犬による無自覚な本塁打
クリスがクルマから降りて両手を上に伸ばす。
「ここはいつ来ても気持ちいいな」
周囲に高い木はなく、山肌はむき出しの岩と草で囲まれている。その奥にある山は雪で白くなっており、山から吹き下ろす風は冷たく寒い。
ルドもクルマから降りると、クリスが座席の下から上着を取り出した。
「着とけ」
ルドが手渡された上着に袖を通す。厚手の生地で中に綿が入っているが見た目より軽く、風を通さないので温かかった。クリスを見ると、柔らかそうな厚手の生地で作られたマントを羽織っている。
「師匠、これからどうするのですか?」
「それなんだが……」
クリスが疑うようにルドを見上げる。
「な、なんですか?」
上目使いに睨まれてルドが思わず下がる。
「おまえ、私に聞きたいことはないのか?」
「え?」
心当たりがないと言わんばかりにルドが首を傾げる。クリスが呆れたように軽く息を吐いた。
「普通はあの副隊長のように疑問に思うことばかりだと思うぞ。私が本当に神に棄てられた一族なのか。もし、その一族なら神の加護がないのに、どうやって魔法で治療をしているのか。他にも、何故この大昔の乗り物を持っているのか、とか。いくらでも疑問は出てくるだろ?」
「そう言われれば……」
言われて思い当たったという様子のルドにクリスが額を押さえる。
「能天気なのか、バカなのか……考えすぎて疑心暗鬼になるのも良くないが、ここまで考えないのも問題だな」
「だって、どんなことがあっても師匠が師匠であることに変わりはないですし、自分の気持ちが変わることもないですから」
ルドが満面の笑顔で断言すると、クリスの顔が真っ赤になった。
「……」
クリスが慌てて何か言おうとするが声が出ない。口をパクパクと動かしていたが、声を出すことを諦めてその場に座り込んだ。
「……そんな顔で言うなんて反則だろ」
両膝の間に顔を埋めて言った言葉はルドには聞こえない。それどころか、クリスが突然座り込んだので、ルドは慌てて膝をついて顔を覗き込んできた。
「師匠!? どうされました!? 体調が悪いのですか!?」
「……」
クリスが無言で立ち上がり歩き出す。
「師匠!?」
ルドが追いかけようとしたところでクリスが足を止めた。
「なんでもない。私は用事を済ませてくるから、おまえはそこの家の暖炉に火を起こしていろ」
「は、はい」
クリスが振り返ってルドを睨む。
「あと絶対にこっちに来るな」
その迫力にルドが無意識に姿勢を正す。
「わかりました」
クリスは直立で返事をしたルドを一瞥すると細道から山の中へと入っていった。
ルドがクリスを見送りながら首を傾げる。
「どうしたんだろう?」
スタスタと歩く姿は体調が悪いようには見えない。だが、明らかに顔を赤くしたり、言葉を見失ったりして調子は悪そうだ。できればついて行きたかったが、来るなと言われ以上、待っているしかない。
「しょうがない」
ルドはクリスに言われた通り暖炉に火をつけるため小屋に近づいた。
「そういえば鍵がないな……」
ドアの前でルドが気づく。だがドアには鍵穴らしいものはなく、ルドはとりあえずドアノブを握った。
軽い音を立てながらドアが開く。小屋の中は少し埃っぽく、しばらく使われていないことが分かる。部屋の奥に暖炉があり、その前にテーブルと椅子があるだけで、必要最低限の物しかない。
ルドは小屋の中に入ると、空気を入れ替えるために窓を全て開けた。暖炉に木はなく、燃やせるようなものもない。
「薪はないのか?」
ルドは部屋の中を探したが、燃やせるものは何もなかった。奥にもドアがあったので開けてみたが、小さな小部屋があるだけだった。
「外を探すか」
ルドが小屋の周囲を歩いていると、裏手に乾いた薪が積み上げられているのを見つけた。
「これで暖炉に火をつけれる」
ルドは薪を抱えられるだけ持つと、そのまま小屋に入った。そして暖炉の中に薪を数本詰み上げ、軽く指を鳴らした。それだけで小さな種火が起こり、薪から細い煙が上がる。
「これで良し」
ルドは立ち上がり、残りの薪を暖炉の隅に置くと小屋から出た。冷たい風が頬を撫でる。ルドは目の前に広がる湖に近づいた。
「綺麗な湖だよなぁ……」
湖の端まで来ると膝をついて覗き込んだ。水は青く透き通っているが、不思議なことに魚がいない。
ルドは湖に手をつけた。雪解け水のためか普通の水より冷たい。
「なんでだろう……こんなに綺麗なのに生きている気配がない」
『いくらでも疑問は出てくるだろう?』
唐突にクリスの言葉が浮かんだ。確かに疑問はいくらでも出てくる。知りたくないわけではない。むしろ、クリスのことをもっと知りたい。
でも、それを言ったら困らせる気がする。そして、何より自分は……
珍しくルドが大きくため息を吐く。そして、その場に胡坐をかいて座った。
「一年……か」
俯いたルドの上を風に乗った雲が流れる。湖面を輝かせていた太陽の光が消え、水中が見えやすくなった。
「……あれ? なんだ?」
湖の底に何かがある。自然にある岩や木ではない。四角い形をした大きな建物がにょきにょきと湖底に乱立している。しかも、その一つ一つが貴族の屋敷ぐらい大きい。他にも四角い建物よりは小さいが家のような建物もあり、それを一つ一つ繋げるように道もある。
「まさか……街が沈んでいるのか!?」
ルドが四つん這いになって湖を覗き込もうとしたところで、動きを止めた。顔を上げてクリスが入っていった山の方角を見る。
「師匠っ!」
ルドが足に風をまとわせて空を駆けた。
ルドに待てと指示した後、クリスは獣道に近い岩道を歩いていた。
「まったく。もう少しぐらい私に興味を持ってもいいんじゃないか?」
ぶつぶつ呟きながら、ふと自分の言葉に疑問を持つ。
「……なんで私は知ってもらいたいと思っているんだ?」
隠しているわけではないが、大っぴらに知られても困る。だから、このことを知っているのは限られた者だけだ。別に本人が知りたいと言っているわけではないのだから、あえてこちらから教える必要もない……のだが。
魔法で治療する方法だけを求められいるようで……
私には興味がない、おまけでしかない、と思われているようで……
そんな考えがクリスの頭をよぎる。
「べ、別にそれでいいじゃないか! あいつは魔法で治療ができるようになれば、それでいいんだから!」
クリスが頭を振って突き進む。息が上がってきたところで目的地に到着した。
「……はぁ、はぁ」
両膝に両手をついて俯く。余計なことを考えていたせいか、それとも魔力がほとんどないせいか、いつもより疲れやすい。
クリスは息を整えると顔を上げた。目の前には湖があり、湖底から水が湧き出ている。
「ここはいつも綺麗だな」
クリスはマントを脱ぐと湖の横に広げた。靴を脱いでその上に上がり、上着を脱いでいく。そして薄い上着一枚とズボン一着になったところで湖に足をつけた。
「少し冷たいな」
ゆっくりと湖の中に入り、体を横にして上を向く。
「ふぅぅぅ……」
体の中にある空気を全て吐き出していく。そのまま体が湖底へと沈んでいく。いつもは一つにまとめている茶色の髪が放射線状に広がる。
枯渇した魔力を求めるように全身が周囲の魔力を吸収していくのが分かる。皮膚という境界が溶けて水と混ざり合っていく。
世界に自分という個がのまれていく。恐ろしいという感覚はなく、雄大な自然の懐に包まれている安心感の方が強い。蜂蜜のように甘く、麻薬のように逃れられなくなる誘惑。
もし全て溶けてしまったら、どれだけ気持ちがいいのだろう……
そんなことを意識のすみで考えてしまう。だが、いつもそうなる前に世界から弾かれる。
再びゆっくりと体が上昇していく。息が苦しくなり、湖面に顔を出した。
「ぶはぁ!」
クリスは顔に張り付いた髪を手で後ろに流すと、マントが置いてあるところまで泳いで移動した。
「まあまあ回復したな」
まだ魔法が使えないが日常生活に支障が出ないぐらいの魔力を吸収することができた。
目的を終えたクリスが湖から出ると、岩影から人が飛び出してきて、剣先を突きつけられた。




