悪魔による甘美な誘惑と終焉
勢いよく両手を胸の前で合わせたルドは力を込めて叫んだ。
『全てを断ち斬る神の力を我が手に!』
ルドが合わせた手を離すと、左手の掌から剣の柄が現れた。ルドがしっかりと柄を握り、そのまま引き抜く。
ずっしりと鈍く輝く両刃はどうみても本物の剣であり、とても手から出てきたようには見えない。
ルドが視線をクリスに向けると呆然とこちらを見ていた。
クリスは立っているのもやっとの状態で、外まで逃げる力はない。魔力はエマの治療でほとんど使いきっており、聴覚を遮断する魔法を使うほどの魔力も残っていない。このままでは戦いに巻き込まれ、悪魔の声でやられてしまう。
そんなクリスの状態を読み取ったルドは、左手で左耳を触ると、そのまま手を差し出した。
「師匠、何があってもこれを持っていて下さい」
思わず受け取ったクリスが右手を広げると、ルドの髪より濃い深紅の宝石で飾られたピアスがあった。
「おい!これ……」
驚いたクリスが顔を上げると、すでにルドは出口に向かって走っていた。
アンデッドに突っ込んで行ったルドは、勢いを止めることなく剣を振った。
今まで、どんな攻撃をしても動きを止めなかったアンデッドがルドの剣に触れただけで、あっさりと倒れる。そして砂から粉塵になり風にのって消えていった。
『ほう?』
その様子にベッディーノの体が動く。ルドが迷いなく次々とアンデッドを斬り伏せて粉塵へと変えていく。
全てのアンデッドがルドの剣によって消えたところで、ベッディーノが上空から降りて来た。
『なかなか面白い小僧だ』
ルドがかまえるが、気にする様子なくベッディーノが目前に迫る。
『神の寵愛を受けているのか』
光のない碧い瞳がルドを覗き込む。見えない何かに引きずり込まれそうになり、ルドは反射的に剣を振ったが、あっさりと避けられた。
全身を潰されるような圧力と、内側から殴られているかのように痛みが響く。剣を手放しそうになる手に力を入れ、どうにか自我を保つ。
『小僧の体を依り代にしたら面白いだろうが、不完全な状態で召喚されたからな。残念だが、次の機会にしよう。クックックッ』
笑い声が響いたがベッディーノの口は動いておらず、表情も変化がない。操り人形となっているベッディーノの顔が振り返る。
『こいつはどうかな?』
ふわりと羽ばたきベッディーノが移動する。
「師匠!」
ルドが走り出すが、それより早くベッディーノがクリスの前に降り立った。道具を鞄に入れ終えたクリスがベッディーノを見上げる。
クリスの金色の睫毛に縁どられた深緑の瞳を見て、ベッディーノが再び笑った。
『こいつは面白い。あの一族の末裔か。なぜ、地上にいるんだ?』
クリスは答えない。ベッディーノはアウルスとクリスを見比べた。
『神の加護がまったくないおまえのほうが依り代にしやすいな』
アウルスとルドがクリスのところへ行こうとしたが、進路を邪魔するように複数の黒い人影が現れる。
アウルスが剣で斬りつけるが、空気を斬っているかのように手ごたえがない。それなのに、黒い人影の攻撃を剣で受け止めると重く潰されそうになる。
それはルドも同じようで、攻撃が効かない黒い影に苦戦していた。
アウルスが両足を広げて剣を両手で握る。そのまま剣が耐えられるギリギリまで魔力を込めていく。
「ルド!」
呼ばれて振り返ると同時にアウルスが鋭く剣を振り下ろした。剣先が炎が現れ、真っ直ぐ貫く。黒い人影が左右に割れて一本の道が出来た。
「行け!」
ルドが走りだしたが、それより早くクリスの周囲を黒い人影が覆う。
アウルスがクリスに向けて叫んだ。
「治療師なら浄化魔法が使えるだろ!悪魔が相手でも多少は効くはずだ!そいつらに使え!」
アウルスの言葉にベッディーノが振り返る。
『浄化魔法を?こいつが使う?』
ベッディーノは無表情のまま実に楽しそうに言った。
『神に棄てられた一族が、神の加護が必要な魔法など使えるわけないだろ』
「……神に、棄てられた?」
ルドが足を止めてクリスに視線を向けたため、アウルスが注意する。
「ルド!悪魔の言葉に惑わされるな!」
ルドの動きが止まった隙にベッディーノがクリスの顔を覗き込んだ。
『苦しい思いをして体を取られるか、楽に体を明け渡すか、どちらがいい?』
クリスが無言のまま睨み返す。
『今も私の声を聞くだけで死にたくなるほど苦しいだろ』
訓練された兵士や騎士でも、直に悪魔の声を聞きながら自我を維持するのは難しいのに、兵士でも騎士でもないクリスが発狂せずにいられるのは奇跡に等しい。
そこにベッディーノの声音が変わった。不快なドス暗さが消え、極上の音楽のような響きになる。
『一つ頷けば楽にしてやろう。いや楽になるだけではない。この世の全ての苦しみから解放され、今までに味わったことのない快楽に溺れることができるぞ』
今までの苦痛が嘘のように消え、麻薬のように危険だと分かっていても溺れたくなるような甘美な誘惑に包まれる。ねっとりとした甘さに全てを投げ出して眠りにつきたくなる。この微睡の中で眠れたら、どれだけ幸せだろうか。
ベッディーノの声を聞くたびに全身を内側から引き裂かれるような、耐え難い痛みに苦しんでいたからこそ、快楽をより強く感じてしまう。何もかも投げ出して、すべてを委ねたい衝動にかられる。
クリスの右手がベッディーノに向けて伸びる。
「師匠!」
ルドが駆け出すが行く手を黒い人影が塞ぐ。琥珀の瞳が燃えるように光り、赤髪が逆立つ。剣を強く握りしめ、魔力を込める。
「邪魔だ!」
ルドの一振りで全ての黒い人影が消えた。
「どけ!」
そのまま剣を振り上げてベッディーノに斬りかかる。
『うるさいハエだな』
やれやれとベッディーノが体を反転させ、今まで一度も動かさなかった右手をだらりと上げる。それだけでルドの剣は何かに弾かれた。
「師匠から離れろ!」
次から次へと剣を打ち込むがベッディーノには届かない。
「クソッ!」
悪態を吐きながらも攻撃を止めないルドをベッディーノが嘲笑う。
『おまえの力はそんなものか?では、こいつはもらおう』
ベッディーノが空いている左手をクリスに向ける。
「やめろ!」
ルドの怒鳴り声とともに剣がベッディーノの右手に突き刺さる。琥珀の瞳が血走り、こめかみに血管が浮き上がり、顔が真っ赤になっている。
完全に我を忘れたルドにベッディーノが満足そうに頷く。
『いいぞ。どんどん憎め。その心を闇に染めろ』
「それは困る」
クリスが無防備になっていたベッディーノの背中に右手を伸ばして羽を掴んだ。
『ぎゃぁ!』
クリスの右手が触れた羽から白い煙が上がる。正確にはクリスが持っているルドのピアスが触れた部分から。
クリスは倒れ込むように全体重を乗せてベッディーノを地面に叩きつけた。
『なにをする!楽になりたいのではなかったのか!?』
上半身を起こそうとしたベッディーノをクリスが踏みつける。
「仮初の楽園などいらない」
クリスの足の下でベッディーノが初めて怒りを含んだ声を出した。
『ならば死ね!』
ベッディーノが起き上がり、クリスが倒れそうになる。そこにベッディーノの右手が鞭のようにしなり、クリスに襲いかかった。その速さに、体が倒れかけているクリスは避けることができない。
そのままベッディーノの右手がクリスの眼前まで迫ったところで、ルドの剣がベッディーノの心臓を貫き床まで突き刺さった。同時に床に描かれた魔法陣が赤く輝く。
『在るべき世界に還れ!』
ルドの声と同時にベッディーノの背中に生えていた黒い羽が消え、体が黒い灰となって崩れた。
「はぁ……はぁ……」
剣を床に突き刺したままルドが呼吸を整える。顔を上げると深緑の瞳と目が合った。
「師匠!ご無事ですか!?」
慌てるルドにクリスが微笑む。
「戻ったな」
力が抜けたようにクリスが倒れる。
「師匠!?」
ルドがクリスの体を支えて起こす。どうにか目を開けたクリスは右手を差し出した。
「これのおかげで助かった。返す」
クリスの右手の中にはルドの赤いピアスがある。ルドはクリスの右手に自分の左手を添えて握りしめた。
「いえ、これは師匠が持っていて下さい」
「そうか……」
クリスの目が閉じると同時に全身の力が抜ける。
「師匠!?急いで治療師に……」
ルドはクリスを抱えたまま立ち上がると走り出した。




