16 【月下の逢瀬・前編】
※本文中に挿絵があります。
著作者:なっつ
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聞こえる。
誰かが歌っている。
深紅のドレスの裾が翻る。
喝采。舞い散る花弁。
その人が振り返る。
それは――。
目を覚ました時、グラウスは宙に向かって手を伸ばしていた。夢の中で何かを掴もうとしたのか、追いかけようとしたのか、何故そんな体勢になっているのかは全く記憶にない。
時計を見れば、針が指すのは午前1時。
青白い月明りに染まった室内はまるで海の底にいるようだ。
どうやら長椅子で転寝をしていたらしい。変な寝方をしていたから変な夢を見たのだろうか。
軋む体を起こすとブランケットがするりと床に落ちた。
此処は青藍の私室。いや、私室などと呼べるだろうか。
衣服の類を収納する部屋と寝室は別にあるので、目につくものと言えば長椅子とテーブルのみ。殺風景なことこの上ない。
留守にしている間に掃除の手が入ったとしても片付けられ過ぎだと思うのだが、青藍が気にしていないところを見ると昔からこうだったのかもしれない。
そして使用人用の空き部屋を割り当ててもらってはいるが、この城に来てからずっとグラウスはこの部屋の長椅子で眠っている。
気にかかるのは、あの引き摺るようなザラザラした異音。しかしそれだけの理由で居座っているわけではない。少しでも傍を離れたら一生仲直りできないのではないか、という子供のような不安のせいで部屋を出て行けない、などという理由は我ながら間が抜けているとは思うけれども。
だが、くだらないこと、と一笑に付して終わることはできない。
何と言っても初日に寝室に閉じ籠られた。彼ひとり残して部屋を出たら最後、2度と入って来られないように鍵をかけられるかもしれない。そういう子供っぽいことをする人なんだから……と思いつつ、自分のしていることも子供とかわらないじゃないか、と自己嫌悪に髪を掻きむしること数回。
どうすることもできないまま、こうして長椅子をベッド代わりにしているという有様だ。
青藍は何も言わない。出て行け、とも、出ていくな、とも。しかしそれは昨夜の不祥事を不問にしてくれているわけではない。むしろ端から存在していないものとされている気がする。
それなのに。
グラウスは身を屈めて床に落ちたブランケットを拾い上げる。
青藍が掛けてくれたのだろうか。他の誰かがこの部屋に入ってきてブランケットだけ掛けていくとは考えにくい。だがあの件以来口もきいてくれない人がこんな気遣いをするだろうか。
部屋を与えられているにもかかわらず、勝手に主の部屋で寝泊りしている執事を、あの人はどう思っているだろう。
話がしたい。弁解もしたい。
でもその機会はない。
目が慣れてくるにつれ、蒼いだけだった周囲に輪郭が戻って来る。
ノイシュタインの仮住まいと同じくらい何もない部屋。幼少期から何十年も過ごしてきた部屋に、ここまで生活感がないのは不自然がすぎる。
整然と並んだ本棚。
絵の1枚も飾られていない壁。
新品をおろしたばかりとしか思えないカーテン。
掃除が行き届いている、と言うレベルではない。まるで「人が生活していたように見せかけ」た部屋のようだ。
あの人はこの部屋で何を思って過ごしていたのだろう。
疎れ、蔑れていたことは初めて出会った時に交わした会話の端からも感じられた。それが混血のせいだというのは、後で知ったことだが。
ごく稀に親しくなった庭師やメイドがいても、いつの間にか消息を絶つ。彼にかかわったからだ、と噂される。そんな環境では彼に近付こうとする酔狂な者など減る一方だろう。
傍にいたのはあの兄だけ。
しかし昨夜の酔っ払いのように、彼らに手を下したのもあの兄であろうことは間違いない。
そこまでして他人との接触を避けさせたのは意図するものがあったのか。希有な魔力と血を持った歳の離れた弟が心配で、というだけでそこまでするものだろうか。まるで独占欲じゃないか。
そして、あの兄がどれほどの権力を持っていたとしても限界はある。
魔界との接点がない土地も、メフィストフェレスの力が及ばない土地も、世界の何処かにはあるだろう。そんな、兄の手が届かないほど遠くに離れてしまえば自分に関わった者を害される心配などする必要もない。
なのにそれをしないのは「害される誰か」よりも「兄」が大事だからだ。
誰を失ったとしても、兄だけは失いたくないからだ。
きっと、ルチナリスや自分よりも。
グラウスは手にしたままのブランケットに目を落とす。
「……Do……,ve……te……」
そんな折、また何かが聞こえた。この城に来てからやけに耳につく、あの引き摺るような音ではない。
ではそれ以外の何かか?
グラウスは耳を澄ます。音はこの部屋の外から聞こえて来る。
足音を忍ばせて寝室に続く扉に歩み寄ると、音を立てないようにゆっくりとノブを回す。また鍵がかけられていたら、とも思ったが、ノブは何の抵抗もなく回った。
寝室はカーテンが閉め切られ、なお一層暗い。眠っているのなら当たり前のことだ。昨日の今日で寝室に侵入したなんて、知られたら軽蔑では済まないだろう。しかし。
グラウスはその暗闇の中で目を凝らす。
……誰も、いない。
「青藍様!?」
グラウスは慌てて部屋に駆け込むとカーテンを開けた。一瞬にして青に染まったその部屋にひとの気配はない。
寝室を飛び出し、音高く他の部屋への扉を開けて回る。
衣裳部屋にもいない。
廊下にもいない。
ベランダにもいない。
何処だ。何処に行った?
まさか眠っている間に連れ去られたんじゃないだろうな。あの兄ならやりかねない。
「青藍様! 青藍様!!」
いくら呼んでも返事は返ってこない。
『帰ッテ来タ』
『帰ッテ来タ』
『我々ノ――』
耳の奥であのザラザラした声のような音が蘇る。
息ができない。ほんの少し寝入ってしまっただけなのに、その隙を突かれたのか。私は何のために此処にいたと言うのだ。
「……Sen…… un……Pien……」
バクバクと鳴り続ける心音ををくぐり抜けて、それは聞こえる。抑揚がついているせいで歌のようにも聞こえる。
呪文だろうか。しかし呪文にしては長すぎる。先日聞いた永久結界の呪文譜も長かったが、全て詠唱し終わった時に何か起きるのだろうか。青藍がいないことと関係があるのだろうか。
何処から?
グラウスは深呼吸を繰り返し、息と心臓を落ち着かせる。
焦っていては何もできない。落ち着いて。耳も鼻も自分は他の者より優れている。見つけられる。必ず。
そして改めて耳をそばだてる。
裏庭にその人はいた。
25年前にあの人が立っていた、昨夜、自分も頭を冷やすために佇んだあの階段の最上段に腰掛けている。空を見ながら何やら口ずさんでいる。薄い肩掛けが風に揺れている。
性別でざっくりと分けてしまうことがくだらないと思えてしまうような声が、雲に覆われた空に吸い込まれていく。
歌は全くの門外漢だが男性が担当するべき音階でないことはわかる。本来なら女性パートである歌を、音を下げて歌っているのだろう。
これも歌姫と呼ばれた第二夫人の血が為せる技なのか。
それとも……第二夫人の魂が今この時だけ憑依しているのか。
先ほど見ていた夢の欠片が脳裏に淡く浮かんで、そして消えた。
あの翻った深紅は第二夫人だったのかもしれない。そう呼ばれる前の、人間としての名があった時の――。
あの兄は弟のこんな才能も知っていたのだろうか。
だから「偲んで」歌わせようとしたのか。ただの嫌がらせというわけではなく。
雲の切れ間から月が顔を出す。
暗かった中庭が蒼く色づき、あらゆるものが形を取り戻していく。
城へとつながる階段と、その奥へ続く石造りの廊下。
縁のかけた敷石。
細く枝を伸ばした木々。
少し先にある丸い噴水から水が流れ落ち、水飛沫が細かく砕いたダイヤのように煌めく。
目の前で歌っているその人は、魔王と呼ばれ、わがままを言ってくる、あの自分の主たる人ではない。
月明かりの下で伸ばされる手は白く、横顔は儚く。見れば周囲の木々の枝には無数の鳥がとまり、静かに耳を傾けている。
これは夢の続き。月が見せる幻。現実味のない蒼い世界にそんなことを思う。
夢の中で、私の姫は生き続けている。
「Do、」
気配を感じ取ったのか、ふいに歌が止まった。
鳥たちが一斉に羽ばたく。
その人が強張った顔のままこちらに目を向けた。
とっさに柱の陰に身を潜めてしまったのは覗き見をしていた罪悪感からか。合わせる顔がない、というだけのことなのか。
ああ、自分は何をしているのだろう。隠れる必要などないのに。こうしてコソコソとしているから何時まで経っても謝れないでいるのに。
『歌えないと魔王にはなれませんね』
ノイシュタインで言ったあの台詞のように軽口を叩きながら出ていけばいい。そうすれば、
『なに言ってんだよ、馬鹿』
と鼻で笑われて、それで元通りの関係に、
関係に……
グラウスは拳を握り締める。
……戻、……れ、た、かも、しれないのに……。
空にはぽっかりと浮かぶ白い月。
「……あの日と同じ月だね」
青藍がぽつりと呟く。
「覚えてる?」
覚えていますとも。忘れるはずがない。
「ねぇ」
彼は月を見上げている。
自分は柱に背を預けてそれを聞いている。
闇を纏う人は光の中に、月の色を髪に持つ自分は陰に。
「出てきて」
胸が痛む。
どんな顔をして出て来いと言うのだろう。あの時と同じ場所で、同じように振る舞えと言うのだろうか。
あの時の自分は無知だった。今、同じことはできない。
「いるんでしょう?」
動けない。さっきまで叫んで走り回っていた言うのに。
声が出ない。謝罪の言葉などもう何十回と考えていたと言うのに。
出て、いけない。
他の誰でもない、「彼が」呼んでいると言うのに。
この陰から一歩足を踏み出せばいい。それだけだ。
一歩。
たった一歩。しかしその足は限りなく重い。
青藍は口を噤んだままこちらに顔を向けている。
彼から姿が見えない位置に身を潜めているはずなのに、見られていると感じる。
25年前と同じ。いや、あの時はもっと驚いた顔をしていた。いきなり目の前に現れた「知らない誰か」を気にしながらも、うっかり手を伸ばせば身を翻して逃げてしまいそうな、そんな小動物のような警戒が表情に出ていた。
けれど今は違う。
今の自分は「知らない誰か」ではない。ずっと傍にいて、ずっと味方だと信じさせていて、そしてその信頼を粉々に打ち砕いた愚か者だ。
だからあんな顔をしているのだろう。
何故? どうして? と、咎める目をしているのだろう。
数歩進めば辿り着く距離を、今はどうしても埋めることが出来ない。
それどころか姿すら見せられない。こうしていても何も変わらないとわかっているのに。
一歩。
たった一歩。その勇気さえないのか私は。
影と同化してしまった足元をグラウスは見つめる。
動けないままどれほどの時間が過ぎただろう。ふいに青藍は左手を伸ばした。
グラウスに向けて差し出されたように見えたその手のひらから何かが転がり落ちる。それは敷石の上でひとつ跳ねると、噴水に沈んでいった。
あれは?
噴水の揺らめく水面を見、それから改めて青藍を窺う。彼は表情も変えずに黙ってこちらを見ている。
拾え、と言っているのか? あの日と同じように噴水に入って。
黙ったままのその顔からはどんな言葉も読み取ることが出来ない。
でも。
これは25年前の再現。
同じように拾ってあの人に届ければ、同じように笑い返してくれて。このぎくしゃくした関係が元に戻るのだとしたら。
戻らなかったとしても、またやり直すことができるのなら。
もう1度最初から。出会った時から。何も知らなかったお互いに戻って、もう1度。
それを、彼は望んでいる……?
グラウスはもう1度青藍を見上げると、月明かりの中に足を踏み出した。
流れ落ちる水と跳ね返る水飛沫の中だったが、しかしそれは簡単に見つかった。
月の光を受け、揺らめく水とは違う硬い光を放っている。
あれを拾えばいい。拾って、差し出せばいい。
余計なことなど考えたら駄目だ。何も考えないで、ただ拾って渡す。
そうすれば、
水を掻き分けて手を伸ばしたグラウスの耳に、小さく声が届いた。
「ねぇ。……俺のこと、好き?」
……え?
手が、止まった。
今、何と言いましたか?
手を止めて、グラウスは立ったままの青藍を見上げた。
彼は月を見上げている。先ほどの問いも、月に向かって問いかけたようにも……いや。違う。たとえこちらを見ていなくても、さっきの問いかけは自分宛てだ。
何も考えないようにしていたはずなのに、あんなことを言われては無心でなどいられるはずがない。雑念というより邪念に近いような感情がゴボゴボと音を立てて沸き上がってくるのがわかる。
駄目だ。
彼の姿を視界に入れないように目を逸らす。感情を抑えられなかったから仲違いしているというのに学習能力がなさすぎる。これは挑発だ。乗ってはいけない。
どう答えろと言うのだ。あんなことをしでかした後で。
目の色はよくわからないが、また眠り姫モードに入っているのだろうか。それとも素面なのか。言葉尻に乗って好きだと言ったところで、その言葉は信じてもらえるのか。嘘だと一方的に告げられ、殴られ、暴言を吐かれるのならとても言えない。
いや、もしかすると。
彼は試しているのかもしれない。今までの人畜無害な執事に戻るか、それとも、と。
あくまで「主人」として好意を持つに限るなら、無害なままでいるのなら、今までのように傍にいてもいい、と――。
無理だ。グラウスは奥歯を噛んだ。
気がついてしまった感情にもう1度蓋をすることはできない。
水に浸かった手が指先からじわりと凍りついていく。
冷たさがゆっくりと上ってくる。
あなたが好きなのは私ではなく兄上なのでしょう? グラウスは心の中で問う。
どうしてそんなことを聞くんですか?
あの兄ならあなたを守ることができる。あなたが奴を好きだと言うのなら、私がどう足掻こうと奴より幸せにすることなどできない。
でも。
でも私は。
グラウスは拳を握りしめる。
いや。私、は。
ゴプ、と握った指の間から白い泡が浮かび、炭酸水のように弾けて消えていった。
そうだ。
執事が優先させるべきは主の幸せ。
私は彼が笑ってくれることを望んでここまで来たんじゃなかったのか?
いつの間にか彼よりも自分の幸福を考えていたからこそ、私は彼の信頼を失ってしまったのではないのか?
『――そいつは執事! た、だ、の、執事っ!!』
それを、あなたが望むなら。
私のためにあなたが記憶を、心を失ったのなら……私にだって捨てられる。
諦めるのはこんなにも苦しいけれど、想い続けた年月と同じ時が過ぎれば、これもきっと思い出のひとつに変わるだろう。
握っていた拳を緩める。
手のひらに冷たいものが流れ込む。大事に握りしめていた想いが流れ出てしまった錯覚に呑み込まれそうになる。
それでいいのか?
……これでいい。
グラウスは心の中で自問自答する。この人が幸せでいられるのなら私はそれで構わない。
水の中で揺らめいているそれを拾って、あの時と同じように返す。それでリセットだ。私たちの中途半端な関係も、私の想いも。
揺らめくそれを指先で摘まみ上げる。
それは月明かりを受けて金色に輝いた。
「これ、は……?」
グラウスはその手のものに息を呑んだ。
それは紋章の刻まれた耳飾り 。あの日、あの人が落として自分が拾った、あの……。
まさか。そんなはずはない。
グラウスは濡れた手のままポケットを上から押さえた。
あの耳飾りは自分が持っている。こうしてポケットに入れて肌身離さず、
……ない。
上からではなくポケットの中を探っても、あの硬い感触は何処にもない。
どういうことだ? これはあの耳飾りなのか? それとも同じデザインの別物なのか?
いや、違う。
これは「あの」耳飾りだ。経年劣化を匂わせる少しくすんだ金属の色。そして、「彼女」がつけるのに苦労していた留め金の甘さが同じものだと物語っている。
でも何故。
気がつかないうちに落としていたのか?
それを彼が拾ったのか? それとも持ち出したのか?
何のために。
『途中で扉がふたつくらいあるけれど、これを持っていれば通れます』
25年前、「彼女」は私に耳飾りの片方を託した。これを持っていれば城から出ることができる、と。
言葉のとおり、この耳飾りは私を外まで導いてくれた。
その耳飾りを、またこうして受け取る。
何故彼がこれを持っていたのかは置いておくとして、その意図するものは何だ。
……帰れ、ということか?
これを持ってこの城から去れ、と、そう言っているのか? あの日と同じように、あなたを此処に残して。
グラウスは顔を上げた
青藍の姿は、どこにもなかった。





