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クリスタルパレスに戻って──と簡単に思っていたカイトだったが、それはまったくもって認識不足もいいところの、短絡的かつ迂闊な考え方であったと、嫌というほど思い知らされることになった。
パレスの門番は、断固としてカイトを門の内側に入れてくれなかったからである。
カイトの要求を突っぱねる門番の顔には、最初にクーを連れていった時の神殿の衛士のような、怒りも反感も乗っていなかった。とにかく無表情で、「許可のない者は入れられない」と繰り返すのみだ。
取りつく島もないとはこのことで、まったくつけ入る隙がないという意味では、こちらのほうがはるかにタチが悪かった。
クリスタルパレスに出入りする際には、許可が必要。そんなことはカイトだって重々承知していたし、理解しているつもりでもいた。今までここに入る時には、必ず教皇や司教のサイン入りの許可証を提示して、それでようやく通行が許されていたのだ。
しかしだからといって、あまりにも融通が利かなすぎると、苛ついてしまうのもまた事実だった。カイトは不審者を見つけて追いかけたという緊急の理由があってパレスを出たのだし、それについての説明も何度もしたつもりだ。なのに門番はそのたび、「許可のない者は……」の定型文を唱えるばかりで、一向に話がそれより先に進まない。
「だから俺が衛士だってことは、神殿に確認してもらえれば判ることだろう!」
「許可のない者は入れられない」
その不毛なやり取りに、ようやく光明が見えたのは、カイトがここに到着してから一時間も後のことだった。
とうとう門番が折れた、わけではなく、門のほうまで馬に乗ってやって来たキリクの姿を見つけたからだ。
「キリク!」
心底ほっとして、カイトが上げた救いを求める声は、相当悲壮さを伴っていた。
「──カイト」
キリクはカイトの顔を見て、きゅっと眉を寄せた。
いつもの穏やかな微笑みは、その口許には見えない。立ちはだかる門番と、その向こうにいるカイトを目に入れただけで瞬時に状況を理解したのか、押し留めるように軽く手を挙げた。
「今すぐ、神殿から許可をもらってくる。それまで、ここで大人しく待っていてくれ。余計な騒ぎを起こしてはダメだよ、いいね?」
言い聞かせるような口調でそう言ってから、ひらりと馬首の向きを変えさせ、駆けていく。
わざわざ神殿に行かなくても、ここでキリクが「その男は神殿の衛士で怪しい者ではない」と話してくれれば解決するのではとカイトは訝ったが、目の前に立つ門番の表情がまったく変わらないのを見て、その考えを改めた。
きっと、ここでキリクが何を言おうと、どう説明しようと、門番の答えは同じなのだろう。
パレス内に住居があるキリクはそれをよく知っているから、無為に時間をかけるようなことはしなかったのだ。
門番のこの対応には、違和感さえ覚えてしまう。確かにそれでこそ厳重なパレスの門を守っていると言えばそうなのかもしれないが、あまりにも画一的で、原理原則に固執しすぎではないだろうか。
真面目というよりは、思考力、判断力が欠けている。堅物どころか、これでは言葉を発するだけの置き物と同じだ。しかも出せる言葉は一種類しかない。
こんなことで、もしも突発事が起こった時、それにちゃんと柔軟な対処をすることが出来るのか。
面をつけたように無表情のままの門番を見て、少し薄ら寒い気分になった。
***
ようやく、門の通行が許されて、カイトはパレス内に入ることが出来た。
やれやれと息をつく。威勢よくここから飛び出していったはいいが、結局なんの収穫もなく、手ぶらですごすごと戻ってみれば、もうすでに夕刻に近い時間である。今になって、どっと疲労感が背中に圧し掛かってきた。
「遅くなった上に、面倒をかけてすまない、キリク。実は──」
馬を並べて歩かせながら、謝ろうとしたカイトの言葉を、キリクがまた手を挙げて遮った。
「事情はもちろん聞くけど、それはとりあえず後にしよう。君はどうもよく判っていないらしいから」
「は? 何が?」
問い返してから、気がついた。何があっても、大体にこやかに受け流すことの多いこの男が、さっきからずっと言葉少なで、厳しい表情を崩さない。
今になって、言いようのない不安が駆け上ってきた。
許可も得ずパレスの外へ出て行くというカイトの勝手な行動が、神殿内で問題になっている──とか?
いや、それは無理もないことだし、叱責を受けるのも当然だと思う。
しかし、キリクのこの顔。
もしかしたらそれは、叱責だけで済む事態ではないのではないか、という疑問が、むくむくと暗雲のようにカイトの胸中に湧いてきた。
衛士が一人、何も言わずにいなくなる。それは神殿にとっては、とんでもない不祥事に当たるのかもしれない。神殿や衛士のことには詳しくないカイトは知らなかっただけで、今頃は大変な騒ぎになっているのかも。
もちろんカイトにも言い分はある。だがその事情を話しても、あの門番のようにまるで聞き入れてもらえないという可能性は、十分にあり得ることだった。
ただでさえ、カイトは周囲によく思われていないし、半民の自分が衛士をしていることが気に入らないという人間も、掃いて捨てるほどいるのだ。
これを機会に、カイトを排除しようという動きが出ても、不思議ではない。
そうしたらカイトは、神殿どころか、このパレスからもあっという間に追い出される。キリクはもちろん、神女候補であるクーの近くに寄ることも出来なくなるだろう。
「…………」
そこに考えが至って、頭のてっぺんから血の気が引くような思いがした。
何も話してくれないキリクと、何も言えなくなってしまったカイトが、無言のまま神殿に戻った時にはもう、完全に陽が傾きはじめていた。
そういや、クーにクリスタルパレスをはじめて見せてやった時もこんな感じだったなと、夕日に赤く照り映えている神殿建物を見上げる。自分の場合は、これが見納めになるのかもしれないと思うと、顔が強張った。
引っ立てられる罪人のように、キリクの後について、しおしおと神殿の中に入る。
その場所はいつも通り静謐で落ち着いていて、どこからもカイトを弾劾し責任を問う声は投げられなかった。
あるいは一歩足を踏み入れた瞬間に、衛士たちに身柄を拘束されるのではないかと警戒していたのだが、今のところその心配はないようだ。弁解をする余地くらいは与えてもらえるのだろうか。
カイトの前を行くキリクは、こちらを振り返ることもなく、さっさと足を動かして進んでいく。てっきりそのまま司教のところまで連れていかれるのかと思ったが、着いた先は、クーの居室だった。
扉の前で立ち止まったキリクが、ちらりと顔を後ろに向ける。
「……覚悟はいいね? カイト」
真面目な口調で問いただされて、カイトは固い表情でぎこちなく頷いた。
自分が仕える神女候補の前で処罰が言い渡される、ということなのか。クーはカイトに失望するだろうか。彼女に向けて、一体どんな顔をすればいいのだろう。これから正式な神女が選ばれるという大変な局面を迎える、こんな時に──
キリクが取っ手に手をかけて、カチャリと開ける。
部屋の中には、司教も神官も、他の衛士の姿もなかった。いるのはクーだけだ。薄暗くなったというのに灯りも点けず、窓から射し込む赤い光を浴びて、彼女はじっと椅子に座っていた。
逆光になっているせいで、入り口にいるカイトからは、その顔がよく見えない。
クーは、キリクと共に室内に入ってきたカイトを見て、目と口を大きく開けたらしかった。間髪入れず、勢いよく立ち上がる。椅子が後ろに倒れて、ガタンと音を立てた。
「カイト!」
大きな声で叫んだその瞬間、クーの表情が泣きそうに歪んだ……ように、見えた。
「……クー」
急激に、形容しがたい感情の塊が、胸のあたりまで込み上げてきた。自制できないくらいの大きな波が巻き上がって、何もかもを呑み込んで持っていってしまいそうだ。
無意識に、足が一歩前に出る。
もう会えなくなるかもしれない。この顔を見ることも、声を聞くことも出来なくなるかもしれない。カイトがいなくても、キリクがいれば、クーは大丈夫だろう。今までだって、カイトはクーに何もしてやれなかった。むしろ半民の自分が近くにいるほうが周りの目は厳しくなるということは、もう判っている。だったらこれでよかったのだろうか。いいや、だけど。
だけど。
収拾がつかないくらい混乱しながら、それでも強く思っていることはひとつだけだった。
ああ、そう、そうだ。俺は──
が、そこでカイトの思考は止まった。
するりと自分の背後に廻ったキリクが、いきなり両脇の下に腕を差し込んで、がしっと羽交い絞めにしてきたからだ。
「え?」
立ち上がったクーは、さっき一瞬見せた儚げな表情などどこかに吹っ飛ばして、眉を吊り上げて剣呑な空気を全身から発散させている。
「……え?」
なぜそこで、とんとんと跳ねるように足踏みをする必要が?
「カイト、無事なんだな?」
「は?」
「どこも怪我をしていないな?」
「え……うん」
「だったら口を閉じておけ。舌を噛まないように」
「え」
「キリク、しっかり捕まえとけよ」
「仰せのままに」
いつの間にか、キリクの顔には、楽しそうな笑みが戻っている。カイトはうろたえた。
「え、ちょ、ちょっと待て、なんだこれ」
「……潔く罰を受けるんだね、カイト。自業自得というものだよ」
こそっと耳元で囁かれたその言葉を、カイトが聞き返すことは出来なかった。
え、ともう一度思った直後、腹の真ん中に、強烈な蹴りを入れられたからである。
しばらく声が出ないくらい、その一撃は効いた。対象が足の時も結構な威力だと思っていたが、腹になるとその比ではなかった。か弱い、などとはもちろん一度として思ったことはないが、それでも小柄で華奢な体格をしているくせに、クーの攻撃はきちんと要領を得ている人間のそれだった。
「……ちょ、おま、今、手加減しないでやっただろ……」
カイトはその場にしゃがみ込んで、腹を押さえて呻いた。一応鍛えていると言っても、後ろから羽交い絞めされた状態で、しかも完全に、すっかり、まるっきり、油断しきっていたので、肉体だけでなく精神的なダメージも相当でかかった。
こいつを「可愛い」なんて考えた俺が馬鹿だった……
「当たり前だ。オレの全身全霊全力をかけた、渾身の一撃だからな」
クーはせいせいしたとでも言うように鼻息を吐くと、くるっと身を翻してテーブルのほうに戻った。キリクも、「見事な蹴りだったなあ」と感心しながら、クーと一緒に椅子に腰を下ろす。
「──で」
にっこりと笑った。
「何があったのかな、カイト」
「…………」
カイトは床に座り込んで、ぼんやりと二人を見返した。
クーはどう見ても怒っているし、キリクも口元はともかく、目が笑っていない。
冷ややかな空気が刺さるように痛かった。
当然か。仕事をほっぽり出して、無責任にも単独行動をした挙句、何も得ることはないままおめおめと戻ってきたのだから。
「……すまなかった」
カイトはその場で頭を下げて謝罪した。
「勝手にここを離れて、パレスの外に出て行ったのは、俺の間違いだった。衛士の職分を放棄したも同然のことだもんな。この責任は──」
「カイト」
下に向けた頭に、ぴしゃりとした声がかかる。目を上げると、キリクが「まったくしょうがない」というような顔で、ため息をついた。
「君はまだ判っていないのかな。そりゃあ、君には君の、そうせざるを得ない事情があったんだろうさ。君が仕事を放り出して、そのままどこかに遊びに行ったなんて思うほど、僕もクーも愚かじゃない。こちらに連絡もせず一人で動いたのは、そうしなければならないような一刻を争う切羽詰まった出来事が、それも偶発的に起こったのだろうと、予想はしていたよ、もちろん」
冷静に言われて、カイトは困惑した。
それが顔にそのまま出たのか、キリクが今度はちょっと苦笑する。クーはむっつりと腕を組んだままだ。
「いいかい、よく考えてごらん」
諄々と言い聞かせるような口調だった。
「ちょっと馬を走らせてくる、と言ったきり、いくら待っても戻ってこない。痺れを切らして周辺を探してみても、まったく見つからない。カイトの身に何かがあったようだ、と考えるのは普通のことだろう? 神殿には知られないようにあちこち聞いて廻って、ようやく判ったのは、血相を変えた君が馬車の列と一緒にパレスの外へ飛び出していった、ということだけだ。どうやら何かを追いかけていったらしいという話は聞けたものの、それ以外のことはなーんにも判らない、ときた。以後、音沙汰もなく、連絡もなく、伝言すらもなく、ぱったりと行方をくらましてしまった君を、僕とクーが、どんな気持ちで待っていたと思う?」
キリクはやっぱり微笑んではいるのだが、声の調子は凍えそうなほどにひんやりとしている。床の冷たさとは関係なく、足元から冷気が這い上がってきた。
「逆の立場になって想像してごらんよ。僕か、あるいはクーが、こんな風にいきなりぷっつりと姿を消したら、君はどうする?」
「それは……」
想像してみるまでもない。カイトはあちこちを駆けずり回って探すだろう。なんの手掛かりもないことに焦れて、腹を立てて、不安のあまり胃をキリキリさせて、心身を消耗させるだろう。
どうしてって。
──心配、だから。
カイトは口を閉じて、改めてクーとキリクを見た。
二人がそこまで怒っている理由が、ようやく判った。きちんと、理解した。そんなこと、もっと早くに判っていなければならなかったのかもしれない。本当に自分はどこまでも間が抜けている。
……でも、しょうがないじゃないか。
今まで、カイトは誰かに「心配される」なんてこと、ただの一度もなかったのだから。
カイトが病気になろうが、傷を負おうが、人知れず姿を消そうが、誰も気にかけなかったし、意にも介さなかった。むしろ笑われたし、余計に暴力を振るわれたし、いなくなってよかったと安心された。
ずっとそうやって育ってきたカイトは、クーとキリクが自分に向けてくれるものに対して、あまりにも無頓着だった。
病院で、いきなり泣き出したクー。ああそうか、「怖かった」って、そういう意味かと、ようやく腑に落ちた。
カイトも、もうここにはいられないかもしれない、クーの顔が見られなくなるかもしれない、と思った時に感じたのは、確かに「怖い」という感情だった。
失うというのは、時として、怖いものなのだ。
「……すまなかった」
もう一度、同じ言葉を口にした。
今度は、キリクは呆れたようなため息をつかなかったし、クーの眉はそれ以上吊り上がることはなかった。
「じゃあ、ちゃんと事情を聞こうかな」
キリクが穏やかに言った。
***
カイトから詳細を聞いて、クーとキリクは表情を引き締めた。
「間違いないのかい?」
キリクに問われ、カイトは頷きかけたのだが、そこで動きを止めた。
「……と、思う。なにしろ一瞬のことだったからな。だから確認しようと思って、つい前後の見境なく追いかけたわけなんだが」
「頬に傷が?」
と訊ねたのはクーだ。そこだけは自信があったので、カイトは肯った。
「それは間違いない。左の頬に傷があった。でも、今考えると、はっきりしてるのはそこだけなんだよな」
なにしろ、カイトは病院で、あの男の顔をじっくりと見たわけではない。見えたのはほんのちょっと、すぐに男はまた隠してしまったのだから、最も明瞭に覚えているのはあの傷のみ、とも言える。
「……あるいは」
キリクが考えるように言った。
「それを逆手にとって、その男は、顔の傷を故意に君の頭に刻み込ませた可能性もある、というわけだ。鼻や口の形なんてものよりも、ずっと記憶に残りやすいからね。神都内にそういう印象深い傷を負っている人間がいることを知っていて、その上で、君に誤認させるよう仕向けたかもしれない」
「うーん……」
カイトは額に手を置いて、考え込んだ。
もしもそうだとしたら、自分はあの男に一杯喰わされたということだ。カイトは顔を覆った布を断ち切ってあの傷を見たのだが、それすらも男の手の内だったとしたら、腹立たしいことこの上ない。
「カイトも今回の件で身に沁みたと思うけど、クリスタルパレスというところは、出るのは比較的容易でも、入るのは非常に難しい。商人たちが乗ってくる馬車も、もちろんすべて身元の確認がされている。そもそもある程度の身分の者しか許可されないし、高位神民の口利きも必要だ。正体不明の人間が、おいそれとその中に入れるとは考え難いな」
キリクに諭されるように言われていると、だんだんカイトの自信のほうもぐらぐらと揺らいでくる。時間が経つうちに、自分の前を通っていった馬車の御者の顔も、どんどんぼやけていくようだった。
──あの時は、間違いなくあの男だと思ったのだが。
しかしそれは、カイトの勘と言ってしまえばそれまでだ。キリクの理路整然とした言葉の前では、こんなあやふやな反論は、まるで意味をなさないような気がする。
「……まあ、でも、それだけでは君も納得できないよね」
キリクはカイトの顔をちらっと一瞥してから、立ち上がった。
クーはさっきから口を噤んで、キリクをじっと見つめている。
「クリスタルパレスに出入りする商人は、すべて記録が残っている。店の場所も、店主の名前も、すぐに判る。それを見せてもらおう。それから、明日の朝は早くから門のところで待機して、一台ずつ御者の顔を見てみよう。もちろん、僕も一緒に行くよ。もしも本当に不審者がパレス内に立ち入ることが出来たとしたら、それは大問題だからね」
そう言って、カイトの返事を待つこともなく、「じゃあ」と部屋を出て行ってしまう。別にそんなに急がなくても、と思うのだが、そういえば、「何事も迅速に」というのがキリクのモットーだったな、とカイトは思い出した。
判らないことに頭を悩ませるのは時間の無駄、とも言っていたっけ。キリクは現実的だ。確かに、今の時点で出来ることはほとんどない。
パタン、と扉が閉じられるのを、クーと二人で見ているしかなかった。
キリクがいなくなってしまえば、部屋の中にはカイトとクーだけが残されることになる。
しばらく、なんとも居心地の悪い沈黙が続いた。
「えーっと……」
ここはやはり、もう一度謝っておくべきだろうか。そんなことを思いながら、意味もなく目線を宙に浮かせていたら、隣で、小さなため息が零された。
「……で、子供はどうだったんだよ」
「ん?」
「こんなに遅くなったのは、馬車に轢かれそうになった棄民の子供を家まで連れて行ったからなんだろ? 大丈夫だったのか?」
「ああ、うん」
さっきの説明の中で、ちらりと漏らしたそのことを、気にしてくれていたらしい。テーブルに頬杖をついてこちらに向けているクーの顔が、いつもと変わらないものになっていることにホッとして、カイトは小さく笑った。
「怪我は大したことなかったよ。リツとナギっていう姉弟でさ、両親が神都で働いていて、二人ともその手伝いをよくしているんだそうだ」
健気で働き者の子供たちのことを、クーにあれこれと話してやる。姉はしっかりしていて、弟はちょっと内気。でも二人とも可愛かったよと言うと、クーの表情がやっとほぐれた。
「そっか」
と、目元を柔らかく緩める。
リツとナギを、クーにも会わせてやりたいなあとカイトは思った。二人はきっと懐くだろう。クーはどこか、子供に好かれそうな雰囲気がある。ガキ大将っぽい、という意味で。
「また機会があったら……と言いたいところだけど、難しいかな。リツは俺に対して怒っているだろうし」
そう言うと、クーはきょとんとした。
「怒ってる? なんで?」
「いや……俺がどうも、余計なことをしたようで」
成り行きで、銀貨を差し出してリツの不興を買った、という件も話すことになった。クーは黙って聞いていたが、カイトが話し終わると、「ふうん」と鼻を鳴らした。
なんとなくバツが悪くて、こりこりと指で頬を掻く。
「まあ、確かに同情はあったからな。施し、と言われたら、そうなんだろうと思う。リツが腹を立てるのも当たり前だ」
「アホらしい」
クーは短く言った。その言葉通りの顔をしている。
「おまえがリツの立場でも、怒ったか?」
クーとリツは少し似ているからなと思いながら聞いてみた。そりゃ怒るに決まってる、と言われても、カイトはあの時どうすればよかったのか、その正解が判らない。クーだったら判るだろうか。
可哀想に、と思う気持ちは確かにあった。棄民に対する罪の意識もあったと思う。上の立場からの傲岸な行為であったと言われたら、一言もない。屈辱だと憤慨されたら、そうなのかもしれない、悪かった、と恥じ入る気持ちもある。
──でも、そのまま放り出していくことも、どうしても出来なかった。
「さあね、その時その状況によっては、怒ったかもしれない。……だけど、一つだけ、はっきり言えるのはさ」
「うん」
クーは頬杖を外して、真っ直ぐカイトのほうに顔を向けた。
「カイトがそんなことを気にする必要は、これっぽっちもないってこと。アホらしいっていうのは、そういう意味だよ」
今度きょとんとしたのはカイトのほうだ。その顔を見て、クーがもどかしそうに眉を寄せた。
「そのリツってのがどう思うかは、そいつの勝手。バカだなと思うけどさ、しょうがないよな、子供なんだし。カイトのことだって、何も判っちゃいない。だけど、それをカイトが気にする必要も、ましてや悪いことをしたなんて思う必要もないんだ」
「いや、でも」
「カイトはたとえば、道に倒れている子供がいたら、それが神民であっても、助け起こすだろ?」
「……うん、それは」
「子供でなくても、女でも、大人の男でも、どうした大丈夫かって声をかけて、手を出すだろ。場合によっては、自分が持ってる金でも食い物でも差し出すだろ。そいつが棄民でなくても、特にみすぼらしい格好をしていなくても、困っていたら、足りないものを分けてやろうと思うだろ。それをすべて施しと呼ぶか? アホらしい。いいか、カイトが差し出すそれはな」
強い眼差しが向けられる。
「──救いの手、っていうんだ」
一瞬、呼吸をするのも忘れそうになった。
「それを掴むかどうかは、相手次第だ。だけどカイトはなにも間違ったことなんてしちゃいない。それをなぜ恥じる? カイト、手を出せ」
突然命令されたが、その意味が捉えきれなくて、反応が遅れた。もう一度「手を出せ」と言われて、訳もわからず右手を上げた。
上げたはいいが、どこにやっていいか判らなかったので、そのままふらふらと揺れた。
行き先がなくて迷うばかりのその手を、小さな手が摑んだ。
「オレはおまえの手をちゃんと取ったからな。その手を取って、救われたものは、確かにあるんだ。今さら引っ込めようとしても、そう簡単には離してやらないぞ。単純だし、お人よしだし、時々頭にくることもあるけど、カイトはそのままでいい。カイトのその手を必要としている人は、きっと他にもいるはずだ」
「…………」
カイトは目線を下に向けて、自分の手をぐっと握る指を見ていた。
しばらくの間を置いて、
「──バカだな」
詰めていたものをほどいたら、口から細い息と一緒に小さな声が出た。
……どっちが、お人よしだって?
カイトがクーを神都に連れてきたのは、棄民の彼女が神女になって、他の人間から敬われるような立場になれば、自分の裡の奥底に沈んでいる暗く澱んだものが、少しは消えてくれるのではないかと思ったためだ。
棄民の母親を助けることも守ることも出来なかった自分が、同じく棄民であるクーを衛士として守ることが出来たら、この身に染みついた母の血が、あの時刻み込まれた絶望が、多少は薄く軽くなるのではないか──と、そう思った。
そんなものを救いの手とは言わない。
利己的で自分勝手な、押しつけに過ぎなかったのに。
「……クー」
顔を上げて呼びかけると、クーが、うん? と首を傾げた。
「俺、神殿を辞めさせられることにならなくて、よかったよ」
「当たり前だろ、なに言ってんだ。辞めさせてたまるか。平気だよ、今回のことはキリクが上手いことやるからさ。それこそ、『キリクに任せとけば大丈夫』、だ」
そう言って、楽しそうに笑う。
うん、こうやって笑っているのがいいな、とカイトも目を細めた。
もう泣かせたくない。どうやったらキリクのように上手に喜ばせてやれるのかよく判らないけど、これから頑張って考えよう。
自分自身で考えて答えを出さなきゃ、きっと意味がない。
カイトはクーに会うまで、何に対しても、執着というものを持ったことがなかった。
行き場のない自分。ただひたすら、彷徨うだけ。
警備隊の副隊長という地位に未練はなかったが、思いもかけず巡ってきた神殿の衛士の立場も、大して良いものだとは思わなかった。クリスタルパレスの空気は、どうも自分には馴染まない。
どうせ、どこにも安住の地を持てぬ身だ。
ここを辞めさせられても、また剣を持って次の勤め先を探すだけのことだ、と思っていた。
……でも今になって、気づいた。
そうだ。俺は、やっぱり嫌だ。
クーの傍にいられなくなるのは、嫌だ。
彼女が神女であってもなくても、どちらでもいい。
クーがクーとして、笑っていてくれたら、それでいい。
ずっと居場所が見つからなかった自分が、「ここにいたい」と、はじめて、そう願った。
***
翌朝、キリクと一緒に門の手前で一台ずつ馬車を確認したが、頬に傷のある御者を見つけることは出来なかった。
そんな予感はしていたが、気持ちの持っていき場がない。
「まるで、姿のないものに化かされているみたいだ。何がなんだか、わかんねえよ」
口惜しそうに吐き捨てるカイトの隣では、キリクがそっと息を落としていた。
(Ⅴ・終)