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「……じゃあね、母さん」
手を振りながらそう言って、パタンと静かに扉を閉じる。
廊下に出ると、本当にずっと病室の前で待っていたらしいカイトが、すぐに寄ってきて真っ先に顔を覗き込んできた。
「クー」
大丈夫か? と言葉にはしなくても、そう思っているのが丸わかりの表情を見て、ほんのちょっと苦笑が洩れてしまう。病室から出てきたらその名で呼んでくれと言ったのはクー自身だが、そんなバカみたいな頼みでも、笑い飛ばすことなく真面目に実行してくれるのが、この男の律義なところだ。
──でも、確かにそれで、救われるものもある。
ようやく「ユウル」から「クー」に戻れたんだとほっとして、クーは大きな息を吐き出した。
病院の建物を出たら、もう陽が頭の真上に差し掛かっているところだった。
神殿を出発したのが朝で、ここに到着したのは午前の早い時間だったはず。すると、自分はかなり長時間、病室の中で母親と二人きり、過ごしていたことになる。
どうりでぐったりしているはずだよ、とクーは他人事のように思った。部屋の中ではずっと座っていたから肉体的な疲労はないが、精神の消耗が激しいようで、頭の芯がぼうっと痺れたようになっている。
「長い間、待たせてごめんな。ちょっと休んでいこうぜ」
ずっと薄暗い廊下で立たせていたカイトに対しても申し訳なくなり、クーはそう提案した。
カイトは「いや、俺は──」と言いかけたが、思い直したように口を噤んで、あたりを見回した。
「そうだな、別に急ぐわけでもないし、あそこで休んでいくか」
休息が必要なのは、自分ではなくクーのほうだと考えたのだろう。近くにある長椅子を指し示す。
敷地の広いこの病院は、散歩をする病人用か、あるいは見舞いに来た訪問客用かは知らないが、そんな設備まで整っているのだ。
クーは長椅子にカイトと並んで腰かけて、ふ、と息をついた。
敷き詰められた緑の芝も、甘い匂いのする白い花をつける木々も、綺麗に刈り込まれた植え込みも、きちんと石で舗装された小径も、どれも病院には必要のないものばかりだと思っていたが、今は少しありがたかった。
日差しは強いが、優しくなぶるような風と、それに吹かれてさわさわと鳴るかすかな葉音が、心を落ち着かせるための役割を果たしてくれている。
棄民の街にはない「余裕」。
あの場所にこそ、こうしてほんの束の間、息をつくひと時を必要としている人が、大勢いるのだろうに。
「喉が渇いたんじゃないか? 水でも貰ってこようか」
「いいよ」
「じゃ、腹が空いてるだろ。もう昼だしな。何か買って──いや、帰りにどこかの店に寄っていったほうがいいか。何が食いたい?」
「オレ、神都にどんな店があるのか、さっぱりわからないし」
「そうか、俺もこのへんはちょっと不案内でな……まあ、ぐるっと廻ってみれば、どこかよさそうなところが見つかるだろう。今日は天気もいいし、のんびりするのもいいさ」
「あんまり寄り道してたら、帰るのが遅くなるんじゃないの?」
「構わないよ、ちゃんと許可も得ているし。文句を言われても、キリクが上手いこと取りなしてくれるだろ。そういうことは、あいつに任せておけば大丈夫」
「いい加減だなあ」
クーは呆れたように言ってから、噴き出した。何かというと、「キリクに任せておけば大丈夫」と断言するカイトが、ちょっと可笑しい。
「カイトはキリクを信頼しきってるんだな」
「うん?」
クーの言葉に、空に目を向けていたカイトがこちらを振り返った。そこに至って、ようやく自分のこれまでの言動を自覚したのか、少し照れ臭そうに掌で首筋を撫でる。
「うん、そうだな。俺とキリクとでは、立場が違うっていうのもあるんだけどさ。でもキリクは、他の連中と違って、俺を『半民』としてじゃなく、『人間』として扱ってくれるから。本当にいいやつだし、俺にはないものをたくさん持った、よく出来たすごい人間だとも思ってる。だからつい、頼っちゃうのかな」
そう言って目元を緩めるカイトに、少し言葉に詰まる。
棄民の街で育ったクーが、今まで頭でしか理解していなかった「神民からの差別」を、カイトはこれまでの人生ずっと、その身に直接受け続けていたのだということを、今になって実感した。
神女候補と衛士たちのあの蔑みの目や、吐き捨てるかのような言葉を思い出すまでもなく、それがどんなにカイトの心を抉り、傷つけてきたのかくらいは、クーにだって推し量れる。
母親を失い、父親から放り出され、「半民」と呼ばれながら、どこからも疎外され続けて。
──キリクは、そんなカイトが出会った神民の中で、「自分を人として認めてくれる」、貴重な存在なのだ。
「でも、だからってキリクに何もかも丸投げするのはよくないな、やっぱり。これからは気をつける」
真面目な顔をして背筋を伸ばし、殊勝に反省の弁を述べている。その姿に、クーはまた笑い、同じように笑うカイトを見て、気がついた。もしかしたらカイトは、少しでもクーの気持ちをほぐすために、こんなことを言っているのかもしれない。
どこまでが自然で、どこからが故意なのか。
その境界がよく判らない自分は、やっぱりまだ子供なのだろうか。
「──あのさ」
笑いを収めてから、クーはぽつりと呟いた。
「母さん、少し顔色が良くなってた」
「うん、そうか」
カイトが静かに頷く。
普段は口うるさいこの男が、自分からは何も聞いてこない。それきりクーが黙ってしまっても、続きを促すような素振りもなかった。話してもいいし、話さなくてもいい、というような空気を感じる。
どうしてだろう。今はそのことに、ひどく安心した。
二人の間に沈黙が落ちる。聞こえてくるのは、風が木立を揺らす音と、鳥がさえずる声くらいだ。
建物の外にいるのは、クーとカイトの他には、前方離れた木の下で、落ち葉を箒で掃いている男だけだった。頭に布を巻いて、埃を吸わないようにか、口元まで布で覆っている。出ているのは目だけで、棄民の街であんな怪しい風体をするのは盗賊くらいのものだが、神都ではあれが掃除夫としての普通の格好なのだろうか。
……あれも、神都で働く棄民なのかな。
ぼんやりとそんなことを思いながら、クーは再び口を開いた。
「ご飯もちゃんと食べてるって」
「うん」
「母さんが棄民だと知っているのは、どうもごく一部みたいだね。他の人たちには神民だと思われているようでさ、びっくりするくらい丁寧な扱いを受けて、まごつくことが多いらしいよ」
「そうか」
「だけど、ここはもとの街にいた時と比べて、楽園のように平和で静かだって」
「……うん」
カイトからの返事は最小限だった。クーが話すから彼も相槌を打つけれど、クーが黙っていたら、彼も黙ったままでいたかもしれない。
──だから、クーもまるで独り言を零すように、隣に視線を向けることなく、訥々と言葉を紡ぎ出すことが出来たのだろう。
「母さん、ずっと微笑んでた。いつものように、オレのことを『ユウル』って呼んで、来てくれて嬉しいって手を握って、あれこれ問いかけて、心配するのは変わりないんだけどね。でも……なんていうか」
なんというか、少し変わった、こともある。
どこがどう変わったのか、その詳細を、クーは上手に言葉に変換するすべを持たない。顔色が良くなって、雰囲気が以前よりも落ち着いた。それ以外にクーが感じた母親の変化を、すべての人に理解できるように説明するのは、ひどく困難なことに思えた。
ただ。
以前、あの細い身体で、弱い心で、傾けられていた天秤は、完全に片側に振りきれていたはずだった。
その重みで腕部分は大きな角度をつけて斜めに固定され、一方の皿が地に着いてしまったまま動かない──それほどまでに極端で、時々クーが自家中毒を起こして吐きそうになっていたくらいの、その秤が。
……ほんのちょっと浮き上がってゆらりと揺れる、そんな一瞬を感じた。
「家にいた頃の母さん、オレと一緒の時は、ずっと休む間もなくお喋りしていることが多かったんだ。今日は何をしていたか、危ないことはなかったか、離れていた間に自分がどれだけ心配していたか、そんなことばかりを、まるで何かに急かされるようにして口を動かしてた。今日ももちろん、あれこれと聞かれたんだけどさ……でも、ふいに、空白が出来る、っていうか」
食事はきちんと摂ってるの? よく眠れている? 母さん毎日毎日あなたのことばかり考えて──と話し続けながら、時々、その「空白」は訪れる。
唐突に声が止まり、怪訝に思ったクーが顔を上げると、母親は口を半ば開けたまま、身体の動きも止めて、まじまじとこちらを見返している。今、自分が誰と話しているのか、急に判らなくなった、というように。
それは大体、時間にして本当にわずかな間だ。またすぐに彼女は話すのを再開させるのだが、その途中で何度か、目を瞬いたり、首を振ったりする。
他の人間であったら特に気にはならないことなのかもしれないが、それは確かに、今までの母親には見られない仕種だった。
「今までずっと、母さんは大きく膨らませた風船のような人だと思ってた。限界ギリギリまで膨らんで、何かちょっとした刺激でパチンと割れてしまう……そういう危うさを常に孕んでいた。でも今日オレの前にいた母さんは、その風船が、少し萎んだように見えたんだ。萎む──っていうか、少しずつ、どこかから空気が漏れているような、そんな感じ」
そのことに戸惑っているうちに、時間は勝手に流れていった。以前ここで別れを告げる時は、なかなか自分を離さなかった母親が、今日は呆気ないほどに「そう、じゃあ、またね」と手を振ったのも、拍子抜けするような気分になった。
病室に入る前は、彼女と再会することをあんなにも怯えていたのに、恐れていたような胸の痛みは、クーのところにやって来なかった。
「うーん……空気が漏れてる、っていうよりは、さ」
カイトが考えるように眉を寄せる。見えないものを探すように、細く眇めた目は空中に向けられていた。
「──もしかしたら、少しずつ、夢から覚めようとしてるんじゃねえのかなあ」
クーはきょとんとした。
「夢?」
「うん」
頷いて、カイトが顔を動かし、こちらを向く。しかしこの男は、どうしていつもこんな風に、相手をまっすぐ見るのかね、とクーはどうでもいいことを考えた。
「おまえの母さんはもともと、強い人じゃなかったんだろう? それで、つらいことと大変なことばかりの現実から、ちょっとだけ逃げたくなったのかもしれない。夢を見ている間は、もう少し頑張れる、そう思ったんじゃないのかな」
つらいこと、大変なことばかりの、苦しい現実から逃げ出して。
夢の中にしか、幸福が見いだせなかったのか。
「──じゃ、オレは母さんにとって、夢の中の住人だったってことか」
思わず自嘲気味に唇を上げて呟くと、カイトは「いや」と首を横に振った。
一直線の眼差しが、こちらに向けて注がれる。
「おまえはさ、一生懸命、母親のその夢を、守ってやってたんだよ」
「…………」
クーは口を結んで、カイトの顔を見返した。視線と視線がぶつかり合う。逸らせない。その明るい茶色の瞳と同じで、カイトの言葉のひとつひとつが、自分にまっすぐ向かってきて、心の中にまで入ってくるような気がした。
「おまえは一人、現実から逃げずに、母親のその脆い夢を必死に支えてやってたんだ。よく頑張った。偉かったな。だからおまえの母さんも、ここまでやって来られたんだと思う。……だけど、その夢は、永遠に続けていけるものでもないだろ?」
「──うん」
以前にも、同じようなことを言われたな、と考えた。
「いつまでもそんな無茶なことが通るとは、おまえだって思っちゃいないんだろ?」と。
棄民の街で、振り払い、拒絶したその問いを、クーは今度はちゃんと認めて、頷いた。
目線を下げて、自分の小さな手をじっと見つめる。
母親のその夢は、すでにこの手には余るようになってしまった。
それを壊さないように固く握りしめていたはずの両手はいつの間にか力が緩み、指の隙間からぽろぽろと零れだしていくのを止められない。
……クーはもう、それを守ってやれない。
「少しだけ精神が安定して、おまえの母さんは、ようやく目を覚まそうとしてるんじゃないかな。まだ時間はかかるだろうけど、徐々に、夢の世界から、現実世界へ戻ってこようとしてるのかもしれないぞ」
「……そうかな」
目を下に向けたまま、クーは呟くように言った。
現実世界に戻ってきたらきたで、彼女はそこに、見たくもないものを見てしまうことになるかもしれない。
突きつけられた絶望を目にして、母親は自分を保てるのかどうか。
それはきっと、誰にも判らない。
以前と状況はさほど変わっていないのに、今は妙に落ち着いてこんなことを考えていられる自分が不思議だった。
棄民の街にいた頃は、前を向いても後ろを向いても真っ暗な闇ばかりに囲まれているような気持ちでいたものだが、今の自分は上から降り注ぐ陽光を眩しいと感じ、青い空をきちんとこの目に映すことが出来ている。
行き止まりか断崖絶壁しかないと思っていた道の先が、まだ続いていると思うことが出来る。
すごいな、と素直に感心した。
──隣に、自分ではない誰かがいるというだけで、こんなにも違う。
「カイト」
「うん?」
「オレさ……」
顔を上げたところで、言葉を呑み込んだ。
カイトが前方に目をやったまま、動きを止めていることに気づいたからだ。同じ方向に自分も顔を向けて、その時はじめて、そこに人が立っていることに気づいた。
さっきまで、離れた場所で掃除をしていた男。
頭と顔の大部分を布で覆ったその人物は、クーとカイトの前に立って、目を細めていた。
***
その男がいつの間にこんな間近まで寄ってきたのか、クーにはまったく判らなかった。
正直、目の前に立っていても、あまり気配というものを感じない。強風が吹いたらそのまま飛ばされてしまいそうな痩身、というのもあるかもしれないが、男は周囲の空気をまったく乱すことなく、すらりとその場に立っていた。
「え……」
クーは目をぱちぱちと瞬いたが、目の前の男は何かを言うわけでもない。彼の顔で唯一ちゃんと見える目は細められているが、それが笑っているからなのかもどうかも、はっきりしなかった。
頭にも顔にも布を巻きつけているその格好が、こうしてすぐ近くに立たれると、なんだか急に不気味に思える。男が手にしているのは柄の長い箒だけだが、たとえ手ぶらだったとしても、あまりいい気分にはなれなかっただろう。
「……え、と、掃除の邪魔?」
男の身なりは質素だった。古ぼけたシャツと、くたびれたズボン。どう見ても神民ではない。下働きの棄民が、まさかこんなところに同じ棄民がいるとは思わず、声をかけるのを躊躇している、というのはありそうなことだ。
クーの問いにも、男は何も言葉を発しなかった。目は細められたまま、じっとこちらに視線を据えつけている。
布の下で、男はどんな表情をしているのだろうと思うと、なんとなく落ち着かなかった。
「…………」
カイトもまた無言で、長椅子から立ち上がる。
やっぱり邪魔なのかな、と思ってクーも一緒に立ち上がったが、カイトはそこから動かない。目の前の男をじっと見据えたまま、こちらを振り返りもしなかった。
クーから見える彼の横顔は、今まで見たこともないほどに険しくなっていた。
どうしたんだ、カイト。
そう訊ねたいのは山々だったが、その場の空気に気圧されて、口には出せなかった。息苦しいほどの緊張感が、場を支配している。
カイトと男は、同じくらいの背丈だった。二人は正面から対峙して、ほとんど睨み合っていると言ってもいいほどに視線を合わせている。カイトの厳しい目に対し、相手は最初から何も変わらない、笑ったような目だが、両者の間にぴんと張り詰めているものがあるのは痛いくらい伝わってきた。
「……ずいぶん、頑丈そうな箒だな」
押し殺したような声を出すカイトは、怖いほどの無表情をしている。
「でしょう? 特別製でね」
男がやっと喋った。カイトとは正反対の、軽い調子の声だった。どうやら男はかなり若いらしい。髪も布で包まれているため、目の色が黒だということ以外は何も判らない。
「いろいろと便利なんですよ、これ。掃除をすることも出来るし」
当たり前のことを言って、男が箒を握った左手にぐっと力を込めたのが見えた。
が──見えたのは、そこまで、だった。
一瞬後、クーはカイトによって乱暴なまでの勢いで横に突き飛ばされた。
バランスを失って倒れ込み、地面に手と膝をつく。それと同時に、ガキンッ!という高い金属質の音が鳴り響いた。
「……こうして、武器にすることも出来る」
驚いて振り仰ぐと、男が振り下ろした箒の柄と、それを受け止めるカイトの剣の刀身が交差していた。