ベレンによる屈辱的な記憶の回想
子どもから見ても母は豪快で豪胆だった。でも、いつもその行動は正しくて自慢の母だった。
だから目の前で起きたことが信じられなかった。
「お母さま! お母さま!」
真っ青な顔で倒れている母に縋りつく。
現帝が飲むはずだった祝いの酒を奪って飲んで倒れたのだ。何人かの大人たちが逃げ出すと同時に複数の兵がなだれ込んできて戦闘になった。
すぐにこの部屋全体に結界が張られて敵らしき大人たちは追い出され、簡単には侵入できないようになった。でも、これからどうなるかは分からない。
周囲では大人が怒鳴り合いながら走り回っていて、誰も母を助けようとしない。私はどうすることも出来ずに、ただ母の体にすがりついていた。
そんな時、背後から子どもの声がした。
「母親を助けたいなら退け」
言われたことがない無礼な言葉を投げつけられ、半泣き状態のまま私は怒りを込めて顔を上げた。
「無礼な……」
その瞬間、太陽のような金髪に目を奪われ、言葉を失った。次に顔の上半分を覆っている仮面が視界に入る。
呆然を眺めている私を押しのけて、その無礼な子どもは母に近づいた。
「ちょ……」
止める間もなく金髪の子どもが母に右手を向けた。よく見れば私より少し年下のように見える。
「毒による痙攣発作、意識消失。解毒治療ができる治療師がすぐに必要だ」
「治せないのか?」
背後から同じ仮面で顔を覆った大人が覗き込んできた。この人も金髪だ。
「解毒剤を持ってきていない」
「だが、この状況だとなぁ。治療師もいないし、まずは安全な場所に脱出することが第一だぞ」
「なら今できることをする。胃洗浄」
金髪の子どもが何か呟いているが特に変化はない。それでも金髪の子どもは母に右手を向けたまま動かず、呟き続けている。
仮面で顔を覆っている大人が慣れた様子で周囲の兵に指示を出した。
「オレは退路を確保してくる。それまでの間、ここを死守しろ。怪我をしたヤツはクリスティのところに連れて来い。治療をする」
言葉の内容に金髪の子どもが母に右手を向けたまま顔を上げて訊ねた。
「このまま私が他の者まで治療をしても、いいのか?」
「緊急事態だからいいだろ。じゃあ、いってくる」
大人が走り去ると金髪の子どもは立ち上がった。
「胃洗浄終了。補液はできないから、定期的に水分を補給させる」
母の顔を見ると先ほどより顔色が良くなり、息が落ち着いていた。金髪の子どもが周囲を見回す。
「怪我をした者はいるか?」
金髪の子どもが歩き出そうとしたところで、私は反射的に手を伸ばしていた。
「ちょっと待ちなさいよ! お母さまはどうするのよ!?」
「今出来ることは全てした。怪我人を治して、全員でここから脱出できるようにする」
「お母さまより他の者を優先するなんて、どういうつもり!?」
「誰だろうと関係ない。命の危険がある者から治療をする。それだけだ」
「なんですって! お母さまをそこらへんの民と同じ扱いをするなんて許せな……」
パシーン!
平手打ちの音が響く。
「痛いだろ? 痛みはみな同じだ。身分による差などない」
初めての衝撃に何が起きたのか分からなかった。呆然と立つくしていると目の前に赤い髪の男の子が現れた。
「君! いくら非常事態でも失礼だろ!」
そう言うと、赤い髪の男の子は振り返って私の頬にハンカチを当てた。そこで、ようやく私は頬を叩かれたのだと気がついた。
「大丈夫かい?」
「え……えぇ……」
心配そうに覗きこんでくる優しい琥珀の瞳。思わず見惚れていると金髪の子どもが言った。
「その女性に定期的に水分を与えにくるが邪魔はするな、死なせたくなければな」
捨てセリフのように言葉を残して、金髪の子どもは倒れている兵のところへ歩いていった。
「あ、おい! 待て!」
赤髪の男の子が追いかけようとするが、私は思わず服の裾を掴んでいた。そのことに気が付いた赤髪の男の子が振り返る。
「大丈夫。お爺様やみんながすぐに助けにくる。君はここで座って待っていて。きっと君の母上も、君が側にいたほうが安心するだろう」
「あ……」
ここで倒れている母に視線を向けた。時々苦しそうに眉間にシワをよせている。私は座り込んで母の手を握った。
赤髪の男の子が頭を撫でる。
「ここは絶対に守るから。君たちは安心していて」
そう言って向けられた笑顔に私の胸は高鳴っていた。
それに比べ、金髪の子どもは時々母のところに来てはお腹に手をむけて何か呟いて去っていくだけ。
大怪我をして動けなくなっていた兵たちは金髪の子どもが手を向けると、それだけで治って動けるようになるのに、私の母は動けるどころか目も開かない。そして私には一言も話しかけない。
「なんなのよ!」
初めての扱いに私の中では怒りしかなかった。
ベレンは長く感じたが、時間にしたら一瞬だったらしい。
クリスの屋敷を襲わせた騎士たちからの連絡が途絶え、計画が失敗したらしい雰囲気が流れると、突如、床に巨大な魔法陣が現れた。
そして、魔方陣が眩しく輝き、次に目を開けた時は見知らぬ場所にいた。
薄暗くて湿度が高く、埃っぽい。様々な木箱が積み重ねられたレンガ造り部屋。いや、部屋というには天井が高く広さ的にも倉庫のようだ。灯りは入り口にあるランプ一つだけのため、全体の様子が分からない。
ベレンが周囲の様子を確認していると、隣から呆れたようにため息を吐く音がした。
「これから、どうするつもりだ?」
「え?」
冷めた深緑の瞳がベレンを貫く。
「私の名を知っているということは、私がシェットランド領の領主であることも知っているだろう? 領主の拉致、誘拐は重罪だ。たとえ現帝族でも、それなりに処分はあるぞ」
「な、なによ! たかが北方にある田舎領主が偉そうに! 領主の一人や二人誘拐したところで問題ないわ!」
クリスが目を少しだけ丸くした後、納得したように頷いた。
「そうか、知らないのか」
ベレンが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「知らないって、どういうことよ!?」
「中途半端な情報で動くと身を滅ぼすということだ。まあ、すぐにセルティの部下が来るだろう」
「さて、それはどうでしょう?」
落ち着いた低い声にクリスが入り口の方を向く。そこにはベレンの執事が立っていた。
「ジャコモ! これは貴方の仕業なの!?」
「ベレン様、お静かに。これより、あなたの命は私の手の上にあるのですから」
「なにを馬鹿なことを! 魔力の使い過ぎで気でも触れたの!?」
「いえ、私は正常ですよ」
ジャコモと呼ばれた執事が指を鳴らす。すると、木箱の影に隠れていた傭兵たちが剣を向けて出てきた。全員が薄汚れた服を着ており、布で顔を隠している。
「どういうこと!?」
「あなた方には、これから人質となって頂きます。手荒なまねはしたくないのですが、従っていただけない場合は容赦致しませんので」
「なにを言っているの!? 私にこんなことをして、どうなるか分かっているの!?」
癇癪を起したように叫ぶベレンをジャコモが睨む。
「お静かに。人質は一人いれば十分ですから。ベレン様には、いますぐ死んで頂いてもよろしいのですよ?」
「な……な、なんで私より、こんな女のほうが価値があるというの!?」
半狂乱になっているベレンに傭兵が剣を近づける。だが、ベレンは勢いよくその傭兵を睨みつけた。
「誰に剣を向けているか分かっているの!? 私は現現帝の姉の一人娘、ベレンガレシアよ!」
その言葉に応えるように傭兵がベレンの首に剣を突きつけた。
「よく知っている。俺の故郷は現現帝によって滅ぼされた」
布の隙間から血走った目がベレンを見下ろす。カタカタと剣が小刻みに震え、そのまま首を刎ねるのを必死にこらえているように見える。
ここでようやく自分の命の危機を悟ったベレンの顔が青くなった。全身の力が抜けて床に座り込む。
その様子にジャコモが満足そうに頷いた。
「それでいいのです。静かにしていて下さい。あなたも従ってもらえますよね?」
訊ねられたクリスが観念したように肩をすくめる。
「これだけ周到に準備しているということは逃げ道も塞いでいるのだろう? 無駄な抵抗をする気はない」
「素直でよろしい」
「で、これからどうするつもりだ?」
「あなた方には荷箱に入って頂き、他の荷物と共に船に乗ってもらいます」
「川から港に行き、そのまま国外に逃げるのか」
クリスの言葉にベレンが顔を上げる。
「そんなこと簡単にできるわけないわ! セルシティはこの国一の切れ者なのよ! あなたの浅はかな考えなんてすぐに見抜いて助けに来るんだから!」
「それはどうでしょう?」
余裕に溢れたジャコモの様子にベレンが眉間にしわを寄せた。
「え?」
「この誘拐の首謀者はベレン様、あなたということになっています。あなたに関連がある建物や施設はすぐに調べられるでしょうが、生憎とここはまったく関係がない場所です。ここにたどり着く頃には私たちは海の上にいるでしょう」
「なんで私が首謀者なのよ!」
ジャコモが嘲笑うようにベレンを見下ろす。
「誰が見てもそう思う状況でしょう? 私はあなたの指示で城の一画に特殊な魔法を施して人が入って来れないようにした。そして、あなたの指示でセレスティ様の婚約予定者を呼び込んだ」
「そうよ! 私が命令したのは、そこまでよ!」
「しかし、そのことが発覚しそうになり転移魔法で逃げた」
「それは、あなたが勝手にしたことじゃない!」
「そうですが、何も知らない人がそのことに気付くでしょうか? あなたが指示して逃げた、と予想するのが普通だと思いますが?」
ジャコモの指摘にベレンが硬直する。黙ったベレンに代わるようにクリスが質問をした。
「おまえは何者だ?」
「しがない元貿易商ですよ」
ジャコモが悲しそうに微笑んだ。




