3
教皇との対面は、あっという間に終わった。
ここに至るまでの段階でうんざりするほどの手間と時間がかかっていたことを思うと、瞬きするくらいの間で終わってしまった。しかも、大したことも話していない。以前、バーデン司教が話していたような内容を、もう一度繰り返しただけだ。
お利口にして待っていれば、あとで何かご褒美があるかもよ?
言い方がちょっと違うだけで、要約すれば、大体そんなようなことだった。
あいにく棄民の街で育ったクーは、行儀よく躾をされた神都の子供たちとは違って、そんな言葉で納得できる素直さも、「はーい」と返事をしてやるような可愛げも持ち合わせてはいない。
大げさな前振りのわりに中身のない行事、そしてそれにかかった時間と人手と莫大な費用、という神都の虚構を目の当たりにした気分である。以前からクーが嫌悪し、軽蔑していた像の中に、今度は自分が含まれているわけで、気分が悪いことこの上ない。
棄民たちが汗と涙を絞り尽くして払っている税金が、こんなことで無駄に遣われているのかと思うとたまらなかった。その金はほとんど還元されることもなく、ただ貪られ、消費されているに過ぎないのだと実感する。どぶに捨てているのと同じだ。
それをなんとも思わない神民というものに、改めて失望させられた。
結局、クーが得たものといえば、「教皇は人間である」ということが判った、その一点だけだ。
このアリアランテを統治しているのは、やはり神ではなく、自分たちと同じただの人間だった。
顔が見えない分、そして一方的にかけられる言葉だけでは内心を窺えない分、不気味なところはあるけれど、あれは決して、人間にはまったく理解し得ない別の生物などではない。神々しく光り輝いているわけでもなければ、慈愛と慈悲だけで成り立っているというわけでもなかった。
きっとクーたちと同じように食事をし、眠り、怒ったり笑ったりもするのだろう。神民から崇められてはいても、その内側にあるものは、決して美しいものばかりではない。
人である以上、ソブラ教皇は人としての条理に則って考え、動く。打算や計算もあるに違いない。国を支配し、指示や命令を下すのは、神の意などではないということだ。
もちろん、そうに決まっている。実際に教皇が女神リリアナのような力を持っていたら、側近なども必要がなくなってしまう。自分の言葉を伝える相手さえいればいい。いや、それどころではなく、指を一本動かせば、それで済む。
教皇は人間だ。
本当に神のような存在が玉座にいる、とはクーも考えていなかった。「神の代理」というのは国を動かすための便宜的な呼び名に過ぎない。それはそれでいい。しかし。
だったら──
クーが今まで抱いてきた漠然とした疑問は、ソブラ教皇という君主を目にしたことで、無視できないほどまで大きく膨れあがりつつあった。
……だったら、神女というのは、なんのために必要なのだろう?
***
ある意味当然のことなのかもしれないのだが、他の神女候補たちが抱いた感想は、クーとは真逆のものであったらしい。
三人は、宮殿から神殿に戻ってもしばらく興奮状態が抜けなかった。
「ああ、ソブラ教皇から直にお言葉が頂けるなんて……」
とイレイナが夢見るような顔つきで言えば、
「ねえ、教皇様は確かにわたくしをご覧になっていたわよね? わたくし、髪が乱れていなかったかしら? お化粧は崩れていない?」
とサンティがうろうろと鏡を探し回り、
「神女に……正式な神女になれば、わたくしもあの近くへ行けるのだわ……神女ロンミ、と書物に名が載る……」
とロンミがぶつぶつとうわ言のように口走る。
「…………」
落ち着けよ……と、クーは呆れて心の中で呟いた。口に出さなかったのは、どうせ誰も聞きゃしないだろうと思ったのと、誰の目もろくに他人の姿を映していなかったからである。夢遊病がますます悪化したようなものだ。
神民の神女候補たちにとっては、教皇はまごうことなく「神の代理」なのだ、と思い知る。
生まれた時からそう教え込まれてきた彼女たちと、教皇も女神も自分からは遠いものとして育ってきたクーとの、顕著な差だ。
カイトが言っていた、「生まれた時から植えつけられた価値観というものは簡単にはひっくり返らない、こればっかりはすぐにどうにかなるものじゃない」、という言葉は、まさしくこういうことなのだろうな、と思った。
後ろを振り返ると、カイトが困ったような顔で、キリクが苦笑を浮かべながら、神女候補たちに目をやっていた。
こちらを向いて、「放っておこうか」というようなことを口を動かさずに伝えてきたので、素直に頷く。確かに、放っておく以外にどうしようもない。
しかし、あの三人のほうを見ないでいるということは、カイトとキリクのほうを向くしかないということで、それはそれで目のやり場に困ってしまうのだった。
二人は未だに衛士の正装のままなのだ。この格好ですぐ近くに立っていられると、なんともいえず、調子が狂う。
「……いつまで、そんな堅苦しい服装でいるつもりなんだ?」
「あ、そうだな。もういいだろうから、着替えてくるよ」
「なんで着替えなきゃいけないんだ」
「どっちだよ」
思わずムッとしたら、カイトが困惑するように首を傾げた。キリクはその隣で、口に手を当て、噴き出すのをこらえている。
クーだって別に、二人にずっとこのままでいて欲しい、と望んでいるわけではない。二人にとっては窮屈だろうし、自分もどこを見てどんな顔をすればいいのかよく判らないからだ。かと言って、さっさと着替えてこいとも、思わないのである。
だって、正装ということは、特に改まった行事の時にしか着られないものなのだろう。だとしたら、この格好をした二人を、今後クーが見る機会はもうないという可能性が高い。
そう思うと、ちょっと……いや、かなり、惜しい……気がする。
「と、とりあえず、みんなでお茶でも飲もうぜ」
「まあ、そうだな。クーも疲れただろうし」
「その前に、オレはちょっと着替える」
「じゃあ、俺とキリクもその間に着替えてくる」
「おまえらはいいんだよ。いや、今はまだいい、って意味だよ。オレはすぐ着替えたいけど」
「なんで。だって、どっちにしろクーのほうが時間がかかるだろうし」
「こんないろいろと丸見えな……いや、動きにくい格好でいたくないんだ」
「それは俺たちだって……それに、いざという時、動けなくて困るのは護衛である俺たちのほうだし」
「うるさいな! おまえらは動かなくていいんだよ! いやだからってオレのすぐ前に立つんじゃない、なるべくオレの視界に入らないようにしてオレから見える場所にいろ!」
「どっちだよ!」
完全に支離滅裂なことを言いだしたクーの頭は、ぐるぐると渦が巻いている。いつものようにいようと思うそばから、どうしていいのかさっぱり判らなくなってきた。いつものようにって、いつもはどうしていたんだっけ?
その時、ぶふぉっ、と変な音をさせて、我慢できなくなったキリクが、今度は腹部に手を当てて身体を折り曲げた。
苦しそうに両肩を震わせている。ここにテーブルがあったら、間違いなく突っ伏して笑い転げていただろう。
それを見て、クーは少しホッとした。
よかった、いつものキリクだ。
カイトを見ると、彼も安心したような表情を浮かべている。やっぱり、最近のキリクを心配していたのだろう。そういうところは、カイトは決して鈍感ではない。
クーはカイトと顔を見合わせて、どちらからともなく、ちょっと笑った。お互いに、考えているのは、同じようなことだったらしい。
やっといつもの調子を取り戻して、気持ちが落ち着いた。そうだ、着ているものが変わったからといって、中身が変わったわけではない。カイトはカイト、キリクはキリクだ。
この二人がいてくれれば、クーも「クー」のままでいられる。
「じゃ、部屋に入って──」
一息入れよう、と続けようとした言葉は、後ろからいきなりやって来た、どん!という衝撃で消えた。
後方から突然、それも手ひどく突き飛ばされては、避けることも出来ない。そのまま吹っ飛ぶような勢いで倒れかかったが、慌てて差し出されたカイトの腕に抱きとめられて、なんとか事なきを得た。
「だ、大丈夫か、クー」
「うん、平気」
一体何が──と訝るまでもなかった。今までクーがいた場所にはいつの間にかサンティが取って代わり、キリクの腕を取ってしなだれかかっている。
なるほど、アレに押しのけられたらしい。サンティの顔を見るに、意地悪で、という理由でもなさそうだ。彼女の目には、今のところキリクしか映っていない。クーやカイトは、邪魔な木の棒くらいにしか見えていないのだろう。
「キリク、ねえキリク、教皇様のお言葉を、あなたもお聞きになりまして?」
サンティは蔦のごとくキリクの腕に自分の腕を絡ませて、甘えるように媚びを振りまいていた。さすがにキリクが驚いて、目を丸くしてそちらを見返している。暴走馬のように突進してこられて、クーと同じく避ける暇がなかったと見える。
「……何をですか、サンティ嬢」
ようやく我に返ったキリクが、蔦から自分の腕を引き抜こうとしたが、その試みはまったく上手くいかなかった。抜こうとすればするほど、締め付けがぎっちりと強くなっていくからである。
キリクが珍しく困った顔をしている。そっちは大丈夫? と目顔で問いかけられたので、大丈夫、とクーは手を挙げて伝えた。しかし、大丈夫なら助けて欲しいんだけど、という無言の訴えは、ニヤニヤしながら無視をした。こんな面白い見世物はない。
「あの二人、いつの間に仲良くなったんだ?」
「おまえには、あれが仲良く見えるのか」
「ああいうの、街はずれにもあったぞ」
「ああいうのって?」
「強い匂いで引きつけてさ、獲物が寄ってくると、ぱっくり捕らえて離さないんだ。そのまま呑み込んで、樹液で溶かす」
「食虫植物か」
カイトと無責任なことをぼそぼそと話して、ぶぶーっと二人で噴き出す。
キリクが恨めし気な目を向けてきたが、サンティの目はまったく動きもせずにキリクに据えつけられたままだった。どうやらあの耳には、クーとカイトの声だけつまんで外へと放り出す、特殊な機能でもあるらしい。
「まあいやだ、もうじきに、正式な神女がすべて揃う、ということですわ。順番なんて関係ありません。女神リリアナは慈悲深くいらっしゃるから、きっといちばん可哀想な方を最初に選んであげたに過ぎないのですもの。わたくしもそれを見習って、お気の毒なあなたを救って差し上げてよ。なにしろ、神女になれば、衛士は自分の自由に選んでよい、とのことですものね」
「教皇は一言もそんな約束をされていないと思うのですが」
「あら、仰ってましたわ。声の神女は気に入らない衛士を自分の希望通りに取り換えた、と」
「……諸般の事情により前の衛士は辞めたけれど、今は別の者が護衛の任に就いているので問題はない、という話はされていましたね。それに、以前も申しましたが、その件は──」
「ええ、ええ、わかっていましてよ、あなたのお気持ち。心配なさらないで、神女になれば、みんなわたくしの言うことに逆らえやしないんですもの。女神リリアナにも、あなたに罰を下さないようにとお願いしておきますわ。わたくしのことを守ろうとしてくださるのは嬉しいのですけど、わたくし、やっぱりキリクに傍についていて欲しい。あなたって、やっぱりとても素敵。そのご衣裳もよく似合っていてよ。……だから、ね?」
長い睫毛をふるふると揺らして、サンティの潤んだ瞳がキリクを見上げた。なにが「ね?」なのか、クーにはまったく判らないが、これが男を落とす技術というものなのだろう。女ってすごいなあ、とひたすら感嘆するしかない。
サンティは一方的にそれだけ言うと、微笑を投げかけてから、相変わらずクーとカイトには目もくれずに、ひらひらと蝶のように自分付きの衛士のもとへと戻っていった。ちなみに、今までの会話は、囁くような声でされていたため、彼らには聞こえていない。
自分たちがいずれ「キリクと取り換えられる」予定であるとは思ってもいないのだろう、衛士たちはサンティを守るように囲み、こちらに険悪な視線を向けた。その姿は、滑稽でもあり、気の毒でもある。女ってすごいなあ、ともう一度思う。
それとも、男がバカなのかなあ。
「ひどいよ、二人とも。面白がっていたよね」
キリクに文句を言われて、カイトは「悪い」と頭を掻いて謝ったが、クーは笑った。たまには、キリクのこんなところを見るのも悪くない。
「面白かったんだから、しょうがない。あんなにも噛み合わない会話、なかなか聞けないぞ」
「他人事だと思って……何を言っても彼女の都合のいいように脳内変換されてしまうんだから、手に負えないよ」
「不思議だよなあ。あいつの耳に入った言葉は、何か別のものに姿を変えるみたいだ。あれじゃ、ウソも本当も意味を持たないよな」
クーはなにげなく言ったが、キリクは不意に、表情を引き締めた。
「……ああ……そうか、じゃあサンティ嬢が──」
何かを呟いたようだが、その声は小さすぎてよく聞き取れなかった。
なに? と聞こうとしたところで、カツン、という靴音をさせて、誰かがすぐ前に立ったことに気づき、口を噤む。
「ちょっと、聞きたいことがあるのだけど」
ロンミだ。彼女の視線は、まっすぐクーに注がれていた。
彼女のほうから話しかけられたのははじめてだったので、クーはきょとんとした。
「なに?」
すぐ隣で、カイトが緊張している。何か罵倒でもされるのかと警戒しているのだろう。
しかしそれでも、意外なことには変わりない。サンティは自分の見たいものしか見ない、というタイプだが、ロンミは今までずっとクーを、直接言葉を交わすような対象ですらない、という扱いをしていた。
「ちょっと小耳に挟んだのだけれど、声の神女が水晶に選ばれる前、あなたと話をしていたというのは本当なの」
傲岸で居丈高な喋り方をするイレイナとは少し違って、ロンミは強引に押し付けるような喋り方をする。クーに向けているのは質問であるはずなのに、あまり疑問形になっていない。
どんなことであれ、誰かに何かを訊ねる、という行為が好きではないらしかった。
「選ばれる前っていうか──顔を合わせて話をしてから、気づいた時にはもう、モリスはこの神殿からいなくなってたな。それに、あれは話っていうより」
一方的に喧嘩を売られただけ、それもおもにカイトに向かって、と言おうとしたのだが、ロンミはそこまで聞かずに、ひどく納得したように大きく首を動かした。
「そう。やっぱり……やっぱり、そうだったのね」
口元が満足そうに吊り上がっている。ロンミは背が高いので、こうして向き合うと、小柄なクーはどうしても上から見下ろされるような形になるのだが、じろじろと不躾に眺めまわす視線は、興味深い実験動物を観察するようなものに感じられた。
「わたくしの考えに、間違いはなかったのだわ」
「なにが?」
「棄民が紛れ込んでいる本当の理由は、それだったのね」
「それって何?」
「もっと早く確信が持てていれば、わたくしが最初に選ばれたかもしれなかったのに」
もしもし?
ロンミは見開いた目でクーを凝視したまま、ぶつぶつと何事かをずっと呟き続けていた。こちらの声を聞こうとしない、というのはサンティと同様だが、一心に思い詰めたような光が瞳の中に居座っている分、こちらのほうが迫力があった。
クーが一歩後ずさり、カイトがさりげなくそれを庇う位置に出たところで、ロンミははっとしたように瞬きをした。
とってつけたように、微笑を浮かべ──というか、ひくひくと引き攣った唇を、もしかしたら頑張って微笑を作ろうとしているのかもしれない、と思われる形にして、「あら、失礼」と調子の外れた声で言う。
「今度は、わたくしとも、ぜひお話をしていただきたいものだわ。……あなたのこと、とっても興味深く思っていましてよ」
どうやら、「興味深い」というのはロンミなりのお愛想のつもりらしい。彼女付きの衛士が、唖然とした顔をしている。
「では」
クーが何も言わないうちに、ロンミはくるりと踵を返して、自分の居室へと戻ってしまった。
「……なんだありゃ」
ぽかんとする。
みんな、教皇に会ったことで、どこかちょっと頭のネジが緩んでしまったのだろうか。それとも、神女候補に選ばれる娘は、一般常識からズレているのが条件、ということなのだろうか。確かに、変な奴が多い。
戸惑いながら立ち尽くしていたクーの前を、イレイナがすたすたと通り過ぎていった。
「よう、イレイナ」
と声をかけると、眉を逆立てて睨まれた。
「気軽にわたくしの名を呼ばないで! 厚かましい棄民だこと!」
きいきい怒鳴るその顔を見て、ちょっと安心した。
こいつがいちばん、判りやすくていいや……
***
教皇との対面が終わってしまえば、神女候補たちはまた特にすることがない。司教も教皇も、こちらに求めるのは「待て」という、ただその一本鎗だからだ。
というわけで、神殿内が少し落ち着いてきたのを見計らい、クーはクリスタルパレスを出る許可をもらって、神都の病院に行くことにした。
さすがに、まだ一人で馬を駆って行くのは無謀だということで、カイトの馬に乗せてもらったが、今度はキリクも同行している。
病院に行く道中ずっと、馬の手綱を操りながら警戒を怠らないよう慎重にしているカイトとは異なり、キリクは普段とほとんど変わりなかった。
「カイト、あまりピリピリと神経を張り詰めすぎていると、クーが委縮してしまうよ」
キリクに宥められて、はたと気づいたように、カイトが自分の前にいるクーに目を向ける。
「……そんなに俺、ピリピリしてるか?」
「うん、そうだね」
クーも苦笑気味に返した。正直、カイトの緊張がこちらにも移って、せっかく馬に乗っているのに、気もそぞろになっていたところだ。馬も落ち着かないようで、さっきから何度か居心地が悪そうに首を振っている。
「ごめん。どうしても、あの時のことを思い出すと」
カイトがそう言うのも無理はないのだろう。あの男については、正体がまるで知れないという以外に、相当な手練れであったようだし、一度……そしてもしかしたら二度、目の前にいたのに逃がしてもいる。これで気負わずにいられるはずがなかった。
それに、相手は一人であるとは限らない。仲間が近くにいる、というあの言葉が嘘でなければ、複数で襲ってこられる可能性だってないとは言えないのだ。
そこで、ふと思った。
──仲間って、「何の」仲間なんだろう。
「でも、今日は大丈夫なんじゃないかな」
「どうして?」
「なんとなく」
ちらっとキリクのほうを見て、クーは曖昧に答えた。
それから改めて、前方へと視線を向ける。目的地である病院はもうすぐだ。
もうすぐ、と思ってから、クーはぶるっと小さく身を震わせた。自分の場合はたぶん、緊張している「理由」はカイトとは違う。
運動したわけでもないのに、うなじに薄っすらと汗をかいている。
胸のところで衣服をぎゅっと握った。
──ダメだな。
どうしてこうなっちゃうんだ。この間だって、結局大丈夫だったじゃないか。実際に顔を合わせたら、意外と平気なものなんだ。今日だってきっと、拍子抜けするような気分になるに決まってる。それが判っているのに、どうしてこんなに心臓が縮み上がっているのだろう。
どうして、母親に会うというだけで、息をするのも難しくなってしまうんだ?
夢の住人でいることはやめようと決意した。クーは今、行き止まりではない目的地を探して、新しい道を歩いている。どこへ辿り着くのかは判らないけれど、自分の周りにあるのはもう、あの真っ暗な闇じゃない。
……だけど、それでも。
それでもやっぱり、すぐにすべてを吹っ切るなんて無理なんだ。長い間に積もって溜まった頑固な澱は、そうそう簡単に消えてなくなってはくれない。ふとした拍子に、こうして浮き上がって、かき乱して、上に出来た透明に澄んだ部分まで濁らせていくんだ。
なんて弱く、脆い。
すぐ前にある馬の鬣をそっと撫でて、ゆっくりと顔を伏せた。
「なあ……オレ、誰だっけ?」
「クーだ」
「クーだよ」
間髪入れず返ってきた、芯の通った声に、泣きたいくらい安堵した。
自分も、こうして二人に向かって「救える言葉」をあげられたら、いいのに。