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クーとキリクが中広間を出ると、少し先の廊下で、カイトが腕を組み、壁にもたれて立っていた。
中には入れないからと、扉の外で待機していたらしい。だとしたら、先に出て行った四人の神女候補と衛士たちの顔つきや険悪な空気で、大体何が起こったのかくらいは察しているだろう。
こちらを向いたカイトはまさに「なんとも言えない顔」をしていて、クーはどう返したらいいのか迷ったものの、結局ちらっと舌を出すだけにした。
悪い、やっちゃったよ──という心の声が聞こえたかどうか定かではないが、それを見たカイトは、ひとつ大きなため息を落とした。
そして、「しょうがねえなあ」と言いたげな、苦笑いを浮かべた。
「…………」
ちょっと、胸がずきんとした。
……もともと、他の神女候補たちとの顔合わせも、「茶会」などという気取った名称の催しも、クーにとっては、どうでもいいものでしかなかったのだが。
今日のために、キリクが奔走していたのも、カイトがあれこれ心配していたのも知っている。
それらすべてをぶち壊すようなことをした自分を、怒るでもなく笑って許してくれる二人に、少し申し訳ないような、少し安心するような気持ちになった。
***
持ち帰った菓子を、部屋のテーブルの上にドサドサと広げると、カイトは呆れた顔をした。
「おまえなあ……茶会の残り物をかき集めてくすねてくる女の子なんて、聞いたことないぞ」
「だって、もったいないだろ。あそこにいたやつら、ほとんど手をつけてなかったんだから」
あれだけたくさんの菓子が並べられていたのに、神女候補たちはみんなして、そちらにはまったく興味がないというような顔をしていた。あまりにも手が出されないので、テーブルの上にある色とりどりの小綺麗な食べ物は、実はすべて精巧な蝋細工か何かなのかと、クーはひそかに疑問に思っていたくらいだ。
「あ、本物だった」
そのうちの一つを口に入れてみたら、ちゃんと食べられた。しかも美味しい。だったらなぜ、彼女たちはそちらを見向きもしなかったのだろう。謎だ。
「食べ物をああやってただ飾っておくのが、『茶会』ってものなのか?」
首を傾げたクーに、キリクがくすくす笑った。
「若い女の子だから、彼女たちも甘いものは好きだと思うよ。でも、他の神女候補たちがいる手前、そういうものに目がない、なんてところはカケラも態度に出せなかったんじゃないかな」
「よくわかんないな」
好きなら好きでいいではないか、としか、クーは思いようがない。
心の中で考えていることと、外に出す態度や言葉が、いつも正反対のほうを向いているとしたら、彼女たちにとっての「本当」は、一体どこにあるのだろう。
「行儀が悪いぞ、クー。食べるなら、ちゃんと座れ」
立ったままもぐもぐと口を動かしていたら、見かねたカイトに注意された。いつものことながら、口うるさい男である。
「じゃ、座って食べるから、一度部屋から出て行けよ」
「は?」
「服を替えるんだよ。こんなもの着たまま、落ち着いて食えるか」
「え、着替えちゃうのか……」
当たり前だろ、とカイトのほうを向いて言おうとしたクーは、その顔を見て言葉を呑み込んだ。
──なんでそんな、残念そうにしてるんだよ。
ちらっと化粧台のほうに目をやった。
鏡には、赤いドレスを着た、どこからどう見ても「女の子」の姿が映っている。そこにいるのは確かに自分自身であるはずなのに、はじめて会う他人のようでもあった。
剥き出しになったほっそりした腕、うなじがよく見える首筋、愛らしい花飾りのついた髪。格好だけなら、神都の往来を笑いさざめきながら歩いていた若い娘たちと、なんら変わりなく見える。
服装といい、化粧して美しく仕上げられた顔といい、すべてが自分のガラじゃない。
でも、似合わない──こともない。
クーはわりと自分の容貌を客観視できるほうだ。男として育ってきた分、女に対する目も、比較的冷静であると思っている。だからこそ、現在のこの姿に、足許からむずむずしたものが這い上ってくるような、こそばゆい感じがした。
「そりゃ、惜しいよね、カイト。せっかくこんなにも可愛いんだ。今のクーを、もっとじっくり目の前で堪能したいんだろ?」
ここぞとばかりに、ニコニコ顔でキリクが余計なことを言う。
クーは赤くなり、カイトは慌てたように手を振った。
「いや、俺は……」
「舌に甘く華やかな菓子、香り高く美味しいお茶、朗らかに交わすお喋り、そして花のように美しく可憐な乙女。これこそが、五感で楽しむ本来の茶会というものさ。この部屋で、さっきの続きといこうじゃないか。さあ、二人とも座って」
すでに先に座っているキリクが、澄ました顔で流暢に言葉を紡ぎながら、器用に三人分の茶を注いだ。
そういえば、いつの間にか、ポットやカップなどの茶道具一式が部屋の中に揃っている。今になって、はじめて気がついた。
「キリクおまえ、いつ、そんなものをここに持ち込んだんだよ」
「面白いものを見る時に必要かなと思って」
「意味がわからないんだけど!」
クーはむくれた顔で言って、ドレス姿のまま、少々乱暴に椅子に腰かけた。
──もうちょっとくらいは、このままでいてもいいか、と心の中で呟く。
キリクが苦労して用意してくれたんだし。顔合わせの場を台無しにした責任も、少しは感じている。これを脱ぐのはまた手間も時間もかかるだろうことを考えると、確かに面倒だ。目の前には大量の菓子の山があるのだから、なおさら。
別に、カイトのためというわけではない。
カイトも黙って隣に座ったが、クーはそちらを見なかったので、どんな顔をしていたのかは判らない。
***
「……で、他の神女候補たちは、どんな感じだった?」
お茶の入ったカップを持ち上げながら、カイトがごほんと咳払いをしてから訊ねてきた。
敢えて話の舵を切って方向を変えようという、どこか少しわざとらしい言い方だったが、もちろんクーはすぐにそれに乗っかった。正直、二人を眺めて今にも笑いだしそうなキリクの表情が、ものすごく鬱陶しい。
「そうだな。まあ、あくまで印象だけど」
視線を上に向けて、さっき顔を合わせたばかりの四人を思い浮かべた。どちらかといえば、目がちかちかするようなドレスのほうが記憶に残っているのだが、黄色、濃紺、白、ピンク、と答えるわけにもいかない。
「えーと、順に、『自信家』、『高慢ちき』、『気取り屋』、『おどおど』だな」
「……は?」
クーの言葉に、カイトの目が点になった。
「オレの印象を一言で表すと、そんな感じ」
「いや待て……おまえ、まさか茶会の間ずっと、腹の中でそんな名前を勝手につけてたんじゃあるまいな。……キリク、笑うな」
「だって、四人もの名前をいっぺんに覚えられるわけないだろ。こっちのほうが、ずっとわかりやすいじゃないか。見た目も態度も、大体こんな感じだったぞ」
「どんな感じだよ」
「だから、『自信家』、『高慢ちき』、『気取り屋』……」
「頼むから、その名を絶対に外で口にするなよ?! キリク、笑うなって!」
キリクはさっきから、テーブルに顔を突っ伏して、苦しそうに肩を震わせ続けている。
「今度、顔を見ることがあったら、カイトにも教えてやるよ。あれが『自信家』で、あれが」
「やめろ。本人を目にしたら、笑ってしまいそうだ」
カイトは憮然とした表情でそう言って、腕を組んだ。
「キリクは覚えられた?」
クーがそちらに話を振ると、キリクはようやく顔を上げた。まだ口元に笑いを残したまま、「うん、まあね」と頷く。
「僕の場合、多少は知らないわけでもないからね。イレイナ嬢は第三位神民で、言葉を交わしたこともある。ロンミ嬢は第五位、才女で通っているらしいよ。第七位のサンティ嬢は美人だから、多くの男を取り巻きにしているという噂を耳にした。第八位のモリス嬢は、大人しいタイプなのか、あまり話を聞かないな」
すらすらと出てくる言葉に、クーは感心した。
「さすがキリク、記憶力がいいんだな」
「さすがキリク、女のことに詳しいな」
カイトも同じように感心したが、褒めているのはクーとは別の部分らしい。
「人聞きの悪い。そういうことは、社交の場で自然と耳に入ってきてしまうんだよ。特に、イレイナ嬢やサンティ嬢あたりは交友関係がなかなか派手らしくて。サンティ嬢の場合は、ほぼ異性に限られるけど」
「よく見えなかったが、サンティ嬢っていうのは、そんなに美人なのか」
二人分の名前が出たのに、カイトが関心を示したのは片方だけだった。若干身を乗り出して、キリクに訊ねている。クーはなんだか苛ついて、テーブルの下で隣にある足を蹴ってやった。
「いてっ! 何すんだ、クー」
「なんだよ、当たったか? 邪魔なところにあるから、つい」
ふん、とそっぽを向いて、焼き菓子をぽいっと口に放り込む。
口を開きかけたカイトを手で制して、キリクが「美人かもしれないけど、クーのほうがずっと可愛いよ」と微笑んだ。
クーはなおさらカチンときた。
──なんだその、子供の機嫌を取るような顔と口調は。
むかむかと腹を立てて、クーがむっつりと黙り込むと、カイトとキリクは互いの顔を見合わせた。少し困ったようなカイトと、苦笑するようなキリクの表情は、反抗的な子供に手を焼く、とでも言わんばかりだ。少なくとも、クーの目にはそうとしか映らなかった。
「あ、そうそう」
キリクが再び、明るい声を出す。
どうせまた、幼子を宥めるような、適当なことを言うつもりだろう。何を言われても返事なんてしてやらないぞ、というつもりでさらに意固地に唇を結んだが、キリクはそんなクーを見て、どういうわけかますます楽しげに目を細めた。
「茶会も無事に終えたことだし」
「無事かね」
ぼそりと言ったカイトは、今度はキリクに足を蹴られたらしく、また「いてっ!」と声を上げた。
「クーには、ご褒美をあげないとね」
「……ご褒美? また焼き菓子?」
だったらここにもうたくさんあるし、と膨れっ面を上げて、キリクを見る。
キリクは優しげな微笑をこちらに向けて、口を開いた。
「明日、お母さんに会いに、病院へ行っておいで」
思ってもいなかった言葉に、クーは一瞬すべてを吹っ飛ばして、ぽかんとした。
「……え、病院? 明日?」
「そう。十日に一度は会わせる、という約束だっただろう? これから、もしかしたら忙しくなるかもしれないしね、まだ予定の入らない今のうちに行ってきたほうがいい」
「…………」
言葉に詰まっていると、カイトのほうが安堵したように息を吐いた。
「そうだな、俺も気になってたところだった。早いうちに様子を見に行けてよかったよ。な、クー」
「あ、う、うん」
同意を求められて、慌てて頷く。
そう、そうなのだ、母親のことは確かに気になっていたし、心配でもあった。会いに行けるなら、早いに越したことはない。ちゃんと約束を守ってくれたことに、カイトのように真っ先に安心すべきだということは判っている。
「でも悪いけど、僕はいろいろと後片付けがあって、病院まで同行できないんだ。クーの護衛はカイトに任せてもいいかい?」
「もちろん。神都内なら別に危険があるわけでもないし、一人で十分だ」
「頼むね。クリスタルパレスを出入りする際の許可証は、司教のほうから出してもらうから」
カイトとキリクはそれから二人でいろいろな打ち合わせをしていたが、その内容はほとんどクーの耳には入ってこなかった。
声だけが、頭の上を通過していく。
──母親に会いに、病院に。
嬉しいはずだ。もちろん、そうでなきゃいけない。母はいつも通り喜んで、満面の笑みを浮かべ、自分を歓迎してくれるだろう。温かい言葉と、優しい手。彼女の傍らは、棄民を見下す人間ばかりのこの冷たい神殿よりも、ずっと寛いだ気分になれるはず。
クーだって、彼女に会いたい気持ちはある。嘘じゃない、それは間違いのない事実だ。母親に対する愛情は、以前となんら変わりはない。いいや以前と違って、自分たちを取り巻く環境が改善されたのだから、街にいた時よりもずっと余裕をもって接することだって出来る……と、思う。そう願う。
あの顔を見て、屈託なく笑えたら、どんなにか。
……でも。
でも、その時、クーはまた、「ユウル」へと逆戻りだ。
今はそれが、やけに心に重かった。
***
翌日も、よく晴れていた。
朝方出発して以来、馬上のクーがずっと口数少ないことには気づいていたのだろうが、カイトは特に何も訊ねてはこなかった。
パレスの外へ出て、病院までの道中、後ろで手綱を操りながら、神都のことをあれこれと説明してくれる。クーがほとんど上の空でも、いつものようにがあがあと文句を言ったりしない。きっと、クーが緊張で強張った顔つきをしていることも判っているのだろう。
カイトはいろいろと鈍感なところもあるが、他人を慮ることの出来る性質を持っている。
さっきから、ずっと胃がキリキリして痛い。クーは腹の底から押し出すようにして、息を絞り出した。
馬をゆっくり歩かせたため、予定していたよりも少し遅い時刻になって、病院に到着した。
広い敷地の中にある、その大きく立派な建物の前で、クーは息を吸って吐いた。
見渡す限り、清潔で整然とした景色。慣れないこんな場所で、母親もおそらく不安がっている。せめて少しでも元気づけるようなことを言って、彼女の細い神経を落ち着かせてやらないと。
「……俺も一緒に行こうか」
馬を繋いできたカイトが、クーの顔を覗き込み、真面目な口調で言った。
その瞳の中には、くっきりとこちらを案じる色がある。そんなにも、今の自分は顔色が悪いのか。判りやすい心配の仕方に、クーはやっと少しだけ笑うことが出来た。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「他の人間がいたら、母さんがいろいろと気を遣って疲れちゃうだろうからさ。図太いオレと違って、あの人はとんでもなく繊細なんだ」
「……じゃ、病室の前で待ってる。どれだけ時間がかかっても大丈夫だから、俺のことは気にするな」
「うん。──ね、カイト」
「ん?」
「オレ、ちゃんと男に見える? 前と何か変わったりしてないかな?」
「…………」
今のクーは、男物の洋服に身を包んでいる。身体の線を隠してくれる分厚い上着は、この陽気ではかなり暑い。額に滲む汗はそのせいなのか、それとも別の理由からなのか、クー自身にもよく判らなかった。
ああ、あのドレスは、風通しが良くて涼しかったな──と、どうでもいいことを考える自分は、もしかしたらここから逃げ出したがっているのかもしれない。
会いたいのに。大好きなのに。それでも。
「カイト」
「……うん」
「病室の前に、ずっといてくれる?」
「どこにも行かないよ」
「じゃあ、オレがそこから出てきたらさ」
「うん」
「──オレのこと、クーって、呼んで」
じっと前を見据えたまま、固い声で言う。喉がひりついていた。
カイトからの返事はなかったが、大きな手が頭の上にぽんと置かれた。
「おまえは、おまえだよ、クー。……行って来い」
くしゃりと軽く髪を掻き回される。子供に対してするようなその扱いに、ちょっとムッとしたが、同時に少し気が軽くなった。
実際に、自分はまだ「子供」だ。
けれど結構子供のようなところがあるカイトは、こんな時にはちゃんと「大人」だった。
やっと、呼吸が楽に出来るようになった気がする。
「──行ってくる」
そう言って、クーは建物の中に足を踏み入れた。
***
──病室の取っ手にかけた手は、わずかに震えていた。
なんて情けない。みっともない。神民のご令嬢たちを相手にしても、一歩も引かなかったこの自分が。
母親に会うという、ただそれだけのことで。
カチャリと音をさせて、扉をゆっくりと開ける。
扉と壁の隙間から眩い光が漏れ出して、一瞬目を眇めた。そのまま開けると、大きな窓から射し込んでくる陽光が、壁や床に反射して、病室内を白く輝かせていた。
その時、なぜか頭を過ぎったのは、神殿の中央にあった大広間だった。
祀られた半身の女神像。静かで神聖で清らかなその空間で、自分はカイトに何を言ったんだっけ?
捨てられても、見放されても、それでもその捨てたやつに対して、祈って、縋って、救いを求めずにはいられないのか。
……だとしたら人間ってのは、なんて弱い生き物なんだろう。
ベッドで上半身を起こして座っていた女性は、光を背にして微笑み、こちらに向かって優しく両腕を差し伸べた。
女神リリアナのように。
「まあ、来てくれたのね。……ユウル」
「うん。──母さん」
泣きたい気持ちで、笑った。