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ついにソブラ教皇との対面が叶う、という通達がされてから、神女候補たちはにわかに浮足立った。
棄民の街で生まれ育ったクーの場合は、教皇に対する感情は決して良いものばかりではない──というより、むしろ実体があって権力も発言力もある分、女神リリアナに向けるよりも複雑な思いがあるのだろうが、神民にとっての教皇は、君主というよりもずっと神に近い存在だ。気持ちが上擦らずにいられるわけがない。
そもそも教皇は、滅多に人前に姿を現さない。神都の中、しかもこのクリスタルパレス内ですら、自分の目で見てその声を聞けるのは、ごく一握りの少数に限られる。「ただの神民」であればおそらく一生お目にかかる機会はないだろう人物に、これからは「神女」として距離的にも立場的にも近しい場所に行けるとなったら、十代の娘が普段通りの精神状態でいようというのが、土台無理な話なのだ。
そういうわけで、このところは、どこか熱にうかされたような顔をした神女候補たちが、神殿の中や外を行ったり来たりすることが多くなった。とてもではないが、部屋にこもってじっとしていられるような気分にはなれない、ということらしい。
ぽうっとした表情を浮かべたまま、雲の上を歩くようなふわふわとした心許なさで動き回る彼女たちを見て、
「ああいうの、知ってるぞ。夢遊病っていうんだろ。寝惚けてあちこちを徘徊するヤツだ」
とひそひそ囁いたクーは、カイトに窘められていた。
そのような神女候補たちの落ち着きのなさとは関わりなく、クーはクーで、神殿の外に出る回数が増えた。あれからすっかり馬が気に入ってしまったようで、何度か乗る練習をしているのだ。
気分転換にはちょうどいいということもあるが、彼女はそもそも動物と相性がいいらしい。厩から連れてくる馬は毎回違うのに、大体どんな馬とでも仲良くなって、上手に乗りこなしている。
馬のほうだって、威張って命令するだけの衛士連中よりは、友達のように気さくに話しかけてくる相手のほうがいいのだろう。親愛を向けられた分、ちゃんとクーに対して恭順の姿勢を返す馬たちを見ると、人間社会もこうであれば風通しがいいのにな、とキリクはつくづく思う。
馬に乗るのは神殿の周辺、あるいはもう少し離れても、あまり長時間でなければ、クーの気分が悪くなることはなかった。
「クーは筋がいいね。これなら一人で颯爽と馬を走らせる姿が拝める日も、そう遠くなさそうだ」
「キリク、あんまりこいつを調子に乗らせるなよ。ひとつ間違えば大惨事なんだから」
手放しで褒めるキリクと、心配性であるがゆえの厳しい指導役であるカイトに挟まれて、クーは機嫌が良さそうだ。
「いいから、早く行こう。厩って、馬がたくさんいるんだろ? 何頭くらい?」
今日は、彼女の希望で、一緒に厩まで馬を見に行くことになっている。たくさんの馬に会えるのが楽しみでしょうがない、というように弾んだ足取りで神殿の廊下を歩くクーの姿に、キリクは笑みを零し、カイトは目を細めた。
「そりゃ、ずらっと並んで──」
しかしその返答は、途中で呑み込まれた。
クーの居室を出ていくらも進まないうちに、誰かのキンキン声が後ろから響いてきたからだ。
「うるさいわね! 一人でいいって言ってるでしょ!」
「しかし、自分たちはあなたの護衛として──」
「必要ないわよ! あなたたちだって、本当はこんな仕事イヤだと思ってるくせに! そんな人たちにこれ以上くっついてこられるのは真っ平よ!」
振り返ってみれば、怒りも露わに叫んでいるのはモリス嬢だった。
普段は俯きがちで、大きな声を出しているところも見たことのない神女候補が、真っ赤な顔で自分付きの衛士二人に向かって喚き散らしている。
衛士たちは戸惑ったように顔を見合わせているが、もちろんキリクは、モリス嬢のその怒りがどこから来ているものか、よく知っている。カイトのほうに目をやると、彼もまた、理解と同情を混ぜ込んだ顔をそちらに向けていた。
「ついてこないでったら! 外に出るのも、どこに行くのも、わたくしの好きにするわ! あなたたちなんて必要ないわよ!」
「ですが、司教様より、外出の際は必ず衛士の同行が必要であると」
「なによ、わたくしに説教するつもり?! この間、一人で外に出ていた誰かさんにも、それと同じことを言ったかしら?! わたくしには、そんな言葉はひとつも聞こえなかったけれど!」
モリス嬢が何のことをあてこすっているのか、衛士二人はこの時点でようやく悟ったらしい。そして同時に、自分たちがあの時、サンティ嬢に向かって口を滑らせた内容も、思い出したらしい。
衛士たちは、面白いくらい狼狽した。
「い、いや、あれは」
「あれがあなたたちの本心というわけね。よーくわかったわよ。今までさんざん、神女候補に仕えられて幸せだとか言っておいて、心の中ではわたくしをバカにして、笑いものにしていたんだわ」
「そのようなことは……」
「うるさい、うるさい! 何も聞きたくない! いいこと、わたくしはもうすぐ、教皇様にお会いできるのよ! このクリスタルパレスの中でも、最も高い位置に行ける人間なのよ! 身分不相応なのはどちらなのか、すぐに思い知らせてやるわ! あなたたちなんて、わたくしが正式な神女になったらすぐにでも衛士を辞めさせて、この神殿にも、それどころか神都にもいられなくしてやる! その時は、顔だけは良くても頭はカラッポな女に、泣いてすがって、拾ってもらえばいい!」
やにわに慌てて必死に弁明しようとした衛士たちは、モリス嬢に糾弾されて、顔から血の気を失くした。今になって、大人しいだけと侮っていた娘が内側に秘めていた激しさに気づいたようだが、もはや手遅れというものだ。
自業自得、としか言いようがない。カイトに困じたような目顔を向けられたが、キリクは肩を竦めるだけに留めた。自分たちが仲裁に入ってどうにかなるようなものではないし、第一、そんな義務も義理もない。キリクは、あの衛士たちのために、指一本動かすつもりはなかった。
その場に縫い止められたように動かなくなった二人の衛士を置いて、モリス嬢は冷淡に身を翻した。
瞳の中に怒りを宿したまま、大股で床を蹴るようにして歩き、呆気に取られて成り行きを眺めていたクーの前で、ぴたりと足を止める。
「なによ」
今にも噛みついてきそうな勢いで、喰ってかかる。
くしゃりと歪んだその顔は、泣く直前の子供のようにも見えたし、目をぎらつかせた空腹の獣のようにも見えた。
「いや……なにって」
クーは困惑するように返して、モリス嬢と、その後方で茫然と立ち尽くしている衛士二人とを見比べた。
「何があったか知らないけど、そのまま外に飛び出していかないほうがいいぞ。何か起こっても、あんた一人じゃ対処できないだろ」
時々皮肉っぽいことを言うクーだが、その言葉には、特に含むところはなかった、とキリクは思う。
神都で令嬢として育ち、この神殿に来てからもずっと、衛士に守られ、女官に世話をされるばかりだったモリス嬢が、外で突発事に見舞われた場合、咄嗟の判断も対応も出来るはずがない。
頭に血が昇っているからこそ、そんな危ないことはしないほうがいい──という、ただの忠告、どちらかといえば親切心から出たものだったのだろう。
しかしモリス嬢は、それを聞いて、ますます頬を真っ赤に染めた。彼女はクーのその言葉もまた、自分に対する侮辱であると受け取ったのだ。
どうせ自分だけでは何も出来ないくせに、という。
「おまえになど、指図される覚えはないわよ! 棄民は棄民らしく、黙って控えていなさい!」
カッとなった勢いで、手を振り上げた。
もしかしたらモリス嬢はこれまでに、「棄民は力で従わせるもの」という教育を受けていたのかもしれない。あるいは、彼女の親か周囲は、生意気な棄民に対して暴力で躾けるのは当然、という考えの人間ばかりだったのかもしれない。
どちらにしろ、その手は拳となって、躊躇なく振り下ろされた。
──が、クーには届かず、虚しく空を切った。
寸前で、キリクがクーの身体を後ろに引き寄せたからだ。そしてすぐに、カイトがクーを庇うように前に出た。
「……モリス嬢、どうか落ち着いていただきたい。これ以上は我々も黙って見過ごすわけにはいきません」
カイトが低い声できっぱり言った。
いつもはクー以外の神女候補の前では遠慮して、口を開くことはおろか、自分の姿もあまり見せないようにしているくらいのカイトなのだが、この時ばかりは一切を吹っ飛ばして真っ向から対峙した。
手を上げた時点で、相手はクーに危害をくわえる人物である、と認定したためだろう。何を最優先とするか、その順位付けはすでにもう彼の中で揺らぐことなく定まっている。
カイトがモリス嬢に向ける鋭い眼差しは、その言葉が「警告」であることをはっきりと示していた。
「な、な、な……」
モリス嬢の顔から色が抜けた。
彼女はカイトから向けられる威圧感に竦んでいた。だからこそ余計に反動のように、羞恥と屈辱が急速に湧き上がったのが、その表情から見て取れた。
サンティ嬢から受けた侮蔑、今しがたまでの衛士たちとのやり取り、そして教皇との対面を控え、そもそも尋常ではなく昂っていた感情が、ここにきて、さらに爆発寸前までに膨らんだようだった。
握りしめた拳が、ぶるぶると震えている。
「は、半民の分際で……!」
棄民と半民が神民である自分に逆らった、誰もかれもが自分という存在を下に見る、という被害妄想的な思いが、その時、彼女に一気に襲いかかったのかもしれない。
その上、目の前には、自分とは違い、二人の衛士に大事にされて守られている神女候補がいる。
「神民のわたくしに向かって、なにを偉そうに! わたくしにはちゃんと、おまえの考えなどわかっていてよ!」
モリス嬢が、カイトに人差し指を突きつける。
怒りに燃える彼女のその目の中にあるのは、嫉妬以外の何物でもないように、キリクには見えた。
時々、クーがカイトに向ける可愛いヤキモチとはまるで異なる、妬みと嫉みだ。
「自分にはないもの」を持つ人間に対する、憎悪に近いその感情は、今まで溜め込んでいた分、もはや底のほうが完全に見えないほどに、どろりと濁り、真っ黒になってしまっている。
彼女はその感情を自分自身で制御するすべを知らない。それを自分の中に咀嚼して取り込み、昇華させることなど、頭の端にも引っかからない。
……だから、他人にぶつけることしか出来ない。
「おまえは自分が半民だから、棄民の神女候補が現れたことが嬉しくてしょうがないのよ。だってそれは間違いなく、自分よりも『下』にある存在ですものね。神民の中で小さくなって生きてきたおまえが、唯一大きな顔の出来る相手なんでしょうよ。いつもいつも、神民の顔色を窺いながら、びくびく過ごしてきたおまえにとって、棄民の神女候補は、自分の代わりに神民の上に立ってくれる貴重な存在なのだわ。──本当は、いつもバカにされることが悔しくてたまらなかったのでしょう? 自分を苛めた神民に仕返ししてやりたくてしょうがなかったのでしょう? おまえに必要だったのは、身分の低い卑しい生まれでありながら神民を見返してやれるための、大義名分なのよ。それに棄民の神女候補というのはうってつけだった、というだけの話よ。つまり棄民でさえあれば、別にその娘でなくても誰でもよかった。大事なのは、おまえのそのおぞましい劣等感を満足させられること、それだけだった。認めなさいよ、おまえはただ、自分の汚い欲のためにその棄民を利用しているに過ぎないと。それなのに、その欺瞞と偽善に満ちた顔、まったく吐き気がしそう……!」
息を継ぐ暇もなく語気荒く紡がれ続ける言葉は、カイトの中の何かを抉り出し、血を流させることに成功したらしい。カイトは青い顔で唇を引き結び、次から次へと自分に向かって放たれる尖った矢を、黙って受け続けていた。
目を伏せはしないものの、表情には暗い翳が落ちている。
──そしてその矢は、カイトだけでなく、モリス嬢自身にも確実に跳ね返っていた。
口を動かすにつれ、表情が苦しげに歪み、目には涙が浮かびはじめる。握りしめた拳だけでなく、小さな震えは声に、そして全身に廻りつつあった。
彼女はカイトを傷つけながら、同時に自分自身もまた、傷つけている。その口から出る毒は、カイトだけでなく、彼女の身をも蝕んでいるようだった。
「おい、いい加減に──」
我慢ならなくなったのか、クーが眦を吊り上げて口を開く。そこから反論が飛び出す前に、カイトが軽く手を挙げて、「いいんだ、クー」と遮った。
「だけど!」
「いいんだ」
小さく笑いかけて、再びモリス嬢に顔を向ける。
舌が止まり、引きつけを起こしたかのように唇だけをわなわなと動かしている彼女に、静かに声を出した。
「……気が済みましたか。だったら今日はもう、部屋に戻って休まれたほうがいいですよ」
モリス嬢は肩で息をしながらしばらくカイトを見つめていたが、一度だけ大きくしゃくり上げたと思ったら、何も言わずにくるりと踵を返した。
自分の部屋の前で、でくの坊のように突っ立っている衛士たちのほうは見向きもせずに、扉を開けて中に駆け込んでいく。
廊下には、しんとした静寂だけが戻ってきた。
「──じゃ、行くか」
声の調子を取り戻して、カイトが言った。
しかしその口許には、痛々しいほどにぎこちない笑みが浮かんでいる。それを見たら、さすがに口が廻るキリクも言葉に詰まった。こんな時には、何を言っても慰めにはならないような気がする。むしろ、逆効果だ。
クーは閉じられたモリス嬢の部屋の扉を睨んでから、ぷいっと顔を背けるように前を向いた。
「バカバカしい。要するに八つ当たりだろ。どうしてあいつらの喧嘩のせいで、こっちまでとばっちり喰って、気力を削がれなきゃならないんだ」
カイトはまるで自分が悪いことをしたように、クーの顔を覗き込んだ。
「今日はもう、出かけるのはやめておくか?」
「はあ? あの『おどおど』のために、自分の予定を変更するなんて御免だね。こういう時こそ、馬と遊んで気分を紛らわさないと。──ほら、行くぞ!」
もう一度、自ら一喝するように声をかけて、カイトの左手を取った。
カイトがびっくりしたように目を見開く。
そしてクーはもう片方の手で、キリクの右手を取った。
突然だった上に、勢いがあったので、キリクは前につんのめりかけた。
「……君はどうしてそう、行動が出し抜けなんだろう。手を動かす前に、意向を訊ねるとか理由を説明するとか、そういうことを覚えたほうがいいと思う」
「キリクもそう思うだろ? クーの場合、足が動く時も前触れってものがないからな、避ける暇もない」
カイトが我が意を得たりという感じで、首を大きく動かし頷いている。ものすごく実感のこもった声だった。
「この間の腹への蹴りは、相当効いたみたいだね」
「キリクも一度受けてみろよ、キツいぞ」
「僕はまだ死にたくないんだ」
「うるさいぞ、二人とも。カイトとキリクは、口を動かす前に足を動かせ」
ぴしゃりとした口調で言って、クーがキリクたちをぐいぐいと両手で引っ張っていく。これでは護衛というより、連行されていく囚人のようだ。迷子にならないように、叱られながら母親に手を引かれている子供たち、と言ってもいい。
しょうがないので、ずんずんと進んでいくクーに従って大人しく足を動かす。
ちらっと視線を横に向けると、表情を和らげたカイトが、さっき浮かべていたものとはまったく別の、優しい笑みをたたえていた。
クーという娘は、大雑把で乱暴で、しかもおまけに愛想というものがまるっきりないが、それでもたぶん、言葉よりももっと大事なものを知っている。
***
教皇との対面の場において着用する衣装は、司教の時と同じように、神殿が用意してくれるらしい。
今度は白いドレスと白いケープという組み合わせだ。先日の衣装は少々露出が多くて薄すぎたが、これは首元から詰まっており、しかも長袖であるという。神殿ごと、宮殿ごとのいろいろと面倒な決まりによるものらしいが、今からもうクーのうんざりする顔が予想できた。
神殿内を歩いていたキリクを呼び止め、それについての説明をしたのは女官のマレだった。
「当日は、わたくしが参りまして、お手伝いさせていただきますので」
少々固い顔つきながら、そう告げる彼女を、キリクはかなり意外な思いで見やる。
あの一件以来、一度もこちらに姿を見せず、キリクを避けているような節も見られたので、マレはもう金輪際来ない、というつもりなのだろうと思っていた。
その場合、どこから人手を借りるかなと思案していたところだったから、率直に言えばその申し出は非常に助かる。しかし今ひとつ腑に落ちない、というのも正直な気持ちだった。
なにより自分のプライドを重視するマレのようなタイプの女性は、自分から頭を下げるような真似は決してしたがらないはずだ。それとも、キリクの人を見る目に、齟齬があったということだろうか。
「もちろん、それは助かるけど……」
キリクはそう言いながら、注意深く彼女を観察した。
目線を下に向けたマレの表情には、今までにはなかった緊張が浮かんでいる。不本意だがしょうがない、と自分の気持ちを抑えているようにも、怒りを無理やり押し込めているようにも見えなかった。
内心で首を捻っていると、後ろから、「キリク」と名を呼ばれた。その声に、マレがびくっと身じろぎする。
「あのさ、クーがあとで……」
近づいてきたカイトは、そこではじめて、キリクと話しているのがマレだということに気づいたらしい。途端に、しまった、という顔になって足を止めた。
「すまない」
その謝罪の言葉は、マレに向けられたもののようだった。すぐにくるりと背を向けて、足早にもと来た道を戻っていく。
自分の姿をなるべくマレの目に触れさせないように、と考えているのだろう。律義というか、クーが腹を立てるのも判るような、あくまで他人本位の気の遣い方をする男である。
が、その時。
「──あ」
と、マレがカイトの後ろ姿に向かって口を開きかけた。
しかしカイトは気づかない。結局、マレが続きを躊躇したその間に、自分たちからは見えない場所まで行ってしまった。
マレはしばらくキリク越しにそちらのほうに目をやっていたが、きゅっと唇を結び、うな垂れた。
──おやおや。
キリクはそれを見て目を瞠り、心の中だけで声を上げる。
……まさか、そんなことがあるとは思っていなかった。
「一体、カイトの何が、君の頑なな壁を溶かしたのかな」
純粋に不思議に思って訊ねると、マレはますます下を向いたが、否定の言葉はその口から出てこなかった。
「……わたくしは、別に……ただ」
かなり長い沈黙を挟んで、消え入りそうに小さな声が聞こえた。
マレは顔を上げない。キリクから見えるのは、彼女の頭のてっぺんくらいだ。
それからまた間が空いた。その無言の時間は、そのまま彼女の迷いを表しているようだった。
しばらくして、ようやく、
「……あ、ありがとうと、言われたので」
と、ぽつりとした呟きが落とされた。
部屋を出ていこうとした時に、カイトがかけた「ありがとうな、マレ」という、その言葉が。
「…………」
正直なところ、キリクにはよく判らない。酷い態度を取った自分を恥じている、というわけでもないのだろうし、反省しているというのとも違うのだろう。それっぽっちの言葉が、彼女の何を動かしたのか、本人にもよく判っていないように見えた。
実際、カイトはそれまでにも何度か、マレに対して礼を言っていたはずだ。マレは、それを毎回聞き流すか、聞こえないフリで無視していた。
……人と人の間では、たまに、そういうことが起こるのかもしれない。
あの時、あの場でだけ、カイトが出したその言葉が、マレの耳でも頭でもなく、心のほうに届いた。カチカチに乾いて硬くなった土のようだとキリクは彼女を評したが、そこに沁み込むだけの力を持っていた、ということだ。
キリクは彼女を説得するために多くの言葉を駆使したが、彼女の深いところに根付いているものを曲げたり消したりすることは出来なかった。それなのにカイトの放ったたった一言が、マレを大きく変えてしまった。
キリクの言葉にはなく、カイトの言葉の中にはあった「真」というものを、マレは本能的に読み取ったのだ。
「女性の扱い方について僕が指南するなんて、おこがましかったか。カイトも十分、素質がある」
「は?」
「いや、こっちの話。とにかく、君がまた手伝いに来てくれると聞けば、カイトもきっと喜ぶよ。今度はあんな風に逃げる必要はないと言っておく」
にっこり笑って言うと、マレは薄っすらと頬を染めた。ここにクーがいなかったのは幸いだ。これ以上足を蹴られたら、いくら頑丈なカイトでも、さすがに今後に支障が出るかもしれない。
「あ、あの、それで、もうひとつ、キリクさまにお伝えしておくことが」
慌てたように、マレが言う。ん? と首を傾げると、彼女は身を寄せて声音を抑えた。
「──司教様が、お話があるそうです」
キリクは少し黙ってから、微笑んだ。
「そう。わかった、すぐ行くよ。ありがとう」
マレが頷き、では、と頭を下げて立ち去っていく。司教からの伝言について、特に不審を抱いている様子はないようだった。
キリクはそのまま歩いて、司教の部屋へと向かった。
長い廊下の先には、司教以外は立ち入り禁止の石の扉がある。その前には衛士が二人立って番をしているが、こちらをじろりと睨んだだけで何も言ってこない。
たびたび司教の部屋に出入りする自分を、マレにしろ、彼らにしろ、どのように見ているのかな、とキリクは思った。
第一位神民のリシャル卿を父親に持つキリクは、それだけバーデン司教の信頼も深いのだ──とでも、考えているのかもしれない。
信頼か、とちょっと笑いそうになりながら、司教の部屋の扉をノックした。
「お入り」という返事に従って、扉を開け中に入る。
広々とした豪奢な室内で、大きな椅子にゆったりと深く腰掛けたバーデン司教は、垂れた眉毛の奥から、油断なく光る瞳をキリクに向けた。
信頼だって?
そのような呼び方をするものではない。これは、「共犯者」に対して向ける目だ。
「キリクよ」
「なんでしょう」
「……先程、宮殿から急使が参った。水晶が示したそうだ。『時、来たれり』と」
重々しい声で告げられた内容に、思わず息を呑む。
──とうとう、女神の力が授けられる時が来た、ということだ。
五人のうちの、誰かに。
水晶が、ひとつ目の役目を与えられるその神女の名を示した。
「教皇との対面の直前とは……水晶というのは、どこまでもこちらの都合を無視してくれるものですね」
「致し方あるまい、それが神意というものだ。我々人間の事情など斟酌するものではない」
「それで──誰なんですか」
自分の手をぐっと握りしめたのは、無意識の行動だった。脈打つ心臓を宥めるようにして、自分自身に向かって言い聞かせる。
大丈夫、大丈夫だ。
クーのはずがない。
じれったくなるような無言の後で、司教はようやくその名を口にした。
「第一の神女は──モリス」