犬による無意識なドッキリパニック後編
クリスが食堂に着くと右頬が腫れたルドが座っていた。
「どうしたんだ?」
「いえ、気にしないで下さい」
腫れはひどそうに見えたが、意外と普通に話すのでクリスは治療の必要なしと判断して椅子に座った。
ルドはその様子を視線を合わさないように観察していた。
クリスはいつもと変わりなさそうだが、あれだけ騒いでいたのだ。もしかしたら、かなり気分を害したかもしれない。
ルドはその場で立ち上がると、両手をテーブルについてクリスに向けて勢いよく頭を下げた。
「先ほどは、すみませんでした!」
クリスは風呂場でのことを思い出して顔に血が上りかけたが、近くにあった水を飲んで収めた。
「……いや、気にするな。こちらも不必要に騒いで済まなかった」
ルドが顔を上げる。
「自分も配慮が足りなかったです。騎士団では何も考えずに団員たちと水浴びをしていましたから」
「あ、あぁ。まあ、そうだろうな」
戦場では風呂などない。川や池で洗える時に洗う。それも集団だ。男同士の裸など見慣れているだろう。
クリスが気まずそうに視線を逸らす。そこにラミラが食事を運んできた。野菜スープから湯気が上がる。
昼に慣れない魔力の使い方をしていたルドは空腹を感じてスープに飛びついた。
「美味しいですね!」
ルドがあっさりとスープを平らげる。
ラミラが微笑みながら空の皿を下げた。
「この後、メインの肉料理とパン、デザートになりますが、量は多めにいたしましょうか?」
そこにクリスが付け加えた。
「メインの前にサラダを出してやれ。あと料理は全部多めに出せ」
「はい。スープのおかわりはいかがでしょうか?」
「ください!」
「はい。お持ちいたします」
空の皿とともにラミラが下がる。クリスはスープを食べながら言った。
「明日はほとんどの魔力をもらうかもしれないからな。遠慮なく食べて魔力を回復させておけ」
「はい」
「もらう魔力量は私が調節するから、お前は近くにいるだけでいい」
「え? なにか手伝えることはありませんか!?」
「……ない」
微かな間にルドの勘が働く。
「なにかあるんですね?」
「……」
「なんですか?」
クリスはスープを食べていた手を止めてルドを見た。
「治療の後半。私の集中力が切れだしたり、疲労がたまってきたりしたら、無意識に自分の魔力を使うかもしれない」
「え!?」
「そうなる前に、お前のほうから私に魔力を流せ。無理やりでもいい。私がお前から一定量の魔力を取らなくなったら、すぐにだ。そうすれば、私は自分の魔力を使う前にお前の魔力を使う」
「わかりました」
「まあ、そこまで治療できないかもしれないがな」
クリスが再びスープを食べ始める。ルドが握りこぶしを作って強く言った。
「大丈夫です! 師匠なら治せます!」
「必ず治せる、という保証はどこにもない」
「ですが……」
そこにラミラがルドのスープを持って来た。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ルドが頭を下げてスープに口をつける。クリスはラミラを呼んだ。
「はい」
近づいたラミラにクリスが小声で話す。
「私のメインは軽くでいい。早めに切り上げて風呂に入るから、後は任せる」
「承知いたしました」
ラミラが頷きながら空になったスープ皿を下げる。ルドが思い出したように言った。
「そういえばオンセンというものは良いですね。体が軽くなったような気がします」
「全身を温めることで血の流れが良くなっているからな。普段、全身を温めるということがないから、余計にそう感じるんだろう」
「オンセンという言葉を聞いたのも初めてです」
「この国にはない文化だからな」
「この屋敷は初めて知ることが多くて面白いです」
「そうか」
クリスが平然としたまま視線をルドに向ける。二杯目のスープを食べ終えたルドが顔を上げる。犬のように人懐っこい琥珀の瞳。ないはずの尻尾が左右に振られている幻が見える。
クリスは頬杖をついて訊ねた。
「知りたいか?」
ラミラがルドの前にあるスープ皿を下げてサラダを置く。ルドはドレッシングがかかった塩ゆで野菜を口に頬張りながら首を傾げた。
「何をですか?」
「なぜ、この屋敷にはお前が知らないことが多くあるのか。そもそも不思議に思わなかったのか? お前はガスパル・マルティ将軍の孫で、環境的にも普通の人より多く情報が集まるぐらいだ。そのぶん知識も多くなる。そんなお前が知らないことが、この屋敷に多くあることが普通ではないと思うのだが?」
「確かに……そう言われれば、そうですが……ですが、そういうこともあるかな、と思ったら別に気にするほどでもないかと」
ルドの答えにクリスが吹き出す。
「本当にお前は私のこととなると疑うことを知らないな。これが他の人の屋敷だと、どういう反応をするのか見てみたくなる」
「え?」
「いや、いい。それよりメイン料理が来たぞ」
分厚い肉が皿の上に鎮座している。切りごたえがありそうなのに、ナイフを入れると力を入れなくてもサックリと切れた。
口に入れると肉の塊がホロリと崩れ、肉汁と共に肉の味が口の中に広がる。あまりの美味しさにルドが無言で肉を食べ続ける。そんなルドの様子にクリスの口元が緩む。
食事が進まないクリスに気が付いたルドが顔を上げた。
「師匠、どうかされましたか?」
「いや、うまそうに食べるなと思って」
ルドが手を止める。
「す、すみません」
顔を赤くしたルドにクリスが首を傾げる。
「なぜ謝るんだ? うまそうに食べるのは良いことだぞ。見ている方は気持ちいいし、シェフも喜ぶ」
「はい!」
ルドが再び肉に食らいつく。そんなルドをクリスは呆れたような、どこか力が抜けて微笑んだような顔で眺めていた。
夕食を軽く済ませたクリスはまだ食べているルドを置いて、今度こそゆっくりと入浴するために風呂場に来ていた。
「まったく。結局暗くなってしまったな」
クリスは小さな火が灯ったランプを小部屋の棚に置いたまま浴室に入った。ドアのガラスを通して光りがぼんやりと入ってくる。天井に近い窓からは湯気を貫いて月光が降り注ぐ。
薄暗いながらも幻想的な雰囲気となったお風呂場でクリスは体と頭を洗った。そのまま手慣れた様子で茶色の髪の毛を一つにまとめて頭の上で留める。普段は長い髪で隠れているうなじが現れ、華奢な体つきが際立つ。
クリスは立ち上がると足先から静かに湯に浸かった。
「ふぅ……明日は早くから忙しくなるな」
クリスが透視魔法で見た女性の体内を思い出す。
「まずは右肺の治療からだな。管を左気管支まで入れて片肺換気にして最初に右肺を終わらす。そうすれば呼吸は確保できるから、次に肝臓だな。ほとんどを切除するようになるが、半分まで回復させれば、機能的には問題ない。あとは胃と大腸を切除して……いや、その前に足にあるものを先に切除するか? いや、ダメだ。足を切除するなら全ての道具を滅菌済みのものと交換しないといけなくなるから、やはり手間を考えると最後にするか……だが、集中力を考えると……一度で全てを切らないといけないのが問題だな。切り残しがあると、そこから全身に再発する」
クリスは明日の治療について深く考え込んでいた。そのため気付かなかった。小部屋に置いていたランプの光が揺れていることに。
食後の運動と筋トレを終えて汗をかいたルドがタオルと着替えを持って小部屋に入って来た。
「すぐに汗が流せるのはいいな。うちにもオンセンって作れるかな? 今度、師匠に聞いてみよう」
ルドが服を脱いで軽く周囲を見る。
「石鹸が入った桶と椅子がないな。中にあるのかも」
ルドが鼻歌混じりでドアを開けるが、考え事をしていたクリスは反応が遅れた。
ドアが開いた音でクリスが湯に浸かったまま首だけで振り返る。そこで素っ裸で入り口に立っているルドと目が合った。そのままお互いに硬直する。
ルドの体は逆光でシルエットだけの姿になっている。一方のクリスは髪を上げていたため、うなじから肩までははっきりと見えたが、そこから下は岩と湯船で見えない。
先に我に返ったクリスが素早く動いた。タオルで前を隠すと同時に側に置いていた桶を掴む。
「学習しろぉ! いぬぅ!」
一直線に飛んだ桶がルドの顔面に直撃した。
パコーンという小気味よい音とともにルドが倒れ、その鼻からは鼻血が出ている。
その鼻血は、桶が直撃したから出たものなのか、桶が直撃するより前に出ていたものなのかは、分からなかった。




