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「クーにクリスタルパレス内を案内する」という約束は、一日遅れで果たされることになった。
早い時間に三人で神殿を出発し、青空の下、二頭の馬でパレス内をぐるりと廻る。今日も天気が良くてなによりだ。
案内役はもっぱらキリクが務めた。クーはもちろん、この場所のことをあまりよく知らないカイトも、揃って同じような表情で、パレスの広さ豪華さに、ひたすら驚嘆しているようだった。
上位神民が居住する建物は宮殿の周囲に固まっているため、残りの敷地は、様々な施設、広大な庭園、小さな森や泉などに占められている。警備の人間は至る所に配置されているが、それ以外はあまり人の姿もなく、静かなものだ。
いかにすれば最大限に美しく見えるか、すべてが綿密な計算の元に造られた庭園よりも、まだ自然に近いもののほうがクーの好みには合うらしい。澄んだ泉のほとりに差し掛かると、特に何かを言ったわけではないが、細い身体から余分な力が抜け、ホッとしたように息をついた。
「少しこのあたりで休憩しようか」
キリクがそう提案すると、「うん、そうだな」とカイトも笑って同意した。クーの様子を注意深く窺っていた彼もまた、キリクと同様のことを考えていたのだろう。
クーを神殿から連れ出した第一の目的は、彼女の心身をリラックスさせることだ。クリスタルパレスの中には、趣味人には垂涎ものの美麗で贅を尽くした建築物、趣向を凝らした造形芸術が数多くあるが、クーが喜ばなければ、まったくなんの意味もない。
カイトの手を借りて馬から降りると、クーは早速、泉の中を覗き込んだ。
わあ、と小さな声を上げる。
「すごいな、底までよく見える」
透明な水に手を入れ、ばしゃばしゃと音を立てて水滴を跳ね上げる。普段、大人びた言動をすることの多い娘だが、この時は年相応な無邪気さを表に出していた。
「落ちるなよ」
クーのすぐ傍では、カイトが例によって過保護な父親のようなことを言っている。子供扱いというより、本当に「目を離すと何をするか判らない」と考えているのだろう。そこら中を駆け回る子猫をハラハラしながら見守るような顔だった。
「こんなところ、落ちたって溺れるわけじゃないだろ」
「真ん中のほうは深そうだぞ。クーは泳げるのか?」
「泳いだこと自体がないよ。川はあったけど、せいぜい腰のあたりまでしか水嵩がなかったし」
「だったら余計に気をつけないと」
「一度、泳いでみたいと思ってたんだ。人の身体は勝手に浮くっていうし、あとは手足を適当に動かせばいいんだろ? たぶん、出来ると思うんだよな。いい機会だから、ちょっと飛び込んで……」
「バカ、やめろって!」
本気で慌てふためくカイトの顔を見るまでもなく、キリクもクーの気持ちがよく判った。そりゃ、いちいちこんな面白い反応をされては、ついからかってしまいたくもなるというものだ。
二頭の馬に泉の水を飲ませがてら、括っておいた荷を外した。それを持ち上げて、今もまだ騒いでいる二人のほうを向く。
「クー、カイト、お茶にしよう。少しだけど、食事も用意したから」
そう言うと、カイトはすぐに「ああ、判った」と返事をしたが、クーはキリクの手に持っているものと泉とを見比べるように、顔を動かした。
「こんなに綺麗なんだから、この泉の水も飲めるんじゃない? ていうか、こっちのほうが美味しそうだ」
クーが泉の中に入れた手で水を掬い、口元に持ってこうとする。
「ダメだ、クー!」
思わず、強い声が出た。
その鋭い口調よりも、キリクの厳しい顔つきと刺すような視線に驚いたのか、クーがぴたっと動きを止める。
カイトも少しびっくりしたようにこちらを振り返っていることに気づいて、キリクは内心で舌打ちした。
「……いくら透明度が高くて綺麗に見えても、泉の水はどんなものが混じっているか判らないからね、やめたほうがいい。お腹を壊してしまうよ。君は大事な身体なんだから、調子を崩しでもしたら一大事だ」
微笑を浮かべ、改めて穏やかに聞こえる声音で言うと、一瞬漂った微妙な空気を追い払うように、カイトが「そうだ、キリクの言う通り」と明るく肯定した。
「なんでもかんでも口に入れたらダメってことだぞ、クー」
「……ん、そうかな」
クーがちらりとキリクを見て、それでも素直に掌の中の水を地面に流した。
「木になってる実を見つけても、何も考えずぽいぽい腹の中に放り込んだりするなよ」
「え、ダメなのか。あの木についてる、赤い実も?」
「おまえ、本当に狙ってたな? ダメに決まってるだろ、毒かもしれないんだから」
「毒かどうか、食べてみないとわからないじゃないか」
「食べた後に判っても、もう遅いんだよ!」
くだらない言い合いになっていく会話を耳に入れながら、キリクはひそかに息を吐き出した。
芝の上でしばらく休憩すると、クーはちょこまかと動いて周囲の探索をしはじめた。
木を見上げ、泉の周りを歩き、地面の穴を見つけては覗き込み、何枚も葉っぱを浮かべた水面を手で叩いて競争させる。
ただ座っているのが退屈なのか、もともとじっとしていられない性格なのか。しかしどちらにしろ、神殿の中に閉じ込められ、狭い一室で大人しくしているというこれまでの生活は、クーにとってはさぞ、苦痛を伴うものであったのだろう。
陽の下で活発に動き回る彼女を見ていると、今さらながらにその事実を突きつけられたようで、キリクもカイトも少々居たたまれない思いをさせられることになった。
言葉も行動もあまり遠慮するということがない彼女だが、弱音を吐いたり愚痴を零したりするようなことはほとんどないので、こちらもいろんなことを見逃してしまいがちだ。
クーにとって、神殿での毎日は、ひたすら息苦しく窮屈なものであるに決まっている。
寂しく心細い思いも、いつも抱えているだろう。
見えないからといって、それらは決して存在していないわけではない。
「おーいカイト、馬に乗せてくれるんだろ? 勝手に乗ってもいいのか?」
いつの間にか馬の近くまで寄って戯れていたクーが、こちらを向いて訊ねてきた。
「待て、危ないからやめろ」
カイトが焦って立ち上がり、クーと馬のほうに走っていく。胸の内で考えていたのはキリクと似たようなことだったと見えて、どこかちょっと後ろめたいような、安堵するような顔をしていた。
カイトと少し言葉を交わしてから、クーが鞍の上に乗る。キリクはその場に座ったまま、その様子を眺めた。
怖がっているわけではないようだが、やはり一人では安定しないのか、若干戸惑っているようではある。
今日貸し出された栗毛の馬は、昨日の黒馬と比べてずっと気性が穏やかなので、まだ乗りやすいはずだ。逆に言えば、昨日カイトが乗っていたのがこの馬であれば、怖気づいて馬車の間をすり抜けて走るような無謀なことは出来なかったかもしれない。
カイトが手綱を引いてゆっくり歩かせはじめると、クーは短時間ですぐに慣れてしまったらしい。さっきまでの戸惑いはあっという間に消し去って、むしろ好奇心で目を輝かせていた。
彼女は元来、運動神経もいいし、勘もいい。これなら、練習次第で早いうちに乗りこなせるようになるだろう。
「走らせてもいい? 軽く足で蹴ればいいんだろ?」
「冗談だよな? 絶対にやめろよ? 馬はおまえと違って繊細なんだからな?」
相変わらずカイトを慌てさせることばかり言っているが、本気で実行するつもりはないようだ。怒ったり憎まれ口を叩いたりすることはあっても、基本、クーはカイトが本当に困るようなことはしない。
カイトも心配そうではあるものの、あれこれ口うるさく注意する姿は、キリクの目には非常に楽しそうに映った。
クーに向ける眼差しは、今までになかった深い色をたたえている──ような気がする。
これまでずっと全身にべったり張りつかせていた重い膜のようなものを脱ぎ捨てて、少しだけ軽くなった分、身体の……いやこの場合は「心」の真ん中に、芯が入ったように見える。
二人の間に何があったかは知らないが、おそらくそれは良い変化なのではあるまいか。
クーにとっても、カイトにとっても。
そして、キリクにとっても。
「キリク、馬って意外と面白いな!」
馬上から手を振るクーに、自分も笑顔で手を振り返して、キリクはゆっくりと仰け反るようにして空に目をやった。
大きく息を吸い込む。
明るい日差しは好きではないが、今はそんなに嫌悪感を覚えない。風が頭を撫でるように吹いて、気持ちよささえ感じた。後ろで結んだ金髪がふわりと揺れる。
目を閉じれば、楽しげな笑い声が流れてくる。自分の名を呼ぶ、朗らかな声が聞こえる。
幼い日、屈託なく笑いながら、「にいさま」と呼んで一生懸命自分を追いかけて走る、愛らしい少女の面影が浮かんだ。
ニーアにも、早くこの気分を味わわせてやりたい。
外の世界は広く、明るく、時としてすべてを忘れさせてくれるほどに優しく包んでくれることもあると、思い出させてやりたい。
──自分にも、今日という日は貴重な思い出になりそうだ。
しかし、そののんびりとした時間はさほど長くは続かなかった。
馬を降りてから、クーの顔色が急に悪くなったからである。
本人は平気だと言い張っていたが、どう見ても不調が出ているのは明らかで、三人は神殿に戻ることにした。
どこかが痛むのかと聞いても、クーは首を横に振るばかりだ。馬に酔ったわけでもないと言う。思い当たる原因がないことに、自分でも困惑しているようだった。
「なんか、ちょっと、気持ち悪いっていうか」
そう言ってから、眉を寄せて口を噤む。現在の自分の状態が「気持ち悪い」というのと違うのは判っているのだが、しかしだからと言って、その言葉以外にどう表せばいいのか判らない──という感じらしかった。
「カイト、君は?」
キリクに訊ねられて、カイトは「いや、俺は」と言いかけたが、一拍の間を置いて、こちらも微妙な表情になった。
「……少し、落ち着かない気分はあるかな。足元がムズムズするような……今日に限ったことじゃなく、クリスタルパレスの中ではよくそうなるんだ。俺にはずっと縁のない場所だったからだろうけど」
なんとなくきまり悪そうな顔で、ぼそぼそと言う。キリクは「そう」と答えて、考えるように顎に手をやった。
二人とも、生活の場である神殿や衛士舎では、こんなことを言いだしたことはない。無論、こんな風に調子が悪くなったこともない。
あの周辺は、クーとカイトのようにパレスに免疫のない者に対しても影響を及ぼさない──あるいは、流れているものに気づかずにいられる場所である、ということだ。
馬に乗りながら、ちらりと後ろを振り返る。
覗く者を鏡のように映し出す透き通った泉に、整然と敷き詰められた柔らかな緑の芝。誰の目から見ても、美しく清浄な景色だ。
しかし確実に、侵食され、蝕まれている。
……目で見るだけでは、判らない。
***
昼間はあんなにも良い気候だったのに、暗くなりはじめると共に黒雲が空を覆いだし、すっかり闇に包まれた頃にはざあざあと叩きつけるような雨脚激しい土砂降りとなった。
こんな天気では、さすがにカイトも、寝る前に軽く運動を、などと言ってキリクを剣の訓練に誘ってくることもない。部屋で大人しく本を読んでいたが、そのうち心地よい睡眠へと引き込まれていったようだ。自覚していないだけで、疲労も堆積しているのだろう。
キリクはカイトを起こさないようにひっそりと部屋から出て、ついでに衛士舎の建物からも抜け出した。
夜間の外出は禁止という建前はあるが、所詮建前は建前であって、律義に守り通しているのはカイトくらいのものだ。どちらにしろクリスタルパレスの外へは出て行けないのだから、大した問題にはなりようがないと、多少のことは黙認されている。
結局のところ、衛士とはいっても、甘やかされて育った神民の子息ばかりの集団である。厳しい規律に縛られ続けていられるような強靭さなど、はなから持ち合わせているわけがない。いくら誉れある職だとしても、適当に息を抜かなければやっていられない、といったところが本音なのだろう。
キリクが欲しているのは息抜きではなく、息をするために切実に必要な糧だ。生きる目的であり、精神的な拠り所でもある。どうしようもない枯渇感に苛まれるようにして、ニーアの存在を求めずにはいられなくなる。
……たとえ、分厚い扉越しの、あるかなきかの細い繋がりだとしても。
「やあ、こんばんは。いい天気だねえ」
頭からマントを被ってもあまり意味がないような雨の中、ランプの心許ない灯りだけを頼りに歩いていたキリクの後ろから、不意に軽い声がかけられた。
「…………」
ぴたりと立ち止まる。
一瞬どうしようかと迷って、結局後ろを振り返ることはせずに、ため息をついた。こんな時間、しかもこの雨の中、外に出ようという物好きはキリクとこの男くらいだ。他の誰かの目がないかと、わざわざ周囲を確認するのも馬鹿馬鹿しい。
「ずいぶん、好きなように動き回っているようだね」
そう意図したわけではないが、キリクの口から出た声は、味がついていたらさぞかし苦い、というようなものになった。後ろから、くくくっと楽しそうに笑う声が聞こえる。
どんな顔で笑っているのか、興味がなかったので見ようという気にもならない。自分の前に出てくるたびに、服装だけでなく、顔も声も変わっているという人物だ。実際はかなり若いはずだが、どこから見ても老人そのものの姿で現れたこともある。
いや、今日はこの雨なのだから、キリクと同じようにマントをすっぽり被って、そもそも顔すら見えなくなっているかもしれない。
果たして今日は、左頬の傷は隠しているのか、いないのか。
キリクが気になるのは、ただその一点くらいだ。
「悪いね、どうしても気になってさ。俺はどんなことでも、自分の目で見て確認しないと、気が済まないタチなんだ」
まったく悪びれることのない返答が返ってきた。キリクに無断で勝手な行動ばかりすることに、文句のひとつも言いたかったところだが、どうせ無駄になることは判りきっていたので、諦めて息をついた。
こちらの掌の上で大人しく踊ってくれるような人間ではない──それはキリクも、よく知っている。
「自分の目で見て、どうだった?」
「悪くない」
「それだけかい?」
キリクが訊ねると、ほんの少しの沈黙があった。おそらく、「あの時」のことを思い出しているのだろう。
「確かに、腕はいいね。あれでもっと本気になられていたら、ちょっと危なかったかも」
「それは幸運だったね」
微笑を浮かべながら、キリクは言った。この人物にそう思わせたとしたら、カイトの腕はやはり大したものということだ。少し、胸のすくような気分がある。
「でもまだちょっと、ふらついているかな」
キリクの内心を見透かしたかのように、くすくす笑われた。いつものことだが、彼と話していると、自分よりもずっと年上を相手にしているような気にさせられる。老練な話し方や態度は、彼がこれまでの人生で培った経験によるものなのだろうか。
「くれぐれも言うけれど、彼に傷をつけるような真似は慎んでくれ」
「心配かい?」
「当然だろう?」
素っ気なく言って、キリクは肩を竦めた。
「カイトはこの計画には欠かせない人材だ。害することも、損なうことも、許さない」
後半の言葉は、無感動なほど冷淡な声で出された。降りしきる雨音に紛れて、「おお、こわ」と面白がるような笑い声が後ろから聞こえた。
「それに、君のその評価は、もう現在の彼には当てはまらないかもしれないよ。カイトは一日ずつ変化し、成長している。『守るべきもの』を得た人間というのは、どこまでも強くなっていくものさ」
「多少は性根を据える気になったかね?」
「そうだな……まあ、まだ背負っているものはいろいろとあるようだけど」
しかし少なくとも、地に足がついた、という印象を受ける。
「飛棉花、って知ってるかい?」
キリクの問いに、またわずかな間が空いた。今度はいきなりの話題転換についていけなかったらしい。
「飛棉花って、あの白くて丸い、ふわふわした花のことだろ?」
「そう。その名の通り、綿毛についた種が飛散して、それによってあちこちで繁殖していく花のことさ。種は風に吹かれて宙を舞い、やがて地面に着地して根付き、芽を出し花を咲かせる」
「……それが?」
「カイトはその種に似ているなと思っていたんだよ。綿毛について、風に流されるまま逆らいもせず流離い飛んで、でも降りるべき場所が見つからなくて困っている──そんな感じの」
「上位神民ってのは、いちいちそういう回りくどい喩えをしないと話が出来ないの?」
背後からの声を、キリクは無視した。
「だけどようやく、着地場所を見つけた。僕はそう思う。……そこに根付いて、花を咲かせられるかどうかは、本人次第だと思うけど」
あくまでも抽象的な言い方に呆れているのか、うんざりしているのか、それに対する返事はなかった。
少しの無言の後で、小さい含み笑いが耳に届いた。
「あんたでも、そんな声が出せるんだねえ」
「いつもと変わりないよ」
「俺は作ったものとそうでないものとの見分けくらいは出来るんだ。……まあいいさ。それで、神女候補のほうはどうだい?」
「面白いよ」
するりと口にしてしまってから、質問の答えにはなっていないことに気がついた。クーのことを聞かれて、まずそういう感想が出てしまう自分もどうかしている。つい、噴き出してしまった。
「彼女は強い──いや」
少し考えて、首を捻る。クーはクーで、「強い」と一言では言い切れないものがある。
「部分的に脆いところはあるようだけど。でも、気の強さは折り紙付きだ。肝も据わっている。ふてぶてしさは、少しカイトにも見習ってほしいくらいだ」
無理はないか。なにしろクーはあの細腕で、人によってはお荷物としか映らないような母親を、養い、面倒を見て、守り続けてきたのだから。
あの荒れ果てた街で、男の格好をして誰の助けもなくそんなことをやってのけるのは、想像以上に容易なことではないだろう。囲い込まれてただぬくぬくと育ってきた令嬢たちなど、束になったところで敵うはずがない。
そしてクーは、洞察力も鋭い。
いちばん身近な母親に、自分が女であるということを隠し通していたのだ。きっと、一緒に暮らしていた頃は、母親の一挙手一投足に至るまで注意深く観察し、慎重に振舞っていたに決まっている。
そんな彼女が、人一倍他人を見抜く目に長けているのは当然のことだ。
逆にカイトは、周囲からの目が厳しかったからこそ、他人のことに鈍感な傾向がある。彼の生育環境から、いちいちまともに受け止めていたら、精神が保てなかったというのもあるだろう。カイトの場合は、見ないフリや聞こえないフリでやり過ごさないと、自分を守っていけなかったのだ。
だからクーはキリクに対して何かを感じているようなのに、カイトはまったく何も気づいていない。
「あんたの思惑通りに、事は運びそうかい?」
「たぶん」
「あの娘は授けられた役目を全うできる器であると?」
「きっと」
「なるほど、楽しそうだ」
後ろで、男がくくくっと笑っている。あまり興味を持たれて、これ以上厄介なことを引き起こされても困るので、一応釘を刺しておこうと、キリクはようやく首を曲げてそちらを振り向いた。
しかしそこにはもう、誰もいなかった。
吹きつける雨飛沫が、まともに顔にぶつかってくる。しんとした静寂の中、立っているのはキリク一人だ。
「…………」
どっと疲れて、はあーと息を吐いてから、歩くのを再開させた。
暗闇はどんどん濃くなっていく一方で、今までのやり取りも、後ろにいたかもしれない誰かも、闇がもたらす束の間の幻影のように思えてきた。どちらかというと、夢や幻のほうがまだ可愛げがあっていい。
神都であろうが、クリスタルパレスであろうが、ところ構わず出現してみせる神出鬼没の人間なんて、不気味なだけだ。「姿のないものに化かされているよう」と言っていたカイトの言葉は、ある意味正しい。
足音も、水が弾く音も、やけに今の自分が独りであることを強調しているように聞こえた。さっきまでは何とも思わなかったのに。一人が一人のままであるのと、二人が一人になるのとでは、大きな違いがある。
雨で霞む茫漠とした景色には、建物の窓明かりが、いくつもぼんやりと浮かび上がっていた。その向こうでは、誰もが笑いさざめきながら、楽しいこと面白いことばかりを考えて、明日の予定でも立てているのだろうか。
外の暗闇で蠢く何があっても、それは夢や幻のごとく流されて。
パレスの中の人々にとっては、悩みも苦しみも生きるつらさも、すべて虚構の世界の中のものであるのかもしれない。
雨が降りしきる窓の外で、ぽつんと佇む人間がいるなんて、きっと彼らの頭を掠めもしない。
ずっと高いところにある窓の向こうで、たった一人で泣いている女の子の存在だって、知りもしない。
キリクは金色の瞳を暗くして、前方の闇だけを見据えて歩いた。
明るい昼間も嫌いだが、こんな真っ暗な夜も嫌いだ。
──あまりにも寂しく、やるせない。