表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王様には蒼いリボンをつけて  作者: なっつ
Episode 9:薔薇の葬送
156/626

18 【令嬢とウサギと届かぬ想い・前編】


※ややBL寄りです。


 

著作者:なっつ

Copyright © 2014 なっつ All Rights Reserved.

掲載元URL:http://syosetu.com/

無断転載禁止。(小説家になろう、taskey、novelist、アルファポリス、著作者個人サイト”月の鳥籠”以外は全て【無断転載】です)


这项工作的版权属于我《なっつ》。

The copyright of this work belongs to me《NattU》。Do not reprint without my permission!



挿絵(By みてみん)




 葬儀とは名ばかりの宴も今日が最終日。客も初日よりは昨日、昨日よりは今日、と目減りしている。

 さすがに今頃になって新たにやって来る者もなく、一昨日から存在を主張することに忙しかった者たちも徐々に帰り支度を始めている。大きな祭りが終わる時の妙に後ろ髪が引かれるような、そんなノスタルジックな雰囲気のおかげでやっと物悲しい空気が漂い始めているのは皮肉としか言いようがない。

 後に残る予定は家族葬ただひとつ。今日の午後、親族の中でも近しい者だけで送ってしまえば、この一連の葬儀も終わる。


 談笑したり踊ったり好き勝手に楽しんでいる者がいる(かたわ)らで、当主に挨拶をして静かにその場を去っていく者もいる。場の雰囲気を盛り下げない配慮だろうが、気を配る点が違う気がするのは自分だけだろうか、とグラウスはそんな彼らを眺める。

 貴族社会の習わしなのか、魔界ではこれが一般常識なのかは知らないが、どうにもこれを「葬儀」と呼ぶことに違和感が拭えない。

 自分が貴族とは名ばかりの下級だからだろうか。

 魔界のしきたりを知らないからだろうか。

 ルアンが聞いたら「長い執事生活で下僕根性が染みついたからじゃないか?」と馬鹿にしてくることだろう。



 青藍とは昨夜別れたきりになっている。部屋にも戻って来ない。

 朝食の席で当主から「心労がたたって休んでいる」と説明があったが、何処(どこ)で休んでいるのかはわからない。当主に問い詰めるわけにもいかず、そうかと言って他の使用人に尋ねても首を横に振るばかり。

 家族葬には顔を出すだろう、と思う反面、彼の執事である自分に居場所が知らされないことには意図的なものがあるのではないか、とあらぬ不安が顔を(のぞ)かせる。

 何処へ行ってしまったのだろう。もし明日になっても姿を現さなかったら本当に自分ひとりでノイシュタインに帰る羽目になりそうで、沈む気持ちが半端ない。


 駄目だ。

 ちゃんと連れて帰らないと。


 第二夫人の訃報を聞いた夜を思い出す。

 ひとりで魔界に戻ると言った彼を。帰ってくる、と曖昧に答えたあの表情を。

 ひとりで戻ったら2度とノイシュタインに戻ることはない、と彼自身わかっていたようだった。だから自分の同席を許したのだと、そう思いたい。アーデルハイム侯爵の屋敷から連れ出した時のように、彼を連れて帰ることを課せられた、と感じたのがただの自惚(うぬぼ)れだったとは思いたくない。

 グラウスは上着のポケットを上から押さえる。

 何時(いつ)からか手に馴染んでしまった硬い感触。25年前に彼から預かった、そして夢のような昨夜、再び託された耳飾り(イヤリング)の――。



『――あの時と同じ月だね』



 あれ?

 一瞬、頭をよぎった昨夜の光景に、グラウスは耳飾り(イヤリング)を探る手を止めた。

 もしかして思い出した、のか?

 あの夜のことを。私のことを。



『俺のこと、――』



 だが、もし思い出したのだとして、あれはどういう意味に取ればいいのだろう。

 まさかの両想いだったと結論付けるほどおめでたくはないつもりだ。こじれすぎた想いが見せた都合のいい夢だった、というほうがもっともらしい。

 ならば夢なのか? 思い出したのも何もかも。

 しかしそれなら自分の袖口が濡れていたことはどう説明すればいい。


 彼は何が言いたかったのだろう。何故(なぜ)耳飾り(イヤリング)を拾わせたのだろう。

 思い出したがそれがどうした。ひとりで帰れ、それは手切れ金代わりにくれてやる。という意味なら……慌てて首を振る。



「……好きだよ」


 誰にも聞こえないようにひっそりと呟く。此処で言ったところで何の意味も()さないのだが。

 昨夜そう伝えることができればきっと変わった。彼にその気がなかったとしても意識させることはできただろう。

 それなのに。

 臆病者の自分を呪いたい。



              挿絵(By みてみん)




「何が?」


 グラウスがぼんやりと考えにふけっていると、そんな声がした。

 慌てて周囲を見回すと、目の前で小柄な令嬢が見上げている。柔らかい色の金髪とレースで縁取られた薄いピンクのドレスがミモザの花束のようで、いかにも育ちの良いお嬢さんという雰囲気を醸し出している。

 の、だが。


「ア、アイリス嬢」


 グラウスは思わず一歩下がりかけ、気合いで踏みとどまった。それはいくら何でも失礼が過ぎる。

 だが、はっきり言ってこの娘は苦手だ。青藍が妹扱いしているのだから悪い娘ではないと思うのだが、どうにも最初の「高飛車なお嬢様」のイメージを拭うことができない。青藍に馴れ馴れしい――妹扱いなら当然なのかもしれないが――のも気に入らない。

 しかし、そうは言っても自分は執事。向こうは客人。避けるわけにはいかない。


「ど……うか、なさいましたか?」


 ルチナリスに似ている。

 顔かたちが似ているのではない。弱い、守るべき対象のくせに妙に気の強そうな、少女特有の危うさとでも言えばいいだろうか。

 あの紅竜に(みずか)ら絡んでいったのも、これだけ多くの弔問客の中で彼女だけだった。青藍の妹なら紅竜にとっても妹だろうから、多少は温情をかけてもらえるだろうとは思うが……だとしても、こんなのが妹にいたら命が縮む。


 青藍はこういう気の強い娘が好みなのだろうか。なんて俗っぽいことをちらりと思う。

 小さくて手のかかる異性。どう考えても自分とは対極の位置にある。同性というところを除いても自分に好かれる要素が皆無だということを見せつけられているようだ。

 諦めたつもりが未練引き()りまくり。嫌になってくる。


「だから何が好、(いた)っ!」


 挙動不審な執事に業を煮やしたのか再び問いかけたアイリスは、その直後、頭を押さえて小さく叫んだ。

 その声にまた(ひる)む。小娘と言えど上級貴族。見る角度によっては自分が暴力をふるったように見えるかもしれない。それはまずい。


「ず、頭痛ですか?」


 さりげなく、暴力はふるっていませんアピール。

 問い(ただ)された時にアイリスが弁明してくれるとは限らない。紅竜とも面識があるのなら、あの男の手先になっていることも十分に考えられる。

 そうでなくても「妹のようなもの」だ。「兄」を人間界(ノイシュタイン)に連れ帰ってしまう敵、と思われているかもしれない。


 周囲を素早く見回す。こちらに気を向ける者はいないようだ。

 先ほどの声は誰にも聞こえなかったらしい、と安堵しかけ、何故(なぜ)ビクビクしなければいけないのだ、と今度は腹が立ってくる。

 罪に問われでもしたらどうしてくれるんだクソガキ! と言う悪態は、温厚な執事の仮面の下に留めておくけれど。


 頭をさすりながらブツブツと何やら文句を言っていた彼女は「頭痛?」と不思議そうな顔のままきっかり5分は黙り込み、それからやっと、思い出した! とばかりに手を叩いた。


「そう! 先日は助けてくれてありがとう、って言おうと思ったの。ほら私、お礼言ってなかったじゃない?」

「……助けた覚えがないのですが」


 人違いなら他に行ってくれ。

 なに意味不明なことを言っているのだこの娘は。

 グラウスは顔だけは平静を装いつつ、半歩後ろに下がる。

 「お礼」ではなく「お礼参り」の間違いではないのだろうか。助けた覚えなどないし、関わり合いにもなりたくない。だが紅竜の手先なら後ろの意味がピッタリはまる。


「ほら、青藍様と一緒に絡まれた時よ」


 胸中でそんな黒い考えが渦巻いている執事に、アイリスは「やぁねぇ忘れちゃったのぉ?」とばかりに笑いながら腕を叩く。叩きながらも距離を詰めて来る。

 身長差があるから威圧感など感じないはずなのに気圧(けお)されるのは何故だ。この小娘は仮の姿で実際には身長333メートルの巨体だっ……いやない。それはいくらなんでもない。そこまでいったら生き物じゃない。


 しかし、気圧(けお)されつつも、青藍の名を出されてやっと思い当たったこともある。

 酔っぱらった馬鹿殿ふたりに絡まれていたあの時のこと。一昨日のことだというのに遥か過去の出来事に感じる。


 そしてそこから鎖のように繋がった記憶を紐解(ひもと)けば……アイリスを助けようとしなければ水をかけられることもなかったし、青藍が熱を出すこともなかった。その後であんな事態になることも、そして未だもって(こじ)れていることもなかった。そうだ。元凶はこの娘じゃないか。何がお礼だ。お礼参りしたいのはこっちのほうだ……とモヤモヤと浮かぶこと浮かぶこと。

 そんな怨みを(かろ)うじて飲み込んで出した返事はと言えば。

 

「私は主人を助けたに過ぎませんので」


 言い方がぞんざい(・・・・)すぎやしませんか。無意識に八つ当たってしまうなんて大人気ないだろう自分。

 だがこの娘を助けたつもりなど微塵(みじん)ない、というのも確かなことだ。感謝してもらったところで今の事態が好転することもないのなら、礼もいらない。


「あら、ご謙遜(けんそん)


 しかしアイリスは執事の態度に気を悪くすることもなければ立ち去ろうともしない。

 お礼以外にも用があるのだろうか。このぞんざいさを謙虚な姿勢と受け取ってくれるのはありがたいが、どうせなら放っておいてほしい。


「そういう身も蓋もない言い方しないで。姫を守るのは騎士の役目でしょ?」


 なのに、両腕を胸の前で組み偉そうにふんぞりかえった彼女は、さも当然と言わんばかりの顔をしている。

 心はしがない騎士に感謝を述べる姫なのかもしれない。よくある少女向けの物語だとそこからラブストーリーが発生するやつ。

 そんなことを想像して、グラウスはげんなりと溜息をついた。


 誰が姫で誰が騎士だよ、とツッコみたくなる。自分は今、「主人を(・・・)助けたに過ぎない」と言ったのだが。

 言い換えれば「花に傘をさしかけたら根元の小石も濡れませんでした」と同じこと。無論、このお嬢様が小石なのは言うまでもない。

 それなのに。


「だから私には礼を言う権利があると思うの。そうでしょ?」


 勝ち誇ってそんなことを言われても。

 こっちは言われる権利を放棄したい。


 どうしても礼を言われている気にならないのは、上の方々にとってはこれが限界だからなのかもしれない。尽くされるのが当然だから下の者に感謝する方法なんて思いつかないに違いない。

 いや、もしかしたら不躾(ぶしつけ)な執事に対しての切り返しなのだろうか。褒め殺しと言うか、悪意を生クリームで覆って出すような。この歳でそれをやってのけるのだとしたらかなりの大物だ。

 それともこんな子供らしくない子供ができるのは大人の顔色を(うかが)わないといけない社会のせいなのだろうか。

 ああ、そう言えばルチナリスも小さい頃から敬語使いが(たく)みな子供だった。そのくせ妙なところで反抗的で。ということは、アイリスも過去に辛い経験をしたのかもしれない。


 だから似ているのか。ルチナリスに。



『似てる、からかな――?』



 ……あの人に。



              挿絵(By みてみん)



「いい加減になさいませ、お嬢様」


 その時、何処(どこ)からか年季の入った声がした。

 グラウスは視線を彷徨(さまよ)わせる。自分の目の高さのあたりから聞こえたような気がしたが、目の前には小柄なお嬢様しかいない。


 誰だ? あの妙な引摺り音の仲間なのか? と考え……るまでなかった。アイリスの髪を結んでいる大きなリボンに見えたものから4本の足が突き出したからだ。

 長い耳と短い足。

 単体で見るなら別段珍しくもないペット用小動物、だが。


 それは「よいしょ」と掛け声を上げるとアイリスの頭の上で座り直した。「じってしていると骨が(きし)みますわい」などとボヤキながら首や後ろ足を回している。ボキボキと、愛らしさからは縁遠い音が鳴り響く。



 また変なのが増えた。

 ウサギ? それもかなりの老人系?



「礼というのは精神の問題だと常々言っておりましょう。口先だけの感謝など言わないほうがましでございます。まずはありがとうと心を込めてぇ」

「はいはい」


 アイリスはうんざりした顔で肩を(すく)めると、改めてグラウスを見上げた。うるり、と目が潤む。

 

「ありがとうございました執事さん。あの時助けていただけなかったら、私、今頃どうなっていたことやら。ああ、ご主人を助けたついでだと仰るのならそれで良いのです。私の心は変わりませんわ」

「はあ」


 今度は随分芝居がかっている。スポットライトが見えるようだ。

 さっきの「上から目線」を知らなければこれでも感謝されていると思えるかもしれないが、生憎(あいにく)と知ってしまっているから、そう思うことはできない。

 だが、ウサギにしてみれば及第点なのだろう。自分には2回目のアレも「口先だけ」にしか見えないのだが……ご意見番の爺さん(推測)は演技派のお嬢様の頭上で鎮座したまま、ウンウンと頷いている。


 それにしてもよく落ちないものだ。確か正しい姿勢を保つ訓練の中に「頭の上に本を乗せて歩く」というものがあったはずが、その訓練の賜物(たまもの)に違いな……いや、感心している場合ではない。

 ここでウサギを乗せて三文芝居をする意味が何処(どこ)にある!? と、ツッコミを入れたいが相手が悪い。これは、そんなことをしようものなら絶対に不敬罪を適用してくる事例だろう。


 ああ。だから誰もこちらを見ようとしないし、ツッコミも入れて来ないのか。ルアンすら近寄って来ないなんておかしいと思っていたら……。

 そんな中でも視線はおのずとウサギにいってしまう。

 ごく普通の白いウサギだ。目が紅くてもウサギなら普通だろう。その目が長めの毛のせいで半分ほど隠れているのが眠そうに見える。室内用ペットとしては大きさも申し分ない。


 が。


蘇芳(すおう)と申します。先日はお嬢様をお助けいただき恐悦至極(きょうえつしごく)に存じます」


 喋ってきた。しかもかなり堅苦しい。


 待て。

 こういうキャラは「ボクからもありがとね! うふふ☆彡」と裏声で喋るものではないのか? 声だけ聴けばダンディだが目を開ければウサギというギャップ(しかもお嬢様の頭の上)にいつまで耐えられるか、という新手の苦行なのか? 笑ったり突っ込んだりしたら不敬罪適用の。


 グラウスの困惑と葛藤に気づく様子もなく、純白のウサギはアイリスの頭上で立ち、(うやうや)しくお辞儀をした。

 自分と同じで獣に変化する(たぐい)なのだろう。ウサギ型もいないわけではない。

 しかし。

 さっきのリボンのような形態は、耳以外はアイリスの髪に隠していた、ということなのだろうか。

 それって無理がありすぎないか? 彼女の髪はふわふわした巻き毛だがウサギ1羽は入らないだろう。携帯用に耳以外は小さくコンパクトにまとめられるとか? 獣形態のくせに人語を喋れるのも長年の修行の成果だとか?

 ああ、ツッコミ担当の(さが)。あれもこれも指摘したい。でもできない。

 口に出せない指摘はグルグルと頭の中で回り続ける。



「それにしても魔王の部下の方は執事であっても武術に()けておるのですな。(わし)ももうちょっと若かったら」

「若くたって蘇芳には無理よ。頭でっかちなだけだもの」

「何を仰いますかお嬢様。頭でっかちには頭でっかちなりの助け方というものがございますぞ」

「そうよね。昨日の紅竜様のことも蘇芳の入れ知恵なのよね。さすが執事様は頭の出来が違うわ」

「お嬢様! あれは爺とて肝が冷えましたぞ! よりにもよって紅竜様に意見するなどと」

「あら、紅竜様が私に手を下すことはないと言ったのは蘇芳よ?」

「それは当家がメフィストフェレスより上であることや、お嬢様が幼少のみぎりより紅竜様と親しくさせて頂いていたことなどから申したことでございます。ですが気を悪くなさればどうなっていたことやら。紅竜様も当主になられてからというもの以前より厳しくなられましたからな。昔と同じように振る舞えるとはお思いにならないほうがようございます。お嬢様に何かあれば爺は旦那様や奥様にあわせる顔が、」

「あわせてたじゃない」


 グラウスのことなど放置してお嬢様とウサギは喋り続けている。

 口を挟む間もない弾丸トークのせいで眺めているだけで話が進んでいってくれるのはありがたい反面、無駄な時間を費やされているのが(つら)い。

 その動物芸に観客は必要なんですか?

 私、そろそろ席を外させて頂いても構いませんか?

 後学のために執事業を習いに来たという名目のせいで自由に動けないからこんなところで(くすぶ)っているだけで、やりたいことは際限なくあるのです。決してお嬢様とウサギの漫才を見るためにいるわけではないのです。


 そう目で訴えたところで、今まで何ひとつ通じなかった相手に都合よく通じるはずもない。



「本当は青藍様に直接お礼が言えればいいんだけど、お父様が口をきいちゃ駄目って言うのよ」


 それでも欠片(かけら)くらいは通じたのだろうか。アイリスは弁解がましくそんなことを口にした。どうやら青藍に言えなかったからその執事に言いに来た、というのが本当のところであるらしい。


「だからと言って紅竜様に口を挟むなど、借りを返すにしてはリスクが高すぎましょうぞ」

「え?」

「それは言っちゃ駄目って言ったでしょ!」


 愚痴りかけた蘇芳の耳をアイリスが引っ張る。ちらりと彼女に目をやった蘇芳が「まぁ何というか、」と口を濁した。


「えっと、あの?」

「気にしないで! あなたは何も聞かなかった! いいわね?」


 聞かなかった、と言われても。

 ……もしかすると昨日の朝食の席で彼女が紅竜に向かっていったのは、彼女なりの「お礼」だったのかもしれない。

 今だって礼を言伝(ことづて)るために来たのではなく、本当は自分(グラウス)に言うつもりだったのかもしれない。

 ふと、そんなことを思う。


「……ありがとうござい、」

「メ、メフィストフェレスに貸しを作ったままにすると後で倍以上にして返さなきゃならなくなるから! だからよ!」


 グラウスの言を遮るようにしてアイリスはそっぽを向いた。わずかに頬が紅い。


「わ、私はせっかく習った声楽の成果を見せつけてやろうと思っただけ! 第二夫人より絶賛されるにきまってるんだから!」


 言いながらも引っこ抜きそうな勢いで蘇芳の耳を引っ張っている。

 ツンデレだ。ご老体(蘇芳)には気の毒だが、お高くとまった態度よりは好感が持てる。




              挿絵(By みてみん)




 しかし、引っかかることを言った。

 メフィストフェレスに貸しを作らないようにしている、と。

 青藍と口をきくことすら禁じている、と。

 蘇芳(いわ)く家柄はメフィストフェレスより上であるらしい彼女の一族ですら、あの酔っ払いたちのように処罰を受ける可能性があると言うことなのだろうか。


 だからアイリスの両親は自分たちには何も告げずに立ち去ったのか?

 一昨日、アイリスを連れて行った夫婦のよそよそしい態度を思い出す。

 だが、そんなことがあり得るのだとしたら、紅竜はいったいどれだけの権力を持っていると言うのだろう。


 グラウスは人ごみの中に目を向ける。

 豪奢(ごうしゃ)な金髪はここからでもよく見える。だが、同じくらいよく目立ったあの黒い髪は何処にもいない。


 だが。


 わかる。あの兄は行方を知っている。本当に心労で倒れたのなら――きっと上辺は変わらないだろうけれど――もっと緊迫した空気が流れている。

 だから。


 青藍は、あの兄の元にいる。

 その想像に、ぞわり、と背筋を何かが這って行く。






 諦めようと思ったのは自分。

 伸ばしてくれた最後の手を取らなかったのも自分。

 それなのに、今になってこんなにも黒い感情が沸き上がる。

 心の底で誰を慕っていようと関係なく奪い取っておけばよかったのだろうか。格好つけて身を引いたところで何になる。



 ――誰にも会わないように閉じ込めておけばよかったんだよ。25年前、あの男がしたように。



 頭の中でもうひとりの自分が残念そうに口元を歪める。


 あれは誰だ。自分か? 今の。いや、25年前の?

 では同じことをすればいいというのか? それはあの人のためにならない。あの人の犠牲の上に成り立つ成果など、



 ――そうやって善人ぶっている間に()(さら)われてしまえばいいさ。

   自分の無能さを棚に上げて、お前は生まれのせいにするのだろう? 身分が、地位が、と言い訳ばかり。



「じゃあどうすれば……っ」


 非人道的だと思っていた行為も結果を目の当たりにすれば揺らぐ。

 25年前のあの時。そして昨夜。

 あの手を掴んで連れ出してしまえば、連れ出して誰にも知られないところに隠してしまえば……今頃は別の未来になっていたかもしれないのに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


image.jpg

小説家になろう 勝手にランキング
に参加しています。

◆◇◆

お読み下さいましてありがとうございます。
『魔王様には蒼いリボンをつけて』設定資料集
も、あわせてどうぞ。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ