1
神国アリアランテは大昔から、心優しき女神リリアナを戴き、栄えてきた国である。
この国には神が宿るとされ、国の中央に位置する神都に暮らす民たちは、神に加護されているという意味で、「神民」と呼ばれる。
その神民たちの上に君臨しているソブラ教皇は、自らを「神の代理」と定め、女神リリアナより皇位を託されたとして、このアリアランテを絶大な権力で治めていた。
***
「……アホくさ」
頭上にある、抜けるような青い空を眺めながら、ユウルは呟いた。
仕事の中休み、うず高く積まれた藁草の上にぐったりと寝そべってはいるものの、その程度では、すり減った体力は到底すぐには取り戻せそうにない。
しかも今日はやけに陽の光が強くて、おまけに暑かった。周りは小さくみすぼらしい石の家々が、身を寄せ合うように所狭しと立ち並んでいて、風の通りも悪いのでなおさらだ。
ただでさえユウルが着ているのはこの季節にはもうそぐわない、厚手の上着だったりするものだから、じっとりとした汗が引くどころか量を増すばかりで、ますます不快さが募る一方だった。
疲労は抜けず、じりじりと陽光に炙られて、ちくちくした草の感触と、だらだらと流れていく汗の鬱陶しさにひたすら耐えることに、長くもない貴重な休み時間を費やしている。
何をやってんだろ、オレ。
呆れたように内心で言ってみるが、それでもユウルがその場から動くことはなかった。
全身に圧し掛かる倦怠感と、いっそこのままここで蒸し焼きになってやろうかという、少々やけくそな気分も手伝って、意地になったように強くぎゅっと目を瞑る。
視界を閉じれば、ざわざわとした周囲の喧騒が耳に入り、どこからか漂ってくる汚水の臭いが鼻をついた。
人々が交わす会話のほとんどは、日々の生活への不満と不安と愚痴ばかりで占められている。それが諍いに発展することも、このあたりでは珍しくない。日常的に鬱屈を抱え込んだ人間は、他人に対して優しくするような余裕はなく、荒々しく尖った神経を誰もが持て余しているような状態なのだ。
汚く、貧しく、常に怒りの感情で充満しているような、「棄民」の街。
ここでは誰もが、吐き気がするほど浅ましくならなければ、生きてはいけない。
「……アホくさ」
ユウルは目を閉じながら、もう一度、同じ言葉を呟いた。
なにが、女神リリアナだ。
そんなものは、あの邪魔くさい神民と、この腐った国と共に、滅んでしまえばいい。
***
「──なあ、ちょっと訊ねたいんだが」
かけられた声に、目を開けた。
どうやら、少しウトウトしていたらしい。気がつけば、自分が寝そべっている藁草の下で、二人の若い男たちが立ってこちらを見上げていた。
「…………」
ユウルは身を起こし、薄っすらとした笑いを口元に貼りつけながら、藁草の上から彼らを観察するように眺めた。
大きく折られた襟のついた上着。腿のあたりまである長さの丈のそれは、材質も仕立ても、この下町で見かけるようなものではない。
そして、腰に差した剣。
武器の所持は、棄民には認められていないから、それだけでもうすでに、特権階級の証だ。
つまり、こいつら二人は、神民ということだ。
「実は俺たち、ある家を探していてな。一応は事前に調べてきたんだが、このあたりはなにしろ、似たような建物が密集していて……よかったら、道案内をしてくれないか」
二人のうちの一人、褐色の短髪をしたほうの男が、困ったように手に持った地図を見て、頭を掻いた。
二十代前半、くらいだろうか。神民にしては尊大ぶったところはないが、いかにも単純で、能天気そうだった。だからこんな風に、見知らぬ他人に対しても、警戒心なく道を聞いてきたりするのだろう。
その日の食べ物のことを心配しなくてもいい場所で、安穏と暮らしていると、こんな性格が出来上がるのか──とユウルは顔には出さずに内心でせせら笑った。
「オレ、今、休憩中なんだよね。時間を過ぎても仕事に戻らないと、親方にどやされるんだ。給金も減らされちまうしさあ」
藁草の上で胡坐を組み、首を傾げて返事をする。表面上の笑みはそのまま、屈託がないようにも聞こえる口調で。
「あ……そ、そうなのか。じゃあえーと、案内してもらうのは無理だよな、どうするかな」
褐色の髪の若者は、馬鹿みたいに察しが悪かった。ユウルの言葉をそのまま受け取って、困惑したようにぶつぶつ言っている。
アホかこいつ、とユウルは呆れた。
「じゃあ、その分の給金と、親方に怒られる分も上乗せして、僕らが君に手間賃を払う、ということでどうかな」
もう一人の青年のほうは、アホよりもずっと話が早かった。陽の光に透けるような金色の長い髪を後ろで纏めているその姿には、明らかにもう一方にはない気品がある。着ているものも、こちらのほうが上等そうだ。
察するに褐色は、こいつの従者、ってところか。
「よし、乗った」
ユウルはそう請け負うと、藁草の上から飛び降りて、地面にすとんと着地した。
同じ目線に立ってみてはじめて、褐色頭はユウルの小柄さに驚いたらしい。「あれ、子供?」と、混乱したように呟いている。足を蹴ってやりたくなったが、我慢した。
「これでも十七だよ。背が低いのは生まれつき。あちこち細いのは、あんたたちみたいに毎日毎日思う存分たらふく飯を食ってないからだ。これでいいかい?」
後ろで無造作に括った赤毛を指でぴんと弾きながら、意地悪く笑って一気に言ってやったら、褐色頭は何度か目を瞬いて、口を噤んだ。
「──で、どこを探してるって?」
そちらは無視して、主人であろう金髪のほうを向いて訊ねると、最初から何も変わらない、穏やかな微笑が返ってきた。あまりに鈍感なのも苛つくが、これはこれで、何を考えているのかさっぱり判らなくて腹立たしい。
「デニ、という家を探しているんだけど」
金髪の口からその名が出た瞬間、ユウルの顔から表情が抜けた。
「……デニ?」
平板な口調で問い返す。金髪は微笑を浮かべたまま、じっとユウルの顔を見つめていた。
「知っているかい?」
「そこに、何の用?」
「すまない、用向きは本人にしか言えないことになっているんだ。その家に、ククルという女の子がいるはずなんだけど、知ってる?」
「…………」
ユウルは無表情で黙りこくった。
褐色のほうは怪訝な面持ちで、金髪のほうは静かに笑んで、こちらの返事を待っている。しばらく無言を続けた後で、大きなため息をついた。
「──まあ、知ってる」
その言葉に、単純そうな褐色がぱっと瞳に喜色を浮かべたが、勢い込んだ問いが投げつけられる前に、ユウルが再び口を開いた。
「でも、ククルは死んだ」
褐色が「えっ」と声を発して驚愕の表情になり、金髪は何かを考えるように口元に手をやった。
「死んだ? そんなバカな」
「それは確かなのかい?」
「確かさ。デニん家のククルは、八つの時に事故で死んだ。このあたりの住人なら、みんなそれを知ってる。疑うなら聞いてみなよ。誰からも、同じ答えが返ってくると思うぜ」
うろたえる褐色と、眉を寄せる金髪に、ユウルは肩を竦めて言った。
「だけどキリク、水晶は──」
「落ち着いてカイト。とにかく事実確認をしてみないと、まだ結論を出すわけにはいかない」
どうやら褐色はカイト、金髪はキリクという名前らしい。
カイトを宥めてから、キリクは改めてユウルのほうに向き直った。
「悪いけど、やっぱり僕らをデニ家に連れて行ってもらえるかい? ククルという女の子はいなくても、彼女の親はいるはずだ。会って話を聞いてみたい」
「……ああ、いいよ」
ユウルはまた薄く笑い、「ついてきな」と一言言って、歩き出した。
その後について足を動かしながら、カイトが問いかけてきた。
「なあ、おまえ、名はなんていうんだ?」
「──ユウル」
一言だけ、素っ気なくそう言った。
***
下町は地形が入り組んでいる上に、どこもかしこも猥雑で、荒んでいる。
通りは両側に並ぶ小さな建物に押し潰されそうなほどに狭く、開け放たれた窓からは、赤ん坊の泣き声や、男女の怒鳴り声、物をひっくり返すようなけたたましい音まで響いてくる。
「……ずいぶん賑やかだな。いつもこんな感じなのか?」
カイトが周囲を見回しながら、感嘆するような声を出した。
「ここが静かになったら、それは住人全員が死に絶えたってことさ。まだ、声を出せるだけの気力と体力くらいは残ってるんだから、よしとしないとね」
前を見ながら、ユウルが軽い口調で返す。ずっと振り向きもせずに歩いているので後ろの二人がどんな表情をしているのかは判らないが、少なくともこれまでの彼らの言動に、この狭さ汚さ、そしてすえたような悪臭を、露骨に嫌悪するようなところはなかった。
せめてその目で、よく見ておくがいいさ、とユウルは胸の内で思う。
これが棄民の生活だ。
神国と謳っておきながら、神の加護を受けるとされる「神民」は、国民のほんの一割程度。
残り九割の民は──神に見捨てられた「棄民」のほとんどは、神民の贅沢な暮らしを成り立たせるために、重い税金を取られ、貧困に喘ぎ、辛酸を舐めながら毎日手足を引きずるようにして働いている。
なにが女神リリアナだ。
自分たちの頭上に、神などはいない。
「目的の家は、まだ遠いのかな」
距離を進むうち、今まで黙っていたキリクが、ふいに口を開いた。
「地図で示された場所とは、方向がちょっと違うようだけど」
「ああ、ここでは地図なんてものは、まったくアテにはならないよ。住人の入れ替わりも激しいし、しょっちゅう家移りするやつもいる。なにしろここらは治安が悪いからね、一つのところに安心して暮らせるような環境じゃないんだ」
笑って言いながら、ユウルは細い路地に入り、その先の階段を下っていった。
広々とした高台にある神都の人間たちには判らないだろうが、棄民の住む街は大体どこでも地下へと通じる道がある。低層に行けば行くほど、貧しさが上乗せされ、治安もより劣悪になる。
今も、細く開いたあちこちの窓から、こちらを覗き、窺う目がいくつもあった。
狭い階段を下って、突き当たりにある古びた木製の扉が見えてきたところで、ユウルは後ろを振り返った。
「ここがデニの家だよ。オレの案内はここまで、金をもらえるかい?」
手を差し出すと、カイトとキリクは目を見交わした。
「ああ。ありがとうな、ユウル。代金はこれでいいか?」
カイトが懐から布製の財布を出し、そこから取り出した銀貨を一枚、ユウルの掌に載せた。
その輝きを見て、思わず、軽く口笛を吹いてしまう。これだけあれば、今夜は母親に肉を食べさせてやれる。
「じゃあな」
銀貨を握りしめ、ユウルは身軽に階段を駆け上った。
その途端、バン!と乱暴な音を立てて、扉が内側から開かれた。
「うわ──なんだ?!」
驚いたようにカイトが声を上げる。
ユウルが走りながらちらっと背後を一瞥すると、その時にはもうすでに、二人の身体は中から伸びてきた何本もの武骨な手によって捕らえられ、暴力的に扉の向こう側へと引っ張り込まれているところだった。
これから、迂闊に穴ぐらの中に迷い込んできた二匹の獲物は、獣のような男たちに身ぐるみ剥がされ、有り金すべてを奪われることになるだろう。
場合によっては翌日死体となって、街はずれにでも打ち捨てられることになるのかもしれないが、そこまではユウルの知ったことではない。
「この街で、油断するほうが悪いのさ」
通りに出たユウルは笑い声を立てて、仕事に戻るため悠々と歩きはじめた。
***
陽が落ちて、仕事から帰ると、自分の家の前の暗がりに、二人の男が立っているのが見えた。
「…………」
脇を向いて、ちっと舌打ちする。
彼らの姿に、別段変化は見られなかった。服装にまったく乱れはなく、身体のどこにも傷らしきものがない。カイトは腕を組み非常に苦々しい顔をしているが、キリクは憎たらしいほど最初に会った時と変わらない微笑を浮かべている。
どうやら腰の剣は、ただの飾りではなかったらしい。
「このガキ、俺たちを騙しやがって」
カイトに、猫の子を捕まえるように後ろ襟首を掴まれた。仏頂面で、ふんとそっぽを向く。
「ここでは騙されるほうがアホってことになってんの。盗みも暴力も、下町じゃ日常茶飯事さ。銀貨一枚で勉強できたと思っておけばいいじゃないか」
「誰がアホだ。まったく減らず口ばかり叩くやつだな」
ぽいっと放り出すように手を離された。どれだけ殴られても、剣でいたぶられても、しょうがないかなと覚悟を決めていたのだが、あちらにその気はないようだった。
「おかげで、あそこにいた人たちに、今度はちゃんと正しいデニ家を教えてもらえたよ。この家……君の家がそうだね?」
キリクに目の前の塗料の剥げた扉を指し示しながら問われ、ユウルは渋々頷いた。
あの扉の中にいたのは、界隈でも恐れられるほど札付きの悪党ばかりだ。強盗、強奪はもちろん、人殺しだって眉ひとつ動かさず実行できる。相手が神民であれば、なおさら容赦なく残酷になれるだろう。
そんな連中を相手に、かすり傷ひとつ負わず、涼しい顔して「教えてもらえた」だって。
こいつらは一体、何者だ。
「そして面白いことも聞いた。デニ家には、男女の双子がいた、とね。兄がユウル、妹がククル。非常によく似た双子で、同じ服を着ていたら、どちらがどちらなのか、まるで見分けがつかない。判別できるのは本人たちと、彼らの母親のみだと」
「…………」
ユウルは目を伏せた。
「妹のククルは、八つの時に事故で死亡した──ことになっている」
「ククルは死んだ」
ぽつりと言葉を落とす。
そう、死んだのだ。周りの人間はそう信じている。みんな──誰一人、疑うことなく。
ククルはもういないと。
ここにいる自分以外の、全員が。
「……君は、女の子だね?」
静かな口調で出された言葉は、質問ではなく確認だ。
ユウルは身じろぎもせず、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。
「男の格好をして、兄の名を名乗る。どうしてそんなことをしてるんだ?──ククル」
カイトの声には、心配そうなものが滲んでいる。ぐっと拳を握り締めた。神民に哀れんでもらう謂れはない。うるさい、大きなお世話だと叫んで、突き飛ばしてやりたかった。
だけど──
八歳の時からずっと、呼ばれることのなかった名前。
騙して、悪党の巣に放り込んで、死のうがどうしようが知ったことかと思っていた相手から、こんな風に、こんな声で、その名が出てきてしまったら、ユウルにはもう、どうしていいか判らない。
胸が何かに押し潰されたように苦しくなった。ずっと長いこと必死になって突っ張っていた棒が、今になって、ぐらぐらと揺れている。
どちらにしろ、限界は近かった。
「……ククルは、死んだんだ。もう、いない」
喉から絞り出すようにして出した声は、情けなく震えていた。
「もう、この世界のどこにも、いないんだ」
神にも、周囲の人間にも、自分の半身である兄にも、たった一人の母親にも見捨てられた、可哀想な子供。