょっとしたら、こう問いかけようとしたのかもしれない。
──あなたは誰?
しかし結局、その問いは発せられることなかった。母親は困惑したように首を傾げ、黙り込んでしまった。
クーは微笑んだ。
「……ククルはね、母さんのことが大好きだったよ。昔も、今も」
愛していたし、憎んでもいた。
でも、もういいんだ。
「クー」になったククルは、やっと、母さんを赦してあげられる。
あの女の子は、もう寂しくはないんだよ、母さん。
***
母親に「また来る」と言い残して病室を出ると、廊下でカイトとキリクがちゃんと待っていてくれた。
「もういいのか? クー」
「うん」
「僕たちのことは気にしなくていいんだよ」
「いや、いいんだ。母さんも、ちょっと疲れたって」
素っ気ない言い方だったが、二人はそれで納得したらしい。カイトのホッとしたような表情を見るに、きっとクーの顔つきや口調が、「大丈夫」と判断されるものであったのだろう。
「ずっと二人で待っていてくれたの?」
「いや、交代で動いたりしていた。キリクは病院の警備状況を確認しに行ったし、俺はこの建物の周囲をぐるっと廻って確認してきた」
「それで、怪しい掃除夫はいた?」
「いなかった」
カイトは忌々しそうな顔で口を曲げた。だろうなあ、とクーは内心で思う。
「いずれまた、ひょっこり現れるかもしれないよ」
「その時は今度こそ絶対に捕まえてやる」
カイトは鼻息も荒く断言したが、キリクは目を廊下の窓に向けて、それに対する返答を避けた。クーの視線に気づいてこちらに向き直り、にこっと笑う。
「まだ時間も早いし、どこかで食事でもしようか、クー。前回は慌ただしくてそんな暇もなかったんだろう? せっかくパレスの外に出たことだし、少しでも時間を有意義に使わないとね」
クーはちょっと返事に迷ったが、キリクの顔を見て、「……うん。そうだな」と頷いた。
カイトが苦々しそうな表情になる。
「二人とも、呑気なこと言って」
「いいじゃないかカイト。君もちょっとは気分をリラックスさせたほうがいい」
「だよな。神殿っていうのはいろいろと窮屈だからな。今日はもう、危ないことなんてないだろうさ」
「だからどうしてそう楽観視できるんだよ」
「女の勘」
「えっ、おまえにもそんなものが……いてっ!」
カイトの足を蹴りつけてから、クーは声を立てて笑った。
***
翌日の朝、大広間に一人で立っていたクーのところへ、キリクが「おはよう、クー」と声をかけて近づいてきた。
「おはよう、キリク」
もうそんな時間か、と思いながら振り返り、挨拶を返す。朝食を食べてからすぐにここに来て、二人が来るまでに部屋に戻っていようと思ったのに、いつの間にか自分が思っていた以上の時間が経ってしまっていたようだ。
「カイトは?」
「もちろん、一緒に来たよ。部屋に行ったら誰もいないから驚いた。だけどすぐに君が戻ってくるようだったら入れ違いになってしまうしね、カイトには残ってもらったんだ」
「うん、すぐに戻るつもりだったんだけど。キリクは、オレがここにいるだろうって判ってたの?」
「たぶん、そうかなって。……君は、お母さんに会った後は、女神リリアナの像を見たくなるようだね」
「そういえば、前もそうだったっけ」
自分でも忘れていた。あの時一緒にいたキリクには、すぐにピンときたのだろう。なんとなく恥ずかしくなって、鼻の頭を指先でこする。
それから顔を戻し、高くそびえる女神像を見上げた。
「なんでだろうな。この女神像ってさ、どうしても、母さんに似ているような気がするんだよ」
慈愛溢れる微笑を浮かべた女神像。こちらに手を差し伸べ、すぐ前にいる子供を今にも抱き上げようとしているかのような姿が、不思議と母親に重なってしまう。
もしくはクーが、こうであって欲しかった、という願望を乗せて見ているのだろうか。
おかしな話だ。女神リリアナ自体には、クーはあまり興味を持てないままなのに。
それとも、人間というものはみんな、神というものに、自分自身の何かを映してしまわずにはいられないのか。
「そう」
キリクは目許を緩めて短く言っただけで、それ以上は何も訊ねてこようとしなかった。
そういえば、とクーは気づいた。
カイトの過去はここで聞かせてもらったことがあるが、キリクについては、第三位神民でパレス育ち、父親がずいぶんと偉い人らしい、ということ以外はほとんど何も知らない。
「キリクのお母さんって、どんな人?」
聞いてしまってから、それが失敗だったと気づいたのは、キリクの表情が一瞬固くなったのが見えたからだ。
口許の微笑は崩さないまま、彼の周りの空気だけ、すっと温度が下がった気がした。瞬時にして、全身に薄い硬質の殻をまとったような感じがする。
「──さあ。僕は子供の頃、生みの母親とは別れたきりでね。今はどうしているのかもよく知らないんだ。神都で暮らしているとは思うけど」
こちらに向けられる表情も声の調子も変わらないのに、二人の間には確実に、透明な壁を挟んでいる。他者からの干渉を頑なに拒む壁だ。その言葉に潜む冷ややかさは、問いかけたクーに対するものではなく、「生みの母親」とそれにまつわる諸々に対するものなのだろうな、と推測できた。
「……ん、そっか」
小さく言って、目を伏せる。
キリクは、自分が感情を抑えようとして出来なかったことと、クーがそれを正確に読み取ってしまったことに気づいたらしい。ふっと雰囲気を和らげて、苦笑した。
「まったく君は、呆れるほどそういうことに長けていて困るよ。──ごめんね」
申し訳なさそうに謝られて、困ってしまったのはクーのほうだ。ここで自分も謝るわけにはいかない。しかしなんと言っていいのかも判らない。気まずい沈黙に耐えかねた挙句に、「ふわーあ」と大きく欠伸をした。
あまりにもわざとらしいのが可笑しかったらしく、キリクがぷっと噴き出す。
「眠いのかい?」
「まあね」
「また、夜遅くまで本を読んでいたの?」
「うん、ちょっと」
「前も言ったけど、ほどほどにしなくてはダメだよ。目の下に隈がある神女候補なんて、あまり笑えない」
「わかってるよ。だけど、いつまで神殿にいられるかわからないからな。棄民の街では、本なんてそう簡単にあれもこれもと読めるわけじゃない」
「…………」
キリクは真顔になって口を噤んだ。
ややあって、静かな声で訊ねられた。
「……それは、どういう意味かな。君は近いうちに棄民の街に戻る、ということ?」
クーはキリクを見返して、軽く笑った。「どうかなあ」と適当な言い方をして、首を捻る。
「そういう可能性も皆無じゃない、って話さ。そうだろ? 正式な神女になるのが四人っていうなら、あぶれた一人はここにはいられない。神殿からもパレスからも追い出された場合、他のやつらは神都にある家に戻るんだろうけど、オレが戻るのは棄民の街しかないからね」
「クーは自分が、その『あぶれた一人』だと考えているのかい?」
「四分の一の確率だから、あり得ないわけじゃないだろ? もちろん、神女になって宮殿に行く可能性もあるんだろうけどさ」
「確率で言えば、どちらかというとそちらの可能性のほうが高いはずなんだけどね。君はそのことをあまり考えていないように見えるよ」
「うん」
クーは誤魔化すのはやめて、肯定した。正直言って、自分が正式な神女に選ばれることはないだろう、と思っている。
もう一度、女神の白い顔を振り仰ぐ。
「……だけど、神殿に来たことは無駄じゃなかった、と思ってるよ。棄民のオレが水晶に呼ばれたのは、やっぱり何か意味があったんだろう。ここに来なければわからなかったことが、たくさんあった」
神の意を伝える水晶、というのが本当はどんなものであれ、クーはここでいろいろなものを見て、いろいろなものを聞いた。
どれも、棄民の街では絶対に知り得なかったことばかりだ。
「キリク」
クーは再び顔を動かして、今度はキリクを正面から見据えた。キリクが真面目な表情で、その視線を受け止める。
「この国は、おかしい」
キリクはしばらく無言だった。
「……そうかな。どうおかしいと思うんだい?」
「それをキリクが聞くのか? キリクはずっと、オレにそう教えようとしているんだとばかり思ってたぞ」
クーが唇を上げる。キリクはもはや微笑も取り払い、無表情になった。
「もう少しアリアランテって国のことを知りたいって言ったオレに、まずはこの国の歴史をみっちり勉強することを勧めたのはキリクだったよな? キリクの教え方も、ちょっと一方向に偏ってた。何か変だなって思ってたんだけど、今になってなんとなくわかってきたよ」
あの分厚い歴史書の中から、キリクが選びだしたピースをひとつずつ繋げていくと、なんとも歪な形の絵が出来上がる。クーはようやく、そのことに気がついた。
「──キリクは、アリアランテという国の異様さを、オレに伝えようとしているんじゃないかって」
「…………」
キリクは完全に黙り込んでしまった。否定にしろ、肯定にしろ、彼はそれを口にして言うことは出来ない、ということか。
理由は判らないが、キリクは「何か」に自由を縛られている。
カイトが半民という立場に捕まって身動きできないでいるように、キリクもまた、目には見えない鎖で手足を拘束されている。
それがどんな鎖かは、きっと、聞いても答えてはもらえないのだろう。クーがいくらキリクに向かって手を出しても、あちらにはそれを掴むことの出来ない事情がある。
クーにもっと力があれば、誰にも負けない強さがあれば、話は別なのかもしれないが。
今はまだ、無理なのだ。せめてキリクが言葉にはせずに示す方向に、クーも目を向けることが精一杯。だけど。
いつか必ず、囚われた穴の中から引っ張り上げてやる。
「……もしも」
キリクが低く抑えるような声で言った。
「もしも、君が正式な神女に選ばれたら、その時はどうするんだい?」
「オレこそ聞きたいね。その時は、オレの思うようにしていいのか?」
問い返すと、キリクが目を瞬いた。
「だって、キリクが言ったんじゃないか。『クーはクーの思うように進んでほしい』って。その時は、オレの思うとおりに進んでいいんだな? オレはきっと、どこまでいっても棄民だ。神民や神都のための神女になんてなれないし、なるつもりもないぞ。それでいいんだな?」
女神リリアナも、教皇も、神民たちも、誰も棄民を救ってくれないというのなら、棄民が棄民を救うしかないではないか。
しかしキリクは神民だ。彼の側にどんな事情があるにしろ、価値観や考え方が、棄民の自分と食い違うこともあるだろう。クーの進み方は必ずしも彼の意に沿うものではないかもしれない。
それでいいのか?
確認するつもりでキリクをじっと見ると、彼は引き結んでいた口許を徐々に柔らかく綻ばした。
「──うん。それでいいよ」
そして、どこか泣きそうな笑顔で、頷いた。
キリクと並んで部屋に戻ると、扉の前で、カイトが所在なさげに立っていた。
「ごめん、待たせたな」
とクーが言うと、「いや」と笑いながら答えた──が、いつもまっすぐこちらに向かってくるはずのその視線は、微妙に違う方向に逸れている。
クーは戸惑った。そして同時に、不安になった。
どうしたんだろう? いつも、クーが怒っても、からかっても、こんなことないのに。いや、以前も一度、同じようなことがあったな。あれ、いつだっけ?
カイトの目がこちらを向いていないと、それだけで気持ちがふらふらと揺れ動くなんて、みっともない話だと思う。でも、落ち着かないのだからしょうがない。
背中を支えてくれる手の平があると思うから、クーは安心していられるのだ。
ふと見ると、カイトの大きな手は、拳になって強く握られていた。
***
サンティの姿が見えなくなったのは、その日の夜からだ。
モリスの時とまったく同じように、彼女は衛士や女官らと共に、忽然と神殿内から存在を消した。
それからしばらくして、サンティが正式な「耳の神女」に選ばれた、と司教経由で聞かされた。
偽りの言葉を弾き出し、真の言葉を拾える、賢明なる耳を持つという神女。
クーはひやりとした。
あいつの耳に入った言葉は、何か別のものに姿を変えるみたいだ。あれじゃ、ウソも本当も意味を持たないよな──と、自分が口にした時、キリクは何かを呟いていた。
小さすぎてよく聞こえなかったけれど、あれはもしかしたら、こう言っていたのではないか。
そうか、じゃあサンティ嬢が、「耳の神女」に選ばれるべき人物ということか──
女神の力を分け与えられる神女だって?
この国はたぶん、クーが想像する以上に、何か禍々しいものを孕んでいる。
(Ⅶ・終)




