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翌朝になって、「おはよう、クー」と笑顔を見せながら部屋に入ってきたのは、キリクだけだった。
「……カイトは?」
そう訊ねたクーの声に、不安そうなものが滲んでいるのを敏感に感じ取ったのか、キリクはにっこりした。
「もちろん、いつも通り元気いっぱいだよ。ただほら、昨日、君の護衛をカイト一人に任せてしまっただろう? だから代わりに、今日の午前中だけ休んでもらうことにしたんだ。病院では、ちょっとしたトラブルに見舞われたようだしね」
最後の言葉は気軽な調子でおまけのように付け足されたが、クーはさらに唇を曲げた。
「元気なの?」
「困るくらいにね」
「どこか怪我をしていたり」
「昨日は、君もその場にいたんだろう? カイトが相手の攻撃を受けるようなヘマをしたかい?」
「速すぎて、よく見えなかったよ」
それに、直接打撃を受けてはいなくとも、後になってどこかに不調が出てもおかしくはない。なにしろ、あの正体不明の男からの猛々しいまでの襲撃を、カイトはたった一人で防いだのだ。
「やれやれ」
眉を曇らせたままのクーを見て、キリクは大仰な仕種で肩を竦めた。
「僕はここに来る前、カイトにたった数時間の休みを取らせるのに骨を折ったんだよ。その上こっちでも、君の説得に手間取るとは思わなかった。本当はカイトには、今日一日ゆっくりしていたら、って言ったんだけどね、どうしても首を縦に振らなかったんだ。だからなんとか半日ということで強引に納得させたのに、君がそんな顔をしていたら、あっという間にここに飛んできてしまう。僕の苦労も水の泡だ」
キリクがいかにも面倒くさそうに言って天を仰いだので、クーは目を瞬いた。
「……そうなの?」
「なんなら、今から衛士舎まで覗きに行くかい? 読書でもしていたらどうかなと勧めておいたけど、どうせカイトがじっとしているわけないんだから。きっと今頃、外で剣でも振り回してるよ」
ほんの半日の休みを持て余して、何をしようかなと困惑した挙句、結局身体を動かしているカイトの姿を思い浮かべるのは、確かに容易だった。
「昨夜も散々、腕がなまっているのかも、なんてぶつぶつ零していたからね。寝る前に剣の相手をしてくれないかって誘われて、僕は逃げるのが大変だったんだ」
男を仕留められなかったこと、あるいは逃がしてしまったことは、カイトにとっては不本意な結果だったらしい。剣を手にして衛士舎の中をウロウロしているカイトと、そこから逃げ回るキリクを想像したら、クーはぷっと噴き出してしまった。
「やっと笑った」
キリクが目許を和ませる。
「…………」
クーはその顔を見てちょっと黙り、一拍置いてから、悪戯っぽく唇を上げた。
「じゃ、カイトは今、一人でせっせと自主訓練に励んでいるわけだ」
「そういうこと。落ち着かない性格だよね」
「ちょっとくらい付き合ってやればいいのに」
「絶対にいやだよ」
キリクは綺麗な笑顔で、すっぱり言い切った。
ひどいやつだなあ、とまた笑う。それから少し考えて、クーは口を開いた。
「……じゃ、オレに少し付き合ってくれる?」
キリクが不思議そうな表情で、首を傾げた。
「なんだい? 君まで運動しようっていうんじゃないよね」
「まあ、それでもいいけど。でもその前に、ちょっとだけ行きたいところがあってさ」
「行きたいところ? でも、クー」
「わかってる。神殿の外には出ないよ。──大広間に行こうと思って」
大広間? とキリクが問い返す。クーは頷きながら、椅子から立ち上がった。
「……女神の顔を見たくなった」
***
神殿中央にある大広間にキリクと共に入っていくと、そこには先客がいた。
「あ、『自信家』」
「しっ」
自分で付けた名をぼそりと口にすると、すぐさま後ろのキリクが唇に人差し指を当てた。一応、クーを窘めるような目つきをしているが、口元の笑いを隠すつもりはないようだ。
女神像に向かい合うようにして跪いていたイレイナもまた、広間に入ってきたクーの存在に気づいて、ぱっと立ち上がった。こちらに視線を向け、不快そうに顔をしかめる。彼女の近くで控えている衛士二人も、眉を上げて腰の剣に手をかけた。
「悪い、邪魔したみたいだな」
露骨に威嚇をする衛士たちのほうには顔を向けず、クーはイレイナに声をかけた。後ろにいるキリクも、柔らかく微笑したまま、同じく衛士たちのことは完全に無視している。
イレイナは、クーの言葉に返事をしなかった。つんと顎を上げて、横を向く。
「──なんだか急に空気が悪くなったようだわ。イヤな臭いもするし、さっさとお部屋に戻りましょう」
これ見よがしにハンカチを取り出して、鼻に当てている。「はい」と返事をして従順に頭を下げる衛士二人を見たクーは、家来みたいだなあ、という感想を抱いた。本来、神女候補と衛士というのは、こういうものなのだろうか。それとも、神民の「位階」というやつが関係しているのだろうか。
彼らに目を向けることもなくふんぞり返っているイレイナに自分を、そして彼女から距離を取り恭しく従うだけの衛士二人にカイトとキリクを当てはめて考えてみようとしたが、ちっともその絵は上手く頭に描けなかった。
──オレは、こんなのはイヤだなあ。
どうしても、そう思えてしまう。そもそもクーは自分が神女候補という自覚がほとんどないから、そのせいかもしれないけれど。
「別に、続けていて構わないぞ。待ってるから」
イレイナは、クーの声などまったく聞こえないような顔をしていた。どこかで虫でも鳴いているのかしら、とでも言いたげな様子で、衛士たちを引き連れてクーとキリクが立つ入り口のほうにまっすぐ歩いてくる。
「ここで何してたんだ?」
イレイナの視線はこちらに向けられているものの、クーを見てはいない。顔合わせの時と同様、クーを「ここにはいないもの」として扱うことにしたのだろう。
「掃除でもしてたのか。偉いな」
その言葉に、イレイナの表情がぴしりと引き攣った。後ろで、キリクが小さく噴き出す。
「神女候補なんて、この神殿でただ飯食ってるだけだもんな、それくらいしないとなあ。そのドレスの床を引きずる長い裾は、たくさん埃を集められて便利そうだ」
ここに至って、イレイナはようやく、クーが自分をからかっていることに気づいたらしい。目許に険を入れて、キッとこちらを振り向いた。
「やっと見たな」
クーがにやりと笑う。
ますます眉を吊り上げたイレイナは、改めて見ないフリを続行するかどうか一瞬迷って、結局やめた。何かを言い返してこの生意気な棄民をへこませてやらないと腹の虫が収まらない、とでも考えたのだろう。
クーを見下ろすようにして、顔を上げる。実際、彼女は態度も大きいが、身長も小柄なクーよりずっと高かった。
「おまえのような下賤な者が、わたくしに馴れ馴れしく口をきくなど、許されると思って?」
「へー、棄民は神民に向かって話しかけるのもダメなのか? そりゃ大変だ。じゃあこれからは、キリクに代弁してもらうかな」
ちらっと背後のキリクを振り返る。キリクはキリクで、この状況をすっかり楽しんでいるようで、わざとらしいまでに礼儀正しくクーに自分の耳を寄せた。
イレイナではなく、キリクに向かってひそひそ囁く。もちろん、イレイナに聞こえるくらいの音量でだ。
「……実はさっきから疑問に思ってたんだけどさ」
「イレイナ嬢、僕の神女が、あなたにお訊ねしたいことがあるようで」
「イレイナの肩に動物の毛みたいなのがくっついてるんだよな。どこかで狩りでもしたのかな。臭いの元はそれじゃないかって、誰か教えてやったほうがいいんじゃない?」
「クー、あれは服の飾り……いえ、イレイナ嬢、僕の神女が、肩に乗っているその白いフサフサしたものについて、動物の毛みた……いやその、興味を抱いておられる様子なので……」
そこで限界が来たらしく、キリクはぶふっと噴き出した。イレイナは頬を真っ赤にし、衛士二人が色めき立って、それぞれ剣の柄を握った。
「ぶ、無礼な……! わたくし、こんな侮辱を受けたのははじめてです!」
「侮辱?」
「そうですわ、棄民の分際で!」
「──だから、お互いさまって話だろ?」
クーは真顔になって、イレイナを正面から見据えた。がらりと変わった声音に、キンキン声で叫んでいたイレイナが呑まれたように口を噤む。
「棄民や半民だからと、オレとカイトを侮辱しているのはどちらだ? 別に難しいことを言っているわけじゃない。オレたちだって人間で、あんたと同じように人の心を持ってるってことを理解しろ、と言っているだけだ。無神経な言葉や、馬鹿にするような笑いは、他人を傷つけるということを知れ。神女候補同士、衛士同士の立場は対等だと聞いた。今後もその態度を改める気がないというなら、こちらだって相応のものを返させてもらう」
イレイナは強張った表情で、クーを睨み返した。何かを言おうと口を開きかけ、また何倍にもなって返ってくるのを警戒してか、忌々しそうにまた閉じる。
「彼女の言う通りですよ、イレイナ嬢。棄民、神民に関わらず、神女候補同士は対等だと、司教からも重ねてのお達しがあったはずでしょう? あまり目に余るような言動をなさると、のちのち困ることになるのはあなただと思いますね」
キリクは微笑みながらそう言って、今も柄から手を離さない二人の衛士に視線を向けた。
「そして言うまでもなく、衛士とはすべての神女の御身を守るもの。位階の上下にこだわるなど、まったく無意味なことだ。なにしろ正式な神女となれば、彼女たちはその枠から外れた存在になるのだからね。敵意を向けたり、ましてや、神女に剣を向けるなんて、もってのほか。司教も教皇も、そのような言語道断な振る舞いを、決してお許しにはならないだろう」
「…………」
衛士たちの顔から血の気が抜けた。ぎこちない動きで、剣の柄から指が一本ずつ外れ、離れていく。
「──ということで、改めて聞くけど」
クーは衛士たちを一瞥してから、再びイレイナに目を向けた。
「ここで何してたんだ?」
彼女はしばらく赤い顔で黙り込んでいたが、やがて、「祈りを捧げていたに決まっているでしょう」という腹立たしそうな返事が返ってきた。頑固にクーと目を合わせることを拒んでいるのが、彼女なりの抵抗ということらしい。
「祈り? 女神像に?」
「神女として当たり前のことですわ」
「どんなことを?」
「この国と世界の安寧を祈っていたに決まっているではないの」
「ふーん」
つんけんして寄越された答えに、クーは首を捻った。イレイナの言う「この国」には、棄民の街は入っていないんだろうなあ、と心の中で考える。
神女として当たり前、と彼女は言うが。
まさに当たり前のように、彼女にとっての「国と世界」というものは、神民のみで構成されている。
実際、神民だけでは、ほんの一日だって、アリアランテは国家として存続していけないだろうに、イレイナはそれが判っていないのだろうか。
この国の民は九割が棄民だ。そちらから納められる税金がなければ、神民たちの贅沢な暮らしはあっという間に瓦解する。
棄民の大半が造反すれば、神民は飢えて死ぬしかない。今まで彼らは自らのその手で何かを作ることも育てることも放棄してきたのだから、当然の帰結というものだ。
クーでさえ判るその簡単な理屈に、当の神民はまったく気づいてもいない、なんて。
イレイナほど極端ではなくても、神民にとって棄民は、人間未満の、家畜のようなもの、という認識しかないのだろうか。文句も言わずに働いて、自分たちに利益をもたらしてくれる、それが棄民というものだと。
金というのは、黙っていてもそちらから上がってくるのだから、祈ってさえいればそれだけで、この豊かな毎日が明日も明後日も続いていくと、疑いもせず信じきっているのか?
棄民にも、「人の心」があるなんて、考えもしないで。
だとしたら。
……だとしたら、このアリアランテという国の基盤は、案外、脆い──のではないか。
「…………」
少し口を閉じて考えてから、「そっか」とだけ呟いた。
「よくわかった。じゃあな」
軽く手を挙げて歩き出す。
まだ身構えていたイレイナは、すたすたと自分の脇を通り過ぎていくクーに、少し拍子抜けしたようだったが、ふん! と高飛車に顔を背けると、衛士二人を従えて大広間から出て行った。
去っていく足音を背中で聞きながら、ふー、と息をつく。キリクがくすくす笑いながら、クーの顔を覗き込んだ。
「やれやれだね」
「やれやれだなあ」
あのガチガチな神民至上主義者と仲良くなろう、などとはクーも考えてはいない。ただ、これからもカイトの前で同じような態度に出られたら厄介だから、少しばかり釘を刺しておこうと思っただけだ。
そのまま進んで、キリクと一緒に広間奥の女神像の前に立った。
巨大な石像を見上げ、その白い面に見入る。
やっぱりちょっと、母親に似ている、かもしれない。
「……母さん、元気そうだったよ」
女神の顔に目をやりながら、クーは報告した。そんなに大きな声でもないのに、他に人のいなくなったがらんとした大広間には、よく響いた。聞いているのは、キリクと女神像くらいだろうけれど。
隣に立つキリクが「そう」と静かに微笑んだ。
「それはよかった」
「ありがとうな、キリク」
「………」
女神像から視線を外して隣に向けると、キリクが口元の微笑に少し困惑を混ぜ込んでいた。
「別に、礼を言われるようなことではないよ。君のお母さんを病院に入れたのは、君が神女として神殿に来る条件と引き換えにした、単なる取引だ」
「キリクはあの時、オレと母さんは少し距離を置くべきだ、って言ったろ」
「──うん。でも、それは」
「本当に、その通りだった。あの小さい家の中で、追い詰められていたのは、オレだけじゃなく、母さんもだったんだな。昨日、それがよく判った。オレと母さんは、二人だけで世界を完結させていた。だからこそ、あんなにも息苦しく、行き止まりに向かって足を進めていくしか道が選べなかったんだ」
クーと母親は、二人して、自分自身を暗い檻の中に閉じ込め続けていた。あのままだったら、自分たちは間違いなく破滅の日を迎えて、棄民の街で虚しく骸と成り果てていただろう。
生というものに、これっぽっちも光を見いだせないまま。
「あの日、カイトとキリクに手を差し伸べられて、オレと母さんは救われた。二人のほうにどんな事情や思惑があったとしても、その事実は変わらない。だから感謝してる。ありがとう」
クーが笑いかけると、キリクの視線がふらりと揺れた。
口元から、微笑が消える。
「……僕は」
小さな声が漏れたが、そこから続く言葉はキリクの口からは出てこなかった。ほんの一瞬、目が伏せられたが、それだけだ。
少しして、再び上げられた顔は、普段の彼のものに戻っていた。だからクーはそこで話を打ち切るように、「よし」と声を上げた。
このままだと、キリクはどうせまた、「いつもの微笑み」を作って、浮かべるだけだろう。そしてさりげなく話題を変える。それが予想できたので、クーはそれ以上続けようとは思わなかった。
何を言っても無駄だと諦めた、わけではなく。
キリクにそうさせては、いけない気がした。
「女神像は見たし、もういいや。部屋に戻ろう、キリク」
「…………」
「我慢出来なくなったカイトが、そろそろ来ちゃうかもしれないし」
キリクの返事を待たずに、くるっと女神像に背を向けて、歩き出す。
「──そうだね」
後ろは振り返らなかったが、その声は、キリクにしてはほんのちょっと固かった。
***
クーの言葉通り、それから一時間も経たないうちに、カイトが「もう限界だ」と音を上げて、神殿にやって来た。
いろいろ時間を潰そうと試みたが、結局、のんびり休むことは出来なかったらしい。部屋に入って、テーブルを囲んで座っているクーとキリクの顔を見ると、ほっとしたように息をついた。
「ここにいるほうが落ち着く」
「そんなに一人が寂しいのか。いいトシして、しょうがねえな」
「まあまあクー、肉体年齢と精神年齢は、必ずしも同じように成長するとは限らないからね」
「仕事熱心だとか、もっと他に言いようがあるだろ!」
ぶつぶつ言いながら自分も椅子に座ったカイトは、改めてクーのほうを見やって、ぱちぱちと目を瞬いた。
「……何してんだ? クー」
「見りゃわかるだろ、本を読んでるんだよ」
「こんな分厚い……これ、この間俺が持ち込んだ、歴史の本じゃないか」
「オレはカイトと違って、有意義に時間を過ごしてるんだ」
「だって、あんなにも興味がなさそうだったのに。もしかして、昨日、俺が突き飛ばした時に、頭でも打ったか?」
「殴るぞおまえ」
殴るよりも先にカイトの足を蹴っ飛ばしてから、クーは憤然と言った。
「──アリアランテって国のことを、多少は知っておくに越したことはないかな、と思ってさ」
「へえ……」
カイトが意外そうに目を瞠った。
「おまえもやっと、神女としての自覚に目覚めたのか」
「そういうわけじゃない」
「じゃ、どうして?」
「うるせえな」
鬱陶しそうに片手を振って、カイトの追及を払いのける。テーブルの上の歴史書は分厚くて、おまけにやたらと難解な文字も多く、教育は最低限しか受けていないクーには、読み進めるだけでも困難なのだ。これ以上、苛々させないでほしい。
「クーは頭がいいから、知識を吸収していくのが早いよ。教え甲斐がある」
キリクがニコニコ顔で、また子供を褒めるようなことを言う。ムッとしかけたが、確かにキリクの助けなしでは理解するのも大変だったので、唇を突き出すだけにしておいた。
「大した理由があるわけじゃない。今のところ、やることがなくてヒマだしな」
勉強なんて、別に好きではない。「神女として」何かをしよう、と考えたわけでもない。
ただ、自らが立っているこの場所のことを、もう少し知っておきたいと思っただけだ。
……ちゃんと自分の足で立っていないと、人に手を差し出すことなんて、出来ないだろうから。
「──あのさ」
本に目を向けながらぼそりと声を出すと、カイトとキリクの二人が同時に、「うん?」と問い返した。
「今日、夢を見たんだ」
それはあまりにも唐突な発言だったためか、カイトが首を傾げた。
「夢?」
「ユウルの……本物のユウルの、夢」
「…………」
室内に、微妙な沈黙が落ちる。
「ユウルが死んでから、一度も夢に出てこなかったのにな。いや、もしかすると、出てきても、オレが無意識にその記憶を消してしまっていたのかもしれない。だって、『ユウル』はここにいるわけだからさ」
目を上げないままぽつぽつと言葉を出しても、どちらからも返ってくるものはなかった。なんと答えていいのか迷っているのか、どうしていきなりこんな話をしているんだと訝っているのかもしれない。
もしくは、クーが出したいだけ出せるようにと考えて、黙ってくれているのか。
「オレ、ずっとユウルに対して、申し訳ないなって思ってた」
大好きだった、双子の兄。生きていた頃、ユウルとククルは、本当に仲の良い、何をするのもいつも一緒の兄妹だった。
人々から忘れ去られたククルの片割れ。
「今ここにいるオレがユウルなら、本物のユウルはどこにいるんだって、よく考えたよ。ユウルがこうして生きているのなら、土の中で安らかに眠っているはずのユウルは、どうなってしまうんだろう。街のみんなはククルのことをあっという間に忘れてしまったけど、生きていた頃の本当のユウルのことも忘れてしまった。ククルがユウルに成り代わるってことは、ユウルという存在を、一日ごとに消していくことと同じだと思った」
母親に捨てられたククルも可哀想だが、記憶を押し込められ、封印されて、別の人間に塗り替えられていくユウルもまた、可哀想な子供だった。
「きっと、その罪悪感が、オレにユウルを思い出させることを邪魔していたんだな。──でもさ、久しぶりに夢に出てきたユウルは、子供の姿で、昔のまま、笑ってたよ。ああ、ユウルはこういうやつだったなあって、すごく懐かしい気分になった」
目を覚ましてから、クーはしばらく、ベッドの中で泣いた。
やっと、夢の中に出てきてくれたユウル。「ユウル」のために泣ける自分に、なにより安心した。
ようやくクーは、兄の死をちゃんと悼むことが出来るようになったのだと。
「オレはもう、ユウルではなく、ククルでもなく、『クー』っていう人間になった。だったら、今まで閉じこもっていた狭い世界から、一歩を踏み出してみるのもいいかなと思ったんだ」
もう少し、視野を広げ、大きな世界に目を向けてみよう。
……クーはもう、夢の中の住人でいることはやめたのだから。
「──そうか」
カイトが目を細めた。
「じゃあ俺も、出来る限り、協力するかな」
「当たり前だ、手伝え」
ぶっきらぼうに返したら、カイトは声を立てて笑い出した。
キリクは眩しいものを見るような目をしている。
「それでこそ、僕らの神女だね。水晶に間違いはなかったということだ」
「水晶なんてどうでもいい。オレを見つけたのは、カイトとキリクだ」
クーは素っ気なく言い放った。
泣いていた小さな女の子を見つけ出し、手を差し出してくれたのは、カイトとキリク。
水晶でも、神の意志でもない。
「神女のことについてちゃんと考えるのは、それからにする」
まだ、どうなるかも判らない。もしかしたら、クーはやっぱり神女ではない、ということになるのかもしれない。神女になったとしても、その先どうすべきなのか、自分の中で何も決まっていない。
神女になってこの国を支えるって? でもクーにとって、「この国」というのは、棄民もすべて含めてのものだ。求められるものとは齟齬があるだろう。アリアランテが抱える矛盾を、理不尽を、真正面から受け止めて咀嚼するだけの基礎すら、クーはまだ持ち合わせていない。
今のクーの願いは、ただ。
カイトとキリクが、いつか自分の内側にだけ抱えている何かを外に出して、少しは楽になれるように。
それだけだ。
母親の夢を守り続けてやることの出来なかった小さな手は、差し出したとしても、まだ二人には届かない。自分でもそれは判っている。
──だから、わずかでも大きくなるように、努力してみようと思った。
「カイト、キリク」
二人の名を呼んで、クーは両手を突き出した。
「なんだ?」
「いいから、二人とも手を乗せろ」
「君も時々、行動が意味不明だよね」
「いいから」
強引に要求して、両隣に座る二人の手をそれぞれ自分の手に重ねた。クーを真ん中にして、三人が並んで繋がる。
目線が同じ。近くて、温かい。
「やっぱり、オレはこういうのがいいなあ」
二つの大きな手をぎゅっと握って呟き、クーは満足げに笑った。
(Ⅳ・終)