ルドによる強制的な治療の中止
「なぜ犬は学習能力がないんだ! 他の者に風呂を使っていいか確認してから入ればいいだけのことなんだぞ!」
寝間着姿のクリスがベッドの上で頭を抱える。
「まあ、そこが犬ですから。どうぞ」
ラミラがおっとりとした口調で話ながらティーカップを差し出す。クリスはハーブティーの匂いに心を落ち着かせながら飲んだ。
「……今晩はしっかり眠れる自信がない」
「そう言われると思いまして寝つきを良くする薬湯を少々混ぜました」
「その方がいいな」
クリスはどこか諦めたように呟くとハーブティーを一気に飲み込んで布団に入った。
「おやすみなさいませ、クリス様」
ラミラが静かに部屋から出て行く。少しずつ遠くなる足音を聞きながら、クリスはいつの間にか眠っていた。
ハーブティーのおかげで熟睡していたクリスを起こしたのは荒々しくドアを叩く音だった。
「クリス様! 緊急事態です!」
カリストの切迫した声にクリスが飛び起きる。
「どうした!?」
クリスがベッドから立ち上がったところでカリストがドアを開けて入った。
「女性が急変しました!」
「すぐに行く!」
「お待ち下さい!」
カリストは爆発しているクリスの髪を一つにまとめると布で覆った。
「櫛でといている時間はありませんので」
「暗くてあまり見えないだろう。行くぞ」
クリスは女性がいる部屋に走った。真っ暗な廊下を僅かな明かりを頼りに進む。目的の部屋の前に女性の両親がいた。
両親がクリスの姿を見るなり青い顔で縋りついてくる。
「クリス様!」
「娘がいきなり……」
「話はあとだ。先に治療する」
クリスがドアを開けると血が混じった腐ったような臭いが鼻を突いた。慌ただしい気配とともにラミラの声が響く。
「顔を横に向けて! 口の中の物を全てかき出して! 気道を確保して!」
「救急セットを出したぞ!」
左腕がない御者の声にラミラが答える。
「血圧を測って!」
クリスが部屋に飛び込むと、口から血を吹き出し、全身をどす黒い血で染めている女性の姿が目に入った。
その姿にクリスの全身が逆立つ。いつもの冷静な姿は消え、大声で指示を出した。
「血圧より点滴をすぐに取れ! 呼吸はあるか!? 頸動脈は触れるか!?」
「呼吸ありません! 頸動脈、触れません!」
ラミラの返事と同時にクリスは女性の上にまたがり、胸の上に両手を置いて押し始めた。だがベッドが揺れるだけで心臓を十分に押すことができない。
「背中に板を入れろ! これでは心臓マッサージにならん! あと挿管と治療の準備をしろ! 道具を持ってこい!」
左腕がない御者が道具を取りに部屋から飛び出す。
他のメイドが救急セットの中にあった大きな板を女性の背中に入れた。再びクリスが心臓マッサージを開始する。今度は胸を押してもベッドが沈むことはなく、心臓を圧迫することが出来た。
その隣ではカリストが救急セットから湾曲した筒や紐を取り出して準備していく。そこにカルラが部屋に入ってきた。
「カルラ! 明かりを出せ! できるだけ部屋を明るくしろ!」
「はい!」
カルラが手首から小さな筒を取り出し、そこに数個の球体を入れる。そして天井に向けて発射した。室内を照らすように数個の光球が浮かぶ。
そこにラミラが叫んだ。
「点滴とれません!」
「私がする! 心臓マッサージを代われ!」
カリストが流れるようにクリスと位置を代わり、そのまま女性の胸を押す。
クリスはラミラから針を受け取り太もものつけ根に突き刺した。
「全開で流せ! 針を固定しろ!」
ラミラが指示通りに動く。カルラが女性の顔の上に光球を出す。女性の瞼は開いたまま動く気配はない。その様子をカリストは手を止めることなく静かに観察していた。
カルラが湾曲した筒と、幅のある鎌のような形をした金属を肩の横に置く。
「挿管の準備できました!」
「よし! 挿管して呼吸を確保する!」
クリスが手袋をはめながら女性の頭元に立つ。そこでカリストが声をかけた。
「クリス様」
カリストの声を無視してクリスが女性の口を開けると、左手で湾曲した金属を入れた。金属で舌を押し上げて喉の奥を見る。
「カルラ! もっと喉の奥を照らせ!」
「クリス様!」
カリストの怒鳴り声が響くがクリスは答えない。右手に湾曲した筒を持ち、喉の奥に狙いを定める。カリストが再び怒鳴った。
「このまま心臓マッサージをしながら治療をするつもりですか!?」
カリストがベッドで女性の胸を規則的に押しているため、常にベッドは揺れている。その中でクリスの治療をすることは不可能に近い。
だが、クリスは叫ぶように言った。
「胸を開いて直接心臓をマッサージをしながら治療をする!」
その発想に周囲にいた人たちの動きが止まる。カリストがたしなめるように叫んだ。
「クリス様!」
「治療を望んで、ここまで来たんだぞ! このまま諦めるわけにはいかない!」
クリスが湾曲した筒を喉の奥に入れようとしたところで心臓マッサージを止めたカリストがクリスの手を掴んだ。
「現実を見て下さい! この出血量ですよ!? 瞳孔も開いています! これ以上、治療をしても……」
「うるさい! カルラ! カリストと代われ!」
明らかに冷静さを欠いたクリスの姿に全員が引いている。だが、そのことに気づいていないクリスが叫ぶ。
「なにをしている!? 早くし……」
クリスの体が突然崩れた。気配を消してクリスの隣に立っていたルドが体を支える。ルドがクリスの鳩尾に鋭い一撃を入れて気絶させたのだ。
カリストが深く息を吐きながらベッドから降りた。
「ありがとうございます」
部屋は血だらけで惨劇と化していたがルドは無表情のままカリストに訊ねた。
「なにがあったのですか?」
「先ほど突然、女性が血を吐いたそうです。私たちが駆けつけた時には体中の穴から血が吹き出ていました。クリス様は治療をしようとしましたが、これでは……」
「師匠なら、この状態でも治療することができたのですか?」
カリストが静かに首を横に振る。
「いえ。いくらクリス様でも無理です。ただ見慣れないほどの大量の血にのまれて我を忘れたようです」
「……確かに大量の血を見て我を忘れることは戦場でもあります」
特に戦場に不慣れな新人騎士や兵士に多い。ルドは大量の血も見慣れた様子で平然とカリストに訊ねた。
「ですが、出血だけにしては臭いが……」
「体内の様々なところにできていたコブが腐っていたのです。それが破裂したのでしょう。たとえ明日治療が出来ていたとしても手術に体が耐えられていたか……幸い、体の表面は綺麗ですから、整えて両親に会わせます」
そこでカリストがルドから取り上げるようにクリスを抱き上げた。
「あとはこちらで処理いたしますので、今日はお休み下さい」
確かにルドが出来ることはなさそうである。
「……はい」
「カルラ」
「はい。こちらへどうぞ」
カルラについてルドは部屋から出ていった。ルドが廊下に出ると、先ほどまでいた女性の両親はいなくなっていた。
周囲を見回すルドにカルラが説明をする。
「女性の両親は他の部屋でお待ちいただくようにしました。娘の様子に相当なショックを受けているようでしたので」
「……そうですよね」
ルドは黙ってカルラの後ろを歩いた。廊下の窓から傾いた月が覗く。
ルドはクリスの様子を思い出してカルラに訊ねた。
「……止めなかったほうが良かったですか?」
ポツリと呟いたルドの言葉にカルラが足を止めることなく前を向いたまま答える。
「いえ、止めていただけて良かったです。カリストの言う通り、あのまま治療を続けても手遅れでしたでしょう。治療で体に傷をつける前に綺麗な状態で両親のところに帰したほうがいいと思います」
「傷は魔法で消せないのですか?」
「クリス様の魔法でも死んだ後にできた傷は治せません」
「そうなんですか」
「はい」
カルラがルドの泊っている部屋の前で足を止める。
「何か必要なものがありますか? 飲み物か何かお持ちしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「早朝に女性と家族のお見送りをしますので物音がすると思いますが、お気になさらず休んでいて下さい」
「お見送り?」
ルドの疑問にカルラが少し寂しげに微笑みながら答えた。
「結果はどうであれ、この屋敷で治療をした人が帰られる時は、その時にいる使用人たち全員で屋敷を出られるまで見送るんです」
「自分も、そのお見送りをしていいですか?」
カルラが目を丸くした後、微笑んだ。
「はい。早朝、起こしにまいります」
「お願いします」
ルドは部屋に入ると無造作にベッドに倒れ込んだ。気になることは多くあるが寝ないで体調を崩してはいけない。騎士団の訓練でどんな状況でも寝れる時は寝るということを叩きこまれた。
「寝るぞ」
宣言するとルドは無理やり眠りについた。




