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宮殿内でようやく見つけた仕立て屋に用件を伝えると、愛想のいい笑顔と共に承諾が返ってきた。
時間がないのですでに出来上がっている服を手直ししたい、というキリクの申し出にも頷いて、仕立て屋の男は首を傾げた。
「それですと、形も色も制限されてしまいますが、よろしいでしょうか。場合によっては、お召しになられる方のお好みに、少々そぐわないこともあろうかと思うのですが」
こちらを窺うような目をしているのは、そのために服を身に着ける娘のご機嫌を損ねることもあるのではないか、ということを心配してのことらしい。
宮殿に出入りする仕立て屋に服を注文するような人間は、クリスタルパレス内に居住が許される──つまり第三位以上の神民に限られる。
彼らの服を作る場合、一から十まで依頼主の意向に沿って、まずは最上質の生地を十数通り持ってきて選ぶところからはじまるのが普通だ。
「さっきも言ったけど、急いでいるんだ。だから多少のことは目を瞑ろうと思っている。でも、くれぐれも仕上げは丁寧にやってくれ。しかも大至急だ。いいかい?」
キリクの無茶な言い分を、仕立て屋は嫌な顔ひとつせずに「承りました」と言って、深々と頭を下げた。
三十代ほどの仕立て屋は、見た目も仕種も洗練されたスマートな男だった。宮殿に出入り出来るくらいなのだから、クリスタルパレス外にある彼の洋服屋は、かなり大きな構えの店なのだろう。ここまでのし上がってくるまでに、相当な努力もしているはず。
そんな彼はよく知っている。クリスタルパレス内の人間の注文は、どんなに強引な要求でも笑顔で受けること。決して、「否」という返事は許されない。どうしても不可能ならば、代案を出して、そちらのほうがずっといい、という方向にもっていく技術を身につけるべし──
神都において、クリスタルパレスの「中」は絶対だ。長い時間をかけて、そういうものだという認識が、人々の頭と身体にすっかり根付いてしまっている。
だからこそ、キリクの父親のような人間が出来上がる。
「すでに仕立て上がったものですと、私どもの店にもある程度在庫がございますが……そちらまでおいでいただくことは出来ますでしょうか」
「時間がない」
「でしたら、私がいくつか見繕って、こちらまでお持ちして……」
「すまないが、その時間もないんだ。大体の色と形は指定するから、そちらのほうでよさそうなものを探して選んでほしい」
「は……」
世慣れている仕立て屋でも、さすがに困惑が覗いた。いくらなんでもこんないい加減な注文の仕方は、彼にとっても初めての経験なのだろう。
「そ、それではまず、サイズをお測りさせていただきまして……」
「悪いけど、それも無理なんだ」
キリクの言葉に、仕立て屋は今度こそ、呆気にとられた顔になった。最初から作るにしても、仕立て直すにしても、もちろん洋服は着る者のサイズをしっかりとるのが基本中の基本だ。細いのか太いのかも判らない相手の服を作れ、というのは、いくらなんでも無謀である。
「ちょっと、事情があってね」
キリクは少し笑って、自分の人差し指を唇に当てた。
「迂闊に人目には晒せないご令嬢のお召し物を、至急ご用意して差し上げなきゃならない。男であれ女であれ、おいそれと部外者に接することは許されないご身分のお方なんだ」
そう言うと、仕立て屋はぴりっと緊張した表情になった。
クリスタルパレス、特にこの宮殿内で、さまざまな事情や思惑が渦巻いていることは、この男だって十分承知している。
彼のような立場の人間が、そこにわずかでも関わって下手な真似をすれば、どんなことになるか、ということも。
「──承知いたしました」
仕立て屋は固い顔で頭を下げた。
今、その頭の中では、どれほどの「高貴な身分の令嬢」の姿が浮かんでいるのだろうなあ、と思うと可笑しい。キリクは込み上げてくる笑いを押し隠した。
未だ内密にされているとはいえ、水晶に示された神女なのだから、別に嘘でも間違いでもないが。
この服を着る予定なのは、ちっぽけな棄民の、しかも見た目は少年のような恰好をした態度も言動も粗野な女の子なのだから、実際にその姿を見たら、卒倒してしまいそうだ。
しかしまあこれで、これ以上の余計な干渉はしてこなくなるだろう。時間がないのは本当なので、彼にはなるべく急いで、しかも手を抜くことなく秘密裏に仕事をこなしてもらわねばならない。
「心配しなくても、おおよそのサイズは把握しているよ。僕の目測だけど、そんなに誤差は大きくないと思う。それに、あんまり身体にぴったりした形にはしてほしくないんだ。なにしろ痩せ……非常に華奢な体格の方だから」
「さようでございますか」
仕立て屋は、若干ほっとしたように息をついた。
「今は、ふわっと膨らんだ袖や、襟元にレースを飾るのが流行なので、ちょうどようございました。ウエストもあまり絞らない形で、けれど外から見ても不自然にならないように、お仕立ていたしましょう」
「頼むよ。えーと、サイズは大体、これくらいかな」
上着の胸ポケットから取り出した手帳に、さらさらと数字を書きつけていく。それを破って手渡すと、仕立て屋は驚いたように目を瞬いた。
「ここまで判っているのなら、大変助かります。キリクさまがお測りになられたので?」
「言ったろ? 服の上からの目測さ。でもそんなに違っていないと思うよ」
クーが聞いたら間違いなく怒りそうだが、観察しているうちにキリクにはそういうことがなんとなく判ってしまうのである。
母親と一緒にいた時は、絶対に彼女の前では上着を脱ごうとしなかったクーだが、神殿のあの部屋に落ち着いてからは、気が抜けたのか、上着を放り投げてその下の薄いシャツだけで過ごすことも少なくない。そういう時は、細い腕や薄い肩などが布越しによく見て取れる。
もう少し栄養を取らせないとと思っていたそばから、食事面で酷い待遇を受けていることが発覚したわけだ。この分では、一見して女性だと判るようなふくよかな丸みを帯びるまでには、まだ時間がかかるだろう。
……いや、その前に、クーの場合は、内面的なほうをどうにかするのが先か。
キリクとカイトにはもう女だとバレているからいいやと開き直っているのか、男二人の前で、さっさと上着を脱いでしまうという行為を、まったくなんとも思っていないフシがある。それはそれで、娘としては問題だと、まるで判っていない。
棄民の街ではどうだったのか知らないが、神都ではそれは「その気がある」と思われても無理はないことなのだと、ちゃんと教えてやるべきだろうか。カイトなんて、その時には必ずバツが悪そうに目を逸らしているのだが、それにも気づいていなさそうだ。
クーに女の子としての自覚を促す。考えるだけで、途方もない難事業のような気がするが、少しずつでもそちら方面に進むよう計らってみる価値はあるだろう。
──もしかしたら、カイト次第でどうにかなる可能性もある、が。
「あっちはあっちで、バカだからな……」
少し遠い目になって呟くと、仕立て屋に「は?」と怪訝な顔をされた。
「いや、独り言だから気にしないで。男と女は、時々おそろしく面倒くさいなと思ってさ」
ため息をつくと、仕立て屋は忍び笑いを漏らした。
「数多の女性から引っ張りだこのキリクさまにとっては、それは面倒なことも多くございましょう」
「言ってくれるね。自分では、僕ほど一途な男はいないと思っているんだけど」
「さようでございましょうとも」
キリクの反論は、軽く笑って受け流された。きっと、キリクが自分に言い寄ってくる女性を次から次へと適当にあしらっているという噂くらいは、この仕立て屋の耳にも入っているのだろう。
「キリクさま、それで色はどういたしましょうか」
しかしキリク自身も特にこの話題にこだわるつもりはない。本題に戻った話のほうに意識を向けて、そうだなあと考えた。
「赤毛だから、やっぱり似合うのは緑かな」
「そうですね、あるいは同じような赤色にして、差し色を入れても」
「本人が派手なのは好まないと言うから、なるべく落ち着いた色がいいな。でも、あまり地味なのもダメだよ」
「もちろん承知しております。若々しい華やぎのあるもので……」
色や形について、仕立て屋と相談しながら細かい部分まで詰めていく。あれこれと検討する会話を真面目な顔で交わしながら、キリクは頭の半分ではまったく別のことを考えていた。
……自分ほど一途な男は、他にいやしない。
キリクが心を捧げるのは、今も昔も、ただ一人。
長い間囚われ続けている、その姫君のためだけに、キリクは今、ここにこうして生きているのだから。
***
固く閉じられた扉の前に立って、キリクは小さな声でその名を呼んだ。
「──ニーア」
一拍置いてから、扉の向こうで、かすかに何かが動く音が聞こえた。
しんとした静寂の中で、ひそやかな衣擦れの音だけがする。「彼女」がこちらに寄ってくる音だ。ほんの少しもそれを聞き逃さないように、わずかでも異変の兆候があればそれに気づけるように、キリクはじっと耳を澄ませた。
あちら側で扉がトンと軽く叩かれる。分厚く重い遮蔽物は、振動さえもこちらに伝えてくれることはない。キリクは扉に掌を当てて、ため息を零した。
「ニーア、元気かい?」
出来る限り穏やかな声で問いかけると、あちらから、はい、と吐息のような返事が返ってきた。
彼女の声は、この静けさの中でも聞き取るのが困難なほどに、か細く小さい。風でも吹いたら、それにまぎれてかき消えてしまいそうで、だからこそキリクはここに来ると、いつも身じろぎも満足に出来ない。ただ扉の前で馬鹿みたいに突っ立って、扉に手を当てることが精一杯だ。
ニーアの声は小さいだけでなく震えてもいた。彼女をこれ以上怯えさせるくらいなら、キリクは自分のこの腕でさえ、すぐにでも斬り落としてもいいと思っている。
「体調はどう? 最近は暑い日が続いているけど、部屋の中は大丈夫? ちゃんと水分をとらなくては駄目だよ。でも、朝晩は冷え込むから、眠る時は気をつけてね。それから──」
こまごまとした注意を口にしながら、これじゃカイトのことを笑えないな、と気づいて自嘲した。いくらなんでも十七歳の女の子に過保護すぎるだろうと思っていたが、今の自分のほうがよほど鬱陶しい。
しかもニーアは十八歳。クーよりも年上だ。
──でも、しょうがないじゃないか。
クーは扉を開ければそこにいて、ちゃんと顔が見られる。
けれどキリクは、この扉を開けることも出来ないし、ニーアの顔を直接自分のこの目で見ることも出来ないのだから。
そう、もう五年もの間、ずっと。
キリクにとって、ニーアの無事と安全を探るための拠り所は、その声だけだ。
どんなに目を凝らしても彼女の顔を見ることは叶わず、耳をそばだてても扉の向こうから現在の彼女の様子を推し量れるような音は届かない。
なのに、ニーアの返事はいつでも、「はい」か「いいえ」だけの、本当に最小限のみ。だからキリクがその分あれこれと話しかけて、質問をして、少しでも何かを拾い上げようと躍起になるしかない。それでもあまりに度が過ぎると、あちらは困ったように黙り込むか、すすり泣くようなかすかな声が漏れ聞こえてくる。
以前までは、もうちょっと反応があったものだが。
そう思って、キリクはため息を呑み込んだ。
こちらが全身であちらの気配を読み取ろうとしているのと同様に、ニーアもまたこちらの変化に敏感だ。キリクの感情がわずかでも乱れると、何かを怖れるように口を閉ざし、そのまま扉からも遠ざかってしまう。
それに対して失望を抱くのは、筋違いだと判っている。ニーアの身になって考えれば、すべてに対して臆病になり、過敏すぎるほど繊細になっても無理はないのだから。
キリクが失望と怒りを覚えるとしたら、それは不甲斐ない自分にであって、哀れなニーアにではない。
五年間もひとつの部屋に閉じ込められていたら、きっと誰だってそうなる。
この扉の向こうの部屋は広く、設備も万全に整い、贅を凝らした造りになっていると聞いた。窓は鉄格子が嵌っているが、外の景色も見下ろせる。高所にあるので、人の顔はあまりよく見えないけれど、と以前は言っていたが、最近はそんな言葉もめっきり彼女の口からは出なくなった。
世話をする女官も数人いる。それがどこの誰なのか、キリクには知らされていない。接触して、ニーアの様子を聞き出すことを警戒しているのだろう。部屋の中でも、彼女らは自らを名乗ることなく、ほとんど言葉を発することもないという。
そういう点、腹立たしいほど、気の廻る男だ。
──あのリシャル卿は。
内心でその名を吐き捨てて、さっき顔を合わせたばかりの男の姿を思い浮かべた。
冷たい双眸と、こちらを駒としか考えていないのがあからさまな態度。腹が立つという言葉だけでは、とても言い表せない。
あの男はキリクにとっては、長年の間、憎悪の対象でしかなかった。
「……ニーア、元気?」
一通り質問を投げかけた後、キリクの問いはまた最初のところに戻ってしまった。
どんなに怒り、どんなに憎もうと、現在のキリクにはこの扉を打ち壊す力もなく、ニーアをこの牢獄から出す手段もない。情けなさともどかしさで、頭がどうかなってしまいそうで、どうしても喉が塞がっていく。カイトには「舌が二枚ある」と称されるキリクの口も、こんな時にはまったく役立たずだ。
扉に当てた手を、白い筋が浮くほどに強く握りしめた。どんなに苦しくても、胸が痛くても、声にだけは出してはならない。唇を引き攣ったように動かして、なんとか微笑の形にした。
いつもなら容易く作れる笑顔が、なぜこれほどまでに困難なのか。昔からどんなことでもそつなくこなしてきたキリクだが、ここに来ると自分の無力さを芯から思い知らされる。
何も出来ない。愛しい娘を慰めることも、笑わせてやることも出来ない。何ひとつとして、救えない。
この場所での自分は、いつもこんなにも、ぶざまで愚かだ。
「──はい」
何かに気づかれてしまったのだろうか、扉の向こうの声が今までよりもさらに小さくなり、語尾が震えた。少しして、押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。
……また、泣かせてしまった。
キリクは目を伏せた。
一緒に暮らしていた頃は、屈託のない、はきはきとものを言う闊達な女の子だった。同い年の男の子なんて、すぐに言い負かしてぺしゃんこに潰してしまうような、勝気なところもあった。クーと会わせたら、さぞ気が合ったことだろう。
でもその反面、身体はもとからあまり丈夫ではなかった。季節の変わり目にはよく風邪をひいて熱を出し、キリクを心配させたものだった。大丈夫、大丈夫、と熱で腫れぼったくなった目を細めて笑っていた。
──大丈夫よ、にいさま。
この部屋に入れられた時も、最初はそう言っていた。キリクと引き離され、寂しく心細かったはずなのに、「わたしは大丈夫」と言い張って、キリクのことばかり案じていた。
その頃は扉越しとはいえ、いろいろと話をして、笑ってもいたはずだった。
それが二年前、体調を崩してから、彼女は変わってしまった。ひどく無口になり、キリクが何を聞いてもほとんど返事をせず、よく泣くようにもなった。
きっと、病気になって、一気に不安が増したのだろう。彼女の精神は一日ごとに弱まっていく一方のように、キリクには思えてならなかった。
扉の向こう側の彼女は今、どんな表情をしているのか。どれくらいに成長したのか。クーのように痩せているのか。身長は伸びたのか。顔色はどうなのか。
本当に、元気でいてくれるのか。
キリクの記憶にあるのは、頬をピンク色に染めて、あどけなく笑う幼い少女の姿だけだ。
現在のニーアの姿を、キリクは知らない。「人目に晒せず、部外者と接することは許されない」のはニーアも同様だ。今の背格好が判れば、キリクは何枚でも何十枚でも、美しいドレスを贈ってやれるのに。
焦燥が突き上げる。顔が見えないからこそ、嫌な想像ばかりがどんどん膨らんでいく。
急がないと。ニーアを早く、一日も早く、ここから出してやらないと。
たった一人の妹。
今となっては、キリクの手の中に残った、唯一の家族。
「ニーア、待ってて。もう少しだから。……僕は必ず、ここから君を助け出す」
扉に額を押しつけて目を閉じ、喉の奥から言葉を絞り出した。
誰を裏切っても、何を犠牲にしても。
──必ず。