犬による無意識なドッキリパニック前編
明日の早朝からの治療に使う器材を準備して、必要なことの指示をラミラに出したクリスは廊下を歩いていた。
「思ったより疲れているな」
クリスは自室に戻り着替えとタオルを持つと、目的の場所に向かって歩いた。
そのまま誰にも会うことなく頑丈な観音開きのドアの前に到着する。
「たまには夕食の前に入るのもいいだろう」
クリスが小部屋に入り、棚に着替えとタオルを置く。上着のボタンを外しながら、ふと違和感に気付いた。
「石鹸を入れている桶と椅子がないな」
いつも置いてある場所にない。周囲を探していると、浴室内に人の気配を感じた。
「掃除中だったか?」
クリスが確認するために浴室へ続くドアを開ける。そこで目の前にいたのは……
「あ、師匠も湯あみですか?」
赤い髪から雫を垂らし、真っ裸でどこも隠さず堂々と仁王立ちしているルドだった。いつもは服で隠れている筋肉が露わになっている。太くはないが全身の筋肉が程よく引き締まっている見事な肉体だ。
一応、心許ない湯気が所々を隠している。
完全に予想外の光景だったクリスは顔を真っ赤にして小刻みに震えた。
「師匠!? どうしました!?」
普通ではないクリスの様子にルドが心配をして手を伸ばす。だが、ルドの手が触れる前にクリスは叫んでいた。
「カリストォ! カルラァ!」
影から現れたカリストが一瞬で状況を把握してドアを閉める。
いきなり目の前のドアを閉められたルドが呆然としていると、ドアの向こう側で激しい足音とカルラの声が聞こえた。
「クリス様! どうされましたか!?」
「なっ! なんで犬が風呂にいるんだ!?」
微かにクリスの声が震えている。
ルドは弁解するためにドアを開けようとしたがビクともしなかった。
「師匠! 驚かせて、すみません!」
返事はない。焦ったルドがドアを叩きながら叫ぶ。
「師匠!? 大丈夫ですか!?」
微かな足音がした後、静かにドアが開いたが、そこにはカリストしかいなかった。
「あの……師匠は?」
カリストが平然とタオルを差し出す。
「濡れたままですと湯冷めをしますよ。クリス様は自室に戻られました」
「そう……ですか。驚かせてしまったようで、すみません」
「ここはクリス様専用の浴室ですので、他の人がいたことに驚いたようです」
「え? そうだったんですか?」
「クリス様に一声かけておくべきだったのですが、失念しておりました。こちらの落ち度です。失礼いたしました。あとのことはこちらで対処いたしますので、服を着られましたらお部屋にお戻り下さい」
そう言ってカリストは頭を下げると小部屋から出て行った。
ルドはカリストから受け取ったタオルで髪を拭きながら周囲を見回した。
「そうか。ここは師匠専用なのか……普段はここで師匠が湯あみを……って、いやいや! 何考えているんだ!」
ルドが盛大に頭を横に振る。
「そもそも師匠は今から湯あみをしようとしていたのに、自分が邪魔を……」
そこで先ほどのクリスの様子が頭に浮かんだ。
いつも首元までしっかりと止めているボタンが外れ、鎖骨が露わになっていた。長い前髪で隠れている深緑の瞳が大きく開いて艶っぽく潤み、頬は桃色に染まって、唇は赤く小さく震え……
ドゴォッ
ルドは容赦なく自分の顔を殴ると、その痛みでしばらく座り込んだ。
カルラに連れられて自室に戻ったクリスは頭からベッドにもぐりこんでいた。
「申し訳ございません。クリス様はいつも夕食後に入浴されるので、今なら空いていると思いまして……」
「カルラは悪くない……ただ……」
その後の言葉が続かない。カルラが黙って見守る。
「なぜか……驚いたんだ。自分でもなぜ、こんなに驚いたのか不思議だ。人の体など見慣れているはずなのに……」
と、そこまで言ってクリスは立ち上がった。
「そうだ。見慣れているんだ。カリスト! カリスト、来い!」
クリスの呼びかけにカリストがドアから部屋に入って来た。
「どうされましたか?」
「脱げ!」
『は?』
カリストとカルラの声が重なる。
「おまえの裸を見て驚くか確かめる!」
カリストに飛びかかるクリスをカルラが慌てて止める。
「ちょっ!? クリス様! それは違うと思います!」
「クリス様、落ち着いて下さい」
カリストの声にクリスが頷く。
「私は落ち着いているそ」
クリスの言葉をカルラが即座に否定する。
「目が座っています! 正気を取り戻して下さい!」
「そんなことはない。私は正気だぞ」
クリスがフフフ……と不気味に笑う。
服を半分剥がされかけているカリストが思い出したように言った。
「そろそろ犬が服を着て客室に戻っているでしょうから、食堂へ案内してきます。クリス様も料理が冷める前にお越し下さい」
犬という単語にクリスの動きがピタリと止まる。
その隙にカリストは脱げかけた服を押さえると、逃げるように部屋から出て行った。
「クリス様、先に夕食にいたしましょ……」
カルラが言い終る前にクリスがベッドにもぐりこむ。
「嫌だ! ……そうだ! 腹! 腹が痛くなった!」
子どものようなクリスの行動にカルラが両手を腰に当てて叱るように言った。
「お腹が痛いなんて子どもみたいな言い訳止めて下さい! それに、クリス様が夕食の席に現れないと犬が心配して、ここまで来ますよ?」
「うっ……」
「さあ、行きましょう」
クリスが布団から顔だけを出すと、上目使いでカルラに視線を向けたまま訊ねた。
「……だが、どういう顔で会えばいいんだ?」
「いつも通りで大丈夫ですよ」
「……いつも通りが分からん」
カルラは悩んだ。
何もなければこのまま放置でもいいが、明日は早朝から治療をしないといけない。しかもクリスは魔力が使えない上に、技術的にも難しい治療だ。ここで、いつものクリスに戻ってもらわなければ治療に支障が出るどころか、クリス自身が危ない。
カルラは無表情になると声を静めて淡々と言った。
「今、夕食を食べて休んでおかないと、明日の治療に支障が出る可能性がありますが、よろしいのですか?」
その言葉にクリスの顔から表情が消える。一呼吸おいて起き上がったクリスの顔に先ほどまでの恥じらいはない。いつものクリスの顔になっていた。
「そうだな。犬より大事なことがあった。カルラ、今日の仕事は終わりだろう? あとはラミラに引き継いで休め」
「……はい」
「迷惑をかけた」
「いえ。では、休ませて頂きます」
「あぁ」
クリスが平然と食堂に向かう。その後ろ姿にカルラが残念そうにため息を吐いた。




